高市とトランプ:日・米の歴史と現在 伊藤晃 vs 太田昌国 pt.1

伊藤晃

高市政権の目指すところと前途不安

高市内閣発足以来の様子を見ていると、場当たりも多分にあるが、むしろだれもが感ずるのは、はっきりした性格・傾向の一貫性でしょう。そして私は、そこに、日本の歴史に由来する思想要素が強く働いているように思います。第二次世界大戦後のみならず、近代日本、あるばあいにはもっと古くさかのぼれる要素です。それらは政権と首相が意識的に押し出しているものもあるが、多くは意識せずしておのずから現われ出る、といったものであるようです。今日は私は、これらの諸要素の歴史的渕源を探って、その本質的意味を考えてみたい、と思っているのです。

高市政権のめざすところは、だいたいつぎのようなことでしょう。

(1) 第二次大戦後、日米同盟がアジア・太平洋地域でめざし、また実現してきたところを、最近の米側の消極姿勢の中で、日本が駆けまわることによって維持すること。

(2) 国家の力の基底である「国民一体」が近年構造的に動揺しているのをどう立て直すか。その焦点として、(イ)「日本人純血国家」を危うくする在日外国人問題、(ロ)国家の権威性の支えとしての男権主義を守ること。「選択的夫婦別姓」問題とか皇室問題での明瞭な態度。

(3) 特に経済面にあらわれている「国力」の低下を食い止め、上向きに転じさせて経済的・軍事的に一流国(列強の一つ)としての地位を守ること。「積極的経済政策」の展開。

(4) 一流帝国性を国家の機構的力としても実現すること。アジアにおける能動的な軍事力(有事対応能力)と持つ。国家権力機能の「弱点」補強(諜報機能など)。

これらのうち、今日は外の世界への政策展開に重点を置きますが、この方面では明らかに高市政権の前途に不安があります。第一に第二次大戦後の世界状況が大きく変わりつつあること。日本は日米同盟を力として列強の一員としてふるまってきたのですが、そのふるまいの前提が崩れつつあります。

(イ)、さきに言った日米同盟の前途不安。アメリカの「ヘゲモニー力」(歴史の方向を指導し、まとまりに向かって同意構造を作り、それらを実現する経済・軍事・政治・文化に及ぶ力をもつこと、などをそうごうした能力、という意味でこのことばを使っておきます。アメリカは良かれ悪しかれ・・・・・・・、そうした力があった)が動揺していること。(ロ)、中国の抬頭、ヘゲモニー国への端初をつかんだかに見える。(ハ)、非列強一般国が大国の意のままに動かせる存在でなくなってきている。これらの国ぐには独自な意図と能力とで相互に連繋して独自な政治勢力として働く方向を見せている。ASEANなどがその典型。

前途不安の要因は日本自体にもあります。高市政権の重要政策にFOIP強化というのがある。日米同盟の一目標「自由で開かれたインド・太平洋」のために、中国に対抗して「同志的」アジア・太平洋諸国と経済・軍事にわたる重層的安全保障協力体制をめざす、ということのようですが、ここで主導国となりたい日本の弱点が目立ちます。従来なら主導国であったはずのアメリカに代るには、経済力や軍事力もそうですが、日本にはヘゲモニー力がなさすぎると思われます。

日本は日米同盟のかげで不安なくやってきたわけですが、その姿は実利追求本意、ゼニにならないことはやらない国との印象を与えてはこなかったでしょうか。大きな財布から時おり小銭を出すこともあったが、近年その経済力も頼りなくなっています。近代日本が何か近隣に働きを及ぼすとすると、それは相手への破壊行動であることが多かったわけで、積極的な期待・信用をつちかうような経験は乏しかったと思います。各国の対等な関係における一体のアジア、などということは、頭に浮かんだことがない。高市首相は外遊に励んでいますが、日本の立場からでさえ、その奔走が建設的に実を結ぶことはむつかしいと思われます。

明治維新における国家目標、「万邦に対峙する」

そこで本論に入りますが、私が考えてみたいのは、いま日本がそういう国になっていること、そういう国として考えられる範囲でしか高市政権が思考できないこと、これは歴史的にどう説明されるかです。以下、少々私の考えを述べてみます。

