ナショナリズム研究 6

日本ナショナリズム研究会:第1期
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その6

伊藤晃

大日本帝国憲法、帝国議会開設、日清戦争

大日本帝国憲法と帝国議会

1889年、大日本帝国憲法が公布されました。これは翌年の帝国議会開設とともに、「万邦に対峙する文明国」の指標、アジアの非文明からの脱却として、立憲国家の形を整えた、そういう国であるという自意識を国民に持たせて、ナショナリズムのより高度の基盤となったものです。

この憲法作成準備のため伊藤博文がヨーロッパに派遣され、プロシァをはじめ諸国の憲法を研究したことは周知のとおりで、「文明国」の指標であるという意味は、この憲法が19世紀ヨーロッパ諸国の立憲国家化への受動的対応であったからです。ところがそこに一つの問題がある。19世紀ヨーロッパの立憲主義への移行は、これがまた、フランス革命への受動的対応であったといってよいのですが、そこにはフランス革命の流れというべき人民勢力の運動と伝統的君主権力との対抗と妥協があり、立憲主義はこうした歴史的内容を持っています。しかし日本は立憲制のこの内容というよりもっぱらその形式を学んだといえるのではないか(こんにちも立憲主義を形式的にとらえる考え方が案外強いのはこの初発と無関係でないのでしょう)。

すなわち、この憲法は欽定憲法ですが、それは当時のヨーロッパにもあったことで問わないとしても、実質的にも人民側からの憲法創設闘争が日本には不在だったのです。自由民権運動にこうしたものの端初が見られたことは以前言いましたが、それは未熟のまま中断されたのでした。

憲法というものを一般的に考えてみると、いくつかの社会・政治勢力が、それぞれの望む社会・国家のあり方をめぐって争い、これを国家の基本法として実現しようとする。これを憲法創設闘争と呼ぶとすると、そこである勢力が勝利して、これが憲法創設勢力として憲法制定過程を主導する(その最後の局面でこの勢力が一般に言う「憲法創設権力」になる)。この憲法創設闘争が、一方が欠けたため存在しないまま、明治国家指導集団が憲法創設勢力になったわけです。

彼らの憲法構想は、ヨーロッパ立憲主義を日本に持ちこむこと(伊藤博文は憲法制定過程での論議のなかで、ヨーロッパ憲法の根幹は君主権力の制限と人民の権利義務の二つだ、と言っています。これが実現された憲法の第1章、第2章に対応する)、ところがそこに自然のこととして現に維新以来存在してきた政治関係が溶け合わせられています(象山の言った「西洋の芸、東洋の道徳」が顔を出す)。天皇に関することに、とりわけそれがはっきり見てとれます。

そこでこの憲法についてまず天皇関係を見ると、第1条に天皇が統治権(主権)者だとあるが、これは純粋に法的概念上のことに止まらない。天皇が主権者たることは「万世一系」に由来するとあります。これは神にさかのぼる一系性というわけですが、むしろ日本国民にとってはじめから疑うべからざる、歴史的な自然・当然性という根拠づけでしょう。伊藤博文の有名な言葉、「天皇は日本国の機軸」」、これは国家・国民のまとまりがそこから流れ出しそこへ帰っていく精神の中心軸、とでも説明すればよいのでしょう。

憲法における天皇の地位

天皇は統治権の総攬者、「大権」の保持者なのですが、専制君主、絶対君主ではありません。権力機構の、ある権限・役割をもった一員です。伊藤博文が言ったとおり、憲法は天皇権力を「憲法の、条規」により制限している。天皇は行政・立法・司法の3権をもつが、行政権は必ず内閣の「輔弼」を受けねばならず、立法権は帝国議会の「協賛」による。司法権は裁判所が代行する。実際天皇は、国家意志の決定・執行過程において自ら発意するものではなかった。国家指導集団の間で意志統一ができてそれが天皇のところへ来る、これを天皇が裁可することで、この多くのわたくしの一致したところがおおやけに転化する、つまり国家意志になる。そして天皇が自らの名でそれを公布することで天下に執行される。だいたいはこんなふうに進むのであって、福沢諭吉が天皇は万機をぶるもの、万機に当たるものにあらずと言った、その通りです。だから天皇は権力機構の意志決定と働きとの統一のかなめであり、つまり天皇を頭とする国家指導集団が国の主権者、天皇はその最高の地位にあるところの一機関なのです。以上のことが国家指導集団の公認のものであることは憲法制定時に伊藤の名で出た解釈書『憲法義解』をみればわかります。

