日本ナショナリズム研究会
「万邦に対峙する」の国家目標 9
伊藤晃
1910年代の日本「デモクラシー」の背景
美濃部達吉と穂積八束
日露戦争後社会状況が明らかに変わってきたことは前回お話しした通り。日本の世界的地位も変り、対外関係は複雑化します。国家意志を統一・決定する形はこれまで通りでよいのか。ここで国家指導集団に亀裂が生じます。従来の天皇権限を盾にとったせまい国家指導集団、この現実の主権集団の身内での、それにせいぜい議会政党を加えての了解ではことはすまなくなっているのではないか。時代に即してもっと広い根底に立つ新方式が必要ではないか。
この問題提起に対して、もちろん従来の形を守りたいという保守派も存在します。この対立は明治が大正に移るころ、天皇機関説論争と呼ばれるものを生む。新思考の美濃部達吉と保守派の前にも名前が出てきたことがある穂積八束が主役でした(のち穂積に代わって上杉慎吉が役者の中心になるが、これはその時代に入ったときにお話しします)。1912年、美濃部達吉が出した『憲法講話』という本が論争のきっかけを作ります。
美濃部の考え方を私なりにまとめてみるとつぎのようです。国家意志決定の中心にあるのは公式には天皇だが、天皇の憲法上の権限は、国家指導集団において一致したところを裁可し、正式決定したものを公布することで国家の公的意志に転化させる、という形で運用されている。問題はここで天皇がなにを裁可するのかが決定される、その過程が閉鎖的で、せまい集団による私性・恣意性が働く危険、その結果現実から乖離する危険があることだ。この過程が社会また世界の現実に対して開放されなければならない。民意がどこにあるかはもっとも重要であり、その民意を国家指導部が知るための基本機関、議会が国政の中心に押し出されなければならない。これはこんにち世界の大勢になっていることだ。「世界の大勢」は美濃部の重要論拠です。
美濃部は憲法を改変しようというのではない。憲法上の天皇協賛機関である議会を事実において、開放的選挙制度のもとで、国政の決定力として働かせようという。これは自然、政党政治に導かれますが、そうなれば、憲法上の天皇補弼機関、天皇の統治を助ける機関である政府が、事実上国政指導の中心機関になるであろう。美濃部は現実の状況に沿った一連の解釈改憲によって憲法を立憲主義の色に染めようというのです。
美濃部のこの考え方の基本にあるのは、19世紀ドイツで有力であった学説、国家法人説というもの。国家はそれ自体が目的と意志を持ち、これを実現すべき諸機関によって構成される一種の法上の人格(法人)だと説明します。国家主権を持つのは国家自体でなければならない。君主(天皇)もまた国家の意思・目的を実現すべき法的に定められた権限を持ち、同時に法的な規制を受ける一機関、最高の地位にあるところの一機関である(ここから彼の説が天皇機関説と呼ばれた)。
国家法人説は、フランス革命後のドイツで、人民権力をめざす勢力と君主権力との妥協の上に生まれた説で、主権は人民にある、君主にある、という争いを避けるために国家自体にあるのだという。争いあう私の諸勢力を越えたところで国家の公性が働くわけです。美濃部は天皇を、立憲政治を通じて国家の公性において働かせ、国家指導集団のせまい私的サークルから離れさせようとしたことになる。国家に自身の目的を意識させるものが議会なのです。
一方これに反対する穂積八束ですが、彼の法学上の立場は法実証主義という。法は実定法、事実としてここに制定されている法が定めている、その通りに受け取られ、行われるべきだという(当然解釈改憲などは許さない)。憲法第一条に天皇が国を統治する(つまり主権者である)と書いてあるのだから、文字どおり天皇一個が主権を有し、これを行使する。天皇は主権者としてもともとあらゆることをやってよいのだ。しかし現実には一人でなんでもとはいかないから、その権限の範囲を憲法上定めているのだ。
