日本ナショナリズム研究会:第1期
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その5
伊藤晃
日本の自己主張
新渡戸稲造、内村鑑三
「万邦に対峙する」に当っての精神的よりどこととして、「東洋の道徳」、日本独自の精神を固守するのみならず、これらを西洋に対して主張する、これをもって西洋世界に加わりたいという願望があらわれてきます。1880、90年代ころ、こうした思想はいくつもありましたが、ここではキリスト教徒としての新渡戸稲造と内村鑑三、それと岡倉天心の3人を取り上げてみます。
新渡戸・内村の2人は御承知の通り札幌農学校の出身(2期生)、この学校は当時北海道開拓使の管轄ですが、西洋化政策の重要地点の一つ、同時に明治初期キリスト教の1拠点でもありました。
開国後改めて入ってきたキリスト教(主としてプロテスタント)は海老名弾正・小崎弘道らの熊本バンド、植村正久らの横浜バンド、札幌農学校関係者の札幌バンドなどの拠点を持ち、また新島襄の同志社も有力でした。これらに共通する一つの特徴があります。その有力メンバーのほとんどが旧武士層知識人だったことで、出発点におけるこのことは、近代日本のキリスト教がずっとポピュラー性を欠いていた、少なくともその一理由ではあるでしょう。
新渡戸と内村ですが、彼らは自分たちの精神的土壌である武士的精神にキリスト教と重なるものが多いと感じており、それがキリスト教入信を促した大きな理由だたったでしょう。そこでキリスト教を通じて、武士的精神が領導する日本人の心を西洋人が理解すことが可能であり、それが大きくは欧米世界への日本受け入れの重要な契機になると考えたと思われます。新渡戸が『武士道』(1899年)、内村が『代表的日本人』(1894年)を英文で著したのはそうした願望につき動かされてのことだったに違いありません。
そこで新渡戸の『武士道』は、武士道の価値意識の多くが西洋の、特にキリスト教のそれに通ずることを説くものでした。義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己など。そして、注目すべきことは、武士道が日本精神の男性性を表現すると説いていることです。日本女性は内助において奉仕するもの、自己を押さえるもの、そのゆえに家庭内での地位が高い、と言うものです。
内村の『代表的日本人』は、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の5人を挙げ、キリスト教の宗教精神はこうした人びとの人格・徳性にすでに存在していたと言う。たとえば西郷隆盛は、良知と天理に関する学説においてキリスト教に近い存在であった陽明学の徒、敬天愛人の精神に終始した道義の人であった、そして天の命ずるところ、文明世界の正義に従って、日本を西洋諸国と対等な統一帝国たらしめ、アジアの指導国家としての使命を果たさせようとしたと。武士的日本精神は、キリスト教が日本に接ぎ木される台本、その種が発芽すべき大地のようなものであったのだ、と内村は言う。彼は熱烈な愛国者、天皇尊崇の人であって、まさにここにキリスト教を接ぎ木したのです。
そして内村もやはり日本的男権主義を積極的に評価します。男は力強く「はじめる」もの、女は従い、愛をもって男の創始行為を「完成させる」もの。これをキリスト教精神にも通ずるものと見ているわけです。
ついでに言いますと、江戸期武士本来のヤソ嫌いを固守する人もおります。のち物理学者になり、東京帝国大学の総長をつとめた山川健次郎はもと会津藩士、若松城落城の折、年少のため白虎隊の集団自決に入れてもらえず生き残ったという人ですが、維新後アメリカに留学した。このとき山川は、自分はけっしてヤソの教会に足を踏み入れることはするまいと心に誓い、実際留学中それを貫いたといいます。
キリスト教に戻りますと、新渡戸・内村の発想は彼らだけのものではなく、明治キリスト教に広く見られることです。さきに言った熊本バンド、この人びとの出発点に「花岡山の盟約」というのがありますが、そこでは「いま報国の志をもつものはすべからくキリスト教を信ずるべきだ、キリスト教により人民の蒙昧を開くのだ」と言われている。個人の魂の救いもあろうが、むしろ国家・社会への、その開化への使命感が強く働いていることがわかります。
