「皇室典範改正法」が成立し、感じ、考えた

桜井大子

「皇室典範等の一部を改正する法律」(以下「改正法」)が7月17日に成立した。法案が上程されるまでの経緯については、すでに本サイトにもいくつかの記事が掲載されているし、法成立まもない時点で別のメディアに書いた私の記事も次号に転載する予定だ。だからここでは、改正法によって見えてきたことなど、少し書いてみることにした。

とはいえ、2022年1月に「政府2案」が出て以降、今年7月の「改正法」成立までたかだか5年半くらいのことだが、そのかんのまったりとして動かない5年間と、終盤の半年足らずの急激な動きに目をくらまされそうなので、その経緯を簡単に補記しておこうと思う。「政府2案」は突然出てきたわけではないので、さらに5年ほど遡る。

「改正法」成立までの簡単な経緯

2017年6月に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(以下「特例法」)の附帯決議に基づき、2019年に「『天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議』に関する有識者会議」なるものが設置された。そこでは附帯決議に記されている通り「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」を検討することになっていた。

*「特例法」とは、2016年8月の当時天皇だった現上皇・明仁のビデオメッセージによって1年足らずで成立した「天皇の退位特例法」のことだ。

2021年12月22日、その有識者会議が最終報告をまとめた。報告が示した「皇位継承と皇族数の減少についての基本的な考え方」の結論部分は以下の通りだ。

① 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること
② 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること
③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

この報告にある①と②が2022年の「政府2案」となった。だが議論は滞り、約2年後の2024年4月、衆議院議長が発した各党・会派の代表者会議の開始が報道された。この2年間の空白を切ったのは、自民党が政府案を容認したからであり、その直後に議論開始が告げられた。自民党の容認理由は、結婚した女性皇族の「夫と子に皇族身分を与えない」の一文であった。「皇位継承問題」が「皇族数確保策」と名実ともに変わったのは、おそらくここからである。

しかしこの2024年からさらに今年(2026年)までの間も、議論は進まなかった。与野党協議での調整ができなかったからだ。それが今年に入ってあっという間の法成立となったのは、調整不可能と思える反対意見との折り合いがついたからではない。調整できそうにない部分は棚上げし、「明記しない」というやり方で「立法府の総意」なるものを作り出したのだ。それを元に作られた法案には、「立法府の総意」では棚上げしたもの、議論もしていないことなどが明記されていた。あってはならない政治的談合や秘密主義、「明記しない」という誤魔化し(騙し)の結果である。議会に巣食う政治家たちは、「議会の理念」も議員も有権者もナメきっているのだな、と誰もが思わされる事態に呆れ果てた。議会も腐るはずだ。

この半年のドタバタについては、ここ1ヶ月ほどの新聞・雑誌等で確認できる。あるいは本サイトの複数の人によるさまざまな視点から言及された過去記事、今号以降の掲載記事等もあるので、参照していただきたい。

見えてきた天皇制

2022年に出た有識者会議の報告書をみてまず驚いたのが、2017年の段階では間違いなく、この有識者会議は「特例法」の附帯決議に基づいて、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」について検討すると思われていたが、出てきた結論部分は「女性宮家の創設等」どころか「皇位継承」問題とは無縁のものだった。実は報告書そのものに「女性宮家」という文言は、「はじめに」の部分で「附帯決議」の説明として出てくるその1箇所のみであったと思う。議論の対象にもなっていなかったのだ。報告書のあの3案を結論とする理由として以下が記されている(少し簡略化した)。

現天皇→秋篠宮→悠仁という皇位継承の流れをゆるがせてはならない。
悠仁の次代以降の皇位継承について具体的に議論するには機が熟しておらず、かえって皇位継承を不安定化させるおそれがある。
悠仁の次代以降の皇位の継承については、悠仁の年齢や結婚等をめぐる状況を踏まえた上で議論を深めていくべき。

有識者会議は、皇位継承問題を棚に上げにし、逃げたとしか言いようがない。そしてこの報告をもとに政府案ができ会議は組織され、「皇位継承問題」の中核ともいえる女性宮家や女性・女系天皇についての議論は回避された。しかし出てきた法案は女性・女系天皇を明確に否定するもので、そのまま法制化された。まるでトリック議会かマジック議会だ。

この議会のありようから、天皇制とは議会で公に議論される類のものではないという「政治上の常識」、一部ではよく言われてきたことでもあるが、それが誰の目にも明らかになったのではないか。そればかりか、反対意見は大きな政治権力によって捨てられるという現実も見せつけられた。

この国と国民統合の象徴であり、この国の根幹に関わる重大な事案と称される天皇制は、憲法に明記された税金で支える国の制度であり、この国の最高権威とされる天皇と皇族の存在が拠り所となる制度である。その拠り所の存続が危ういとして、法制化された養子縁組であるが、それを具体化するのもまた政治家たちの上層部である。天皇一族そのものが、この政治の中枢にある一部の有力者によって作り出される代物であるということも、よく見えてきたのではないか。見えない人はよく目を凝らした方がよいと思う。

要するに天皇制は伝統だ文化だといいながら、こうやって時の権力者が作ってきた。これは歴史を少し勉強すればわかることで、すでに多くの人たちの常識となっている。しかしこのことを私たちは、「改正法」をめぐるドタバタを通して、文献を介するのではなくリアルに実感できたのではないか。

天皇制は、天皇の政治的権能とその制限、天皇の存在自体をも憲法が規定する国の制度である。一方、それとは無関係なところで伝統・文化の体現者という何の根拠もない意味づけがなされ、その二つが一体となって政治的に機能している。

