田中利幸(歴史家)
目次:
1)「敗戦国ナショナリズム」によって隠蔽されている天皇裕仁の戦争加害責任
2)米日両国による「原爆神話」の捏造が天皇裕仁を「戦争被害の象徴」に変身させた発端
3)「敗戦国ナショナリズムの象徴」としての天皇の「慰霊の旅」はすでに裕仁から始まっていた
4)結論:「敗戦国ナショナリズム」の「国家防衛ナショナリズム」への大転換の危険性にいかにすれば対抗できるか
1)「敗戦国ナショナリズム」によって隠蔽されている天皇裕仁の戦争加害責任
前回の論考では、いかに日本がアジア太平洋戦争で大被害を被った戦争被害国であったのか ——それは確かに歴史事実の一面ではるが—— を専ら強調するために、天皇の「象徴権威」をフルに活用する天皇夫婦による「慰霊の旅」を、最も有効な方策として日本政府が利用している事実について議論した。その政治的目的が、侵略戦争をはじめとする様々な残虐な戦争犯罪行為を犯した日本の加害責任を隠蔽することにあることは、あらためて言うまでもない。
しかし、天皇夫婦の「慰霊の旅」には、もう一つ重要な機能があることが包み隠されている ——それは天皇裕仁自身の戦争加害責任の隠蔽である。裕仁の戦争加害責任には、アジア太平洋地域諸国の多くの人々に対してだけではなく、日本国民に対する加害責任もあるが、この歴然たる事実が、天皇が「敗戦国ナショナリズム」の象徴として祀りあげられることで、すっかり日本国民に忘れ去られているのである。なぜこのようなことが起きたのか、その歴史的背景を今回はごく簡略に議論しておきたい。この問題は、日本の民主主義の「質」と深く関わっている重要な問題でもある。
天皇裕仁を大元帥と仰ぐ日本帝国陸海軍は、1931年9月から45年8月までの15年という長年にわたって、中国、東南アジア、太平洋各地で中国軍、連合国軍と甚だしく破壊的な戦闘をくりひろげた。とりわけ中国に対する日本の戦争は、初めから終わりまで一貫して残虐極まりない侵略戦争であり、被害者の数は2千万人と言われている。日中戦争の状況を詳しく報道した米国のジャーナリスト、エドガー・スノーは、日本軍の中国での蛮行を「近世において匹敵するもののない強姦、虐殺、略奪、といったあらゆる淫乱の坩堝を泳ぎ廻っていた」戦闘と表現した。こうした中国での被害者の他に、このアジア太平洋戦争の被害者は、インド(150万人)、ビルマ(15万人)、ベトナム(200万人)、マレーシア・シンガポール(10万人)、フィリピン(111万人)、インドネシア(400万人)、その他にも多くの太平洋の島々の住民被害者を合わせると、おそらく1千万人に近い人たちが死亡したと考えられる。さらに、約35万人の連合軍捕虜のうち約2万人が、強制労働などの虐待、病気や飢餓などで死亡している。
ホロコーストの推定被害者数は、580万人から600万人と言われている。第二次大戦中の5年ほどの間における、主としてユダヤ人という一民族の計画的な大量虐殺と、場当たり的で、どちらかと言えば無計画な15年にわたるアジア多民族の直接的・間接的殺害の総数とを単純には比較できない。しかし、それでも絶対数だけからすれば、日本軍残虐行為の被害者数はホロコーストをはるかに超えるものであったと言えよう。また、日本軍兵士・軍属の死亡者数は(朝鮮・台湾の植民地出身者約5万人を含む)230万人で、その6割が戦病死・餓死者である(ちなみに、上記のアジア太平洋地域の被害者の中にも餓死者が極端に多いことが一つの特徴である)。これに、原爆を含む空襲の被害者と沖縄や満州などでの一般邦人被害者数80万人を合わせると、約310万人の人命が失われた。強制疎開で取り壊された住宅は310万戸、約1500万人が家を失い財産を空襲・原爆で焼かれた。
戦後、裕仁は、戦争が起きたのは、大元帥である自分の意志を無視して軍部が独走したからだと主張し、責任を回避した。しかし、防衛庁防衛研究所戦史部が編纂した膨大な戦史叢書を読んでみると、彼が統帥部の上奏に対する「御下問」や「御言葉」を通して戦争指導・作戦指導に深く関わっていたことは否定しがたい事実であることがよく分かる。とりわけ、1941年12月の対連合国開戦の決定過程では、裕仁が最終的には決定的に重要な役割を積極的に果たしたことは、当時の内大臣であり、裕仁と毎日顔を合わせて緊密に助言を行なっていた木戸幸一の日記を見るだけでも一目瞭然である。
戦後の極東軍事裁判(いわゆる「東京裁判」)で、元首相・東条英機が、米占領軍と日本政府の政治的圧力から、裕仁が開戦決定をしたのは「私の進言、統帥部、その他責任者の進言によってシブシブ御同意になった」からだと、事実に反する証言をした。しかし、たとえ「シブシブ」というのが本当であったとしても、それに同意し、「宣戦の詔勅」に署名したことは事実である。裕仁に開戦の意志が全くないのに署名できたということ自体がおかしいのであるが、いずれにせよ帝国陸海軍の統帥権保持者として署名した限り、その最終責任が彼にあったことは否定できない。ところが、1946年4月29日(裕仁の誕生日)に28名の軍人や政治家たちがA級戦犯容疑者として起訴され、1948年12月23日(明仁の誕生日)に、そのうちの7名(板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東条英機、武藤章、松井石根、広田弘毅)の死刑が執行され、これで戦争責任問題は解決済みとされてしまった。