しかし、彼らにこうした志はあっても、広く日本社会を見れば、キリスト教に反日本を見る人がやはり多い。有名な内村鑑三の教育勅語への欠礼事件などもそのなかで起きたことです。これに対抗するためには、ことさらに自身の国家主義の立場を押し出す必要も感じられたのでしょう。そして彼らにとっての大きな救いは、1889年に公布された憲法の第28条、信教の自由の規定でした。「安寧秩序ヲ妨ゲズ」「臣民タルノ義務ニ背カザル限リニ於テ」の条件づきで、今日的な眼からの評価は低いが、キリスト教徒にとっては、これによって他教と同等の地位を国家からみとめられたことが重大でした。のちに日露戦争の折、小崎弘道など、この憲法をもつ「20世紀文明の日本」を「16世紀文明のロシア」に対して誇示し、日本の立場の宣伝につとめたといいます。
戦争といえば、日清戦争では「清韓事件キリスト教同志会」が作られて、この戦争が日本にとって世界文明の立場からの義戦であるゆえんを宣伝したし、日露戦争のときには、キリスト教側からの「軍隊慰問使」が組織され、また小崎ら指導者数人がヨーロッパに派遣され、日本の立場の主張につとめました。内村鑑三の非戦論は有名ですが、大勢としては、海老名弾正も植村正久も、戦争への強い支持を表明していたのです。
岡倉天心
岡倉天心に移りましょう。日本精神、またそれが先頭に立つアジア精神は西洋精神に対して並立しうるもう一つの思想の流れだ、これを西洋世界にわかってもらいたい。岡倉の日本・アジア文化論の根底にあったのはこういったことだったでしょう。
明治初年の欧化期、日本美術の価値低落ははなはだしいもので、のちの大画家狩野芳崖・橋本雅邦らの窮迫ぶりが広く伝えられています。このころお雇い外国人として東京帝大で教えていたフェノロサとともに日本美術の価値再発見、復活に力を尽くしたのが岡倉天心で、のちの国粋復興期、1889年開校の東京美術学校(現東京芸大美術学部)創立に参加、のちその校長になりました。はじめこの学校の方針として日本画に限り、西洋画部門を置かなかった(同じく開校された東京音楽学校は、伊沢修二校長が、こちらは日本音楽部門を置かなかったという。もちろんどちらものちに両方置くことになるが、明治期の興味ある一現象)。1898年に校長を辞任、その後たびたびアメリカなど海外にわたり、日本文化の宣伝・普及につとめました。主著というべき『東洋の理想』(1899)、『日本のめざめ』(1904)、『茶の本』(1906)はいずれもはじめ英文での出版。また日本画革新の指導者として、横山大観・下村観山らを育てた。この辺はみなさんご存知でしょう。
天心が日本的美の特質として、簡素・素朴・静寂・調和・「空」、不均整、不完全なるもののいみ・顕示に対する暗示・自然の奥底と心が通じあう、などを言ったのは、こんにちまで日本・アジアの文化を論じ、西洋的価値に対する東洋的価値を言う場合の伝統となった観があります。
また、『東洋の理想』の冒頭の「アジアは一つである」は大変有名ですが、これは誤解する人もいる。彼の「アジア」は大体日本から中国、さらにインド止まりですが、これらの文化は一つにまとまるべきものではあっても、中国文化もインド文化もそのための力を持つに至らなかった。それらが日本に流入すると、そこを貯蔵庫としてアジアの文化的理想の統一が実現されたのだ、と天心は言うのです。日本という国は古来他からの征服をうけず、民族の一体性を連続的に保ってきた。この本性のゆるがぬ国がアジアの文化を受容、調和的に再生させたのだ。アジア文化はこうして日本において統一された限りで文化的一体と認識されるようになった、つまり「アジアは一つ」になった、というわけです。これはやはり、その後日本で伝統になった「アジア主義」、アジア文化における日本の媒介的指導的役割、そのもとでの「アジア文化」を見る、という考えの一大源流であるといえます。
日本人種論
1880—90年代あたりの話をしているのですが、このころ盛んになったもう一つのことをお話しておきます。それは日本人種論というものです。
日本が世界に向けて自己主張するには、前提として自己認識が必要です。われわれ、日本人という人種は世界人類のなかでそもそも何ものであるのか。結局これはよくわからないのですね。よくわからなくても別にさしつかえないだろうとも思えますが、一般になかなかそうもいかないようで、こんにちまで人気のあるテーマ、その出発点についての話です。
