日本ナショナリズム研究会:第2部
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その8
伊藤晃
日露戦争とその戦後
日露戦争
前回お話ししたとおり、日清戦争で、日本は世界の帝国主義状況、日本が万邦に対峙するというより万邦が対峙しあう状況を、東アジアに引き入れることを、はからずも主導することになりました。つまり列強による中国分割の開始です。三国干渉もそこに生じた事件でした。
ロシアの満州進出は本格化し、朝鮮にも手を延ばしてきます。これは日本にとって直接的な脅威で、朝鮮を失えば中国への途も困難になる。ロシアとの戦いは最大級の冒険ですが、万邦に対峙する国としてふるまい続けようとするかぎり、引くに引けない戦争でありました。
日露開戦は1904年ですが、その前1901年に義和団蜂起から始まる北清事変。列強こぞって出兵しますが、日本は東アジア最強の軍事大国の面目とばかり最大の兵力を送りこむ。一方のロシアは軍を満州に止めたまま引き揚げない。翌02年には日本は英国と同盟を結ぶ。19世紀の世界的帝国主義状況の最大要素は英露対立、その焦点が西から東へ移って来て、中国が大きな舞台になっている。そこに日本が英国派の立場で、当事者の一員に加わることになるわけです。
そして日露開戦。戦争の経過は省略しますが、日本は英国(英米)派として戦い、辛うじて勝ちます。まず僅差の判定勝ち。列強としてのふるまいを注視されている日本は、国際法に外れる行為もさして伝えられていないようで、行儀よく戦います。
講和のポーツマス会議、アメリカが仲介役を引き受ける。日本は遼東半島と南満州鉄道、南樺太を得る。償金はなし。獲物が少なかったと国民は不満で、だから後述の日比谷事件も起きるのですが、これは日本政府が自分の方の限界をよくわかっていたのと、ロシアの方は、個々のラウンドでは日本にゆずっても、全体としては負けたと思っていなかったからです。
しかしともかく日本は勝った。その要因は第一に米・英の支援、財政的にも、講和の仲介など外交的にも。第二にロシアの国内事情、戦中に革命騒ぎが起きている。日本側の事情としては、国民が大体この戦争を支持し、負担に耐えたことと、国家指導集団が日本の実力の限界を知って興和を急いだこと。日本は始めから「作戦終末点」を奉天(瀋陽)と定め、ここまで押したところで講和が成るように外交(米を仲介として引き出す)に努めました。軍自体がそうであった。満州派遣軍参謀長の児玉源太郎が戦争たけなわの現地を一時離れて講和促進を催促するために東京に帰ってきたほどです。実際奉天会戦で辛勝したあと、日本軍は大砲の弾の補給もままならなかったといいます。
この戦争で注目を要することをいくつか。
まず日本は戦争の結果、朝鮮の支配権を列強から認められました。1905年の桂・タクト協定は、米が日本の朝鮮における、日本が米のフィリピンにおける、それぞれの支配を認めあうといういう趣旨。日本は英とも、戦後露とも、似たような秘密協定を結びます。日本は世界帝国主義状況のなかでの東アジアの主役の一つであることを列国から認められたわけです(日本の朝鮮併合は1910年)。「万邦に対峙する」国家目標が達成に近づいたかにみえる。しかしそこにいくつもの矛盾が発生してきたことが重要です。
日本は東アジア界隈では、列強の中で最大の軍事力をふるい得る国だから、一流帝国主義国です。しかし全世界的に見れば経済力はまだ貧弱だし、列強の中では二流です。東アジアで独自に動いて何かを得たとしても、世界にそれを認めさせるためには有力国の支持が必要。日本は英米派の一員になることに解決を見出します。ところが戦後日米間に不和が発生する。アメリカが日本の満州独占行動に不満だったからです。実はアメリカは、中国分割で一歩出遅れ、それを取り返す第一歩の入口にやはり満州を考えていました。日本との共同の進出を考えるが、独自行動に固執する日本が応じない。当然米側は不満です。そこで矛盾というのは、軍事力をもって大陸に独自に進出することと、その世界的保障として米国と協調することとの矛盾、これは結局、第二次大戦での日米戦争を引き出す遠因になるのです。
