天皇オランダ訪問の伝えられ方

斉藤小百合

2026年6月13日〜20日、天皇夫妻はオランダを公式訪問しました。6月14日には、王室の別荘「ヘット・アウデ・ロー城」に滞在した天皇夫妻は、オランダ国王夫妻と共に、サッカー・ワールドカップのオランダ対日本の試合を観戦したことなどが伝えられ、友好ムードばかりであったかのような演出が際立ったように思います。これまでの天皇の訪問に際してはオランダ市民のかなり強い抗議があったことや、昭和天皇の大喪の礼には、他国が元首を送る中、オランダは外相の派遣にとどめたことなどを想い起こしつつ、腑に落ちないところもありましたが、『世界』9月号に掲載された論稿(中尾知代「天皇オランダ訪問不可視化されたデモ」)を読んで、「やはりそうだったのか」との思いがしましたので、皆さんとも共有したいと思いました。

わたしがなぜ「腑に落ちない」思いがしたのかというと、これまでの天皇のオランダ訪問の際には、現地の人たちのかなり強い抗議活動があったからでした。「戦後」81年となったけれども、「反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」(1995年3月16日衆院外務委員会での高市早苗議員(新進党)の発言)と強弁する首相に象徴されるように、とりわけこの30年ほどの間、戦争責任・戦後責任をなんとか隠そうと躍起になってきた日本では(もちろん、そうした社会支配層の動きに抗う、戦争責任・戦後責任を問い直す市民の取り組みがあったし、それを学術的に支える研究者による調査が進められこともあったわけですが)、戦争経験者・戦争被害者が減少することに乗ずるかのように、ただでさえ向き合うことに消極的になりがちな加害の歴史がますます見えにくくされてきているように思います。

しかし、アジア太平洋戦争で日本軍は、1942年、当時オランダが植民地支配していた蘭領東インド(現インドネシア)に侵攻し、その地で捕虜となったオランダ人兵士は約3万7千人、過酷を極めた「泰緬鉄道」の建設工事に駆り出されて亡くなった捕虜は、オランダ軍だけで数千人ともされています。オランダ人の女性や子どもなど民間の抑留者は約10万人におよび、抑留中の死者も多数にのぼりました。収容所に抑留されたオランダ人女性のなかには、慰安所に強制的に連行され、日本の将兵に対する性的奉仕を強いられたひとたちもいました。慰安婦にさせられ、戦時性暴力の被害者となったオランダ人もいたのです(オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を公表している)。

こうした戦争被害の歴史があったわけですから、1971年9月27日から10月14日まで、昭和天皇が戦後初の外国訪問(ベルギー、イギリス、西ドイツを公式訪問し、デンマーク、フランス、オランダ、スイスを非公式訪問)をした際、各地で抗議が巻き起こりました。戦争の記憶は、「戦後」81年となった現在とくらべものにならないほど、鮮烈だったでしょう。イギリスでは市民の抗議活動があり、天皇がキュー王立植物園に植えた杉が伐り倒されてしまったこともあったといいます。オランダでも天皇への抗議が広がりました。10月8日、天皇夫妻がロッテルダムでの見学を終えてホイステン・ボッシュ宮殿に戻るためハーグ市内に入った際には、天皇が乗車した車に「水の入ったビン」のようなものが投げつけられ、車のフロントガラスにヒビが入るなどした事件もありました(『読売新聞』1971年10月9日夕、『朝日新聞』1971年10月9日夕など)。

1971年の天皇のオランダ訪問への答礼として、1986年にオランダ女王夫妻の訪日が検討されていた際には、報道をきっかけに激しい反対運動がおこり、政治問題化したため、女王の訪日は1991年まで先送りされました。1991年10月、来日したベアトリクス女王は宮中晩さん会でスピーチをしています。女王は、多くのオランダ国民がアジア太平洋戦争で犠牲になったことに触れ、「第二次世界大戦中の出来事は、私たち両国民(日本とオランダ)の間に深い溝を生じさせました。多くのオランダ人が、太平洋における戦争の惨禍の犠牲となりました。軍人として関わった人々もいましたが、10万人を超える民間人が長年にわたり(強制収容所に)抑留されました。私の同胞の多くは、戦争を生き延びることができませんでした。生還した人々も、その体験によって生涯消えることのない傷を負っています。その結果、長い歳月が経過した今もなお、彼らは当時負わされた苦痛や苦悩に苦しめられ続けているのです。」と述べたのでした。

注)国連人権理事会の第1回UPR(普遍的・定期的レビュー)にあたって、オランダのNGO “Stichting Japanse Ereschulden, Foundation of Japanese Honorary Debts”(日本の名誉債務財団)、日本政府に法的責任を求める団体が2008年2月1日に提出した文書から引用

