「戊申詔書」

日露戦争(1904年2月〜05年9月)において勝利し列強と並ぶ国際的地位は得たものの、国内は、緊張のほどけた後の弛緩と退廃に流され、自由主義、個人主義、社会主義などが台頭し、それまで表に出せなかった不平や反感が露骨化して一種の社会不安を醸していた。日比谷焼き討ち事件や国家体制への批判を込めた労働運動・社会主義運動が台頭する社会情勢の変化の中で、「教育勅語」以降の新たな段階にふさわしい人的基盤を国家権力によって創出しなければならないという認識のもとで、第2次桂太郎内閣(1908年〜)は、天皇の権威により新たな詔書を発して、その求める人間像を提示しようとした。これが戊申詔書である。

*戦後には、1948年6月19日、第2回国会において、衆議院本会議で「教育勅語等排除に関する決議」、参議銀本会議で「教育勅語等の失効確認に関する決議」が行われ、「教育勅語」と合わせて「戊申詔書」「国民精神作興ニ関スル詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」は廃止され、効力を失っていると決議された。

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戊申詔書(1908(明治41)年10月13日)

朕惟フニ方今人文日ニ就リ月ニ將ミ東西相倚リ彼此相済シ以テ其ノ福利ヲ共ニス朕ハ爰ニ益々國交ヲ修メ友義ヲ惇シ列國ト與ニ永ク其ノ慶ニ頼ラムコトヲ期ス顧ミルニ日進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ惠澤ヲ共ニセムトスル固ヨリ内國運ノ發展ニ須ツ戦後日尚浅ク庶政益々更張ヲ要ス宜ク上下心ヲ一ニシ忠實業ニ服シ勤儉産ヲ治メ惟レ信惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去り實ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ
抑々我力神紳聖ナル祖宗ノ遣訓ト我力光輝アル國史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ寔ニ克ク恪守シ淬礦ノ誠ヲ諭サハ國運發展ノ本近ク斯ニ在リ朕ハ方今ノ世局ニ處シ我力忠良ナル臣民ノ協翼ニ倚藉シテ維新ノ皇猷ヲ恢弘シ祖宗ノ威徳ヲ對揚セムコトヲ庶幾フ爾臣民其レ克ク朕力旨ヲ體セヨ

御名御璽
明治四十一年十月十三日
内閣総理大臣 侯爵 桂 太郎

【現代語訳】
わたしは、現在、文明は日進月歩で進展し、東洋西洋は互いに協力してその成果を共にしていると思っている。この時に益々国交を盛んにして、友好を深め、欧州列強と手を携えて永くその慶びをともにしたいと願っている。顧みると、日進月歩の世界的趨勢により、文化の恩恵をともに享受するためには、もとより日本国内の発展を待たなければならない。日露戦争終結からまだ日が浅く、政治全般についていっそう引き締める必要がある。上下ともに心をひとつにし、忠実に職業に励み、勤勉と節約によって家財を治め、常に信義を守り、人情厚く日々の生活を送り、虚飾を捨て実質な態度を採り、荒んだ生活にならないようにたがいに戒め、自らも常に引き締めていかねばならない。我が神聖なる皇祖の遺訓とその歴史の事跡は、太陽や星のように光り輝いている。これをよく守り、自身も研鑽を尽くせば、日本の発展は早々に達成できるであろう。わたしは、現在の状況に対応するに際し、忠良な臣民の協力を頼みにして、明治維新の大業を拡張し、先祖の威徳をさらに高めることを切に願っている。臣民は皆、私の願いを理解して行動せよ。

*現代語訳は、小野雅章『教育勅語と御真影』(講談社現代新書)pp.101-102より

 

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