第二に、日本の勝利は欧米列強の支配下にある多くの植民地国で「民族の覚醒」の引金になったといわれる。たしかにそういうことはあり、インドのネルーなども胸を躍らせたという。けれどもインドやトルコなど遠隔の地ならともかく、日本の勝利が日本の支配の強化を意味する朝鮮や中国では、この覚醒は急速に日本の進出に対抗する民族のエネルギーの覚醒に転じていったことを忘れるわけにはいきません。帝国日本の雄飛はその一歩ごとに近隣諸民族との確執を強めるわけです。
第三。列強の一つになった日本の大問題は、一流の帝国主義国は軍事力だけでなく、政治・外交力も経済力も一流でなければならないということ。ことに経済力の面で産業力の飛躍、資本主義経済の高度化は日本にとって切実に必要です。しかしそうかといって軍事力の一層の強化の手を抜くこともできない。昔からの富国と強兵との矛盾がより高い水準で現れてくるのです。戦時の経済的負担への国民的忍耐の継続に期待することも困難でした。戦後軍事力強化の第一着手、1912年の陸軍二箇師団(朝鮮支配に当てるため)は世論の大反発を食い、いわゆる第一次憲政擁護運動、桂太郎内閣の倒壊を招きました。小経営勢力の減税運動など負担軽減要求の空気に軍閥・藩閥横暴への反感が重なったのです。負担軽減要求の空気を言論界で表現したのは『東洋経済新報』(1895年創刊)の自由主義的論調で、財政上の軍事偏重反対はこの雑誌の基調になります。
日露戦後
国民的空気はたしかに変わっていたのです。戦争勝利の喜びが帝国雄飛への誇り、輝ける日本軍の総帥天皇の「国民の天皇」化への前進につながったことは事実、しかしもともと国民の戦争支持には受動的な面もありました。国家は国民を煽り、負担に耐えさせるため、戦勝で約束される広大な領土、償金への期待を国民にかき立てた。さきほど述べたような国力への冷厳な判断を国民とともにしていない。有頂天になった国民は実際の獲物の小ささにおどろく。不満が一気に爆発して、都市暴動さえ引き起きしました。日比谷事件などと呼ばれるものです。まして、戦時の緊張がつづくわけはない。国民の気分は変わるのです。このことについて述べるまえにあと2点。
その第一。国民が総じて熱狂したそのなかに、実は、万邦に対峙するという国家目標、この戦争の大目標に対して、日清戦争では見られなかったような、根本的異議を公然と唱える集団が現れていたことです。平民社の非戦運動がそれで、これは皆さんもご承知でしょうから、詳しい説明は省きます。しかしいくつかの点を言います。
平民主義・社会主義・平和主義(自由・平等・博愛)をかかげ、正義・人道・平和の立場から戦争に反対したこの運動は、欧米の普遍的価値をよりどころとして生じたもので、国民社会の深いところに根ざしたものとは言いきれないでしょう。むしろこの戦争での多数人民の意志にはっきり対立したもので、ポピュラー性をもつには至らなかった。しかし知識層の一部に共感する空気がありました。
もともと武士的知識層には、国家指導集団主流に反対する西郷・板垣派に共鳴する流れがあり、それが自由民権運動の頭部をも形成した、と前に話しましたが、民権運動消滅後にもこの反対派的気分は残っています。前に申しました徳富蘆花的気分で、それが平民社への同情的な空気にもつながった、とは言えるでしょう。しかし蘆花たちは明治維新と高らかな明るい気持ちで共感し、明治国家の主流は本来自分たちだったはずだと思っていたわけで、平民社の思想的意味は、これと一線を画したところにあった、というべきでしょう。