つまり穂積は明治国家の、天皇を不可欠の一員として権力に取り込んだ国家指導集団が持つ、天皇主権を盾にした事実上の主権を守りたいのです。美濃部の方は、天皇が権力的には無であり支配諸集団を融合させる上で権威として働いた、日本国家史上の天皇に戻すこと、こんにちで言えば、開放された国家意志決定過程で得られた一致を、反対派も含めて現実の公的意志に転化する保障として天皇の権威を働かせようとしたのだと思います。だから美濃部は、天皇の権力性の希薄化をめざす一方で、天皇尊崇の態度は穂積に劣るものではありませんでした。
こうして対立する二人とも欽定憲法を奉戴し、ただその解釈と実現形態をめぐって争ったのです。そして二人とも国家官僚集団の思想的リーダーでした。美濃部の立憲主義にしてもそれは厳密な議会主義に止まるのであり、それ以上に人民を自己決定の主体として見る考えはない。人民は選挙を通じて間接的に民意を国家に通じさせるべき存在です。
ただ美濃部は、国内外の状況に対応することでは柔軟であり、国家官僚層の中ではその現実主義の方が穂積の固陋より歓迎されたから、一貫して圧倒的に主流でした。一般社会での人気も高く、新時代の国家一体・国民一体に向けて先頭を走っている観もありました。しかし時代はさらに移っていきます。それへの対応における主役もテーマもさらに広く社会に拡大されていく時代を迎えます。
「世界の大勢」
美濃部達吉の主張には「世界の大勢もそうだから」という論拠づけが伴っていました。ところがその世界の大勢が、第一次世界大戦を経てまた大きく変わったと感じられました。
第一次大戦は1914年にはじまる。ドイツとオーストリア・ハンガリー(以下墺と略)の側に対して英・仏・露、のちに米が加わる、ヨーロッパの戦争ですが、日本はドイツの持つ中国山東省の権益が狙いで、日英同盟を口実に英仏側に押しかけ参戦、列強がアジアから手を引かざるを得ないのをいいことに、辛亥革命後の混乱する中国に1915年、満州での権益を中国全土に広げる野望含みの21か条の要求を突きつける。以降中国反帝国主義運動の鉾先が日本に向かうようになるきっかけを作ります。帝国日本は明治以来の軌道を相変わらず走りつづけていたわけです。
そころが世界大戦は一方で、その帝国日本の軌道に修正を迫る面をもっていました。
この戦争で英・仏・米側は、自国の民心を一体化し、世界の同情を引きつけるために、この戦争は独・墺側の軍国主義・専制主義に対するデモクラシーと平和のための戦争だと主張します。それはまた、5年にわたる総力戦で根底から戦争に巻き込まれたヨーロッパ各国国民社会に生じた危機に対応する意味もあります。
実際戦争を通じて、ドイツのほか、権力の基礎に弱点があった墺・露さらにトルコの3帝国が崩壊する。ロシアでは社会主義権力が成立して、ヨーロッパ社会に激しい資本主義批判を発します。資本主義体制は大衆を苦しめる恐慌・失業を克服できず、またすでに生産力上昇の力をも失っているだけではない。この体制はもともと人民的デモクラシー、世界平和、民族自立の願望と相容れないのだと。英・米・仏側の、われわれこそデモクラシー、平和、民族自決を実現しうるものだとの自己主張は、この革命の危機に立ち向かう努力の表現でした。そしてドイツに対する英・米・仏側の勝利は、デモクラシー、平和(国際協調)、民族自決が主流、「世界の大勢」になったとの印象を与えました。
ただ、この「世界の大勢」にはウラがあったことも重要です。第一に大戦後国際協調のウラにつぎの戦争が準備されていく。人民の自己主張をデモクラシーでとらえようとする、そのウラに、この人民を全体主義(ファシズム)に組織しようとする思想と運動が生まれてくる。さらにいま述べた「世界赤化の危機」が意識され、民族自決要求のなかにもそれに接近する傾向が生まれること。1920年代に入ると世界経済は目立って不安定化すること。これらのウラはじつは深刻なものでいずれくわしく述べることになりますが、さし当たってはオモテの方の光に人びとの眼が奪われている時期がありました。