まず原初、石器時代に日本列島に住んでいたのはどういう人たちか。いまのアイヌ民族の祖先はその候補ですが、それとは別に、あるいはその前から先住民がいたのかもしれない。
アイヌの伝承にあるコロボックルという小さな穴居人たちがそれだ、という学者もあり、いろいろ説があってにぎやかでした。それから日本列島には諸方から人が渡ってきただろうが、それは南方系が主か北方系が主か。そこには人種の交替あるいは混ざりあいがどうあったのか、縄文文化の担い手はたしかにいるとして、先住民からそれへの推移、さらに弥生文化人、その後。渡来人で説明する人もいるし、時代の推移のなかでの文化・生活の変化が人間の変化をもたらした、と考える人もいる。はっきりした結論は出ないなかで議論は昭和年代まで続きます。初期の坪井正五郎・小金井良精、少し降って長谷部言人、鳥居竜蔵らの名を挙げておきます。
ところで、こういう議論は学問的には人類学者によってなされます。このころの人類学は自然人類学とか形質人類学とかいって、主として発掘された古人骨を計測・比較するという方法を取りました(だから人類学者に医学関係者が割合多い。解剖学方面ですが)。彼らは世界各地に残る人骨を調べたい。そのため、先住民の墓を盗掘する、そこで得た標本を互いに交換しあう、などのことも起り、いまそれが大問題になっていることはご承知のとおりです。これは人類学に人種主義がつきまとう、という問題でもあります。
形質人類学者には変った方法を取る人もいて、足立文太郎という人(少しあとに出てくる小説家井上靖の岳父)、この人のは軟部人類学というのだそうですが、骨以外の部分の統計・比較が専門(もちろん現代人の間での比較です)、「蒙古斑」(黄色人種の赤ん坊の尻によく出る青いアザ)だとか、人間の体臭についての研究があります。体臭への関心には人種主義的な感じがある。「日本人には体臭が淡いが白人や黒人は臭い」といって嫌う人がよくいるでしょう。
かつては人類学には、人種を進化論的に段階づけする考えもあった。そうすると日本の人類学者には、最高位に位する白人に対して黄色人種に属する日本人の位置如何という意識もなかったとはいえないでしょう。
そういう人種主義への批判も働いているでしょうが、自然人類学はある時期から世界的にすたれた感があり、いま人類学といえば大体文化人類学のことのようです。そして人種という概念が成立するのか、という声も高く、私も日本人種論をなにか積極的な科学思想としてでなく、日本ナショナリズムの一大論点ということでお話しているのです。
ともかく話を完結させておきましょう。もう一点、日本人の系譜を考える上で日本語はもちろん重視されました。ここでも日本語の系統に関する諸仮説が対抗しあっています。根本は南方系か北方系かということ、文法と単語両面から論じられますが、やはりはっきりしたことはいえない。南・北二元の混合ということになるようです。北方言語については、これもあとに出てくる金沢庄三郎、南方言語については新村出(国語辞書『広辞苑』の編集団を率いた人)が代表的学者とされています。
西欧主義に対抗する夢
ところで、日本人なるものを考えるときの眼がとかく西へ、それも中国を通り越した西へ向かっていくのはおもしろいことです。ヨーロッパの位置する西方が日本人にある想念を自然と沸き立たせるのでしょうか。ここには珍妙な説もずいぶんあります。
まず、日本人の起源を西洋史の原初に近づけたいという願望。メソポタミアあたりに日本人の祖先を見たがる人、ユダヤ人からの分かれだという人、まあ荒唐無稽な説ですが、現代に至るまで、いつでもこういう人が一定数いることが愉快です。日本人ギリシャ起源説なんていうのもありました。木村鷹太郎という、この人はけっこうな学者のようですが、この考えにとりつかれた。ギリシャの神々の世界に日本の高天原の神々を見るのをはじめ、日本の人名や地名や、なんでもギリシャにこじつけて対応物をみつける。とうとうある人が「そんなに日本のものがなんでもギリシャのなにかであるのなら、さだめし木村鷹太郎に当たる人がギリシャにいることであろう。それはだれだ」とからかった、という話があるそうです。
もう少しまともらしいものにはトゥラン民族論というのがあります。