ただ、私たちにとって大切なのは、この天皇はけっして臣下の言うところに黙って従う傀儡かいらいなのではない、ということです。ある案が自分のもとへ来るとき、天皇は却下しない習慣だったとはいえ、主体性をもってこれに臨む。質問したり、感想を述べたり暗示したりするし、それが臣下たちに考慮されることもある。つまり国家意志の決定・執行は天皇を含む国家指導集団の共同作業です。そして天皇は、ことに昭和天皇のばあい、自分が裁可したことの意味、予想される結果についてある認識をもっていました。だから天皇は、決定された国家意志の執行の結果、つまり国家の行為について、国家指導集団と責任を共有しています。しかもその地位からして最高責任者です。そこで、たとえば私たちが天皇の戦争責任を問うというばあい、考えるべきはこのことであって、たんに天皇が何を言い、何を考えたかの個人責任のことではない、と私は思います。国家の行為が責任を問われるとき、当然のこととして天皇は責任を問われるのです。もちろんこれは、憲法第3条、天皇の無答責の条項を越えてなされることで、人民が自らこの憲法の否定に到達したときに完全に果たされるでしょう。この憲法と関係のない外国の被害当事者の権利については言うまでもありません。

もう一つ重要なこと。天皇が裁可した件については、権力集団間に意見の不一致は残らないたてまえになっています。天皇が裁可したからには、権力構成員相互に、みなが天皇に忠誠を誓っている以上みなが服従するに違いないと思いあうわけで、これは権力集団の相互信頼の保障、統一の保障になります。これは天皇が日本国家史上担ってきた役割の継承です。支配集団における天皇への忠誠の意思表示は神の前の誓いのようなもので、相互に背かないことの意志表示にもなる。相互誓約です。時代の移行においては、時代をまたいで天皇の「よさし」(委任)を受けたものが権力を受けつぎ、次代の権力集団として認められ、ここに全支配集団の再融合・再統一がなされる。各時代の支配集団が時代を越えて天皇を相持ちし、受け渡しているわけで、天皇はこうした支配集団の歴史を通じての共有物であることで存続し、働く。天皇あっての支配集団は逆に支配集団あっての天皇です(この天皇の共有が破れ、ある集団の独占となるときの事態を、私たちは話が1930年代に至ったときに見ることになります)。

近代日本においても、天皇と権力集団が作っているこの共同関係は、権力集団また国家官僚群にとって故郷のようなもので、第二次大戦後、こんにちに至るまでそれは残る。天皇の権威を否定するものへの権力の法を越えた敵意は、私たちが常に体験するところのものです。

こういうわけで、天皇はよく言われるような絶対君主ではないのですが、大切なのは天皇の権限の制限が権力機構内の話であって、この天皇を抱く権力集団全体が国民に対して主権者であり、専制的であったことです。しかも国民に対して要求された天皇への忠は、支配集団間の相互誓約関係が国民間でも働くべきものとされていたことを意味します。天皇への忠の表明は国民間の相互信頼関係を保障するわけだから、天皇への反逆者がもしいたとすれば、その人は国民から弾き出されるべき非国民になるのです。

国民意識と天皇

一つつけ加えます。戦前天皇について時どき使う人がいる神権天皇ということば。戦後憲法学者の中にも、戦後憲法の民主主義性をきわだたせるためか、戦前天皇の神権性(地位と権限が神に由来する)を言う人がいましたが、これはいま述べてきたことからしても正しくないでしょう。「万世一系」は天皇を法的に説明する観念ではなく、国民一般が信念として持つべきものを示した、と言うべきだと思います。