日本でもそうであって、20世紀世界は、明治日本のモデルであった19世紀欧米世界が新しい色彩を帯びたと見えました。この「世界の大勢」、英・米派流のデモクラシーに参入することが、「万邦に対峙する」、すなわち列強の世界支配の一員に加わるという国家目標の、この段階での方向を示している、と感じられた。帝国日本の軌道修正とはこのことです。
この方向は経済面でも有望であるようにみえました。大戦中日本は、先進国商品の圧力がなくなり、アジア市場にも進出し放題で貿易収支は大黒字になるし、大変な戦争景気、特権的資本だけでなく広い資本主義的成長に火がつきます。重化学工業化は進み、中国市場でもやたらに軍事力で割り込みを策さずとも、経済的競争力で列強と勝負する条件が生まれたようでもありました。20年代に入ると新たな苦境が訪れるとはいえ、21年、中国への日本の軍事進出の頭を押さえようとするワシントン会議に日本が積極的に応じるのは、この明るい展望のなかでのことです。
もっとも国家の動きはそれほどスムーズだったわけではない。官僚軍閥内閣は明らかに新しい状況に対応できない。大戦中の中国政策なども先にふれた通り。当時経済の好調に乗って労働争議・小作争議が激増し、社会が流動化しはじめます。この中で全国を揺るがせた18年の米騒動によって寺内正毅の率いる官僚軍閥内閣が倒れるのですが、これに代わった原敬政友会内閣にしても、政党内閣と騒がれ、確かにワシントン会議に積極的に応じるなどのことはあったが、反面、当時の政治的焦点、普通選挙を拒否して人気を下げる。
そこで、天皇機関説論争などはたしかに国家的知識人のリーダーを担い手としましたが、新しい時代の現実においては、論争の視野も拡がり、知識人世界とでもいうべきものに主導性が移ってきた観がありました。
吉野作造、福田徳三
新しい段階を告げたのは、吉野作造(この人も職は東京帝大教授でしたが)が1916年、雑誌『中央公論』に発表した「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」という長い文章です。そこで吉野が述べたことは自由主義的政治改革運動の綱領といってよい働きをします。
彼はまず憲政(立憲政治)の本質的内容として、人民の権利、三権分立、民撰議院(議会政治は当然政党政治、責任内閣制につながる。普通選挙、人民の意志表現の自由も当然のこと)を挙げ、これに対立する専制政治を批判します。藩閥官僚など権力集団、軍閥、貴族院、枢密院といった反立憲政治的諸制度など。彼が democracy を民主主義でなく民本主義と表現したことはよく知られています。主権の所在よりも、主権者の如何を問わず民衆本位の政治であることが重要、だから民本主義は君主制とも矛盾しない、人民主権でなくてもよい。しかし知徳ある人民が議会政治の背後にあることが極めて重要だ、という。議会政治が実現しても現実の政治を担うのは、それにふさわしい見識・能力をもつ少数者であろうとするのは、プラトンの「哲人政治」に通ずるが、しかも哲人政治を衆愚政治に対置したプラトンと少し違って、哲人政治実現の条件を、選挙を通じて民意を十分に表現し、同意・不同意の判断ができる程度の人民の知徳を重視するのです。つまり吉野は、けして人民の政治ではないが、理想的な自由主義政治の実現を夢見ていたといえるでしょう。
だから彼にとって、人民の知徳を高める知識層の役割は重要でした。1918年に吉野や福田徳三をはじめ著名な自由主義的知識人を集めて「黎明会」が作られ、人民への啓蒙に当たります。その知識人たちの後継世代、学生の思想運動にも熱意を持って接します。やはり18年に生まれた「東京帝大新人会」の顧問格でした。そして本来の自由主義から多少逸脱して、労働者など被圧迫社会諸集団の運動にかかわる姿勢も見せます。1912年結成の労働団体「友愛会」と吉野は大変親しい関係を持ちます。この点、のちに述べる19世紀末自由主義の人民的運動、人民の社会権への視野拡大は、相当程度吉野にも存在していました。開明的資本と高能力を持つ労働者との同盟が遅れた日本資本主義の高度化において決定的な意味をもつ、とも吉野は多分考えています。吉野は、学者たちの一部に進んだ「象牙の塔」からの脱出をリードしたわけです。
