「靖国」と政教分離

相馬宏(政教分離を守る北海道集会実行委員会)

北海道における、「靖国問題」としての運動の始まりは、1969年から74年まで5度にわたって国会の場に登場した「靖国神社法案」(宗教法人靖国神社を国家で〝護持〟(管理)しようとする法案)を阻止する取り組みからだと記憶している。そして、靖国問題は、いわゆる〝まちの靖国〟という地域の政教分離問題をともなって展開するようになり、その取り組みは靖国神社法案やその後に起こった靖国神社公式参拝という国政の問題にとどまらない広がりを持つようになって行く。

道外各地の地方議会では靖国神社国家護持を推進する決議を可決している中、私の在住している旭川市議会では法案反対の決議を69年5月30日に可決した。この決議は、地方議会として靖国法案を違憲として反対を表明したおそらく最初の決議であろうとマスコミも大きく取り上げていた。「靖国神社法案」は、憲法第20条や89条に違反することは明白であり、しかも戦没者の事績、つまり戦争を偉業として永遠に称えようとするわけだから、憲法の平和主義とも先の大戦への反省とも相反している。その靖国法案反対運動は、地方自治体や町内会の政教分離違反問題を、〝まちの靖国〟と呼んで靖国問題のなかに包み込んでいくようになる。

そして、史上初の政教分離訴訟が伊勢神宮のある三重県津市で起こされた「津地鎮祭違憲訴訟」であり、このときの最高裁判決で「目的効果基準」が適用され、それ以降の政教分離訴訟の座標軸ともなっていく。「靖国神社法案」は結局廃案になり、その後首相等の「公式参拝」問題が浮上して、中でも戦後政治の総決算を掲げた中曽根康弘は、85年8月15日〝公式〟参拝と称して靖国神社を参拝する。それに呼応して各地で公式参拝違憲訴訟が起こる。その中でも注目すべき「岩手靖国違憲訴訟」で、91年1月10日仙台高裁は、天皇や首相の「公式参拝」について明確に違憲であると判断する。これは確定した判決となり、これらの訴訟を通じて各地の原告等、弁護団等が情報を共有しながら連帯し訴訟を進めようとして「靖国訴訟全国交流集会」が始められたと聞き及んでいる。

「政教分離を守る北海道集会」が、旭川で開催するようになったのは、1980年代のはじめ。北海道の中央に近い旭川市は、戦前、陸軍第7師団が置かれ軍都とよばれていた。現在でも北部方面隊第2師団旭川駐屯地がある。この駐屯地は旧7師団と同じ敷地にあり、駐屯地と国道40号線を隔てて〝北の靖国〟北海道護国神社が建っている。〝北海道護国神社〟というのは戦前来の名称で、北海道では旭川以外にも、札幌市、函館市などにも護国神社はあるが、旭川の護国神社はその名称の通り北海道全域・樺太の戦没者(〝国事殉難者〟と言っている)を合祀している。

毎年6月4日〜6日の3日間行われる北海道護国神社例大祭(4日は合祀祭)は、その規模の大きさで全国的に知名度がある。63,000余名の戦死者を合祀するこの神社の例大祭に全道から数千人(ここ数年は逓減してきて今年は、1,000人ほど)の遺族らが参列し、また各市町村も物心両面から関与を続けてきている。中でも、北部方面総監(ここ数年は欠席)はじめ陸自、海自の制服幹部の参拝や玉串奉奠。彼らの参拝は私的とは説明するものの憲法の政教分離原則からみて極めて疑義のある行為で、かつて国会でも何度か問題にされている。以前までは北海道知事などの公人(現旭川市長は参列・参拝)も参列していた。

当例大祭には、軍歌「同期の桜」が流され、それに合わせて地元のボーイスカウトの子供たち約30数名が演舞していた。「みごと散ります国のため・・・」という子供たちの踊りを眺めながら涙する遺族もいた(当会の申し入れもあり数年前からこの演舞は中止)。その光景は、まさにかつての侵略戦争を遂行した旧軍を肯定するものに重なって映る。

80年6月、当時北星学園大学の笹川紀勝教授が札幌の有志らと共に北海道護国神社を検証に訪れ、「護国神社祭問題を考える懇談会」が催され、その後毎年旭川で集会が開催されることになりこれが「政教分離を守る北海道集会」へと継続発展していくことになる。
定例の集会は、毎年護国神社の例大祭の日程に合わせ6月5日前後に開催。主に、道内外から講師を招き講演を主体とする集会で、ほぼ150人~200人程度の参加者が集まる。今年で44回目になる。幸運にもその年々の情勢にあったタイムリーな講師に恵まれている。平和遺族会の全国連絡組織が結成された頃には、キリスト者遺族の会代表の小川武満さん、いわゆるXデーの頃には神奈川大教授の中島美千男さん、戦争責任とアジア問題が浮上した時期には、ノンフイクションライターの田中伸尚さんや明治学院大教授の中山弘正さんをお呼びすることができ、靖国問題が大きく取り上げられた時期でもある09年には、靖国神社の生き字引とも言われている辻子実さんを、また当会が初めて直接関わった砂川政教分離住民訴訟の際には弁護団として活躍されていた井上二郎さんをお招きした。特に田中伸尚さんは自著や全国各地での講演でしばしば北海道護国神社の政教癒着の問題などに触れられ、当集会の全国発信の草創期となる。

