沖縄から「昭和100年」を考える

米須清真

本日お話ししたいのは「沖縄から『昭和100年』を考える」というテーマです。ここでいう「昭和100年」は、昭和という時代を回顧し祝う記念ではありません。この言い方に潜む、日本国家特有の時間認識そのものを、沖縄という場所から問い返したいのです。昭和は1926年に始まり、今年は確かに「昭和100年」に当たります。しかし、この100年は誰にとって連続で、誰にとって断絶で、誰にとっては他者のために「耐えさせられる現在」だったのか。私はこの問いを沖縄から捉え直します。

琉球の歴史と天皇制

まず確認したいのは、沖縄=琉球の歴史的時間の内部に天皇制は存在しなかったという事実です。琉球国は天皇制を前提とせず、別の原理で国家を構成していました。天皇制は琉球併合を通じて導入された外来の近代化装置です。琉球には独自の国家祭祀制度があり、その中核は聞得大君を頂点とする女性神官組織、ノロ制度でした。女性神官が任命され、国の繁栄や航海安全を祈願し、約400年にわたり国家祭祀を司りました。これは「民間信仰」ではなく、王権の正統性を支え国家統合を担う中枢装置であり、政治と宗教が未分化な時代において祭祀は統治そのものでした。重要なのは、この祭祀制度が本土神道とは異なる構造を持ち、琉球が「日本の未成熟段階」ではなく、異なる原理の政治的世界だったという点です。

それにもかかわらず、日本側でよく見かける言説は「琉球は天皇制の外縁にあった」「もともと日本の一部だった」というものです。ここには、琉球の歴史を天皇制の時間軸へ回収する政治が働いています。伝統ではなかったものを「伝統」として遡及的に埋め込む——これが沖縄における近代化の出発点でした。一般的な「琉球藩設置から沖縄県編入へ」という国内行政史の説明は決定的な問題を隠します。琉球併合は国内改革ではなく、日本が近代主権国家・植民地帝国として東アジア秩序の再編に参入する過程で行った対外的な国家併合でした。琉球は、日本が「文明国」であることを示す実験場とされ、琉球併合はのちの朝鮮併合の先行事例として、同型の論理で進められたのです。

波平恒男は、琉球併合における王土王民思想を「近代日本が主権国家として成立するために必要だった正統化技術」と位置づけます。これは残存的観念ではなく、併合を可能にするための操作の原理でした。王土王民——天下の土地は王(天皇)のもので、人民はすべて王の臣民」という思想——は、琉球に対し「主権の遡及的付与」を行う装置として機能しました。すなわち、清との冊封関係や政治的独立を無効化し、「もともと琉球は天皇の王土で、琉球人は臣民だった」という前提を事後的に作り出すことで、併合を国際交渉や条約ではなく国内処分として処理可能にしたのです。これにより、首里城接収や尚泰王の連行、統治権剥奪といった暴力は「本来あるべき秩序の回復」や「内部処理」として語られ、暴力は「主権の当然の行使」として不可視化されました。

この思想は内政と外政を接続する蝶番でもありました。内政的には天皇を唯一の主権者とする中央集権化を支える論理に、外政的には清の冊封体制を「前近代的で無効」と相対化し、日本が東アジア秩序を再編する主体であることを示す道具になった。琉球での適用は、この論理がどこまで通用するかを試す帝国的主権の実験でした。天皇が尚泰を「藩王」として冊封する操作は、琉球王を遡及的に「天皇の家臣」へと置換し、対等な他国ではなく「内部の統治権整理対象」へと変換する決定打でした。ここで重要なのは、王土王民思想を作り運用した主体は日本国家であり、琉球はその適用対象=客体であったという点です。したがって、琉球人が天皇制や日本の主権国家化に責任を負うという発想は導かれません。要するに、琉球併合は「不可避の歴史」ではなく、特定の主体が特定の思想を用いて選択した政治的行為でした。

1879年の琉球処分は、この論理が武力と外交圧力で実行された出来事です。首里城は接収され、尚泰王は東京へ連行され、外交権・裁判権を含む統治権は奪われ、琉球国は消滅しました。琉球側はこれを明確に「国の滅亡」と認識しており、これを「廃藩置県」と同列には語れません。それでも日本側では「併合は不可避だった」という語りが繰り返されますが、琉球救国運動の存在はこの神話を崩します。幸地朝常らは清への亡命や密使派遣を行い、冊封体制の復活や清の仲裁を求めました。林世功の自死は、抵抗の可能性が閉ざされていく中で起きた象徴的出来事でした。八重洋一郎が用いた「日毒」という語は、日本を「外側」から名指す視線を示し、編入を当然視しない認識の存在を物語ります。逃走や離脱は敗北ではなく主体的判断でした。