19世紀後半に日本が近代世界に参入したとき、はじめからの特徴として、この時代の列強支配の世界にみずから列強の一つとして加わることを意識しました。この国家目標を、当時使われたことばで「万邦に対峙する」と表現することができます。

鎖国日本を近代世界、資本主義的世界関係に引き込んだのは列強勢力による「外圧」ですが、日本はこの強要に対して、受動的に開国と文明受客に応じただけではない。また弱肉強食の列強支配世界の中で弱い肉として食われまいと抵抗・独立の気概をもって立ったに止まらない。はじめから、強い、食う方の側に回ろうと考えた。食わんとする対象は周国の「弱国」、しかも「万邦に対峙して」明治維新後ただちにそれの実践にとりかかりました。

この時代、西洋列強の「外圧」を受けたのは日本だけではない。中国も朝鮮も、アジア諸国はみな同じ。しかしそこから「万邦に対峙する」国家目標を引き出したのは日本だけでした。なぜ日本はそうなったのか。これを考えてみたいと思います。

ここで日本などアジア諸国が受けた「外圧」とは、世界史的に言えば西洋世界によるグローバリゼーションの表れです。西洋資本主義が世界を自らに、その支配構造に似せて作ろうとした。このとき日本は自らを、その世界構造における支配する側に似せて作ろうとした。これがグローバリゼーションへの日本の主体的対応でした。

ところが私は、西洋グローバリゼーションへのこの主体的対応は、このとき限りの、たまたまの選択だったのだろうか、こういう疑問を持つのです。

西洋グローバリゼーションに3つの波を見る考えがあり、私もそうだと思います。3つの波とは、第一波が15—16世紀、スペイン、ポルトガル主導、イギリス、オランダなどが続いたもの。第2波は19世紀、イギリス主導。第三波は20世紀、アメリカ主導。明治維新は第2波への対応ですが、3つの波について通観してみると、ヨーロッパに似せて自らを作る、あるいはそのなかでなんらかの積極的な役割を果たすという主体的対応は、どの波に対しても現れたのではないか、とも思われるのです。

西欧グローバリゼーション(第1波・第2波)への日本の主体的対応

第1波グローバリゼーションにおいてはどうであったか。16世紀、ポルトガルの活動によって東南・極東アジアは波立ちます。そのなかで日本はなんたる端役ではない働きをしていたのです。南蛮貿易と言われるものですが、ことに外地へ進出しての朱印船貿易、17世紀に入ると南洋日本人町あちこちに作られる。そしてポルトガルが東南・極東アジアで広く仲継貿易を展開するに当って、日本の持つ意味は大きかった。ポルトガルは日本に中国産の生糸を持ちこみ、代金としての日本産の銀を持ち出す。この銀がアジアでのポルトガル貿易活動の運転資金になっているのです。当時日本は世界有数の(世界全体の3分の1という説さえある)銀産国だった。

ところで、ポルトガルの活動には重大な限界がありました。スペイン・ポルトガルが中南米大陸に進出し、ここにあった先住民帝国を滅ぼしてこの大陸を植民地化、グローバライズしたことは周知のとおりですが、東アジアではそれを繰り返せなかった。強大な中国、明帝国は征服できなかったのです。しかし西洋の手に余った明帝国にも重大な悩みがあった。それが「北虜南倭の寇」で、中国の富を狙って侵犯を繰返す北方の遊牧民族と南方の海賊。この海賊、「南倭」の中心が日本人です。南倭は大体私的武装集団ですが、それが一度だけ国家的に発起されたのがあって、それが豊臣秀吉の対明侵攻計画だった、と私は考えています。その通路として朝鮮に出兵したところで敗北・失敗しましたが。

秀吉の野望の動機はいろいろ説明されますがよくわからない。しかし西洋グローバリゼーションによる波立ちに刺激されて、ということもあったのではなかろうか。世界情勢の深い認識はなかったにしてもです。そしてもしこれが成功したとしたら、それがポルトガルをはじめスペイン・イギリス・オランダなどが争って明に進出するきっかけになったことでしょう。つまり秀吉の行動の結果の如何では、日本が西洋グローバリゼーションの東アジアでの先鋒役を引き受けることになったかもしれないのです。