奇しくも先日、機密解除されたイギリス外交公電で明らかになったとして、次のようなことが報道されました。国連安全保障理事会が1995年8月15日に採択した第2次大戦終結50年の議長声明から、中国が提案した「侵略」の文言が削られたのは、村山富市首相(当時)が直前に「植民地支配と侵略への反省とおわび」を明記した、いわゆる村山談話を発表したことが契機だったというのです(『共同通信』2026年8月13日ほか)。その村山談話を、なんとかなかったことにしようとした安倍首相の「70年談話」を経て、「反省」をしない首相は、反省の語を盛り込まないだけでなく、さらに「戦争の戦禍を、二度と繰り返させない」(全国戦没者追悼式での高市首相の発言)と他国に戦争責任を擦り付けるかの様相にまで至ってしまいました。

しかし、村山談話が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」ことを表明したことが、日本国憲法が示す平和主義を実現していく貴重な契機となったことを過小評価してはならないと思うのです。村山談話発表を契機に「平和友好交流計画」が始動し、「アジア女性基金」などの償い事業(1998.7.15〜2001.7.14の期間に、2億4500万円規模の医療・福祉分野の財・サービスの提供が実施された。アジア女性基金HP: https://www.awf.or.jp/preface.htm 参照)も実施され、天皇の軍隊による多大な被害を受けた国々との関係修復が進められました。それでも、2000年5月に平成の天皇がオランダ訪問した時にも、反日感情は残っており、オランダのメディアは過去の戦争問題を報道していました。今回はどうだったのでしょうか。

冒頭で紹介した中尾知代さんの論稿によりますと、今回もまた、その活動は徹底的に不可視化されたけれども、天皇のオランダ訪問に対する抗議の意思表示をしようとしていた市民グループが存在したのです。アムステルダム旧市街の王宮前のダム広場には東側に第2次世界大戦の戦没者慰霊塔があります。オランダ訪問中の6月17日、天皇皇后は、歓迎式典のあと、戦没者慰霊等に供花し黙礼。しかし、天皇の供花は「歓迎」されただけではなかったのです。抑留者や捕虜だった父母や祖父母をもつ人たちは、上述してきたように、いまだ悲しみ、憤り、あるいは憎悪といった傷を抱えたままなのです。かれらは、今回の本門で天皇が慰霊塔で供花することが発表されると、何らかの意思表示をしようと試みたのですが、いずれも当局に認められず、供花の様子を隣接するホテルの1階から見つめ、天皇皇后が去ったのちに、ようやくホテルから歩み出て、慰霊塔前で亡くなった親族の写真を掲げてスタンディングをすることができたのみだった、というのです。中尾氏が指摘するように、「天皇皇后の慰霊の思いを受け止めるべき遺族が囲い込まれ、切り離されたことは誠に惜しまれる」(中尾・前掲論文、70-71頁)。天皇が「思いを致したい」とした遺族のひとたちは、かれらから隠されてしまったわけです。そして、日本でも一般の報道においては、いないことにされてしまいました(ただ、『朝日新聞』では2026年6月23日付け、「戦争トラウマ 日本軍が海外に残した傷」と題した連載で中尾氏のインタビューに基づいて、天皇のオランダ訪問の際の抗議活動に触れている)。

中尾氏は、今回のように、抗議活動が「不可視化」されるのは、今回がはじめてのことではないとも指摘します。2000年に平成の天皇夫妻がオランダ訪問した際にも、ハーグにある「オランダ領東インドの抑留者慰霊碑」での供花が模索されたのですが、日本政府に被害の謝罪と補償を求めている現地団体に歓迎されなかったこともあって、ダム広場での供花となりました。その際も、時間をずらすなどの配慮がなされたものの、デモは行われました。この経緯を日本メディアも取材活動をしていたのですが、報道されなかったようです。

他方、6月17日のオランダ国王夫妻主催の晩さん会には第二次世界大戦の歴史や記憶の継承などを行う戦争被害者や遺族らの団体からオランダ人男性2人も招かれ、晩さん会後には天皇皇后と懇談したとのことです(中尾・前掲論文、72頁)。しかし、中尾氏も指摘するように、両名とも、複数ある団体のうち、日本・オランダ政府に対して明確に謝罪や補償を要求する団体ではなく、「和解」や「赦し」を強調する団体を代表する人たちです。晩さん会からは排除されてしまった被害者や遺族、そして依然として現地にも「正義をなす」ことを要求する人たちがいることを忘れてはなりません。

「不可視化」は、各地の、癒えることのない戦争の痛みを抱える人たち、そしてかれらを支えることで社会全体が戦争から解放され、真の平和をつくることを目指す人たちと、同様に植民地責任・戦争責任・戦後責任を考えようとする日本のわたしたちが連帯することを困難にしてしまいます。華やかな外交儀礼によって、戦争の記憶や戦争被害を隠蔽してしまうことを看過することはできません。そしてまた、今回の天皇オランダ訪問に際して、抗議活動を試みた現地の市民の動きが当局によって阻まれたのは、オランダ・日本両政府が軍事的な協力関係を深めようとするなかで、オランダ政府が順調な軍事的連携に冷や水を浴びせるような抗議活動を嫌ったためだろう、と見立てることが妥当でしょう。都合の悪い戦争の記憶を封印し、新たな軍事化に突き進んでいくことを「友好関係」によって糊塗してはなりません。

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