この「逃れる」という系譜は徴兵制度の導入でさらに鮮明になります。1898年以降、徴兵令が沖縄にも全面適用され、日本国家は初めて琉球人の身体を直接に「皇国臣民」として徴用しました。徴兵は天皇の名において殺し、殺される身体を強制する制度であり、沖縄では徴兵忌避や移民、1910年の本部事件に代表される激しい抵抗が起こりました。日本側の言説はこれを「臆病」「男らしさの欠如」「日本人としての未成熟」と表象しましたが、ここで作動しているのは帝国的マスキュリニティの規範です。

私は、こうした歴史事実を踏まえ、「昭和100年」を一枚岩の祝祭的時間としてではなく、遡及と編入によって作られた主権の時間、そしてそれに抗した沖縄の時間として捉え直したいと考えています。昭和をめぐる記憶の地層を問い直すことは、いま私たちが立っている現在のかたちを、別様に構想し直すための出発点なのです。

沖縄戦における天皇制の機能

続いて、沖縄戦について考えていきます。アシル・ムベンベを軸に、沖縄戦における天皇制の機能を考えてみたいと思います。まず、押さえておきたいのは、天皇が「誰かを直接殺す主体かどうか」という問いは、この議論の本質ではありません。むしろ重要なのは、誰を死に近づけ、誰を死から遠ざけるのか。その秩序を、いかに正当化し、不可視化し、空間的に配分してきたか、という点です。

ムベンベにとって、ネクロポリティクスとは、主権が単に「生かす/殺す」という二元的な決定を下す権力ではなく、生の価値に差異をつけ、死を分配し、死に近い生を日常化する統治形態を指します。誰が安全な生を享受でき、誰が危険に晒され、誰は守られなくてもよいのか。その分配そのものが政治として成立している状態——それがネクロポリティクスです。この枠組みで天皇制を見ると、それは日本社会においてネクロポリティクスを直接作動させる権力そのものというよりは、それを社会的・感情的に成立させる象徴装置として機能してきたと言えます。

戦前の天皇制では、天皇は統帥権の保持者として、軍事行動の最終的な権威の源泉と位置づけられていました。しかし、ここで問うべきは、天皇が個別の殺害命令を下したかどうかではありません。むしろ、国家が膨大な死を生産することを「当然のもの」「尊い犠牲」として語り得る意味空間が、天皇を中心に形成されていたという事実です。死は「国のため」「天皇のため」という形で聖化され、殺される側も殺す側も、ともにネクロポリティカルな秩序の中に深く組み込まれていきました。

ムベンベ的に言えば、天皇制はここでは「殺す権力」そのものではなく、死が例外ではなくなる世界を可能にする主権的象徴として働いていたのです。誰が死ぬかは戦局や命令によって決まる。しかし、「死んでよい/死ぬべき」とされる言説の形式、そして「この死には意味がある」とされる枠組み自体は、天皇制的時間と天皇制的共同体像によって強く支えられていたのです。この構造が極限まで露呈したのが、沖縄戦です。

沖縄は「本土を守るための捨て石」と位置づけられ、住民は戦闘員でも完全な非戦闘員でもない、中間的で危険な存在として扱われました。日本軍による住民への虐殺や集団自決の強制は、規律の偶発的な崩壊ではなく、沖縄という空間が「死を集約してよい場」としてあらかじめ設定されていた結果にほかなりません。天皇制がここで果たした役割は、沖縄を「殺せ」と直接命じることではありません。むしろ、沖縄が死ぬことによって日本国家全体の生が守られるという、非対称的な死の配分を「国家的必然」として支える象徴的中心であった点にあります。

沖縄は「生よりも死に近い生」を強いられる空間に置かれ、その配置が国家的に許容される——まさにムベンベが描くネクロポリティクスの典型です。興味深いことに、戦後の象徴天皇制においても、この構造は断絶していません。形式上、天皇は政治から切り離され、「殺す権力」とは無縁の存在とされました。しかしムベンベの視点から見れば、そこに起きたのはネクロポリティクスの消滅ではなく、より洗練された分業と不可視化です。