吉野は現代社会が提示する社会的事実、人民の現実に立つ諸主張を、自由主義が自らの懐を拡げて抱擁すること、議会政治の合意形成能力高度化で受け止めようとする。それを国家の高い規範性として実現したかった。それは社会的利害に立つ諸主張によって国家的一致・国民一体に亀裂が生じようとするとき、古いナショナリズムに帰るのでなく、自由主義によるナショナリズムの高度化・再建をめざしたものというべきでしょう。その姿勢は、中国・朝鮮政策の露骨な帝国主義制の修正にまで及びます。
そして彼は、現実の日本国家の古さにもかかわらず憲政の本義が実現可能であることについて悲観的ではありませんでした。美濃部達吉と同じく、それがこんにち「世界の大勢」に沿っていると考えたからです。国際政治の主流をなす英米派勢力がデモクラシーを代表することで世界的ヘゲモニーを握っている。日本が列強の一員の地位を占めたければそれに背を向けるわけにはいかないではないか。吉野の自信はここに根拠をもっていたのでしょう。
そして国内においても旧勢力の障害は取り除かれうる、と吉野は考えていたでしょう。その保障はどこにあるか。ここで彼の天皇論を見てみなければなりません。
当時吉野に対するもっとも目立つ批判者であった社会主義者山川均の論には、天皇論が含意されています。彼の吉野批判の一点は、社会的対立の存在によって吉野のいう自由主義的な国民一致は不可能だ、ということ。これを、根本的には政治的一致は同一階級のなかでしか成立しない、と彼の理解するかぎりでのマルクス主義によって言う。この点はいまわきに置いておくとして、もう一点は、吉野は主権の運用についてあれこれ言うだけで、主権の所在について何も言わない、不徹底ではないかと。もちろん天皇主権批判を言え、ということです。これは自分たちではできない天皇制批判を、吉野たちの背中をつついてやらせようということで、彼らなりの間接的な反天皇制闘争なのです。このことは社会主義運動について話すときにまたふれるとして、この批判に対して吉野は言いわけなどはしない。積極的な天皇論で応じます。彼のことば通り伝えれば「わが国の国体が君主の大義を明らかにして居るが故に、立憲政治の根底的精神は民主的形体を取ることなくして発現しうるのである」。吉野は一面では天皇というもののたてまえ、一視同仁、人民の福利のための仁慈を、他面では歴史的な天皇の諸対立融和の機能(天皇がいったん、形式的にせよだれかに「よさし」、委任を与えたということになれば、そのものの権力の正統性をだれもがみとめるなど)を頭においているのです。「民意」に立ってデモクラシーで(「公議」を経て)国民が(直接的には議会が)一致したとき、天皇はこれを裁可するだろう、そのとき旧勢力といえどもこれに反対できないはずなのです。山川均らは、吉野は民主主義者であるのに臆病で天皇制に反対できないのだ、と言いたいのですが、実は吉野において天皇は日本デモクラシーの欠かせない要素なのです(戦後のこんにちでも私たちはこういうデモクラティックな天皇主義者を見かけます)。
ただ彼の天皇論は旧勢力のそれとは区別されます。天皇を国家指導集団のせまい権力サークルから「公議」の世界に引き出す。天皇が裁可すべきものを決める過程をデモクラシー化し、権力者の意志でなく民意を裁可させる(この点、美濃部達吉と共通)。つまり天皇の現権力のなかでの働きを希薄化し(こうして現権力の専制性を弱め)、天皇制の視野を社会に広く拡げて天皇のもともとの for the people を高度化する。これは現に働いている天皇制への迂回的な批判です。山川均は天皇制に対して正面から勇敢に突撃せよと言いたい。これに対して吉野は最少抵抗線に沿った天皇制改革を考えていたことになります。戦後天皇主義は吉野の天皇論のある部分を引きついでいると言えるかもしれません。