秀吉の「壮図」はみじめに失敗しましたが、しかし一たびはあの中国を征服対象とした、朝鮮に深く攻め入ったというという記憶は、そんなにあっさりと消え去るでしょうか。私は江戸時代の対外意識にそれがちょっと表れているように思うのです。

江戸時代の鎖国のもとで、一般人民は内向きとしても、武士知識層の一部には相当に外への関心があったようです。科学など西洋知識への関心が外の世界へ、それへの進出・植民の意欲に発展するらしいのです。そういう本、地理書や植民論がずいぶん出版されている。その方向は蝦夷地から始まって千島・カムチャツカ、朝鮮・満州、沿海州、南はルソン(フィリピン)・ジャワから南洋方面、ごく自然に征服・軍事がが含意されてもいる。人でいうと本多利明や佐藤信渕は有名ですが、幕末の吉田松陰や橋本左内ら政治的名詞にわたって、ずいぶん数が多い。そしてこれは古くからの「中華思想」のまねごとというより、あきらかに日本の周辺に出没する西洋を意識しています。

こうした江戸時代の日本が、第2波グローバリゼーションの「外圧」を受けるわけですが、これへの反応が、外夷への恐怖・敵意、つまり攘夷意識の受動的内向き思考に止まるのでなく、外へ出て対抗する能動性を伴うのです。攘夷が、外夷と同じ行動性で張り合う意識と共存する。さきの吉田松陰などその典型ですが、これが橋本左内などでは、対外進出論が開明的開国論と結びつくことになる。前に申しました「万邦に対峙する」という国家目標はここに成立するのです。攘夷が西洋への対抗意識として外向きに転ずるとき、近隣への侵略者として列強と張り合うことになる。

この国家目標はきわめて実践的に立てられ、明治日本はすぐさまこれを実行する。1876年朝鮮との江華島条約がそれで、このとき日本は、自身が受けた「開国せよ」との外圧をそのまま朝鮮に向けかえ、いわば列強を代行するのです。

さらに、少し時期が飛んで1894年—95年の日清戦争。日本は先進文明の名による「義戦」を自ら唱えましたが、勝利に当っては列強の通例の方式に従って、領土と償金奪取する。これは直ちに列強による清への「租借地」要求、つまりは中国分割競争の堰を切った形になりました。日本は中国分割の先導者、西洋グローバリゼーションによるアジア世界破壊の一員、グローバリゼーションの先鋒役を引き受けたわけです。

日本は西洋にならって自分を作りかえ、文明化した。ところがその文明化が、姿を変えた攘夷論、侵略主義・排外主義を内に秘めている。平和な顔をしている日本は休火山のようなもので、時を得れば活火山化するのです。

こういうわけで、近代日本は欧米列強の世界支配に主体性を持って同化しました。もちろんグローバリゼーションの先鋒であっても司令者にはならない。しかしいつでも「そこにいる国」で、ヘゲモニー国にはならないけれども実利は得ていく。「こすい」国だと、多分世界の多くの眼が見ています。強い立場への機を逃さず弱い立場の国を食う国。日本が自ら育んだ世界認識には「対等の関係」という感覚が乏しくなる。たがいに納得ずくで同意しあう関係を作るよりは、いつもの力の契機への偏重がある。

反中国の伝統

とくにここで注意を要するのは中国との関係です。高市政権にも見られるとおり、とかく中国に対しては平常心をもって接しられないのはどういうわけだろうか。ここでも昔からのことを考えなければならないでしょう。