「戦後民主国家」下の沖縄

戦後、日本は「新しい民主国家」として再出発したと繰り返し語られます。しかし、ここでも沖縄は明確な例外として扱われてきました。一九四五年十二月、日本政府は沖縄を国政選挙から法的に除外しました。これは占領軍の一方的措置ではなく、日本側が主体的に行った決定です。憲法の制定も、日米安保条約の批准や改定も、沖縄を抜いた国会で決められました。日本人の、日本人による、日本人のための政治は、沖縄の排除を前提として成り立っていたのです。

一九四七年の昭和天皇による沖縄長期管理容認のメッセージは、この構造を象徴的に示しています。沖縄ではこのメッセージが「切り捨て」の原点として、強い記憶とともに語り継がれてきました。しかし本土社会では、長らくその存在すら十分に共有されてきませんでした。この記憶の非対称性こそが、「日本人の脳内日本地図」から沖縄が抜け落ちている何よりの証拠なのです。

野村浩也氏は論文「日本人の脳内日本地図に沖縄は入っていない」の中で、この「天皇メッセージ」を、歴史的意図の善悪をめぐる人物史的な論争の対象としてではなく、日本社会の深層構造を露呈させる象徴的出来事として位置づけています。野村が注目するのは、「天皇が沖縄を切り捨てたかどうか」という道徳的な問いではありません。彼はむしろ、このメッセージを、日本人の無意識の認識枠組みがどのように形成されているかを可視化する結節点として読み解きます。そこに現れるのは、異常な逸脱や例外的な判断ミスではなく、「日本を守るために沖縄を外部化する」という発想が、戦後日本の中心部においてどれほど自然に共有されていたか、という事実です。

野村は強調します。天皇メッセージの真の衝撃は、その内容の過激さにあるのではなく、それが長らく日本社会の周縁に追いやられ、正面から議論されることがなかったという点にあると。この非対称的な記憶のあり方そのものが、沖縄が「日本」から外されている構造の証左なのです。

野村はさらに、天皇の独断や宮内官僚の越権行為に問題を還元する解釈にも批判的です。そうした見方は、一見天皇制批判のように見えながら、実際には日本社会全体が共有していた「本土=守るべき日本」「沖縄=安全保障の外部」という秩序観を免責してしまうからです。天皇メッセージは、すでに社会的に前提とされていた分業構造が、最も権威的な言葉で表現されたに過ぎない——野村の分析は、この冷静な視点を貫いています。

ここで「捨て石」という言葉が出てきますが、これは天皇個人の冷酷さを告発する比喩ではありません。野村にとって重要なのは、「捨て石であることを当然視し、それを日本の一部だとさえ感じなくなる社会意識」そのものです。天皇メッセージは、その無意識のレベルで制度化されていた社会意識が、露出した一つの断面にほかなりません。

日米安保・沖縄・天皇制

次に、本土から沖縄への基地の集中と固定化を考えます。

ダグラス・ラミスがその著作『要石』で指摘したように、沖縄は日米同盟を支えるアーチ構造の「要石(keystone)」として、意図的に設計されています。石造のアーチにおいて要石は、中央に位置し、最も重い荷重を支えると同時に、それを取り除けば全体が崩落する不可欠な部分です。彼はこの構造を、米軍の前方展開戦略、日本の主権の代理的行使、そして本土の表象的な非軍事化という三者の関係に重ね合わせます。沖縄は「守られるべき周縁」でも「たまたま基地が置かれた場所」でもなく、本土日本が「平和国家」「非軍事国家」という自己イメージを維持するために、軍事的負荷と暴力性を一手に引き受ける構造的位置を与えられた存在なのです。

日米安保と憲法九条は一見、矛盾しているように見えます。しかし、この矛盾点を沖縄に閉じ込めることによって、矛盾が矛盾として作動せず、相互に補完し合っているのです。これがラミスの思想の核心です。そしてこの構造は、冷戦後から今日に至るまで、ほとんど変わっていません。

中国脅威論や台湾有事といった新たな言説が加わっても、結局、求められるのは沖縄における基地の常態化と日本のための犠牲です。「情勢が厳しいから仕方ない」という説明自体が、この要石構造の自己再生産メカニズムにほかならないのです。