吉野作造のデモクラシー論は「一世を風靡した」と言ってもよいでしょう。しかし社会的風潮はそうでも、現実政治にこれを受け止めるべき自由主義は微弱で、政党政治は中途半端、それさえ1920年代後半には行きづまりを見せる。後年「大正デモクラシー時代」などと呼ばれますが、吉野流自由主義は本当に時代の思想にはなっていなかったと思われます。古い政治的枠組(専制と議会政党との対抗が基本)を新しい政治、民衆政治で批判し、動揺させることができなかったのではないか。その弱さの本質はなんであったのか。
これを考えるときの一つの問題は、この時期の「デモクラシー思想」そのものが単純でなく、いくつもの思想傾向からなる流れだったことだと思うのです。山川均の吉野批判は、それ自体はさし当たり観念的なものとして無視できたにしても同じ対抗関係が「大正デモクラシー思想」の内面に存在していなかったか。そもそも吉野が立論の前提とした「世界の大勢」も大変抽象的にとらえられていて、実際はもっと複雑な構造があったはずなのです。そして日本での「デモクラシー思想」のいくつかの流れにもそれが表現されているように思います。そこには、重要だけれども吉野には微弱な要素もあって、それらを検討してみると、吉野が時代をとらえるうえで不足した、あるいは弱かった面が示唆されているのかもしれません。こうした視点から当時「デモクラシー思想」を構成したいくつかを見てみることにします。
大山郁夫、長谷川如是閑
まず大山郁夫・長谷川如是閑の二人。大山は早稲田大学教授から20年代後半には現実の政治運動で活躍する人、長谷川は当時の有力ジャーンリストの一人。たがいに異なる資質を持つ思想家ですが、ここでは共通性に着目して論じます。山川均の考えに通ずる面があり、まずはデモクラシー思想の左派です。
大山や長谷川の考えでは、支配的な旧い国家的価値(教育勅語や戊申詔書にみられるような)はもちろん、これを批判する自由主義でさえ、いま社会に現れてきている諸階層のそれぞれの利害に立つ要求、ここに生まれる社会的対立、階級対立、民族対立、というような集団的な社会現象によって、実生活のなかで追い越されている。それらを旧国家も自由主義も解決できない。これらの対立をなんらかの価値意識で再統一することはできない。対立しあう社会全体を包摂しうる価値意識は存在しない。自由・正義・平等など普遍的価値と見られるものは、諸社会集団それぞれにとって独自な意味をもっている。
彼らには、では社会全体ではどうしたらよいか、その積極的な思想的対置はないようです。しかし国家主義にせよ自由主義にせよ、この時代に自己を全体にとっての解決者として主張しようとするなら、二人の問題提出への直面を避けることはむつかしいでしょう。
大山らの思想には世界的背景もあります。価値意識・人間の意志・当為(何をなすべきか)に関するあらゆる思考を社会・経済に還元する社会学説がありました。代表的なものに社会学的国家論と呼ばれる理論、グムプロウィッツ Gumplowicz らを中心とするオーストリア社会学派があります(大山らにははっきりこの派の影響がある)。人の意志は社会集団の意志によって決定されるという、社会・政治関係に強制の契機以外の同意の契機を見ない、政治的統一は社会集団間の征服関係によるのみ、というような理論を持つ。19世紀の新しい社会的対立関係、同時代の自然科学の飛躍、実証主義哲学などのなかで、従来の価値的世界が大動揺したことが背景にあるとされます。ついでに言いますと、しかし人間の意志、価値意識、当為の方面は消滅するわけではないから、この方面を考えようとする思考は当時カント主義に傾くことになる。カント主義自体この意識を強く持ち、「事実性」の世界に対して「価値性」の世界を峻別し、後者を守る哲学として自己を主張する(新カント派と呼ばれる)。