ずっと古いところまでさかのぼります。6—7世紀ころ、中国に成立した隋・唐帝国の影響下で、朝鮮・日本を含む東アジアに一つの文化世界が成立し、日本はここで文明世界というものの構成国になる水準に達したのだと思います。当時日本列島に蟠踞する諸豪族は、この高い文化を独占することで自分たちを、列島をなばりとするところの「国」に結集したのでしたが、一方でこのなわばりに対する中国帝国の無言の圧力を感じざるを得なかったでしょう。彼らにとって中国帝国は支配の力を与えてくれるもの、しかし同時に底知れない脅威でもあったはずです。あこがれと潜在的な反感・敵意、このanbivalentな関係。ここにはもちろん対等の関係意識は生じない。拝跪しながらも敬遠、あるいは虚勢を張りたい。894年の菅原道真による遣唐使廃止ということがあります。中国敬遠政策ですが、そうしながら自分たちの内輪で自己主張を強める。自分たちの君主、天皇に奉っていた神格から自分たちの国をも説明する「神国思想」などもそこから生まれます。日本は神の世に由来する道徳性とまとまりをもつ国だ。国外に一歩出たら誰も相手にしないこういう思想でも、勝手に日本を中国から差別化し、自らを上におく意識として、国内では働きます。

こういう思想が、近代になって日本が西洋に同化する時、西洋の高さに自分が立って、西洋の中国観をわがものにして、中国を低く見る見方に発展・転化します。中国は西洋列強にとって侵略しこわす対象、当然日本にとってもそうだ、ということになる。しかも古くからの、中国を脅威と感ずることも消えたわけではない。中国側の潜在的敵意をいつも想定することになるでしょう。

高市政権の対中国政策の底には、意識せずしてこういう歴史が働いている、と私には思えるのです。重要なのは、ここに、中国(また広く極東・東南アジア諸国についてもいえる)と日本との間で、対等な関係で一つのアジア文化世界を将来にわたって作っていく、という発想が生まれてこないだろうことです。

さて、日清・日露戦争を経て、日本は、小さいながら植民地領有帝国、列強の一員になりおおせました。しかしここには問題がある。日本は東アジアでこそ、この地域最大の軍事強国として一流だったが、全世界的に見るなら、まだ経済力も弱いし、二流帝国なのです。東アジアでの獲得物を確保するためにも、列強のどれかと組まなければならない。日本は英米派の一員になり、日露戦争もそうした立場で戦った。ところが日露戦後、日本の満州独占意図、軍事偏重の強引な方式がアメリカの中国政策と齟齬を来して、日米は対立状態になる。米側が日本の満州利権はともかく認めるということで、両国は妥協しますが、しかしこれは、1911年辛亥革命後民族解放運動高揚期に入っている中国国民の認めがたいところ、日本批判の激化のなかで、1920年代日本の最大の政治問題「大陸問題」が深刻化する。中国進出を対米協調、米の認める範囲で進めるか、日本独自の軍事的強行路線で突き進むか、の政策分岐。結局この難題を解ききれないまま、30年代対中国戦争からさらに進んで対米戦争、全面的アジア侵略戦争に至るのです。

ここで一つ注意すべきことがあります。いま述べた時代の1920年ころ、日米妥協を模索したのが原敬内閣ですが、この原敬首相、生涯にわたる膨大な日記を残していて、日本近代史研究の重要な史料になっています。以前私は、その20年あたりのところを読んでいて気がついたことがあります。原はアメリカの動向には実に細心の注意を払っていて、情報収集につとめますが、同時期、中国の様子について記述がほとんどないのです。あまり気になっていないようだ。多分中国が独自な政治主体だと感じていないのですね。この偏頗な国際認識で日本の進路を定めようとしている。ふしぎなようですが、しかしかんがえてみれば、列強的視野での眼をつうじて世界を見る、これは高市政権に至る日本の戦前・戦後の政治当局者に一貫した傾向であるのかもしれません。

また高市政権は中国との緊張をことさらに促進した感がありますが、ここには、この「危機」感を国民の間で煽って国内政治の構造的変更に利用する傾向を感じます。「外患」を国内変革に結合する、これも近代日本史における中国問題に時々あらわれることです。満州事変の造出と30年代陸軍の政治進出との関係などはまさにそれ。しかし現代ではあまり野放図な「対外積極策」は外からの批判を呼び起こし、それが政治危機を導くなどということがあるかもしれない。昔も朝鮮から満州、さらにシベリア(1918年シベリア出兵)という日本の大陸進出の道筋を逆に辿って、ロシア革命に発する「赤化の危機」が逆流してくる夢魔は、ある人びとの頭にちらついたかもしれないのです。

