ナショナリズム研究会4

日本ナショナリズム研究会:第1期
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その4

伊藤晃

自由民権運動

前回つぎのことを述べました。

成立した明治新国家への批判は、この国家が体現するナショナリズムにさらにエネルギーを充填する意欲でもあって、それは武士的な精神を根底とする理想主義の復権要求に表れたが、他方には、福沢諭吉らの、国家に対するというよりも人民の知的モラル的向上への方向提示があった。前者が征韓論をめぐる西郷隆盛・板垣退助派の政府脱退、西郷らの武装反乱含みの薩摩割拠を経て板垣ら「土佐派」などの自由民権運動への転進に至る。

議会開設、国民参政権、憲法創設要求

今日は自由民権運動からです。

この運動は、1884年「民撲議院設立建白書」で出発しますが、これは政府側の「有司専制」に対して天下に「広義」を起こすための議会開設、国民参政権要求運動です。自主自由独立の人民の国政参加が国家の実質の充実、国威の発揚、国民一体(君民一体)の実現をもたらすという。人民=愚民論には反対、人民を開明化する道はかえって民撲議院にある、国家の基礎たるべき人民に天下のことへの意志をもたせ、元気を養え。

もともと武士層の発起にかかる運動ですが、人民的要素引入れの構想をもつところが新しい。実際当時爆発的に拡がっていた農民の地租軽減要求との広い結びつきが生まれ、むしろここから大衆的エネルギーを得ることになりました。運動は急速に全国化・大衆化しました。

そしてここには、国家的ナショナリズム批判に向かう可能性もあったと思います。この運動は人民といってももともとは「豪家の農商」に視野が限られ、女性の参政権も眼中にない(ただしその中でも岸田俊子・景山英子ら女性活動家が生まれていたことは重要です)。やはり士族がもつ社会的道義心や知識、公共・国家への志に立脚しようとする。望むのは共和政体などではなく、むしろ立憲政体を通じての君民共治だったでしょう。運動の代表的理論家とされる植木枝盛を見ると、自由民権は国の専制に対する抵抗であり、その権利の自覚だという。国を人民が自ら創るというより、国があって人民がその政治を自覚的に担うのだと。しかしそれに対してやや違いを感じさせる意見もあります。

同じく運動の有力な理論家中江兆民に『三酔人経論問答』というおもしろい本がありますが、ここに「恩賜の民権」に対する「恢復の民権」ということばが出てきます。与えられる民権に対して人民みずから創り出していく民権。これは運動全体の思想水準になっていませんが、しかしこれに呼応する動きもある。あとでいうように運動に押された政府が国会を開き憲法を作る方向を取ると表明すると、その憲法は我々が作ろうじゃないかという声が各地の民権結社に広く生まれる。実際争って自分たちで憲法法案を作る。私擬憲法案と呼ばれますが、今日知られているものだけでも多数あります。色川大吉氏などが感激して伝える東京府下五日市の青年たちのど動きもその一つです。みなで懸命に勉強したその結果のレポートを一つの案に作文した、というわけですが、大切なのはその思想程度の高低などより、そういう大衆的な憲法創設運動というべきものが実在したことだと思います。のち第二次大戦後、現日本国憲法ができるとき、民間で作った案も2、3あったが、そしてその理論程度も高かったが、これを持って人民の憲法創設運動を起こそうという発意はあまりなかったと思われる、これとくらべてみてください。

もう一つ想い出しておくべき重要なことがあります。明六社の話の中で加藤弘之という人が出てきましたが、天賦人権論者であったこの人は早々と思想を変えて、自由民権運動に対して政府擁護派の論客として働きました。この人が改めて西洋から輸入したのが国家有機体説と社会進化論(社会ダーウィニズム)。国家有機体説は、国家はさまざまな役割をもつ人間たちによって構成される有機体だとという説、社会進化論は生物進化論の応用で、優勝劣敗によって社会は進化するという論です。この二つを結びつけると、人間社会に優るものと劣るものがあるのは自然で仕方のないこと、しかし劣っているものも国家社会で役目はあるのだからその役目を果たせ、つまり人は能力資質に応じて居るべきところに居よ、ということになる。