この思想は昔からあった神国思想とも関係があるでしょう。日本国を荘厳しょうごんし、他国との差別化をはかる国家の自己主張ですが、天皇のもとでいつとも知れぬ昔から続き、民族の一体が実現されていた国、こういう特別すぐれた国として、国民に国家を誇る感情を育てる効果が近代においてもあったでしょう。

そこで、その国民に養われるべきであった天皇主義ですが、近代における天皇・国民関係の出発については以前にお話ししました。ここでいくらか追加します。

国民の間に育てられていった国民意識の基本は、特別な国としての歴史をもつ国民、その国にあってこそ国民一人ひとりが「自分がなにものかである」と感ずる、そういう意識です。それを近代日本国家は、単に人民の法的位置だけでなく、いつも国民を見守っている天皇との関係において作ろうとした。天皇からすれば、国民すべてが「赤子せきし」、だれに対しても「一視同仁」、そこにだれもが国民の一員である、「なにものかである」保障があります。この関係のなかでは、天皇は国民にとってたんなる権力者ではなく、親しみ、親に対するような親しみの対象となる。家族関係としての天皇—国民関係。この意図はかなり成功したと思われます。そこにある家族思想も作られます。

明治国家は国民みなに姓をもつことを許容、あるいは強要しました。姓もない、つまり「なんでもなかった」平民家族(表向き姓を名乗ることを許されない農・工・商身分にも「隠し苗字」をもつものは多かったが)が「なにものか」になるわけですが、このとき自分たちが「なにものか」であることをとくに主張したいほどの家族・一族は、従来の支配身分にならって、一族の系図というものを作ります。文字通り作為します。みなさんのばあいにも、調べてみると「本家」がそれを持っている、ということがありませんか。この系図作りに原則があって、だいたいは、一族をさかのぼると、源・平・藤(藤原)・橘のどれかの系統だ、ということにします。もちろん源・平は「皇統」由来の、藤・橘は最有力の臣下の家筋。それぞれ一族を天皇制国家の歴史の中に位置づけ、こうして自らを価値づけようとする。こんなことは名家・豪家を自負するものならふしぎはないが、一般庶民に至るまで、祖先と血統の観念をもつ誇りを支配集団と共にすることになる。この「家」観念によって、国家に包みこまれた国民形成過程が進む。これも福沢諭吉の言った天皇による「人心の収攬」ですが、家単位で人びとが「なにものか」になったことは、学者たちが近代日本の墓制の特徴とされるものにも現れる。「⚪︎⚪︎家の墓」という形が現在も支配的であることです。

つまり、近代日本の国民意識は、自分もこの国家の一員になった、という積極性、親近感をもって育てられたのです。この気分はもちろん武士的知識人などに特に強い。一例を有名な小説家、徳富蘆花(蘇峰の弟)に見てみましょう。この人に「謀叛論」という文章(1911年)がある。のちに見る「大逆事件」のしばらくあと、一高の学生たちの前で行った講演です。明治知識人のある部分に共有されていた明治国家と天皇に対する見方がよく表れています。蘆花は、明治維新は日本人に明るい気分、高らかな意気を与えたと言う。維新の志士たちは、そこに自分たちが積極的・主体的に働く新天地を夢見たのであって、それが私たちにつながっているのだと。ここで彼は、新国家と自分たちとを一体視し、自分たちこそこの国の主体だと考えています。そしてこの国の先頭に立って自分たちと希望を共にする天皇への共感と親しみを表明する。明治天皇を一人の人間として敬愛する気分です。この気分を大逆事件の謀叛人、幸徳秋水たちも持っていたに違いない、と蘆花は言うのです。ところが有司(権力)の抑圧で彼らの気持は歪み、道が逸れたのだ。このことを天皇はわかってくれるはずだ。蘆花は民権派の流れとして「有司」、官僚勢力への反感をかくさないが、また天皇への親近感・信頼もかくさない。