西欧グローバリゼーション(第3波)への日本の主体的対応

話を一気に戦後日本に移しますが、1945年敗戦に当って、先に述べた困難な事情、大陸への独自な進出の意欲と対米協調とが両立し難いという問題を、支配集団は解決することに成功しました。第3波グローバリゼーションの主導国アメリカと同盟を結んで、そのもとで帝国としての復位をはかる、この路線に、当時の世界状況を利用しながら素早く乗りかえたのでした。この選択は「万邦に対峙する」(列強の一員に加わる)国家目標をこの時代に継続する、「合理的な」形でありました。日米同盟は敗戦日本に強いられたというより日本の主体的選択であった。沖縄をはじめ軍事基地の提供は、同盟国としての分担、自由主義同盟の世界支配といううたげに参加するために、自分の意志で払うところの割前です。そしてこの同盟によって日本は、「一体のアジア世界の形成」をこわす、近代日本に一貫したコースを継続しました。その現局面、最新局面で私たちは高市政権と向かいあっています。

高市政権を動かす思想要因のいくつかを歴史的に見てきましたが、最後にこの政権が目指すコースを進むに当って国内で直面している矛盾について述べておきたいと思います。それは、高市政権に至る長い間の保守政権、支配体制を支えてきた国民的政治思想、ことに①「日本人にとっての平和」、②「戦後国家と戦後国民との和解、保守的に安定した戦後民主主義」、この二つが、高市政権が(安倍政権あたりから問題を引きついで)その目標に向かって走れば走るほど動揺せざるをえない、ということです。

まず「日本人の平和」ですが、戦後世界は世界中に戦火の途絶えた日は1日もなかったといわれるくらい、戦争に満ちた時代でしたが、この間日本は、日米軍事同盟のなかにあって、アメリカのアジアにおける戦争に大いに協力しましたが、自らの国土に戦争が及ぶことは一度もなく、沖縄をはじめ諸軍事基地を除けば戦争を実感することさえなくてすみました。日本人は周辺でのアメリカの戦争で金もうけをしながら、日本人だけで平和を享受している形でした。戦後、もう戦争はいやだという正当な厭戦の気分が、日本人だけに限られた国民的平和意識として定着しました。本当はその間、1960年代以降、日本は着々と軍事大国化を進めていたのですが、「日本が平和」であるかぎり、国民の警戒心は薄く、代々の政権は憲法第9条の「解釈改憲」で乗り切りました。国民は広くそれに同意していた(自民党を政権につけ続けた)。

ところがいまそれが崩れかかっています。1990年代、「湾岸戦争」あたりからだったと記憶しますが、日本は一国平和を越えて世界の戦争に列強の一員らしく対応・関与せよと要求されるようになり、高市政権がこれに積極的に応ずる意図をもっていることは前に述べたとおりです。アメリカ主導の世界秩序が軍事面でも動揺するとき、その再建に主導的に参加しようとする。そうすると、ことの次第では、世界の戦争が日本人のところにやってくる。ところがこれは「日本人の平和」を激しくゆさぶり、この意識を克服するよう要求するでしょう。9条解釈改憲を認めつづけてきた国民の受動性からすれば、これは必ずしも不可能ではないだろうが、しかし厭戦から発する平和主義気分も根深いものではあるのです。もし事態が進んで解釈改憲では間に合わなくなったとき、つまり憲法の明文改定が提起されるとき、このとき国民に「現実世界の戦争のなかにある日本」を意識する視野が開けているなら、結果がどうなるかはわからない。高市政権の激走は政権危機への道になるかもしれない。それは私たちの運動の如何によることではありますが。

つぎに「保守的に安定した戦後民主主義」について。

戦後の民主主義政治・社会は1950年まで、激しい対抗を内に含んでいたと思います。自分で自分を支えなければ食えなかった戦後直後時代を引きついで、社会に、自分たちの権利は自分たちで立って取るべきもの、民主主義とは私たちの行動と思想が直接権力と向き合っていること、という感覚がそれなりに残っていたような気がします。一方支配集団側には、戦前政治構造への回帰願望が憲法改定の主張となって、かなりの重みをもっていました。私個人としては、58年警職法改定をつぶした闘争が、この対抗の頂点として鮮明に感じられます(私自身は高校生で運動参加者ではないが)。