これまで説明してきたように、象徴天皇制の機能と日米安保体制の基盤は、かなり深いレベルで重なり合っていると考えられます。ただし、それは制度的な結託というより、統治を成立させるための役割分担が、補完的に噛み合っているという意味です。象徴天皇制は、政治的決定を行わないとされながら、「国家の連続性」と「統合」、そして「非政治性」を身体化する装置です。天皇は決断せず、責任を負わず、対立を起こさない。その「空白性」ゆえに、政治的力の行使が国家そのものから切り離されたかのように見える。

一方、日米安保は、日本が自ら戦争を決断し、軍事的な責任を直接引き受ける主体であるかどうかを曖昧にする制度です。暴力は存在するが「抑止」であり、実体はアメリカに委ねられている。両者はともに、主権の核心である「決断」と「暴力」を国家の表象から遠ざけることで、日本を「平和で民主的で無垢な存在」として成立させています。そしてその「代理行使」や「例外」を引き受ける場所として、沖縄が配置されてきたのです。野村の言う「捨て石」であり、ラミスの言う「要石」である場所です。

したがって、象徴天皇制と日米安保は、日本を「責任を被らない主体」に保つための、異なる次元に置かれた装置だと言えます。昭和天皇の沖縄メッセージが示したように、戦後日本の再編において、天皇制の維持、主権の形式的回復、沖縄の長期的軍事利用は、同じ思考空間の中で構想されていました。これは天皇個人の問題ではなく、日本社会が共有していた認識そのものの現れです。この構造を見抜くことは、天皇制を支持するか、安保を是とするか、という立場を超えた問いです。

日本が「自分は何をしている国家なのか」を問い直さずに済ませるために、二つの制度が並行して機能してきた。その仕組みを明らかにすることこそ、沖縄を再び「日本人の地図」の中に取り戻すための、不可欠な一歩となるでしょう。

支配的規範と批判的アイデンティティ

次のトピックに移りましょう。

戦前の沖縄では、徴兵忌避、脱清、移民が繰り返し発生しました。一九一〇年の本部事件に象徴されるように、徴兵制度に対する激しい抵抗が起きたのです。しかし日本側の言説は、これらの行為を「臆病」「男らしさの欠如」「日本人としての未成熟」と表象してきました。ここに働いていたのは、帝国的マスキュリニティの規範です。求められたのは「立派な日本男児」でした。軍事的規律に従い、天皇に忠誠を誓い、ホモソーシャルな場で承認される主体——その暗黙の標準は、常に「日本人男性」でした。

フランツ・ファノンが指摘したように、支配的規範への同一化努力は、完全な承認には至りません。同一化は常に「模倣」として回収され、承認は先送りされ続けます。軍隊は承認の場であると同時に、差異を確認する装置でもあったのです。

ファノンが「承認の罠」と呼んだのは、被抑圧者が支配者の規範の中で「認められよう」とすること自体が、解放ではなく支配関係の再生産につながってしまう構造です。『黒い皮膚・白い仮面』で描かれる黒人主体は、「人間として承認されたい」という欲望を抱くことで、白人=普遍=人間性の基準を自ら引き受けてしまいます。そして与えられる承認は、決して対等な相互承認ではなく、「白人に近づいた限りでの条件付き承認」に過ぎません。結果、主体は永遠に「まだ足りない」「もっと白くならなければならない」という不全感の中に閉じ込められる。

この構造を琉球/日本関係に当てはめると、「日本人になろうとする琉球人」が失敗するのではなく、最初から失敗するように仕組まれていると言った方が正確です。ヤマトは〈帰るべき祖国〉ではなく、承認の裁定者として中心に立ち続けます。標準語、国民、戦没者、天皇、近代史といった制度的・象徴的規範にどれほど同化しようとも、「完全な日本人」であることは常に留保されます。中心と周縁の関係そのものが、承認を非対称的に配分するように設計されているからです。

こうした文脈で、沖縄における徴兵忌避は、逃避なのでしょうか。いや、そうではないだろうと考えます。エリクソンの言う「否定的アイデンティティ」として理解すべきものです。支配的規範を受け入れるのではなく、それを拒否することで成立する主体性——それは、与えられた役割が承認不可能である状況において、主体が取り得る最も首尾一貫した応答なのです。

「立派な日本男児」という規範は、琉球人男性にとって最初から完全到達不可能なものでした。どれほど忠誠を示しても、その行為は「模倣」「未成熟」として読み替えられます。承認を求めて近づけば近づくほど、差異は再確認される。この状況で、徴兵忌避は「その競技に参加しない」という理性的な判断として現れました。それは、帝国的マスキュリニティ装置からの逃走線だったのです。ここには、ラッツァラートの言う言説装置と非言説装置の連動も見られます。