これに対して馬場辰猪ら民権運動側の理論家が大いに反撃して、これはこの時代の一大政治論争と言ってよいでしょう。ただちょっとものたりないところもある。馬場らの議論に欧米学者の論を援用した抽象論の気味があることです。加藤の論も理論を言うのだが、日本の人民の「愚昧」を突きつけたつもりであって、これは彼の現実論なのです。対抗して運動の側からももう一つの現実、地租軽減運動が現に経済建設の中心的選択問題を提起していること、憲法創設運動の強い意志が存在すること、などをもっと論の中心に据えるべきだったでしょう。そういえば福沢諭吉の意見も、自覚の欠ける人民(愚民)にものを教えよという現実論であった。自由民権運動にとっては、この師匠を超える機会を迎えていたのだと思います。

議会開設と国権論

このように、自由民権運動は歴史展開の先端に立てる可能性があったが、同時にあらぬ方向に逸れていく可能性もあり、実際には後者の方が現実になりました。

1880年ころ、運動は全国的に大いに盛り上がります。政府もついに無視できず、81年、10年後の国会開設と憲法(欽定憲法)制定の方針を示す。運動の大きな成果ですが、ここに一つの逸れ道が現れます。来るべき議会に議員を出す、という関心が次第に幹部層の頭を占めるようになったのではないか。準備のために自由党・改進党という二つの政党ができたまではよいとして、ところがこの2党がたちまちケンカを始める。そしてそのころ西南戦争などによる財政混乱整理の政府政策がデフレ傾向、農村不況を引きおこすという状況ですが、各地に騒擾事件が起きたり、運動内急進派の蜂起計画があったりします。「議会主義」的発想からすれば人心を離反させるこうした事件は望ましくない。84年秋、自由党が解党してしまうのは、運動激化の勧進元と見られるのを恐れてのことなのでしょう。最大の激化事件、秩父蜂起はこの解党の2日後のことですが。

運動が遅れていくもう一つの方向が国権論です。もともと国権の回復・振起のために国民の一致協同だ、だから国民の権利だという論理でしたが、そのかくれた目標の方が表に出てきたことになります。

86—87年、懸案の不平等条約改正交渉が始まります。当然国民的期待は高く、それは正当なことです。しかし諸外国が簡単に応ずるわけもなく、交渉者当事者の政府は苦慮する。諸外国の同意を得られそうな妥協案を秘密裏に考えます。治外法権撤廃のため裁判所に外国人裁判官の任用など。この「弱腰」が世間に漏れる。たちまち世論は沸騰し、政府弾劾の嵐で担当の井上馨外相が辞任する。この興奮状況の中で一時ゴタついていた自由民権運動も盛り返します。「大同団結運動」が起きたりしますが、そのスローガンは言論集会の自由、条約改正交渉中止、地租軽減の三つ。正当な要求ですが、それを包む雰囲気、「対外硬」(対外強硬の論)が、とかくアジア進出の夢に近づいていくことが問題でした。運動が「万邦に対峙する」国家のナショナリズムの枠内にあるからです。

同じころ「朝鮮問題」がクローズ・アップされます。日本の朝鮮への進出意志が、朝鮮への「宗主権」を主張する清国とぶつかる。朝鮮の国家指導部も分裂し、これを表に立てた日・清のヘゲモニー争い、82年「壬午の乱」、84年「甲申の変」。ここでも自由民権運動の興奮がまきおこります。その「論理」。万邦が対峙しあう弱肉強食の世界で、欧米に対抗してアジア諸国の奮起・連帯が必要、しかし頼りないアジア諸国、特に朝鮮。欧米諸国の手が伸びてくるのにこの国は耐えられないだろう。これは一衣帯水の日本にとっての危険(この「危険」は論証されないまま、その後も日本人の対外認識の前提になります)、朝鮮の自主性にまかせておけない、日本の指導性を及ぼす必要がある。ところが朝鮮の宗主国と自称して関与を拒否する清国がある、その干渉をはねのけねばならない云々。こうして1880年代後半には、自由民権派を含む一般世論に清国への敵意が高まるのです。