少しのち、この天皇観を一般庶民(平民)にまで拡げて観察したのが歴史家の津田左右吉。1916年につぎのように言います(大著『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の序。現代仮名づかいにして引用します)。「尊皇心はいうまでも無く我が国民が皇室を皇室として仰いだ時から厳として存在している。けれども其の尊皇心を愛国心と一致させ、又たそれを国民の実生活と緊密に結びつけ、国民的活動の中心として又た国民的精神の生ける象徴として、限りなき敬愛の情を皇室に捧げているという現代の我々の尊皇心は、やはり愛国心の発達と同様、現代の国民生活によって大いに養われたのではあるまいか。」津田左右吉は第二次大戦後初期、戦後天皇主義の先導者の一人ですが、その30年前、すでに象徴ということばを使っているのが注目されます。

このように天皇主義にとらえられた人民ですが、一面で彼らにとって天皇は重苦しい感じがなかったのではありません。天皇についてのたてまえはいま述べてきた通りであったとしても、天皇はやはり国家権力の統率者の位置にあり、現実の天皇が人民にとって何であるかは、権力機構、官憲のふるまいを通して表れるのです。このとき天皇は、背いてはならない、侵してはならないもの、それは恐怖をもって強制されます。さきに言った国民間のいわば相互誓約というべきものがそれに結びついている。天皇制への批判ははじめから国民社会において孤立する。この壁をどう破ったらよいか。のちに反天皇制を意識したものが戦前ついに解ききれなかったのはこの難問でした。これはのちにくわしくお話しすることになります。

憲法上の人民

少し話が広がりましたが、憲法のことに戻って、人民はこの憲法の上ではなんであったのか。

ヨーロッパ憲法にならって、まず国民として権利・義務を与えられた。権利は形式上自由主義の水準におけるものです。自由権と参政権。しかしこれまでに何度も言ってきたように、憲法創設を争う一方の勢力として、国家指導勢力と争ってこれらを得たのではない。国家が納税・兵役義務負担者としての国民にこれらを与えたのであって、中江兆民のことばでは「恩賜の民権」、国民は憲法上の呼称も「臣民」subjectです。だからこれらの権利も権力の手網を伴っています(法の範囲で…法の定めるところにより…安寧秩序を妨げざる限り…)。その実現形態が権力・官憲の判断・裁量によるところが大きく、また一般法によって制限されるものも多い(集会・結社の自由に対する治安警察法など)。総じてこの憲法の規定実現には政府の命令(天皇の命令大権に基づく)によるところが大きい。この特徴も第二次大戦後に引き継がれ、「通達行政」などといわれることも、その現象形態でしょう。

しかし憲法の規定はともかくも権力の無限の恣意的乱用を防げるものではあります。国民の権利は、次の時代に大衆的な民主主義・権利闘争にあるよりどころを与える可能性もないではない。また一方ではこの憲法をもつ国民であることが文明国民のあかしとして誇りとなり、ナショナリズムの基盤を拡げるであろう、ということをもう一度言っておきましょう。

憲法公布の翌年、1890年に第1回の帝国議会が開かれました。もちろんこれも立憲国の証明として国民に迎えられます。といってもご存知のとおり、衆議院選挙の有権者は全人口の1%、男だけ。第二院の貴族院は国民公選制でさえありません。しかしかつての民権運動の残存するエネルギーのはけ口にはなったのであり(見方を変えればこのエネルギーは議会に閉じ込められたのですが)、初期議会は野党(民党と呼ばれた)優位、政府側与党(吏党)はどうしても逆転できなかった。主たる争点は「民力休養」(租税問題、強兵と富国の対立問題)。日清戦争での休戦を経て、政府側は民党との妥協(つまり取りこみ)をはからざるを得なかった。これは成功して、結局1900年、立憲政友会の成立(権力側、ことに伊藤博文派と自由党との合体)に至る。人民勢力の頭部吸収過程の完成です。以降、議会政党が国家の政治支配の一部を構成することになりました。

日清戦争

1894年、95年、日清戦争が起きました。日本の朝鮮支配の野望と朝鮮の宗主国たることを主張する清との衝突、国を挙げての近代戦争の準備が整わなかった清国に対して日本の圧勝、帝国日本の「世界雄飛」の第一歩になりました。同時に、この戦争は東アジアの状況を大きく変えることになりました。