皇民化教育や「日本男児」イデオロギーは、「犠牲は全体の発展のために必要だ」「いまは苦しくても歴史は正しい方向に進む」という弁証法的語りを生産してきました。一方、徴兵制度や差別的待遇、労働市場の構造は、身体を直接捕捉する非言説装置として機能し、行動の可能性を狭めていきました。ラッツァラートが「弁証法は白人男性のものだ」と断じたとき、私はそれを「弁証法はヤマトゥータンメーのものだ」と言い換えたいと思います。

ヤマトゥータンメーとは、国家の時間を代表し、過去の犠牲を「仕方なかった」と語り、現在の不正義を「いずれ解決する課題」へと先送りし、未来の調和を信じる語りの主体です。沖縄戦は「本土決戦を遅らせた必要な犠牲」に、戦後の基地集中は「国際情勢上やむを得ない負担」に変換される。この弁証法的正当化こそが、沖縄の現在を永遠に「まだ途中」に置き続けているのです。

徴兵忌避は、こうした装置に対する拒絶でした。それは「まだ主体になれなかった人々」の行為ではなく、「その主体になることを拒否した人々」の行為です。そしてその拒否こそが、帝国的秩序が要求した主体像を根底から相対化する力を持っていたと言えるでしょう。否定的アイデンティティは病理ではありません。それは、規範が本当に普遍的で正当なものであれば現れない、規範の不正義を読み取る認識能力の表れなのです。

支配的・単線的時間と反復する生の時間

ここで、時間をめぐるもう一つの重要な視点を加えたいと思います。ヴァルター・ベンヤミンが批判した「均質で空虚な時間」です。これは、出来事を不可逆的な直線上に配列し、過去を現在の正当化資源として動員する時間観念です。万世一系や「君が代」が象徴する単線的時間は、その典型と言えるでしょう。そこでは歴史は「続いてきた」という事実そのものによって正当化され、断絶や暴力は「途中の出来事」として吸収されてしまいます。

支配的時間とは、勝者が自らの勝利を自然なものとして語るための時間形式なのです。エリザベス・グロスは、ベンヤミンと同じ言葉を用いるわけではありませんが、時間の捉え方において極めて近い地点に立っています。彼女が一貫して問い続けるのは、時間が「容器」として理解されてきたことです。時間とは出来事を運ぶ中立的な背景ではなく、身体・物質・環境との関係の中で生成され、折り畳まれ、反復される力動である――グロスはそう考えます。

ベルクソンやドゥルーズから引き継いだ彼女の時間概念では、時間は進歩の直線ではありません。差異を生み出し続ける持続であり、過去は完全に過ぎ去ることなく現在に内在し、現在はつねに別様に開かれた可能性として揺れ動きます。この時間は「均質でも空虚でもない」。

この発想は、先住民族の時間理解と深く響き合います。季節の反復、祖先との循環的な交信、土地とのリズムによって織りなされる時間。それは「出来事が何度も違った意味で立ち上がる時間」です。祖先は過去に閉じ込められた存在ではなく、現在の行為や土地の感触の中に再び現れます。死者は完結せず、土地は記憶を保持し続ける。

このあり方は、グロスの「過去が現在に内在する」という考えと極めて近いものです。グロスが優れている点は、この時間を「前近代的な伝統」としてロマン化しないところにあります。彼女は近代的単線時間に対置されるものとして先住的時間を擁護するのではなく、時間とはそもそも「生がいかに時間を作り出しているか」という存在論的水準で捉え直すべきだと論じます。時間は国家や主権が上から与える枠組みではなく、身体と土地の関係の中で生成されるものなのです。

ベンヤミンとグロスを重ねると、沖縄・琉球の文脈で次のように見えてきます。単線的時間とは、日本国家が自らの正統性を保証するために採用した時間形式です。万世一系は、過去を断絶不能な連続として物語ることで、琉球処分も沖縄戦も基地化も、すべて「時間の途中」の出来事として押し込めます。

これに対し、琉球的な時間、あるいは先住的な時間は、出来事を「終わった過去」にしません。出来事は土地と身体の中で繰り返し再出現し、新たな意味を生み出します。グロスの言葉を借りれば、これは「トラウマの反復」ではなく、時間の生成力そのものです。だからこそ、遺骨返還や祭祀の回復といった営みは、単に過去に戻ることではなく、時間そのものを再構成する政治的実践となるのです。