もう一つ、日露戦争は世界戦争史のなかで見ると、20世紀の戦争の先駆けとしての意味を持っていたと言えそうです。まずこの戦争はとくに日本側において長期の消耗戦、総力戦でした。戦力は経済力、国民の精神動員の如何と直結していることが明白でした。つぎにこの戦争は、運動戦(war of maneuver)と陣地戦(war of position)との関係で示唆的です。ことに旅順の攻防戦で、歩兵の銃剣突撃主体という19世紀的運動戦思想で攻撃する日本に対して、要塞を固めて機関銃を多用して突撃を食い止めるロシア軍は、陣地戦の新しい型を示したものです。ついでに言いますと、司馬遼太郎は小説『坂の上の雲』のなかで、この攻防での日本側の指揮者乃木希典の凡将ぶりを強く批判します。突撃部隊が全滅しても懲りることなく同じ戦法をくり返し、多くの死者を出したと。これはその通りだが、一面乃木だけが愚かなのかどうか。10年後の第一次大戦でも、同じことが、しかも両軍によって互いに行われて膨大な死者を出し、結局両軍とも塹壕にこもった陣地戦が長期に続くことになるのです(この戦争での戦車の登場は陣地戦での対峙の行きづまり打開をはかるなかでのものであった)。つまり武器や用兵の新しいものから具体的戦術方式を編み出す点で軍人にも保守主義者は多いものだ、ということなのでしょう。
いま述べてきたことは、消耗戦にせよ戦争方式にせよ、日露戦争での現れは予兆であって、第一次大戦ではっきり現実化します。日本は第一次大戦をよく観察・研究することによって日露戦争の経験から本当に学ぶことができたはずでした。ところがいずれお話しするように、日本は第一次大戦には火事場泥棒的に片すみで参加はしましたが、ヨーロッパの主戦場での実地体験がなく、従ってこの戦争の理解もないなかで、そこで第二次大戦の段階になっても日露戦争での「勝利体験」が戦争のイメージとして頭にこびりついていたようです。いずれこの時代にまで話が進んだとき、このこともくわしく考えてみましょう。
国家政策破綻の兆候
日露戦後社会に拡がっていった人びとの気のゆるみ、これに対して国家はどうしたのか。あとに残しておいたこの問題につき、ここでくわしく述べます。
日本国家から見て国民の気のゆるみは大変憂うべきことでした。1908年に天皇の名で出された「戊申詔書」がそれをものがたっています。
「詔書」が言うには、日露戦後の国運をさらに発展させて列国に伍し、世界文明の恵みを受けるべきときである。このときに当たり、発展の条件として人心の弛緩を自ら戒め、油断なく精神的緊張を持続させなければならぬ。「勤倹自彊」、信義による社会的結合の強化。警戒されたのはことに地方社会の動揺、「思想の悪化」でした。ここに日本国家・社会の根源的基礎を農村・農民に見るナショナリズムがあります。
農村の動揺・危機が強く意識されているのです。その農村には、戦争の負担のしわよせから来る担税力の低下、生産力の停滞が目立っている(まだ近代産業発展の途上で、富の生産、従って租税の多くを農村に頼っている時代です)。また村の有力者層主導の伝統的小世界に亀裂が走り、「淳風美俗」が衰えている。これらを強い精神主義で挽回したい。戊申詔書の背景はこうしたことです。
戊申詔書に応じて展開されたのが「地方改良運度」、地方社会立て直しです。まず町村財政難解決のための無駄排除、合理化。方策として部落割拠克服のための町村広域化、その一環として神社統合があります。生活の合理化のため宗教行事など整理し、国の祝祭日に合わせる(これらは当然軋みが出ます)。農会(農事改良の指導組織)や産業組合(戦後の農協の前身)なども使って農業生産力向上、農家経営合理化、こうして小農経営の安定・向上をはかる。このとき地主制の重圧には手を着けないで、戊申詔書をよりどころとする精神主義・勤倹力行が説かれる。こうした目的に役立てるために伝統的な年令集団、若者組が青年団に組みかえられていくのもこのころです。また二宮尊徳の思想による「報徳会」なども活気づく。