82—83年にヴェトナムへのフランスの進出が清仏戦争を引きおこします。これを報じ、論評する民権派の新聞は興味を引きます。アジア連帯を唱えるのだから清にに同情的のはずだがそうではない。この戦争で清はヴェトナムへの宗主権を主張し、フランスが近代法にのっとってこれを退ける。この対立を日本から見ると、朝鮮への宗主権に反対する日本の立場とフランスの立場が重なって見えた。民権派新聞も同じように見て、フランス側に好意を見せるのです。朝鮮が清の宗主権から逃げられれば立派な独立国で、清に気がねなく日本の「指導」を受け入れられるということです。清側の主張が別に正しいのではないが、それを否定するのに欧米諸国の論理の尻馬に乗り日本の野望を貫きながら、かたがた、欧米がアジアにグローバリゼーションの手を伸ばす、その先鋒役をつとめているわけです。この先鋒役はグローバリゼーションへの便乗ですが、この便乗が実に主体的になされていることに注意する必要があると思います。

国権論とアジア主義

ここで、国権論の界隈に生まれてくるアジア主義について一言しておきます。

この思想は、アジアとの一体感、アジア連帯という面ももっています。もともと日本も欧米列強による外圧下にあったのだから、同じ状況下のアジア諸民族への連帯感があって不思議はない。しかし日本の場合、研究会の第1回で述べたように、中国や朝鮮と違って、外圧への抵抗意識はむしろ対抗意識、弱肉強食の世界において弱い肉でありたくなければ強い食う方にまわるしかない、世界を支配する列強の一員に加わって競争する、「万邦に対峙する」という方向へ進み、ここに国家目標を定めていった。当然弱肉としてのアジア諸国は日本にとって食う対象ということになりますが、このときアジア連帯の方はどうなるか。

明治維新後、日本の近代化・欧米化はともかくも急速に進んだ。欧米列強のアジア諸国に対する態度に学ぶことを含めて(対朝鮮・対清外交)。ここにはアジア諸国の中で日本だけが主体性をもって列強に伍していける国だ、という自己意識が生まれるでしょう。この「アジア諸国より一段上の日本」にアジアとの一体感が残っていたとすれば、それは何よりも日本の指導性の意識として働くことになるでしょう。教えてやる、働きかける主体としての日本、教えられ、働きかけられる客体としての朝鮮・清国。やがて日本は、文明化を拒む頑迷な清に対して、文明世界から送られた使徒としての使命感をもって日清戦争を戦うことになります。

やがてアジア主義は、日本帝国としての侵略主義とほぼ重なっていきますが、その前に文明の高い立場からする指導・援助という「良識派」がより受け入れやすい段階があったわけです。福沢諭吉の「脱亜論」もこうした段階のものだと思います。彼はアジアから脱出せよなどと言ったのではない。対等な友達づきあいはもうやめたらどうだ、と言っただけのことです。

民権派の急進的政府批判がこうした初期アジア主義として表れた例をお話しておきましょう。

自分では動かない朝鮮に、では日本人が火を付けて政治変革を起こさせようと「実践」に乗り出したのが1885年の「大阪事件」。民権運動の名士であった大井憲太郎が中心。だが渡航前に同志一同つかまって未遂に終わった。大井によれば、ともに東洋の政治を語って理解させることがむつかしいのは朝鮮も清も同じ。朝鮮に事を起こせば清との確執になるだろうがそれも仕方がない。かえってそれは日本人の頭に緊張をもたらし、愛国心を刺激して政府批判、政治改革の条件を作るかもしれないと。外患を利用して、あるいはそれを作り出して国内変革のきっかけを作るということの発想は、その後いくつも出てきます。