単線的時間が「もう終わった」と言い切る地点で、別の時間は「まだここにいる」と応答し続ける。ベンヤミンは、支配的時間が歴史をいかに支配の物語に変えるかを暴きました。グロスは、時間が本来、身体と土地から生成される多層的な力動であることを示しました。そして先住民族の時間は、その力動が生の実践として具体化されたかたちです。

この三者は、「単線的時間に代わる倫理」を共有しています——進歩の名で現在を耐えさせることを拒み、過去を回収して終わらせず、未来をあらかじめ決めない倫理です。さらにグロスの時間論を政治的に押し進めると、重要な示唆がいくつも浮かび上がります。

第一に、「誰の時間が現在として承認されているのか」という問いです。近代国家や資本主義は、一つの標準時間——進歩の時間、発展の段階——を前提に制度を組み立ててきました。しかし実際には、異なる身体と土地が、それぞれ異なる過去を内在させた現在を生きています。「遅れている」「時代遅れだ」という言葉自体が、特定の時間を特権化する政治的暴力であることが、ここから見えてきます。

第二に、責任と因果の捉え方が根本的に変わります。直線的時間では過去は「終わったもの」とされがちですが、過去が現在に内在するならば、植民地支配や基地問題は「昔の話」ではなく、いま現在の時間の構成要素です。謝罪や記念碑だけでは済まない、構造的な政治責任が問われます。

第三に、抵抗や変革の時間が再定義されます。未来は現在から跳躍して到達する目標ではなく、現在にすでに内在する未決定性です。身体や土地が持つ異なるリズムが、支配的な時間秩序とずれるとき、そこに政治が生まれます。グロスの時間論は、私たちに政治を「未来を設計する技術」から、「現在を構成している時間の層を問い直す実践」へとシフトさせる力を持っています。

誰の過去が今も生きているのか、どの身体と土地の時間が抑圧され、どの時間が標準として支配しているのか。その問いを立てること自体が、すでに政治的行為なのです。この視点は、これまで見てきた天皇制的時間、国家の歴史叙述、そして沖縄の経験を、存在論の次元で深く相対化してくれます。

「知と権力」の脱植民地化を

これから、フラクタルな征服戦争について説明していきます。フラクタルとは、あるところの構造が、別のところでの構造と、全体として同じように現れてきていると言うことです。

松島泰勝氏の著作『学知の帝国主義』は、沖縄をめぐる知そのものを植民地主義の一形態として徹底的に問い直した、極めて重要な書物です。本書の核心は、近代日本において人類学・言語学・歴史学などの学問が、琉球/沖縄を「理解する」中立的な営為などでは決してなく、帝国日本の支配を正当化し、固定化するための装置として機能してきたという告発にあります。

松島氏は、形質人類学者たちが「日本人の起源」や「民族の科学的研究」を名目に、琉球国時代の墓を暴き、遺骨を盗掘・収集してきた歴史を丹念に追います。そこで遺骨は、祖先や人格を持つ存在ではなく、分類・比較・展示・研究のための「資料」に還元されました。琉球人は研究対象であって、研究主体には決してなり得ませんでした。このとき学問は、暴力の後追いではなく、暴力そのものの一部として作動していたのです。

松島氏はこれを「学知の帝国主義」と名づけます。軍隊や行政だけでなく、大学や学会もまた、帝国の支配装置だったという位置づけです。重要なのは、問題を戦前の特殊な過ちに限定していない点です。松島氏は戦後においても、琉球人遺骨の返還が拒まれ続けてきた現実を厳しく検証します。

京都大学や日本人類学会、沖縄県教育委員会などが「学術研究の自由」「貴重な研究資料」「科学的価値」という言葉を盾に返還を拒否する論理を批判的に解剖します。その裏側で維持されてきたのは、琉球人を日本国家に従属する存在として位置づける植民地主義的秩序にほかなりません。学知は反省したふりをしながら、構造としてはほとんど変わっていないのです。

さらに松島氏は、伊波普猷のような琉球出身の知識人も、無自覚のうちに帝国的学知と共犯関係を結んでしまったことを指摘します。沖縄文化を可視化した功績の一方で、日琉同祖論や日本語中心主義を通じて同化政策を補強する役割も果たしてしまった。この事実は、被支配側が学知を獲得すること自体が、必ずしも解放につながらず、帝国の論理を内部から再生産してしまう危険性を浮き彫りにします。