社会全体に拡がる思想悪化に対しては強権も振われます。1911年「大逆事件」を作り出したのはその頂点です。さきに述べたように、社会主義運動は日露戦争を契機に国家目的に正面から対立する立場に立つに至ったのですが、しかし眼の前の官憲に対する反発は強くとも、天皇制国家に正面から敵対する自覚がはっきりしていたとはまだ言い切れない。これに対して国家側にはその自覚がはっきりしてあり、社会主義者達を「天皇の謀叛人」、「国賊」に仕立て上げて彼らの一掃をはかった。根底的な予防反革命です。これはさしあたり大成功をおさめた。12人が直接殺されたが、それだけはない。運動全体が一時まったく萎縮しました。そして彼ら、「非国民」たる「主義者」群と「多数人民」との通路が絶たれます。国民社会から疎外された彼らは、ただ内面の誇りを支えに、自分たちを容れないこの社会が遠からず破綻する必然性にあることを宣告するだけしかできない少数思想集団になります。「孤高」といえばきこえはよいが、「主義者」風の目立つ奇矯な格好でことさらに社会との距離を誇示するような人もある。ただでさえ困難だったポピュラー性の獲得、これは第二次世界大戦が終わるまで、社会主義運動の難題として残ります。人びとのあいだでの実践的な変革が自分たちの観念のなかでの変革で代替される傾向を、これからあとにも私は何回かくり返して指摘することになるでしょう。
なお、天皇制国家は他方では、天皇の恩恵、仁慈を誇示することももちろんやっている。1911年、貧民対象の医療保護をうたう恩賜財団済生会の設立は、この頃におけるその一例です。
近代化への批判
さて、国家の側から見て国民の心の緊張をまだまだゆるめてはならぬと思うのは当然です。しかし国民の側からすればそれにも限度があります。それに列強の仲間に加わるには経済力同様、国民の文化水準も格段に高めなければならない。そこでは社会に自由と解放の要求が高まるのをむやみに押さえつけるわけにもいかない。国家の意向を貫くことはだんだん困難になります。
夏目漱石が彼の死(1916年)の少し前、国民の気分をよく表したことばを述べています(講演「私の個人主義」)。国家は大切だが、人は年中国家のことを考えているわけにもいかない。別にいま国家が危ういというのでもなし……。「戦争で緊張しつづけてきたのだ。少しは休ませてくれよ」というところでしょう。
この時期、自己内面の自由、自我、個の解放といった新しい価値追求の主張が眼につくようになります。それを代表する雑誌『白樺』の創刊は1910年、同じころ与謝野鉄幹・晶子が中心の文芸誌『明星』のロマンティシズムも全盛期を迎える。平塚らいてうが中心の雑誌『青鞜』創刊も1910年。女性が天から与えられた才能を思うように伸ばしたい、それが閉ざされがちな現社会の状況に抗議する、という情熱的な主張。
私は福田英子がはじめた社会主義雑誌『世界夫人』(1907年創刊)にも注目したい。われわれの立場は世の良妻賢母、成功者としての女性の声を代表することでなく、世の「堕落夫人、失敗夫人』の叫びを表現することだという。明治以降、新しい社会・文明の中に新しい形で、女性は自己の否定・敗北を見出さねばならない。この状況を捉えようという立場でしょう。福田英子はそのために女性の「絶対的解放」、「絶対的自由」を主張する、と言った。この「絶対的」の意味はなんだろうか。明確な説明がありませんが、「絶対的」だから「相対的」ではないのです。ひょっとしたら、ブルジョア革命に伴う自由や、あるいは社会主義革命に伴う階級的解放に付随する女性解放でなく、階級的支配と並んで、それと別の歴史的領域として人類史に存在する男・女の支配・従属関係の打破ということがチラリと福田英子の頭をかすめたか。まあ多分私の思いすごしだろう。しかしこの問題は忘れないでまた思い出してみたいと思います。