政治的な機能とは、政治的に解決されなければならない、たとえば被災地に対する無策への穴埋めとして利用される皇室の被災地見舞いや訪問、過去の侵略戦争・植民地支配に対する国家責任を誤魔化すための国際親善を強調する皇室外交、多大な税金を使う戦争のための軍拡をそうと認識させないための平和天皇のメッセージ等々、いくらでもでてくる。そういった天皇制の政治的機能についても、このかんの「皇族数確保策」をめぐる報道全体からわりあい見えやすくなったのではないかと思う。

天皇制を機能として必要とするのは政財界その他のもろもろにおける大小さまざまな支配者層である。天皇一族とその制度を利用する有力者たちだ。そして支配層には入らない人びとの90%も天皇制を必要、あるいはあってもいいと考えているが、その必要の中身は支配者層のそれとは異なる。天皇一族がその一族であるがゆえに持っているとされる「伝統・文化」にまつわる「価値」を共有し、何らかのアイデンティティを与えてくれるものとして意味づけし、観念的に必要としているといえる。

こういった多数の皇室信奉者の存在こそが、支配者層にとって天皇制を有効なものとして存在させる条件である。だから、その観念的な部分を納得・満足させることは支配者層の仕事でもある。今回の「改正法」成立過程では、一部の支配層が必要と考える天皇像への執着があまりにも露骨すぎたし、逆に90%の人々が必要とする観念的な価値の再生産には大いに失敗したと言える。

「改正法」・政府批判と女性・女系天皇容認はイコールではない

一部の政治家たちが、愚かな古臭い価値観で議会を荒らしまわったと、このような感想を持った人は多いと思う。とりわけ真面目に「望ましい天皇制」「あるべき天皇制」を目指し声を上げていたリベラル(現実主義)天皇制維持派に属する人びとの、政府への不信・怒りは膨れ上がっていることだろう。

「改正法」成立後の7月25日、26日の調査(共同通信)では、今年に入って70%代に落ちていた女性天皇賛成は若干増えて81%だった。『毎日新聞』も調査を行なっているが、「改正法」を「評価する」は19%しかなかった。上記を数字で表すような、なかなか面白い結果であるが、それで事態が動くという話でもないだろう。いずれにしろ反天皇制の立場にとっては、いいも悪いもない、次元の異なる話だ。

メディア上では、あいかわらず世論をまったく無視した政府への批判は続き、そのことがクローズアップされる報道が目立つが、そのメディアの論調は、男系主義、家父長制・家制度を重んじる人権や平等主義をまったく無視した法律批判や、それを力づくで通した政府批判、そして女性・女系天皇容認論が、同列で同じ主張のように語られることが多い。「改正法」批判は女性・女系天皇賛成の論理だと言わんばかりだ。

ここはハッキリしておかなくてはならないが、「改正法」批判・政府批判と、女性・女系天皇容認論や愛子天皇歓迎論は決してイコールではない。次元の違う問題である。いま気になることの一つは、政府批判・「改正法」批判と同時に、女性天皇も女系天皇もいらないと主張する人びとの、その存在と主張がますます見えづらくなるだろうということだ。この抹消させられそうな「どのような天皇制もいらない」という主張の、これまで以上の顕在化のための試みが、重要課題となってくるであろうと思う。

雑誌『世界』8月号が上野千鶴子の「私が女性天皇を歓迎しないこれだけの理由」を掲載している。彼女は冒頭で以下のように書いていた。

天皇制について発言を求められるたびに、わたしは断ってきた。論じれば論じるほど、賛否共に国民の関心が集まることを怖れたからだ。それよりも、関心が徐々に薄れていって、皇統が途絶えると共にフェイドアウトしていってくれたらよいが、と感じていた。

最後に、このくだりについて少しだけ触れておきたいと思う。こういった論はこれまでにも少なからず聞いてきたが、そんなことで天皇制がフェイドアウトするはずはない。この国の支配層にとって有益である限り、政府は何としても天皇制を残すだろう。今回の養子縁組もそうだし必要とあらば女性・女系天皇だって容認するにちがいない。さらには、天皇制に替わる同等の何かを捻出することだって考えられる。フェイドアウトを期待してもいいが、私も期待しないと言えば嘘になるが、論じないこととそれは別問題である。

それどころか、論じない・動かないことで、社会は天皇制に好き勝手を許してきたと私は思っている。憲法も守らない肥大化した天皇制がまかり通る社会にしたのは、この社会のもの言わぬ「日本人」ではなかったのか。天皇を利用したい者たちをのさばらせているのも「日本人」たちである。また論じないことで、この社会の常識や良識とかいうものを、天皇制や「日の丸・君が代」・愛国心を人権よりも重んじる天皇制思想と同義かのように勘違いさせている。論じても、人びとが動いても、政府の意向を変えるのは難しいのに、論ぜずして変えていくなど、その端緒にもつけないだろう。政治的な課題で選択を迫られた時、「論じない」「語らない」も一つの政治的行為である。支配層が主張することに対する沈黙は「是」となるだろう。そして社会は常に何かについて選択を迫っている。

「論じるべき人」「語るべき人」は、この社会の住民すべてであろう。そして識者と称される人びとは論じる責任もあるだろう。私たちの参考になるような言論を出すのも識者の仕事であろうと私は勝手に解釈している。熟考し、論じてほしい。

それにしても、呆れ果てるしかないこれほど悲惨な国会状況を前に、「こんな社会は容認できない」「天皇制はいらない」と考える人たちの、その一部ではあれ、声をあげ、動きを作り出す人はいるのだった。手を繋ぐべき人たちは少なくないし、どんなに小さくてもその時点でそれこそが大きな力なのだ。ともに考え、声を上げ、めげずに生きていくしかない。そのようにあらためて思わせられた「改正法」成立前後のドタバタ劇だった。

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