遺骨返還運動や国連先住民族機関への訴えを通じて、松島氏はこう主張します。知と権力の関係を根本から組み替える脱植民地化の実践であると。学問が「研究のため」に奪ったものを返すことは、学問の正当性そのものを問い返す行為なのです。この書物は、沖縄を語る本である以上に、日本の学問が誰の犠牲の上に成立してきたのかを問う、日本の人文社会科学全体に対するラディカルな自己批判の書だと言えるでしょう。

天皇制も日米安保も日本人に返上する

また、こうした支配は学知の領域にとどまりません。宗教的コスモロジーの転覆というレベルでも、植民地主義は深く浸透しました。たとえば首里城の龍柱は、装飾ではありません。琉球の王権祭祀と空間構成の中で、龍は海と地下、祖先と来訪神、死者と生者を媒介する存在として機能し、その向きは祈りの方向であり、主権の配置そのものでした。それが改変されるということは、宗教的世界像全体が再プログラムされることを意味します。どの存在に祈りが立ち上がり、誰がこの場所を守るのか、どこから力が来るのか——宇宙論的方向づけそのものが変えられたのです。

さらに、沖振法(沖縄振興法)を見てみましょう。この法律は「格差是正」や「地域振興」を名目に制定されてきましたが、沖縄における主権・軍事・土地・身体の非対称性を一切問い直しません。むしろその非対称性を前提として引き受け、「補填」や「代償」を配分する制度として設計されています。この「前提を問わず、結果だけを処理する」構造こそが、被略奪階級を再生産する規範的枠組みです。

被略奪階級とは、土地・労働・身体・時間が、他者の決定によって先に差し出され、その後に「補償」や「振興」という形で一部が戻される位置に固定された人びとです。沖振法のロジックは、基地が存在し、安全保障上「必要」であるという前提を unquestioned のままにし、そこから生じる不利益だけを財政的に調整しようとします。ここに欠落しているのは、「なぜ沖縄がその必要を引き受けるのか」という根本的な問いです。

最後に、宮古・八重山の避難計画について触れておきます。これは防災や有事対応という表層的な問題ではありません、セトラーコロニアリズムの統治技法の反復です。計画の主語は「この島で生き続ける住民」ではなく、「有事になったときに速やかに移動させうる人口単位」です。

人びとは、土地に根差した生活世界の担い手ではなく、輸送・収容・再配置の対象として把握されます。住民保護の名の下に、「この土地から人を剥がしても構わない」という主権判断を平時から制度化する——それは、土地との固有の関係を解除する試みにほかなりません。

ここまで見てきたことを総括すると、必然的に一つの結論に至ります。天皇制は、徹頭徹尾、日本人の日本人による日本人のための制度です。琉球はその外部にあり、強制的に接続されたに過ぎません。琉球人が天皇制の形成に関与したことは一度もありません。したがって、琉球人は天皇制に対して責任を負う必要はありません。琉球人は、天皇制を日本に返上する必要があります。

同じことが日米安全保障体制にも当てはまります。日米安保もまた、日本人の日本人による日本人のための制度です。沖縄の基地がその中核を成しているからといって、沖縄がその主体だったことはありません。決断はせず、暴力は引き受けず、しかしその利益は享受する——この「被らない主体」を可能にするために、沖縄は要石として固定されてきました。だからこそ、私は改めてこう言います。天皇制も日米安保も日本人に返上しましょう。

沖縄が求めてきたのは、同一化ではありません。異なる死者との関係を取り戻し、責任が正しく割り当てられた世界です。徴兵忌避、遺骨返還、祭祀の回復、そして時間と空間の再構成——これらはすべて、天皇制と日米安保が編成してきた秩序からの離脱の実践であり、別の生の可能性を拓く試みでした。「昭和100年」を沖縄から考えるとは、日本が先送りにし続けてきた問い——責任は誰のものか——を、もう誤魔化せなくすることです。そのとき初めて、私たちは異なるままに、しかし真に誠実に関係を結び直すことができるでしょう。ご清聴、ありがとうございました。

*本稿は「沖縄・安保・天皇制を問う4.28ー29連続行動 4.28沖縄デー集会」における講演を、講師の米須さんによってリライトされたものです(2026年4月28日 於文京区民センター)

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