日本ナショナリズム研究会:第2部
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その7
伊藤晃
初期労働運動、初期社会主義運動
初期労働運動
自由民権運動は、明治国民社会が形成されることに当っての対抗関係の最終局面でしたが、それが収束してさらに日清戦争のあと、この国民社会が生み出した対抗・矛盾関係のなかから新たな人民運動と思想が生まれました。自由民権期の争点、「民力休養」は、国が人びとと社会の再生産費用を低く押え、富を強兵と富国で分けあうばあい、富国の立場を主張したものだった、と私は申しましたが、新しい運動は、資本主義の成長を根底にした社会運動、下層の人びとの再生産費用の要求が、政治的社会的権利への要求を伴って自己主張をはじめたもの、ということができるでしょう。それが、国民社会の構成者として政治参加を要求する民権思想をも引きつぎました。
こうした社会運動には、明治期にもくり返される都市部の米騒動、また足尾鉱山の鉱毒問題(被害民の最初の上京請願は1897年)などもありますが、広く展開されたのは労働運動です。繊維産業の女性労働者(当時女工と呼ばれる)の争議などもあったが、著しく社会の関心を引いたのは、高島炭鉱など炭鉱(囚人労働が利用されることも多い)の最悪の労働者状態でした。
当時労働人民はかなり多数にのぼります。都市下層には引きつづく農村からの流出者を含めて貧民(当時細民ともいう)が滞留し、雑業・人足層となります。炭鉱・金属鉱山の労働者、土木建設業の旧型労働者(大工・石工・土工など、ある種の旧型組合組織をもつものもある)など、これらに伍して近代工場の労働者。基幹産業が繊維産業でその主力は女性労働者、マッチ、タバコ、オモチャなど雑工業にも女性が多く働いているから、当時(かなりのちまで)工場労働者というと男工より女工が多い。しかし初期の近代的組織労働運動はそのなかの、最先端と目された部門の男性労働者層から始まるのです。そうした労働者に鉄工(機械工)、活版印刷工、鉄道機関士ががあります。
労働運動期成会
日清戦争後「企業勃興時代」があり、それはストライキ流行時代でもあった。そのなかで1897年に「労働組合期成会」が生まれます。アメリカ帰りの高野房太郎・片山潜らが中心的組織者、資本主義の自由競争が労働者を劣敗者に陥れる危険を警告し「労働は神聖、団結は勢力」をモットーに、組合への結集を呼びかけました。社会的名士で応援するものもありました。アメリカの職能別組合、AFLがモデル、共済・相互扶助にも力を入れ、労働者の相互競争回避は大きな課題でした。工場法制定問題などにも意欲的でした。短期間で数千人の組合員を得ましたが、鉄工(砲兵工廠などの大工場の労働者が多い)の場合も、印刷工の場合も、鉄道の場合(「日本鉄道」に拠点、当時は私営の鉄道会社が多く、「日本鉄道」はいまの東北本線をもっていた)も、各経営の基幹の熟練工が多い。そのころは親方職工といって、多くの弟子・配下を持ち、これらを率いて各工場に入っている人がいますが、そのなかにも組合員は多い。こうした労働者たちの企業横断的な集まりでした。
これら、比較的高賃金を得ている労働者たちですから、労働組合に集まる動機は単純な賃上げばかりではない。しかし労働者というものがおかれている低い社会的地位、社会一般から「下等社会」視されていることへの反発があります。自分たちは日本社会を先導・変革する最先進産業の担い手、資本主義生産の最大の生産力として、資本と対立しながらも、同時に資本と共に国民社会の先端に立つものなのだ、という自負心が意識のなかにあります。そうすると彼らは、国家・民族にとって価値ある存在、自分たちの要求は社会によって当然認められるはずだ、と感ずる。上層労働者の気位は高い。飯を食うにも、「馬方人足の立ち入るような」労働者向けのめし屋ではなく、小料理屋、天ぷら屋やうなぎ屋など、そういうところに入る。
そこから彼らには、「古い、おくれた」社会を見おろす感覚が育ちます。土建方面の旧型労働者、女性、農村などへの蔑視。まだ外国人労働者がどんどん流入してくる時代ではない(社会一般には日清戦争前から「討てや懲らせやチャンチャン坊主」などと人びとが唄いはやす状態に入っているが)から、排外主義は本格化していないとはいえ、次のような事例もあります。
前に述べた条約改正が成ると、外国人の内地流入を拒むことができない。外国人の「内地雑居」は当時の大問題でした。労働運動には、外国資本がなじみのない搾取形態を持ちこむのではないか、という警戒心が出てきますが、それと別に、神戸港で清国労働者排斥の声が挙がったことがあります。仲仕作業などに民度が低く低賃金も平気、品性低劣の清国労働者が入ってくることを警戒せよと。そのころアメリカでは清国人排斥が盛んで、港神戸のことですから、海員などを通じて入ってくるその情報の受け売りだろうと思いますが、実際清国人労働者など来てもいない時分にこんなこともあったのです。
