茶番として繰り返される「昭和100年」:「明治百年」と比して

鉄火場宏

この4月29日、政府主催の「昭和100年記念式典」が日本武道館で行われる。

新たな天皇の即位=改元を起点とする100年を記念する。つまり、この国が天皇を中心とした国家であり、それは時間・時代までも画するということを示そうという作為を込めた、国のイベントである。

▪️「明治百年」とそれへの批判
1968年に行われた「明治百年記念式典」がその先駆けだ。

今回の「昭和100年」とは、式典の「目的」の醜悪さは同じだが、歴史的な意味合いは少し違っている。政府主催の「明治百年記念式典」は、明治改元(1868年)から起算した100年目に行われ、式典開催日も改元の日(10月23日:旧暦9月8日)で、もちろん天皇の時間を基軸としたものだが、「明治維新」という社会・国家の大変革(ある意味日本国家の始まり)から100年の区切りという意識が当然にも存在していた。そこでは100年前に生まれた天皇制国家そのものも対象にした、振り返り・評価・検討がなされる契機となっていたのである。そうした「明治」再評価の思想的文化的動きは、1960年における日米安保体制「改定」という大騒動も受けて、開始されていたのである。

当時の国家の有り様、社会の有り様を考える・検証する上で、100年前に遡ることは必然であった。安保改定を受けて、新たな戦争(米国の戦争に巻き込まれる)への不安・危機感から、敗戦に帰結した「先の戦争」をもたらした原因究明を含む批判的検証も盛んに行われ出す。満州事変から太平洋戦争敗戦までを「15年戦争」と呼ぶのもこの頃からである。

こうした動きに抗するかのように、政府は、「明治百年」に当たって、100年の日本国家の軌跡(歴史)を、批判的検証をすることなく、むしろ侵略戦争や植民地支配といった負の側面を完全に糊塗して以下のように自画自賛して、現在の自らを完全に肯定してみせた。

「明治という時期を画して封建制度から脱却し、山積する内政外交上の諸問題に直面しながら国家百年の大計に立って諸制度の改革を断行し、近代国家への方向を確立した偉業を高く評価し」「その改革と近代化の原動力となった先人の国民的自覚と聡明と驚くべき勇気と努力、そしてその所産である事績に感謝し」、おざなりに、「また、過去の過ちを謙虚に反省し」つつ、「百年間における他に類例を見ない発展と現在の繁栄を評価しながらも、他面、高度の物質文明が自然や人間性を荒廃させている現実を憂慮して、その是正の必要性を痛感し、次の世代をになう青少年の物心両面のいっそうの努力と精進に期待」する、と。そして「この百年の経験と教訓を現代に生かし、国際的視野に立って新世紀への歩みを確固としたものにする決意を明らかにする」のが「明治百年を記念する基本態度」(総理府「明治百年 記念祝典・行事等のあらまし」より)であるとした。

こうした政府の認識・姿勢に対して、「『明治百年祭』は、政府の歴史観を、国家行事を通じて強制する」「戦後民主主義の否定、「科学的歴史学」の成果を無視するもの」、「植民地支配、侵略戦争、戦争責任などの負の歴史を無視・軽視している」、「天皇制と結びついたナショナリズムの再強化である」、「「建国記念の日」(旧紀元節)制定などと連動し、戦前的な国家観の復活につながる」などという批判が当然にも噴出した。

これらの批判は、そのまま、「昭和100年」にも当てはまるものだ。そうした批判・抗議の声は、限りなく上げ続けなければならない。

▪️何が「昭和100年」を特徴づけるのか
先述のように、「明治百年」には「振り返るべき理由」がある。「明治維新」は常に振り返るべき起点であるからだ。ところが「昭和100年」の起点1926年はどうか。「明治百年」の起点「明治維新」のような実質的な時代の画期はない。ただただ形式的な「改元」があるだけである。

昭和が、明治・大正と時代を画すとすれば、1930年代に起こった一連の絶対主義天皇制化であろう。1933年の滝川事件や、それまでは学会の通説でもあった明治憲法の立憲主義的解釈が「国体否定」とされた天皇機関説事件からの「国体明徴声明」。少しでも天皇に批判的な言動が弾圧に晒される時代の様相である。それは1945年の敗戦まで加速化深刻化する。これこそが昭和天皇の昭和100年の前半を画する特徴に他ならない。それは当然にも、対外的には満州事変、上海事変、日中戦争の本格化、太平洋戦争へと繋がっている。2000万人殺戮戦争の最高司令官(大元帥)・昭和天皇、これも「昭和100年」の歴史の中の忘れるべきでない事実である。

さらに付言すれば、1945年2月の近衛の「早期終戦の上奏」に対して昭和天皇が「もう一度戦果を上げてからでないと…」と戦争を継続してからの国内の死者数は、東京大空襲を含む本土への空襲、沖縄地上戦、広島・長崎の原爆の被害者だけでも、70万人から100万人に上る。国内310万人と言われる死者数の内の20〜33%は、明確にこの昭和天皇の決断の遅れが原因である。

▪️茶番として繰り返される「昭和100年」
「昭和100年記念式典」の内閣府による実施要項の「目的」には、「令和8年に昭和元年から起算して満100年を迎えることを記念し、激動と復興の昭和の時代を顧み、将来に思いを致す機会となるよう、(略)、昭和100年記念式典を挙行する」とのみある。

先に紹介した、「明治百年」に比べていたって簡素でそっけないものである。「激動と復興の昭和の時代」--それは、歴史に正面から向き合うことなく、従って、反省もしない、間違ったこともなかったことのように振る舞う、そうした姿勢の継続・繰り返しの「成れの果て」である空虚で奇異な文言である。

「大正100年」が無視されたように、「平成100年」「令和100年」が、行われるかどうか定かではないが、天皇制国家が継続する限り、いずれの「〇〇100年記念式典」であっても、負の責任の糊塗・隠蔽と空疎な自己肯定が繰り返されるばかりであろう。

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