日本でも1920年前後、旧い国家的価値から逃れて人間意志の自由、人間に普遍妥当する価値意識を考えたいという欲求が出てくるとき、社会的事実を見ようとする傾向は新しい価値観を示せないから、カント思想が求められるというカント主義流行時代が、社会主義運動の圏内も含めて見られました。カント主義はデモクラシー思想の重要な一環だったのです。一方に新しい社会的事実に立ってすべてを社会・経済に還元する思考(マルクス主義をそうした決定論・宿命論と理解することも含めて)が存在した。大山・長谷川もこういう世界的流れの一表現です。彼らは思考の二元論的分裂を統一する理論を持たなかったが、吉野作造にしても、彼の自由主義が時代の提示する社会的事実を抱擁できる価値の理論を持ったか、という問題があったことになるでしょう。
福田徳三
さて、当時の国民一般をみるなら、そんな新しい価値問題は遠い世界のことで、生活問題はもちろん持ちながら、国家の与える価値意識が国民一体の契機としてやはり強く働き続けていた、というのが現実だったでしょう。そこに、社会的対立の事実に立ちながら、現存の天皇制国家、その国民一体化への働きそのものを高度化して社会的対立の解決を抱擁させる、という思想も、デモクラシー運動のなかで位置を占めることになりました。戦前最有力の経済学者であり、先の黎明会でも吉野作造と並ぶ「巨頭」であった福田徳三の思想です。
福田徳三は、デモクラシーの目標(価値内容)の重点を国民の生存権におきました。そして社会に向けて働き、機能を拡大させた国家がこれを担うとした。彼が勤労大衆に向かって言うことは「どんどん君たちの要求を出しなさい。それは生存権にもとづくものでみな正当だ。これらをみな国家が面倒みよう」。彼は社会に生ずる深い対立を事実として認め、その解決者として国家の働きを拡大しようという。そしてこのとき、彼はイギリス流自由主義にも社会主義にも反対します。両方とも階級イデオロギー、「私」の立場なのだと見るのです。これら二者を越える「公」の立場を国家に見る。これが実現するものを「真正デモクラシー」と彼は名づけました。日本にはその実現の条件がある。日本の「国本」である。この「国本」は「国体」とは違う観念のようで多分近代天皇制が国民の信頼を得てそこでの国民一体が国家を動かす、これがもつ可能性、というようなことを言っているのでしょう。
しかし福田の考えでは、この「国本」も社会の現実に合わせて働きを高めなければそれ自体が危ういのです。天皇の一視同仁が社会的視野で再解釈されなければならないわけです。だから彼は旧国家のもともとの特権的構造には断じて反対、労働者が国家発展の犠牲になることにも絶対反対。彼は低賃金構造が商品の国際競争力のために日本資本主義の宿命という主張、この中で、労働者をゴマ化すための温情主義を非難する。積極的に産業構造高度化をめざせ、資本の有機的構成高度化に対応する高度な労働力、高賃金高能力の労働者を主力として、労働生産性の高さによる国際競争力向上をめざすべきだと考えました。
福田徳三はこういうわけで、「大正デモクラシー」の有力思想家の一人でした。その中心的主張は、新しい社会対立の事実を高められた日本国家の価値性で受け止め、吉野流の自由主義を呑み込こみ、あるいは置き去りにしようとする。このとき吉野はどうすれば呑みこまれず、置き去りにもされずにすむのか。ここにも吉野にとって大きなイデオロギー的テーマが存在しました。
河上肇
国家主義を根底にもつデモクラシーということでは、もう一人、河上肇を挙げておこうと思います。こんにち、おそらくだれもが、この人をマルクス主義経済学者だと考えているでしょう。たしかに河上は山川均と同じく、「これがマルクス主義だと日本で思われていた思想」の代表者です。しかしそれはある時期からのことで、もともとこの人は醇乎たる国家主義者であった期間が長い。以前ちょっとふれた農本主義者としての河上においてもそうです。しかしそういう人として、また河上は一個のデモクラットでした。