ところが1960年—1970年代、経済の高度成長時代に、この民主主義的対抗が一つの形に落ちついてきました。この時代、国民の生活は高さと権利とにある水準が作られます。これを歴代の政府がともかくも認めます。そのなかで、民主主義に荒々しさが薄まり、権利は自らというより国を通じて(議会民主主義を通じて)という傾向が現れてきた。国家の方では、万事国民の同意を得られるならそれに越したことはない、ということで、むき出しの「力」の要素を少し後景に退かせた印象、なによりも憲法改定・戦前復帰の願望がしばらく封印されることになったのです。私はここに戦後国民と戦後国家との一定の和解を見る。さっき戦後民主主義の保守的安定といったのはこのことです。

ところがいま、この保守的民主主義が、これまた崩れかかっています。

われわれの側はどうするのか

社会的妥協を支え、国民に一般的に希望を与えてきた日本経済の好条件が失われ、世界的地位が下落している。国民の生活水準は上昇せず、かえって格差の拡大、既得の権利が危うくなる。「社会の持続性の危機」の意識も現れる。他方では、社会変化の中で諸社会集団がそれぞれに新たな権利主張に前進せざるをえない状況、これに対抗して支配集団側が社会の保守的流れを組織化する努力が葛藤を増す(その中心点は、在日外国人の権利問題と女性の権利・地位の表明、男権主義批判問題)。

支配集団側には民心の不安・動揺、社会秩序の混乱、国民の一体・融和の弱まりがあきらかに感じとられており、これが高市政権には、社会を内的に安定させる方策よりは、国家の権威・権力強化、統治機能高度化の諸政策・法制化となって現れているのだろうと思います。しかしここには、「日本人の平和」問題以上に政治波瀾が予想されます。国家の一体性強化への努力が社会的対立を助長する。穏健保守主義がポピュリズムによって批判される、という状況からすれば、保守主義自体の分解があるかもしれない。いずれにせよ、ここでも憲法問題がでてくるでしょう。

そしてもちろん、ここでも事の帰趨は私たちの側の運動の如何にかかっています。私たちは、来るべき憲法改定問題に対しては、単に明文改憲阻止運動に止まるのでなく、戦後これまで人民勢力が自分たちの生活と権利を前進させるために、また平和や国と地方の政治にかかわって、憲法各状況の解釈と実現形態をめぐって争ってきた多くの運動があったことを思い出すべきでしょう。これらを私たちの運動思想のなかで、一貫した流れとしてとらえるとき、それが私たちの憲法思想なのだと思います。そして、いまさまざまな社会集団、諸運動がそれぞれに進める運動は、憲法各条項にそれぞれどういう新しい意味を盛りこみつつあるのか。それらの運動や主張の連鎖がつくられるなら、ここにも私たちの憲法思想が生れ、またそこに、日本社会を自立的な共同社会の方向に向かわせる可能性、「国民統合の象徴」天皇の存在を揺るがせる可能性があるかもしれません。

いま高市政権の眼が外の世界に、日本が列強の一つとして輝きを増す夢に向けられているとすれば、私たちの運動も、その政権の努力が助長するであろう激動・破綻を視野の中にいれなければならないでしょう。政権が強める「外患」を私たちが「内憂」に転化させられるか。そこでは世界に存在する人民運動との連繋の契機をとらえることが重要になるでしょう。昔、幕末に、「外圧」を感じ取る武士知識層に「外夷」の脅威と「愚民」(庶民層)とのなんらかの共鳴関係が生まれるかもしれないことへの恐怖がありました。いま私たち現代の「愚民」は「外夷」とのつながりを作る可能性にある希望を見出すべきだろう、と私は考えるのです。

この論稿は、対論「高市とトランプ、日・米の歴史と現在 伊藤晃 vs 太田昌国」於文京区民センター、2026/7/11)での講演を伊藤さんによってまとめられたものです。

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