こういうわけで、当時の上層労働者、労働運動呼びかけに応ずるほどの人びとの国家・社会意識、その先導的位置にあるという自己意識には、ナショナリズムの一つの基盤となりうる条件があったといえます。指導者たる高野房太郎・片山潜たちにも濃厚な国家意識がある。労働運動は労働の品位を高め、国家のために高い産業を作り出すのに貢献するはずのものだったのです。その後も、労働運動がナショナリズムをもち、逆にナショナリズムが労働運動にその場を見出す、という関係が、一つの底流として日本の労働運動に流れ、時としてそれが顕在化する。これは労働運動の出発時にその渕源をもっていたわけです。
さて、労働運動は国家・社会のなかに当然位置を認められるはずだと思っていますが、日本国家の方はそう思っていません。むしろ当時のヨーロッパ社会での階級対立の危険性を知って、労働運動圧殺のための一種の予防反革命を策します。1900年の治安警察法制がそれです。この法律、労働運動のみならず、戦前のあらゆる人民運動にとって最大の障害になりますが、その中の第17条がとくに労働運動を対象にしています。労働組合に他人を加入させること、争議行為に他人を誘惑・煽動すること、これらを罰することになっていて、1926年にこの条項が廃止されるまで、いつも発動されていたわけではない(だから労働組合が作られた)が、権力側の奥の手として、労働運動にとって大きな脅威でありつづけました。現に労働組合期成会は、これで望みを失なって1901年に消滅してしまうのです。個別の組合にもこの空気のなかで強圧がかかる。一例を前述の日本鉄道の機関士組合(「日鉄矯正会」と名乗っていた)に見てみます。これには天皇がからんでくる。1901年、東北地方で陸軍の大演習があり、これに臨場するために明治天皇がお召列車で現地へ向かう。ところがちょっとした事故で列車が急停車し、何ごとかと天皇が窓から首を出してのぞいた。そこで「宸襟を煩わせた、恐懼の至り」ということになり、本来会社側に責任ある事故であったのを組合に転嫁し、組合は解散させられてしまうのです。この組合は、もともと、組織計画の首謀者馘首に強硬なストライキで応じて組織を確立した、戦闘的な組合だったのです。
初期社会主義運動
このころ社会主義運動も発足しています。1901年社会民主党結成、安倍磯雄・木下尚江・片山潜らキリスト教の立場の人たちに民権運動の流れの幸徳秋水を含めて6人よる結党。この6人は発起人のつもりだったでしょうが、即日、今述べた治安警察法によって禁止されて拡がることができませんでした。しかしその思想的意味は大きい。明治国民社会に新しく生じた政治的・社会的な矛盾、対抗をとらえる、という意識をはっきり持っていました。国民の無権利・貧困の根源は資本主義にありとし、貧困の打破・労働問題の解決を中心におきました。社会的権利・平等がわれわれの運動の大本、これに対して政治的権利・平等は重要だが末である。だが、経の社会主義に対して民主主義を緯なのであって、こうして人民の全生活をとらえ、「多数人民の休戚(幸と不幸、喜びと悲しみ)」を負ってわが党は生まれたのだ、と宣言するのです。追求する課題として、ここでは順不同に並べますが、軍備全廃、人類平等、平等な参政権・教育権、普通選挙、貴族院廃止、弾圧法令廃止、死刑廃止、生産の公有・社会化、分配の公平、労働の保護、労働者の団結権、階級の打破など。当面現実の課題と人類的理想にかかわることとが並んであげられています。これらを平和的手段、言論の力、立憲制度によって実現するという。
これを見ると、「万邦に対峙する」という国家目標に立つ経済選択の如何、強兵か富国(民力休養)かという自由民権期の対立から一歩進んで、この両選択が軽んじていた人と社会の再生産費用、これを最小限に抑えることに本質的な批判を向ける勢力がようやく現れたことがわかります。富国にも強兵にも賛成しない、これは近代日本に確立されたとみえたナショナリズムへの根底的な批判につながります。そして「多数人民」が国家の主体たることから排除されている、これを批判することは、昔から「多数人民の休戚を負う」ものたることを自認する「一視同仁」の天皇とその国家への根源的批判につながる(まだ現実にはつながってはいないが)もの、そして自由民権運動が民主主義の主体、人民との距離ある自由主義的立憲制の主張に停滞していたことへの批判を含みます(社会民主党は1900年に作られた「普通選挙期成同盟会」と呼応しあっています)。社会民主党は、近代日本国家とその自由主義的反対派がそれぞれ普遍的だとして掲げる「政治的価値」に、社会の底流にある深い亀裂・対立に立つ「社会的事実」を突きつけたものなのです。自由民権派のリーダーからも、こうした「社会的事実」を無視できない人が出てきます。その権威主義的大衆動員主義とでもいえる現われを大井憲太郎に、より真摯な自己転換の態度を田中正造に見ることができると思います。