九州の右派民権結社が国権論急進派に上昇して生まれたのが有名な玄洋社(1881年、頭山満ら)です。対外硬運動のなかで大いに実戦化して、1889年、時の外相大隈重信に爆弾を投げて重傷を負わせたのがこのグループの一員。その実践性は朝鮮・中国に及ぶ。むこうの運動に熱意を持って接触し「献身」するというスタイルがあります。のち日清戦争の一契機になった朝鮮東学党に介入・工作しようとした「天佑侠」グループに内田良平らが加わる。日露戦争時戦線背後で諸画策を試みた「満州義軍」、日本の朝鮮併合に際し朝鮮人側の協力派一進会に介在しようとしたグループなど。1901年にこうした実践性を継承したのが内田良平らの「黒竜会」。これらはいわゆる大陸浪人の元祖といってよいでしょうが、中国の清朝打倒・国民革命運動に同志たらんとした宮崎滔天、北一輝らもこの流れに乗っているのです。

民権運動のころにかえって、樽井東(藤?)吉の名もつけ加えておきましょう。いちはやく朝鮮との「合邦」を主張する。『大東合邦論』を著した。この合邦を力としてさらに清とも協力し欧米に対抗すべきだという。「大アジア主義」と評されます。

「日本人論」の出発

国権論と同じ方向ですが、政治運動家というより国民文化の再発見を象徴する思想集団、政教社グループも記憶しておくべきものです。民権派の国権派への傾きは、列強への政府の軟弱な態度を責めるものでしたが、これが維新以来の欧化政策への批判に火をつけることにもなった。政教社はその先頭に立つもの、国粋主義派(ただしこの言葉の後年の反動的色あいとは少し違う)です。この派では1888年雑誌『日本人』創刊の中心、三宅雪嶺・志賀重昂、89年新聞『日本』創刊の中心陸羯南くがかつなんが有名(『日本』紙には、俳句和歌革新運動の正岡子規もいました)。

彼らは佐久間象山の「東洋の道徳、西洋の芸」を改めて思い出した、といってもよいでしょう。欧化はもはや避けられない。しかしその際、受け手のわれわれの主体性をどうするのか。その主体性の核としての精神性をどこに求めるか。この問いには、欧化政策の上すべりへの反発も働いていたでしょう。条約改正交渉を控えて欧米諸国に日本の「欧化度」を認識してもらいたいという気持ちもあったのか、政府主導の軽薄な欧化が世間一般の指弾を浴びることもあった。有名な「鹿鳴館」(1883年開設、日本上流社会と外国人との社交クラブ)など。

日本が固持すべき精神性は、象山の時代には大体武士的精神と儒教の範囲のものだったでしょうが、明治維新、さらに自由民権運動を経て正教社グループでは視野が「国民」に、世界に向けて押し出せる国民精神、国民固有の文化価値の固守に拡がっています。三宅雪嶺は、西洋文化をただ輸入するだけでなく、欧米人同様にこれを使いこなし、かえって対抗的に正義を対置しうる日本人のもともとの能力を言う。この点が啓蒙思想家と少し違う。
ただしこの能力を高めるため日本人内面の弱さ、権威主義的で浅知恵に走り、堅忍敢為の気力に欠ける意久地のなさの克服に努めるべきだと。この日本人の自己完成の柱を「士風」(武士的精神)に求めることは福沢諭吉らと同じ。志賀重昂は地理学者ですが、『日本風景論』という有名な著書があります。「すぐれた日本の国土、風土」をナショナリティの根底におく。これは今日まで後継者が多いと思います。陸羯南は、明治の日本は天皇のもとでの立憲政体で欧米国民国家と肩を並べることになる、自信をもってこのもとで国民一体にまとまり、世界文明に力を貸すべきだと述べた。

避けられない欧化を、日本が文明世界で位置を得るという展望で考える。それは日本人の固有の力を生かすことでそうなる、と言うのです。日本人の主体性(東洋の道徳)が、「退守」より「進取」のなかで生きるわけです。後年の国粋主義は大体退守・反動の論そのものになりますが。だから政教社グループは、民権運動の道が逸れたというより、この運動が進むべき道の一つを示唆した、と言えるのかもしれません。そして、政教社には杉浦重剛(のち裕仁天皇少年時代の家庭教師の1人)ら右派もいるし、志賀重昂が少し右傾と思いますが、三宅雪嶺や陸羯南は民権派の面目を一応保ったと言っておきましょう。