この戦争での日本のふるまいbehaviorは、まさに「万邦に対峙する」ところの列強的あり方を示しています。日本にとってこの戦争は「義戦」だと唱える。世界文明を代表しておくれたアジア世界の代表、清と戦うのだと。また戦勝後、領土(遼東半島と台湾、前者は後述の三国干渉で返還する)と多額の償金(当時の日本の国家予算の数倍に当たる金額、10年後の日露戦争を控えた軍備充実はこれで可能になった。また八幡製鉄所開設、金本位制確立の基金になるなど、重大な意味をもった。金本位制は19世紀イギリス主導の世界経済体制に加わるために重大視された)を奪取した。西洋での戦勝国の権利を当然のこととしたわけです。

日清戦争は明治維新での国家目標の第一次達成点というべきもの、列強への「巨歩」を進めたもので、この戦争中に懸案の条約改正も関税自主権問題を残して実現しました。しかし私たちの眼はそれを越えて、この戦争が世界にもたらしたものに注意する必要があるでしょう。

日本がここで清国から領土を取ったことは、ヨーロッパ諸列強がそれまで熱望しながら踏み切れなかった、この国での根拠地奪取のセキを切ったことになりました。日本はその好適な地理的位置と、この地域で諸列強をも圧した軍事力をもって、東アジアにおける帝国主義の牽引者、グローバリゼーションの先鋒役を果たすことになる。その道を踏み出したのです。列強帝国主義対アジア諸民族という対抗の先頭に立って、アジアの一国ながらアジア世界の破壊者としてふるまうことになったのです。多額の償金についても、これを支払うため清国は欧米諸国に借金をする。これがその後のこの国の財政の窮迫に拍車をかけることになった。これも清国革命の一因になったと言う人は、清国人民が嘗めた巨大な苦しみを忘れています。

こうして日清戦争は日本にとって重大な歴史の分れ道になりました。世界の文明国としての誇りは、アジアと西洋文明との中継者たることを日本が意識したとしても、むしろ帝国主義的抑圧の中継者としての役割に向かっていく。アジア諸国への侵略は、以後、文明国としての当然の権利として国民意識の内面に構造化されます。

侵略的帝国への日本の移行にたいするはっきりした批判は国内にはありませんでした。のちの日露戦争では現われる非戦の思想も、この戦争では社会のどこかにあったとしても眼につきません。創刊間もない『東洋経済新報』が、上述の償金について議論はした。しかしそれはその金の使い方についてであって(軍事優先反対)、償金を取ることそれ自体についてではありません。

東アジアの地に関する限り、日本はすでに被圧迫小国の域を出て、この地域の状況を左右する国、状況をどうするかの選択を他の列強と争う国です。そこで、こんにちでもそうですが、この地域に日本にとって強力な防衛力をもって対すべき危険があるという、しかしこの危険の要因を作り出す能動性をもつ国、それを実際に働かせ得る国として、まずこの地域に日本自身が存在した。日本は過去・現在にわたって、この地域での受け身の小国でなく、危険な主体性をもつ、この地域の状況に責任ある国の一つです。しかしその責任を感ずることが大変少ない国でもある。これも戦前からひきつがれた伝統なのだ、と私は思います。

帝国主義思想の出発

日清戦争の結果、清に代わって日本が朝鮮における覇権を握ったかにみえた。しかしそこにすぐにロシアが乗り出してくる。この日露の争いはその延長線上に満州(中国東北部)争奪を緊迫化させ、日露戦争がここに準備されたことはいうまでもありません。

この日露の満州争奪戦は、日清戦後、いわゆる三国干渉、ロシアがドイツ・フランスをさそって、清国に遼東半島を返すよう日本に求めた事件で、近い将来に予想されることになります。ロシアの干渉はもちろん「極東平和」のためなどではなく、3年後には自らこの地を取ってしまうのですが、日本も力が足りないから干渉を受け入れただけで、むしろロシアへの国民的敵愾心をかき立てられることになる。やがて来る日露戦に向けて、「臥薪嘗胆がしんしょうたん」して重い負担に耐えます。