トゥラン民族というのは、もともと北アジアから中央アジアに居住、ウラル・アルタイ語族といわれるものと大体重なっているようです。その後各方面へ拡がって、西はトルコ(トルコ民族というのはもと北・中央アジアに住んでいた)から東ヨーロッパの一部、ハンガリーなどまで、東は満州・朝鮮、さらに日本まで含める考え方もあるのです。これを独自な民族主義的な発想でとらえて自意識化したのがトゥラン主義、トルコやハンガリーの民族意識の一要素になっているようです。5世紀のフン族(匈奴ではないかとの説がある)のアッティラ、13世紀のチンギス汗のヨーロッパ侵攻を想起すれば、ヨーロッパ・アーリア主義の世界的ヘゲモニーへの対抗意識に資することになります。
日本ではトゥランということばは、いまは一般化していませんが、戦前の文献ではときどき見かけます。そしてこのことばが体現する意識は、ナショナリズム・イデオロギーとして重要な働きをしていた、ということができます。日本は日露戦争後朝鮮を併合し、満州に手を延ばし、さらにモンゴル、一部にはあわよくばシベリアという野望も出てくる。そのとき、かつてのトゥランの故地に、その流れに属する日本人が指導民族としてのぞむ根拠、歴史的必性の説明ということになるからです。トゥランを率いてはるかにヨーロッパ・アーリア主義に対抗する、という夢ですね。
学問世界にもかなり影響があります。日本と朝鮮の同祖という考えがあらわれるのもその一つだと思います。前に出てきた金沢庄三郎という人は言語学からするその主張者(彼の日本語・朝鮮語の比較研究はまじめなものとしても)、1929年に『日鮮同祖論』という本を出しています。また近代的探検(探検というイデオロギーの帝国主義的意味あいに注意)の日本での元祖、民族学・生物生態学の今西錦司グループがはじめのフィールドとしたのは、日本の植民地南洋諸島と満州・モンゴル方面でした。
日本のアジア大陸進出の主目標・主眼はもちろん中国ですが、だからアカデミックな「東洋史」とは大体中国史のことでしたが、さらにそれを西へ越えていわゆる「西域」への関心もずいぶん強いのです。有力な東洋史家、白鳥庫吉・桑原隲蔵(桑原武夫の父)らがここを研究対象にしています。
戦後は民俗学者江上波夫の「騎馬民族説」というのがあります。古代日本王朝は、北方アジアの遊牧民、「騎馬民族」が朝鮮半島を経て渡来して開いたものだ、という仮説。一時期かなり論議を呼びました。
学問を離れて愉快な説もある。小谷部全一郎という人がいて、『源義経は成吉思汗なり』という本を書いた。義経は奥州衣川で死なずに逃れて、蝦夷地を経て大陸に渡り、モンゴル人の王、成吉思汗になったという。同一人物とされたこの2人、年かっこうが似ているのですね。この話、ちょっと人気があって、戦後にもこれをタネにして推理小説を書いた人がいました。
西域は日本人からすれば遠く果てしもなく拡がり、想像を越える歴史が展開する大地で、あこがれる人、「ロマンをかきたてられる」人が昔も今も多い。そこに自分の文学的世界を構築しようという作家もいました。戦後の小説家井上靖の作品中の「西域もの」(「蒼き狼」—これは成吉思汗の話—など)もそれです。
日本の歴史に西洋と共通する歴史を見ようとする考えがこのころあらわれてくることをつけ加えておきます。一例として戦前の指導的経済学者であった福田徳三、この人は、西洋に留学して「日本にめざめる」人がときどきいる、その一例でもありますが、1898年にドイツに留学し、ミュンヘン大学で当時有名な L・ブレンターの講義を聴きました。ところがそのうち、ブレンター先生、この日本人学生が気になりだした。なにかというとニコニコ笑う。なにをそんなに笑うのか。とうとう福田を呼び出してわけをたずねたそうです。福田が答えて言うには、先生の講義(欧州経済史の講義だった)を聞いて、私の知る日本経済史と多くの一致点があることがわかった(つまり日本歴史と西洋史との重なりを感じた)、それを知って大変うれしかったのだと。先生も興味を覚えて「ではそれを君の博士論文として書いてごらん。」これは実際に書かれ、のち日本語に訳されて出版されています(『日本経済史』)。西洋と日本との歴史の共通、こうした発想はその後もあらわれます。比較法制史の大家で日本中世と西洋フランク王国時代の法制の類似を説いた中田薫もそうです。彼らには、日本が西欧世界に参入する資質がもともとあることの証明という意識が、少なくとも心の片隅にはあったのではないでしょうか。
2025年11月21日 於文京区民センター
2025年6月にスタートした「日本ナショナリズム研究会」第5回の伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。