北村透谷、徳富蘇峰

民権運動の道が逸れる話に戻りますと、逸れた道がもう一つあった。武断的空気のなかの政治主義が歪んだ形で出てくることです。この運動には政治青年の参加が多い。彼らは政党の下部活動家になるが、とかく血気・勇壮に走り、政党間の出入りや官憲との衝突など力の局面を出番と心得ている。大衆に対しては当然、説得者であるよりは煽動家です。ここには人民愚民視も残っている。国権主義との親近性も強い。さきに見た大阪事件など、こうした人々がいるから成り立つ。彼らは当時壮士と呼ばれました。「三多摩壮士」等々。やがて政党が議会政党になるとその「院外団」の供給元にもなる。さらにだんだん政治ゴロの色彩を帯びてくる。「壮士気質かたぎ」はあまり世間の評判がよいものではなかったのです。しかしこの壮士性は当時の政党の空気の一面であって議会政党性と表裏をなしていたのでした。

こうした歪んだ武断政治主義に対して、運動の思想的政治的水準を取り戻そうという内的批判はあまり強くはなかったようです。しかしないことはない。北村透谷などがそうです。ここで彼と、それから若い日の徳富蘇峰を見ておきます。

北村透谷は詩人・評論家として著名ですが、若年のころ自由民権運動に加わっています。しかし大阪事件のような政治運動に疑問を感じて政治を離れ、文学にこの疑問解決の場を求めます。人民の精神的内面の変革、主体的な自由、しかも個人の自由からさらに「衆人の自由」を育てることを強調しました。彼に「地平線的自由」ということばがありますが、これは啓蒙思想をも超えて、大衆の精神に新しい「地平」を与えて人間・社会の変革の方向を示す思想を求めたのだと思います。83年に島崎藤村らと『文学会』を創刊した翌年に26歳で自殺してしまいますから、十分な思想的展開は果たせなかった。しかし福沢諭吉ら啓蒙家、また民権運動にさえ残っていた愚民観の根底から克服をめざす彼の思想は、民権運動が本来進むべきであった人民主体化の道を模索していたのだと思います。

徳富蘇峰は、こちらは長命で第二次大戦後まで長生きしましたが、ある時期から手のつけられない超帝国主義者になってしまって、そういう人として世間で通っています。しかし若いころ清新な自由主義者として期待を集めたこともあるのです。熊本県出身で父親が横井小楠の弟子、蘇峰はキリスト教史上有名な「花岡山」グループの1人。80年代半ば、民権・国権で揺れる時代に熊本から発する評論が注目を呼びました。上京して87年雑誌『国民の友』を創刊、これはすぐに有力誌になる。

蘇峰はつぎのように言いました。いま日本では政治が先行し、自由の内実を欠いている。自由社会は国家主義・軍事主義でなく、生産・経済優位であるべきだ。これが平民主義・民主主義の方向で、ここに人民のエネルギーを集中すべきだ。人民もかつての人民ではなくこの課題に耐えられる。そこに日本を東洋の指導国にしていく力があり、五か条の誓文の意味がある(この辺に後年の主張の芽がちょっと感じられるでしょう)。日本は国内に深刻な対立もなく、国外からの圧迫も小さく、平和的にこの方向を進められる。世界には武力的か、経済的か、の二面、利己的物質的か、利他的精神的か、の二面が競り合っている。日本は経済的・精神的な立場に身を置くべきだ。

ここにはある種の理想主義がありますが、のちに見るように日清戦争と三国干渉でこの甘い理想の非現実を感じとる。さきに見た後年の思想の芽がここで急激に成長して帝国主義者への転進ということになるのです。しかしそれはのちのこと、さしあたっては蘇峰は国権主義や歪んだ政治主義への傾きに対抗する論理の与え手です。

2025年10月17日 於文京区民センター

「日本ナショナリズム研究会」は伊藤晃さんを中心に2025年6月にスタートしました。このシリーズはその4回目です。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞ、お楽しみに。

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