日清・日露両戦争にかけて、国民一般の帝国主義意識も本格化したと見てよいでしょう。一方に帝国としての雄飛への希望・誇り(これが傷つけられたから三国干渉に怒る)、また「戦争なくして、植民地なくして日本人は食えるか」、「持たざる国」日本の権利意識、さらに日本にとっての権利実現の地たるべき中国・朝鮮民族に対する国民的蔑視の定着、こんにちにまで及ぶ排外主義的国民意識の本格的出発です。

本格的帝国主義思想家というべき人も現れます。前に出てきた徳富蘇峰はその代表的な人。以前この人は、「生産」が主導する世界での日本の発展に希望を託する主観的理想主義者でしたが、日清戦争、三国干渉を見ての「目覚め」で、こんどは力主導の世界での日本の発展という、これも主観的な「理想主義」に転換します。明治日本は膨張の必然性・運命性におかれている。日清戦争に勝ってこの運命性が世界的な舞台を得た。20世紀を迎える世界の現実においては道理は力の福音と結合しなければならないのだ。ここで日本人の国民一致と質実剛健の精神的資質が生じるであろう云々。以後彼は一貫した膨張論の高唱者として、第二次大戦後までの長い一生を生きました。

どちらかといえば、詠嘆的な文芸批評家と見られていた高山樗牛ちょぎゅうが急に国家至上の「日本主義」を唱え、国民の指導理念として「建国の精神」、この原点に帰れなどと叫び出して、一時は世間の人気を集めたのも、日清戦争後のことです。もっともこの人は興奮が割合早くおさまって、ニーチェ主義など唱えたりしていましたが、若死にしたのでそれも中断され、その後忘れられてしまいました。

家制度・家族主義、「民法出デテ忠孝亡ブ」

前に言ったように、日清戦争中、条約改正が大きく前進したのでしたが、そのなかで「日本」が思想として大きく押し出される事件がありました。それをここで述べておきます。

このときの条約改正のテーマは治外法権問題、当然万国に通用する裁判制度、法典整備(刑法、民法、商法など)が要求されます。ここでそのなかの民法制度問題が大論争を引き起こしました。「民法典論争」と呼ばれます。

最初作られた民法案はヨーロッパ法をモデルにしたものでしたが、その家族法の部分に強い異論があり、作り直して1898年に施行されたものは著しく「日本的特色」を帯びることになりました。「西洋の芸」に対して、ここはゆずれないと「東洋の道徳」ががんばり抜いたわけです。

強い異論を提起したのは、のちに述べる天皇機関説論争にも登場してくる東京帝大教授穂積八束やつか、「民法出デテ忠孝亡ブ」なる奇妙な題の論文で論争を激化させ、結局作り直しにもちこみました。法の根底に日本国家の基底とされる「淳風美俗」、権威的、男権的な家父長家族のあり方を固定させたのです。

その中心点をざっと挙げると、家族員個々人を思考の軸におくのではなく、「家」とその代々の継承に眼目がある。その「家」の各世代の当主、「戸主」が「家督」を継承する。家父長たる「戸主」による家族員の統制(親権、夫権など)、夫婦間における妻の薄弱な権利などが定められました。だいたい、江戸時代に支配的なった武士家族のあり方をモデルにしたといえるでしょう(農民家族にも家族経営、その世代的継承、経営指揮者としての家長など、これに通ずるものがあったと思います)が、これが国家によって制度として固定されることで、日本家族の歴史的伝統とみなす考えも強くなりました。

明治維新における人民の身分的解放は個の解放に至るべきところ、その個を家族編成の要素として扱い、その家族を国民編成の基礎単位とみなす。だから家族制度、家族主義は国家の根幹なのであり、その家族のあり方に手をふれることは国家にとって危険と感じられる。「選択的夫婦別姓」など、あれだけの反対論の大騒ぎがあるのは、たしかに理由はあるのです。

2025年12月19日 於文京区民センター

2025年6月にスタートした「日本ナショナリズム研究会」第6回の、伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。

 

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