さらに河上は、これまた醇乎たる人道主義者でした。彼のマルクス主義移行以前の有名な本が『貧乏物語』(1916年)ですが、これは人道主義の立場からの資本主義的貧困批判・金権批判です。金持ちは高い「公」の立場から利己主義を捨てて人間改造をすべきだという。そして彼の国家主義ですが、古い日本には反対でデモクラシーを主張するのだが、それは人びと多数の意志が国家の意志、国権となってあらわれるところに改革を見るという立場。彼が言うには、私は民主的というよりむしろ「国主的」を望む。「国主的」であるところに国民一体がある。この「国」によって人権も与えられる。天賦人権でなく「国賦人権」だ。国家がこうして至善、最高の善となるところに国家の「格」の高さがある。日本はこの国家の「格」を天皇が代表する国であるはずなのだ。
労働も資本も天下の「公」の立場に立つべきだ。労働者の人格が尊重され、産業のなかで健全に発達することに国家産業の健全な発達がある。日本人は一人一人の能力は西洋人に劣るかもしれないが、力を合わせて国の力となるとき西洋に対抗できる云々。これもまた国家の立場からの日本資本主義批判です。河上はおそらく、資本の立場がこの「国家主義的デモクラシー」に反すると見たのです。ここに彼が社会主義に移行する通路があったのでしょう。
吉野作造もまた愛国者の一人でした。そうすると彼の愛国が河上の愛国を越える論理はどこにあるか。ここにもまた、吉野が克服すべきハードルの一つがあったのだと思います。
福田徳三や河上肇の立場は彼らなりの旧国家批判でしたが、それは日本国家が天皇のもとで本来実現しているはずだ、あるいは実現するべきだと考えるところに拠っており、吉野流自由主義といささか(河上のばあいかなりの)距離のあるものでした。吉野も天皇主義者であるが、現存天皇制国家への批判は福田より厳しい感じです。少なくとも河上などよりは消極的のようだ。それを一般に知られるよう努力する必要はあったでしょう。
『東洋経済新報』
ところで一方に、吉野にとって援護になるかもしれない思想もありました。たとえば近年注目する人も多い雑誌『東洋経済新報』(主筆石橋湛山)。これもちょっと見ておきましょう。この雑誌の立場については以前にもふれましたが、その立場をこの時期にもだいたい一貫してとりつづけています。
その立場というのは、国家と結びついた特権資本批判、下からの産業化の主張でしたが、このころも、時代が必要とする産業構造高度化に国民のエネルギーを発揮・集中させる条件を考えつづけています。そのために軍事費偏重の財政構造修正を主張することも同じ。いまお話ししているよりも少し後のことですが、1921年にワシントンで国際会議が開かれ、日本の中国政策を修正させることと海軍の軍縮とが論じられます。東洋経済新報はこれを積極的にとらえる。海軍軍縮は、列強のいずれもが第一次大戦でふくれ上がった軍事費に苦しんでいたからです。しかし軍縮は一国だけが先走りするのは不安なもの、日本にとっても列国協調なら乗りやすい。渡りに舟のこの機会を逃すな、と東洋経済新報は主張する。そして軍事費削減はその分を産業費用に当てられるわけで、従来世界的に評判が悪かった日本の中国政策、軍事力を振りまわしながらの進出を、産業的金融的競争力による勝負に転換するきっかけを得られるだろう。
さらに東洋経済新報は、植民地経営における合理主義を主張する。だいたい植民地領有は金のかかるもの、皆が夢見る利益は簡単には上がらないもの、強引な経営政策は合理的なのか。東洋経済新報は、旧来の立場にこだわらず、もっと広く世界大の外交的経済的視野での日本の道を考えよと言う。満州の利権放棄さえ言うのですが、その裏には、率先しての利権放棄によって英・仏など大植民帝国のより大きな利権放棄を日本が要求する論拠を得よ、小なるものにこだわらず大なるものに志を持て、という考えがある。これは「持てるもの」に対する「持たざるもの」の論理につながっていくような「現実主義」も少々ちらついてはいるのですが。