さらに、「靖国以上の〝ヤスクニ〟」という造語を全国に広めて頂いた元東京大教授の高橋哲哉さんを講師に迎えたのは05年の第24回集会。あらためて北海道護国神社に向き合う取り組みを強めていくことになる。この集会がきっかけで、この年四国で開催されていた靖国訴訟全国交流集会で、次回開催場所を旭川ということが急きょ決議され、当方の実行委員会は突然の連絡に驚きながらも、集会の広がりを目指す絶好の機会と判断し開催に向けた準備が開始され、これが「交流集会」との歩みを共にし始めるきっかけになる。「交流集会」は、名称の通り特に靖国問題・政教分離問題に各地で取り組んでおられる仲間たちとの情報交換の場として重要な機会であり、出会いがあり、探索があり、学びの機会にひときわ拍車が掛けられことになっていく。

特に、「砂川政教分離訴訟」の最高裁における公判の際には、当該訴訟団としては殆ど未知の世界であっただけに、東京在住の訴訟団のメンバーらが傍聴で上京した我々を温かく迎え入れ、様々なご支援をくださったことは忘れられない記憶である。

「砂川政教分離訴訟」について少し触れると、原告の故谷内榮さんは、中学校教員を定年退職した翌年の92年、ある用向きで砂川市役所を訪れた際、たまたまその途上にある空知太会館内にある空知太神社の土地のことが気になって尋ねる。対応した市の職員から、そこは市有地だという答えが返ってきたことから、市有地に神社が建っていることに疑問を感じた谷内さんともう1人の原告故高橋政義さんは、その後8年間にわたって砂川市長に公開質問状、要請書を提出し続けることになる。さらに99年2月、砂川市が市の財産を空知太神社に対して宗教施設として利用させていることを違法として住民監査請求を提出する。監査委員はこれを問題として改善要望の意見を出しながらその後5年が経過しても、市長は改善しようとしなかった。

国家神道の名残のように市有地が神社に無償で提供されている様子に、ついに原告の2人は、04年3月、札幌地方裁判所へ提訴に踏み切ることになる。事件の名称は、「財産管理を怠る事実の違法確認請求事件」である。そして06年3月3日、札幌地裁は、砂川市の財産管理の状態を憲法20条、89条違反として、祠、鳥居、地神宮、神社の表示を〝収去〟(撤去)しないのは違法だとする違憲判決を下した。続く2審の札幌高裁も、07年6月26日、1審を支持して原告全面勝訴の判決を下した。ここで終われば良かったが、砂川市は直ちに上告の手続きをとったことにより、審理は最高裁に移りその上大法廷に回付されことになる。ここで「公有地上の神社は違憲である」という愛媛玉串料違憲訴訟に続く2つ目の違憲判決を勝ち取る。翌日の全国紙の一面は「違憲」の大文字が大きく躍っていた。

しかし、最高裁の判決は市有地を宗教団体に無償で提供しているのは違憲であるとしつつ、その解消方法として祠などの撤去以外の方法で違憲状態を解消する手段があるとして、控訴審の判決を破棄し、札幌高裁に審議をやり直すよう差し戻すことになり、結局2010年12月6日の差し戻し審判決で、鳥居などを撤去すべきとする原告の請求を退け、砂川市の提案をもって違憲状態の解消とし、これまで長年にわたって違憲状態にあった砂川市の処置も不問にした。砂川市の提案とは、空知太会館に貸与している敷地の一部にロープを張って区切り、ここを年3万円程度の賃料で空知太神社の氏子集団に貸す、祠は外に移し鳥居の奥に据える、会館の神社の表示は消し、「地神宮」の碑は、文字を削って「開拓記念碑」とする、というものである。この提案では、市有地に建つ神社の宗教性を一層はっきり明示させることになり、谷内さんらは、裁判所の前で「行政に追従した不当判決」と、垂れ幕を掲げて判決に対する抗議の意思を明らかにした。その後、砂川市内で開催した判決報告集会で、原告、弁護団は最高裁判所への上告を正式に表明し、再び最高裁判所に政教分離の徹底を問うことになるが、最高裁は市の解消策を支持し、原告等は敗訴となる。

ただ、この訴訟の後、道内各自治体に多くある類似の政教癒着物件等に自治体自らが改善を余儀なくすることになっていく。我々があらためて指摘した、旭川市内の市有地に関しても、寺院への土地の売却、石碑の場所の有償貸与、また神社の鳥居の土地を有償貸与するなどの契約をあらたに結ばせることに発展していく。これらはさらに道内外に拡散しながら、砂川政教分離訴訟の波及の効果が拡大していくことになる。

〝まちの靖国〟とよんできた地域の政教分離問題、自治体はじめ官公庁と宗教団体(ここではとくに神社)との癒着は、津地鎮祭違憲訴訟はじめ多くの訴訟を通じて明らかになって、政教分離原則が正面から受けとめられることが多くなってきたように思う。

今年の「政教分離訴訟全国交流集会」は、初めて札幌で開かれた。現在係争中の訴訟(天皇代替り儀式である大嘗祭違憲訴訟関連や靖国合祀訴訟)を中心に話し合われたが、この集会が各地で開催されることの意義は大きい。今回の北海道での集会では、あらためて砂川政教分離訴訟を思い起こしながら、現在進行形で帯広近郊の町で町内会費と神社寄付の問題が掘り起こされたり、その地域ならではの課題を共有出来たことも収穫だと考えている。

今、この国はまさしく「戦争する国」へと向かっている。国や政治が靖国神社や護国神社への関わりが深くなっていくと言うことは、いずれは「新たな戦死者」を祀るときが来ることを示唆している。それに異議を唱え、阻止していくことの重要さをあらためて認識することだと考えている。

「政教分離」と歩調を合わせることは難しくても、何かしら思考を止めずに歩み続けたいと念願している。稚拙な文章を最後までお読み頂き感謝です。

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