明治以降の近代化の内面についての自己批判も注目されます。よく知られた夏目漱石の、「開化」は外からの刺激に動かされた「外発的開化」に止まらず、内からの要求による「内発的開化」でなければならない、という発言(「現代日本の開化」1911年)。森鴎外には、政府が大学の外国人御雇教師を解傭しつつある状況を見て、欧米学術輸入が進んだといってもまだ表面的、欧米学術成立の文化的社会的基盤を学ぶのはまだこれからだ、政府方針は性急すぎはしないか、という発言(「洋学の盛衰を論ず」1902年)。
二葉亭四迷は、明治以降の文学は西洋の模倣はしたが、わが国民社会の現実に立って人生・社会の真実・実相にふれることは弱い、現象を追うだけで人生内面の真実にふれることが弱い、という(「分断を警醒す」1908年、など)。二葉亭四迷は言文一致について、人びとが普通に使う通俗語を洗練し、これで書いて文章語となるようにしたいと(「余が言文一致の由来」1906年、など)。私は、これは国民語としての日本語の形成について重要な発言だと思います。
石川啄木は、明治末日本社会を批判して、青年の自我の要求が国家・社会・既成道徳の重圧の中で、主観的な自己中心主義に流れているのではないかという(「時代閉塞の現状」1910年)。文学の状況にたしかにそういうことがあります。ずっとのち、第二次大戦後に文芸批評家中村光夫は「風俗小説論」(1950年)で次のように言いました。日本文学は明治も深まった時期に、本当の自我・個を求める人間を写実的にありのままに描くという意識にめざめた。それは西洋自然主義文学の影響でもあるが、そのとき日本文学との間にズレが生じた。西洋では広い社会の視点から人間なるものの生態を見、その本質的・典型的なものを引き出し、これを理想化しないで写実的に描くことであったはずのものが、日本では縮小され、いまここにいる人間をありのままに描くことになる。そのありのまま性を貫けるのは、自分にとってまちがいのない自分自身の姿なのであって、ここに近代日本独自の「私小説」の世界が展開されることになるのだと。社会から自己への閉じこもり、ここに石川啄木の指摘に通ずるものがあります。
農本主義
ここで戊申詔書に戻って、これが明治末年の社会状況のなかで受けとられるときどんな考えが出てくるかを見ておくことにします。戊申詔書は日本国家存立の根本的基礎を農業・農村においていたといえますが、そうした考えを農本主義と呼んでおきましょう。取り上げるのはそのいくつかの例です。それらはみな小農経営の安定・発展を農村興隆の姿とするものです。頭においておく必要があるのは、この時期、寄生地主制、ことに高額小作料による小作人収奪が小農発展の大きな障害であるとはっきりしつつあったことです。
まず横井時敬という人、東大教授で当時農村問題の最高権威と目されていました。この人はもともと小農経営における生産力増大を農業技術研究を通じて考えていたようですが、これが地主制に阻まれて効果をあげないとき、地主制に手をつけるより、伝統的な労働集約的農業を戊申詔書の精神主義的方向、小農の勤倹力行で維持するという考えを強めた。うしろ向きに退行したというべきでしょう。ここから、目立ってきた資本主義・都市文化の農村侵入にも強く反発する。保守的な反資本主義的農本主義を代表する人になりました。
つぎにみなさん御存知の柳田国男。若いころ農商務省官僚。資本主義が発展し、農村と農業をも変化させるとき、横井時敬のように反資本主義・反都会に走って抵抗するのでなく、変化に前向きに対応して小農の利に転化させることで小農自立化を考えよ、と言った。従来の小農社会に、保存すべき理想やまして日本の宿命を見ることに批判的、戊申詔書に反対するのではないが、その精神主義に沿ってものを考えるのではない。貧しいことに耐えるのでなく、農民はなぜ貧しいか、の問いを農民自ら発すべきだ。寄生地主制に正面から反対はしないが(しかしその近代化としての小作料金納化は主張している)、国家の立場からは小地主・小自作農主力が適当で、生産力と社会安定の両面からその発展を考えよ、という。地方改良の利をいかにして耕作農民の利に転化させるべきか。貨幣経済進展のなかでは借金をも道徳主義的にマイナスにとらえるのでなく、積極的に金を借り、経営の発展をもたらすべきだ。およそ近代的経営というものに必須の信用機能のことを言っているわけです。この点で柳田は、災害など不時の場合の金の融通を考えるだけの報徳社、二宮尊徳思想と論争しています。
