中嶋啓明
今回はやはり、8月15日の「全国戦没者追悼式」をめぐる報道から。
翌日の新聞各紙は例によって、一面から社会面まで大きなスペースを取り、ただひたすら情緒的、感傷的な言葉を書き連ねるワンパターンな“報道”を大展開した。
この間、メディアは、石破が「終戦の日」の「首相談話」を出すのかどうか、追悼式での式辞で何を語るのか、その点に読者、視聴者の関心を集中させ続けた。
『毎日新聞』を筆頭に、『朝日新聞』や『東京新聞』など“リベラル”メディアは翌日の朝刊で、首相の「反省」表明を一定程度、評価したうえで、「談話」の見送りを批判。後日の「首相見解」の発出を強く促した。
『毎日』社説(2025/8/16)は言う。
式辞では、大戦の『反省と教訓』に言及した。(略)しかし、何を反省し、教訓とするのかについては、『進む道を二度と間違えない』などと曖昧に述べただけだ。(略)首相は戦後日本の不戦の歩みを踏まえ、世界の平和構築に力を尽くすとのメッセージを打ち出すべきだ。
これに対し、右翼政治家、言論界の意を受けて、「首相談話」見送りに向けて圧力をかけ続けた右翼メディアの“雄”『産経新聞』は、式典での首相式辞に「反省」の文言が盛り込まれたことに、露骨に嫌悪感を示した。
「首相式辞 13年ぶり『反省』/石破氏『見解』、発出時期調整」とのタイトルを掲げたサイド記事で『産経』は言う。
アジア諸国への加害責任は、平成6年の村山富市首相(当時)が(略)「深い反省」を表明した。その後、同様の表現は25年に安倍晋三首相(当時)が外すまで、19回連続で式辞に盛り込まれていた。今回の式辞ではアジア諸国への加害責任には直接言及しなかったが、(略)「反省」が再び盛り込まれた。/一方、戦後80年の節目に当たって首相が検討している「見解」はこの日の発出は見送られた。(略)首相は見解でも歴史認識には踏み込まない意向を示しているが、党内外には見解の発出で、近隣国との間に新たな摩擦や歴史問題が生じるとの警戒も広がっている。
追悼式は、新たな「国民統合」を創り出すため、責任の所在を曖昧にして被害者の怒りを回収する大掛かりな舞台装置の一つだ。国家の手のひらの上で、口先だけでもてあそばれる「反省」などという文言の使用に、どれほどの意義があるのか。
メディアはひたすら、安倍時代との違いを強調する。だが、実態が示すのは、変らぬ軍拡路線。安部時代と何ら変わりない。それどころか対米走狗化は進むばかり。そして、そのための中国敵視感情は、メディアの後押しを受けて社会に充満し続けている。
「首相式辞」での「反省」言及と合わせ、メディアがもう一つ注目したのは、天皇の「お言葉」だ。
徳仁は「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」と述べた。「お言葉」で「記憶の継承」について触れたのは初めてらしい。新聞各紙は一様に、これに焦点を当てたサイド記事を社会面などで展開した。
『毎日新聞』は「天皇陛下、記憶の継承に言及」と掲げ、「宮内庁関係者」に「戦争を語り継ぐ人々との出会いを心に刻みながら考えられたおことばだと思う」と語らせた。
『朝日新聞』は「天皇陛下 次世代に託す思い」、『東京新聞』は「伝える役目 思い込め/天皇陛下『戦中・戦後の苦難語り継ぐ』」と題し、『読売新聞』は「陛下お言葉 慰霊訪問『凝縮』」と掲げた。
『産経』は「陛下 お言葉に込めた願い/次代への継承 強いお気持ち」で、「お言葉」の“歴史”を振り返った。
こちらには“右”も“左”も関係ない。“保守・反動”も“リベラル”も、オベンチャラにまみれた賛美報道で、責任追及の切っ先が天皇(制)に向かうのを逸らすことに全精力を注ぎ続けた。
折しも『週刊新潮』の8月14—21日号に、ジャーナリスト徳本栄一郎による「昭和天皇『訪米会見』の真実」と題した特集記事が載った。
75年の訪米出発直前に、裕仁が外国人記者クラブなどを相手に行った記者会見の様子、裏側を、同クラブのアーカイブが保管する記録をもとに詳述したものだ。
裕仁は、外国人記者クラブとは別に、『ニューズウィーク』東京支局長のバーナード・クリッシャーらによる単独インタビューに応じており、特集記事では、クリッシャーとの“個人的交流”をもとにした単独インタビューの背景についても伝えている。徳本はこの中で、『ニューズウィーク』誌に載った記事の内容が、実際のやり取りと異なっていたと指摘している。
それによると、『ニューズウィーク』の誌面では「日本人の中には、皇室の伝統はもはや現代の日本には必要なくなった、という意見を持っている者がいますが、陛下はそういう意見をどうお考えですか」との問いに対し、裕仁は「わが国にはいろんな人がいますが、概して、日本人は皇室に対して尊敬の念を持っていると信じています」と答えたことになっている。
だが、実際の質問は「陛下を、戦前と同じように上御一人(かみごいちにん)として崇め奉っている人々が未だにおりますが、そういった人たちをどうお考えですか」というものだったという。
徳本は「戦前のような狂信的な天皇崇拝を問うたのに、皇室無用論に入れ替わっている」と指摘し、実際のやり取りをそのまま掲載すると、かつての軍国主義に対する裕仁の無反省さが露わになり、訪米に悪影響を与えかねないと判断した裕仁の側近、宮内庁、外務省の役人らが事実改ざんの圧力をかけ、それをクリッシャーも受け入れたのではないかと推測している。
厚顔無恥で傲慢な裕仁の素顔を覆い隠そうと、裕仁自身はもちろん、当時の側近や政府首脳らは、なりふり構わなかったのだ。
そんな裕仁の「ご遺徳」に「深く思いをいたし」とのたまって明仁は、その地位を継承し、徳仁も続いた。「皇室に対して尊敬の念を持」つのが当然と考える裕仁の「遺徳」に沿うよう、歴史は改ざんされ続けている。そして明仁も徳仁も、裕仁の「遺徳」に忠実に従い、戦後国家が米の走狗路線から外れることのないよう、政府の上に君臨する重しであるべくふるまい続けている。
「戦争を語り継ぐ人々との出会いを心に刻みながら考えられた」⁉
徳仁の言う「記憶の継承」なんて、そんなもの。欺瞞だらけだ。