ところで社会民主党は掲げる運動課題実現の見とおしをどう考えていたか。平和的手段とか言論の力とかいうことですが、そのための運動主体は「多数人民」のなかに作り出されていないのです。さし当たっては目標を旗に大書したに止まる。当時それだけでも大きな意味があり、権力側もそれに大きな脅威を感じたのですが、しかし社会に現実的な足掛かりをもたない知識人集団であることはやはり根本的な弱点で、この運動は社会を変革する現実的な根拠を、ある観念で代替せざるをえなかった。「社会進化の必然」、資本主義経済の進展それ自体が生産の社会化を要求する(その例証が欧米大都市における公営企業、ここに「都市社会主義」があるとされる)など。現実派の片山潜はこの論を代表しますが、急進派傾向の幸徳秋水も、たいした違いはない。「革命は天なり、人力にあらざるなり」と秋水は言いました。
ナショナリズムとの通路
そこで彼らは、われわれの運動は古い構造を体現する旧勢力、専制勢力に対して歴史的進歩を体現しているのだ、歴史がわれわれに味方している。と考えることになります。実際には、19世紀の世界的現実への日本の対応を主導した「進歩勢力」は支配集団の方なのです。前に言ったように、人民運動はその「進歩」の中に生み出された新しい矛盾・対抗をとらえる運動として現れ、社会民主党自体その表現だったわけですが、しかしそうした運動と実際につながること、たとえばつぶれかかっている労働組合を再建することなどは、彼らの手にあまった。社会民主党のリーダーは、思想家として高くても、人民運動の小さな切れ端にでも「しがみつく」という感覚は十分でありませんでした。むしろ先んじて社会主義にめざめた先覚知識人として、苦しむ人民を救うという「志」を持っている。その意味では彼らは旧型の「志士仁人」の一面をもつのです。
だから日本社会の重要面に眼の届かないところがあります。労働問題は先進社会に一般的に拡がっているものだから、これにはめざめたが、それと並んで日本社会に存在する人民的課題、男女の支配従属関係(遅れた立場の女性を救うという意識はあるが)や身分差別問題(被差別部落問題)が上述の運動課題に出てこないのは、そのためでしょう。人民が、またその一部としての自分たちが、直面している社会を変革する運動主体であるためには内面でも克服しなければならないものがここにある、と思っていないということでもあります。彼らが日本を遅れたアジア世界の先導者だと考えていたとすれば、そこに排外主義の芽もあったはずなのです。
人民の現実と結びつかないところに観念のからまわりも生まれました。少しのち、日露戦争後の段階ですが、社会主義運動は左右の両派に分裂して抗争します。右に片山潜や田添鉄二ら、これは「議会政策派」と呼ばれ、左に幸徳秋水や山川均、大杉栄ら青年たち、「直接行動派」と呼ばれる。右の方はあくまで議会を通しての目的実現を主張し、左の方は社会変革のためには労働者の直接行動、その頂点はゼネラル・ストライキですが、これしかないと言う。どちらにしても非現実的、一方では議会に足掛かりの一つも持っているわけではない。他方ではストライキ行動の主体たる組織労働者というものが、そもそも皆無に近い。つまりは「高度な」観念の争いで、しかしこれを通じて、社会的極少数派にすぎない彼らがさらに深く分裂してしまうのです。
社会主義者たちは、近代日本ナショナリズムを批判すべき位置に立ちながら、その現実に接触することが弱かった。ここから、彼らの運動が天皇・「日本国体」へのきびしい批判を欠いていたことも納得できます。片山潜も幸徳秋水も、日本の国体は社会主義の実現を妨げない、という考えをとっています。彼らは、わが目的のために天皇を積極的に利用するという考えはもたないが、天皇制は積極的に進歩を包みこみ、従って自分たちをも包みこむはず、と見ていたとは言えると思います。自分たちは歴史的な進歩を体現するからには、天皇のもとでの近代日本においてもその本来の主流に自分たちがあってよいわけだと、以前に見た徳冨蘆花らと同様に考えていたかもしれません。
しかし国体の側からはけっしてそうは見なかった。近代日本国家の諸現実へのはっきりした反対者であることを正確に見て、厳しく排除してくる。実際社会主義者たちはこのことを、日々、思い知らされていたのです。そして彼らが、やがて、明治国家の運命をかけての戦争、日露戦争に正面から反対した、これへの国家の容赦ない報復として「大逆事件」が仕組まれてきたとき、それを改めて再認識することになります。話がその時期に到達したときにお話しましょう。