第二次大戦後の農地改革につながる小作制度改革を考える流れが1920年前後活発になり、農商務省(のちの農林省)農政局もその一拠点でしたが、柳田も広く見てその流れのなかにあった、というべきでしょう。
横井と柳田と、この2人の思想は、資本主義的世界のなかの日本が国家の基礎たるべき農業をどう発展させるべきか、小農の歴史的生命性を新しい現実にどう適応させるか、同じくナショナリズムですが、うしろ向きと前向きとの違いだったといえるでしょう。柳田がのちに有力開拓者になる民俗学もそれに関連していると私は思います。民俗学が農村の旧慣旧習を採集・研究したのは、新しい要素の取り入れの必要に直面した農民たちが、それに受動的に流されるのでなく、自分たちの昔からのやり方と比較検討することで、新しいやり方の採用における自主的判断力を養って対応する、その助けになれるだろう、こう考えたことが動機、少なくとも一つの動機だったのだろう、と私は思うのです。その意味で民俗学の保守主義は、柳田にしてみれば、社会が進歩に適応するための方法論というべきものだったのではないでしょうか。
つぎは河上肇。この人はこれからこの話のあちこちに出てきますが、この人をマルクス研究家、あるいはマルクス主義者としてみている人が多いと思います。ある時期からたしかにそうですが、もともとはむしろ国家主義者、それもかなり醇乎としたそれだったと感じられます。ここで取り上げる『日本尊農論』(1904年)でもそうで、しかも掛け値なしの農本主義の立場です。この本で彼は言う。いまの世界経済の中では、国際分業の一端を担い、日本に向かないものは輸入すればよいというのではななく、一国で自足しうる一貫した生産体制が必要、ことに国の基たる農を重んじ、ここに国民が自らうちなる力を養って自立するべきだ。いくら外に勢力を張っても内が虚では困るのだと。こんにちある人びとが戦時を考えてでしょうが食料安保ということを言う、それと同じことを考えていたのようです。しかも農民は国への忠誠、強兵、国民体力、人口増大を支える。農業を、商工立国の視点などからでなく、それ自体として尊ぶべきだと。ここには横井時敬にも通ずるある種の反資本主義がありますが、それが河上の場合はマルクス学への関心の微かな道になったのだったかもしれません。
最後に横田英夫。これは初期農民運動の有力指導者の一人になる人ですが、次のような考えを運動思想の根底に持っていた。日本は古来、国としての健全性の基礎を農におく農業立国の国、健全な国民の中心は堅実、剛毅、独立、忠直、素朴な自作農、神が創り祖先が開いたこの土地がわが所有する土地だという小自作農の土地愛が国の基でなければならない。皇室を中心として農民の安分知足(分に安じ足るを知る)が保たれているとき、西洋資本主義由来の階級闘争などわが国に侵入しはしないのだ。ところが地主制の拡大、農村衰退が自作小農を劣敗者の地位におき、滅亡させている。国家の立場から小作農が土地を取り戻す運動として農民運動を起こさなければならないのだ。こうして横田はやがて「尊皇愛国の大義を奉ず」る農民運動を起こすことになりました。のちにふれることですが、横田ほどでなくても、内にこうした天皇主義を秘めている農民運動は案外あったと思われます。こうした国家主義的農民運動で小農自立をめざす、これも戊申詔書への予想されざる応答であった、と言えるのかもしれません。
2025年6月にスタートした「日本ナショナリズム研究会」第8回(2026.02.20 於文京区民センター)の、伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。