山路愛山
ちょっと話を転じて、ここで、日本国体を社会主義実現に生かそうという、社会主義者たちがとらなかった考えを積極的にとった、その代表的な一人を見ておきましょう。これは山路愛山、当時有名なジャーナリストで、特異な史論家としても知られた人ですが、社会主義者グループと互いに批判し合いながらも親しい関係にありました。
山路愛山はつぎのように言います。社会には支配階級と人民(平民)との対立だけでなく、この二者を社会公共の立場からまとめていく国家という要素がある。日本は歴史上この国家の働きが重要であった(天皇の存在のため)。人民の利益を考えるとき、この国家的立場と人民とが結びつくことが大切、国家はこの立場から社会主義を実行する(私的資本主義を統制し、生産を社会化することですが)可能性があり、ここに国家社会主義を考えるべきだ。
山路は同時に積極的な帝国主義者です。こんにち世界の大勢は帝国主義、ここでは国家間の生存競争、適者生存の原理が支配する。人民の福利にとっても大切なのは、自国の力を大ならしめること、このためには国家に人民の活力を結びつけること、そのとき当然国家は人民の利益確保につとめなければならない。日本人に存在する国家主義の能力を生かすべきだ。社会の共同性・まとまり、その上に強い民族一体・国家一致を作り出す能力(山路はここで社会主義者のイニシアティヴを夢想するはずです)。この点で日本は中国とちがうのだ、と愛山は言う。中国は国民に個人的なあるいは家族的な利己主義の性格が強く、従って社会がバラバラで国家の一体性を作る能力が乏しいのだと。こういう日中比較論は、その後日本の言論界にイヤというほど出てきて、一般社会の中国観をも作り出すのですが、愛山はその元祖の一人ともいえるでしょう。
国家的知識人と「社会政策学会」
愛山が期待する日本国家の働きですが、社会問題にかんするこの時期のことを一つ、ふれておきます。国家直接の働きとしては工場法(1911年公布、16年施行、労働者保護法としてごく微温的なもの)がありますが、むしろその周辺に動いた知識人のこと、「社会政策学会」というものについて。
これも当時のドイツへの受動的対応です。19世紀ドイツは先進産業国イギリスを後進国として激しく追う立場、このために国家行政を大いに働かせます。「行政国家」と形容されたりする。その働きの一つに、産業の急成長を妨げる社会問題への対応がありました。イギリスでの階級対立・社会対立を見て、これを繰り返したくないと思う。宰相ビスマルクに、社会主義運動への強圧と社会政策(健康・老令保健など)との二面があった。この社会政策に理論的うらづけを与えようという学者がたくさんいて、彼らが作ったのが「社会政策学会」、社会主義運動への対抗でもあって、「講壇社会主義」などと呼ばれたりします。
日本でもこういうものを、と集まった学者たちが作ったのが1895年、名前も同じものを拝借、日本語にして「社会政策学会」、金井延、桑田熊蔵ら帝大教授を中心として国家的立場から社会政策推進を、とうい知識人が2、300人、世間からはやはり社会主義に対抗する講壇社会主義と見られますが、なかなか手広く社会問題・労働問題を研究、自由放任経済を批判して行政的な対応をはかるための政策提言に当たります。工場法制定問題はその中心活動の一つです。1920年代あたりから活動は目立たなくなりますが、大変長生きの団体で、第二次大戦後まで、ただし学術的な学会としてですが、いまもあるはずです。
こういう、国家政策をめぐって活動する知識人を、私は国家的知識人と呼んで、近代日本知識人の主流をなすものと考えています。明治初年の特徴をなす武士的知識人層がある時期から、(やはり武士層出身が多いとはいえ)高等教育機関(帝国大学がその頂点、それに軍の将校養成学校)卒業者にだんだん交替していくのは、通説の言うとおり。彼らの中核は文武の官僚(アカデミー学者も含む)で、かつての武士的知識人の国家主義的エートスを継承し、明治も深まってからのより高い政治・社会問題への国家的対応で働くのです。
この国家的知識人層は、20世紀に入ってから、世界の状況に押されての日本国家の危機の意識のなかで、亀裂をきたし、左と右に急進的な明治既成国家への批判派を分出(左は学生社会主義運動に顕著、右は軍青年将校層)して、分解していくかにみえたが、基層はやはり動かず、かえって1930年代には左への分出部分の基層への再融合(「転向」と呼ばれる現象の重要部分)さえみられることになります。これらについては、その時代に話が入ったときにくわしく述べるつもりです。
2025年6月にスタートした「日本ナショナリズム研究会」第7回(2026.01.16、於文京区民センター)の、伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。