このように裕仁の重大な罪と責任をうやむやにしたのは、日本占領政策へのソ連の介入を避け、米国が日本の占領をスムーズにすすめ、且つ日本をアメリカの軍事力の支配下に永続的におくために、天皇の「象徴権威」を徹底的に利用するという戦略の結果であった。そのため、占領軍司令官マッカーサーは、東京裁判が開廷される前のA級戦犯容疑者リスト作成の段階で裕仁の「不起訴=免罪・免責」を確定しておくために、裕仁は本来「平和主義者」であるという神話を強く打ち出した。これに歩調を合わせる形で当時の幣原内閣も、1945年11月15日に「戦争責任に関する件」という閣議決定を行い、裕仁には一切戦争責任がないという政府見解を明示した。この閣議決定において、裕仁はあくまでも平和を希求していたのだが、軍部や政府が決定したことに従わざるをえなかったという神話を幣原内閣は作り上げ、これを公式決定としたのである。こうして日米共謀で、天皇裕仁は軍部に利用された平和主義者=戦争被害者であるという神話が、戦争直後から日本国民に流布されたのである。
1961年、渡辺清という元水兵が、裕仁に対して公開書簡を送った。渡辺は、1944年10月24日にレイテ沖海戦で撃沈された戦艦「武蔵」の2400名ほどの乗組員のうち、1400名ほどの生き残り海軍兵の一人であった。彼は、その書簡の中で次のように書いている(ちなみに、1946年4月、渡辺は戦時中に海兵団員として受け取った俸給、食事代、被服費などを合計して、4282円を裕仁に返却し〈おそらく宮内省宛で送ったものと思われる〉、「私は、これでアナタになんの借りもありません」と、その返金に添えた書簡の最後で述べている。人間として失格者である裕仁とは決別するという、彼の強烈な意志がここに見られる)。
自分の命令でそれだけの人々が死んだという事実を考えただけでも、あたりまえの人間なら、傷心きわまり、それこそいても立ってもいられないはずだと私は思います。それがあたりまえの人間の心であり、あたりまえの人間の感覚なんだろうと私は思います。
したがって、もしそういうあたりまえの感覚がないとすれば、それは心ない人間なんだと思います。人間であって人間でない、人間という名をかむったまったく別のなにかなんだと思います。どう考えても私にはそうとしか思えません。
(中略)
1946年(昭21)の元旦、あなたは詔書を発布して(中略)自ら「神格」を否定されました
(中略)
自分の命令で多くの人を死地に追いおとしておいて、いまさら「信頼」だの「敬愛」だのといっても、余人はいざ知らず、私はもうそんなすらごとは一切信じません。騙されません。とにかく元旦の詔勅にはあなたの責任意識の片鱗だに見出すことができませんでした。
敗戦時の詔書にも同じことがいえます。国民はいうにおよばず、深刻な被害を加えた中国や東南アジアの国々にたいしても、あなたは“戦争は私の責任である、申訳なかった”と、ただのひと言も謝罪していません。そればかりでなく、戦後のどの詔書にもそのことにはひとことも触れてはいません。
こうして日米両政府の共謀によって「戦争被害の象徴」に祀りあげられた天皇裕仁は、誰一人に対しても「申訳なかった」という一言さえ、口にしたことはなかった。渡辺が喝破しているように、「敗戦の詔勅」においても、自分の責任を認め国民やアジア太平洋地域住民に謝罪するような表現は全く使われていない。それどころか、この「敗戦の詔勅」を注意深く読んでみれば、日本国が原爆という新型爆弾による破壊的被害を被ったと主張することで、その日本を象徴する「国体=生き神」である裕仁自身が自己免罪・免責をしようという画策が、すでに敗戦の8月15日の段階で行われていることが明らかに分かるはずである。
2)米日両国による「原爆神話」の捏造が天皇裕仁を「戦争被害の象徴」に変身させた発端
1945年8月6日、広島への原爆攻撃の16時間後、トルーマンはアメリカ国民向け声明をラジオ放送で次のように述べた。
世界は、最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことに注目するであろう。それは、われわれがこの最初の攻撃において、民間人の殺戮をできるだけ避けたかったからである。もし日本が降伏しないならば、(中略)不幸にして、多数の民間人の生命が失われるであろう。原爆を獲得したので、われわれはそれを使用した。
その後アメリカはまもなく、「原爆を使わなかったならば戦争は長引き、そのためさらに数百万人という犠牲者が出たはずである」という原爆無差別大量殺戮の正当化のための神話を作り上げ、現在もその神話が世界の大多数の市民の間に深く広く且つ強く浸透している。
この神話の問題の本質は、原爆攻撃の真の目的がソ連の対日戦争参加を阻止するためという極めて政治的なものであり、しかも日本政府が米国の原爆使用を自ら招くような形にするよう米国側が画策した「招爆画策」の結果として行われたという事実を隠蔽するために、このような「正当化論」を作り上げ、それを自国民はもちろん、世界中の人々に信じこませたという「神話化」にこそある。すなわち、この米国の「原爆使用正当化論」は非論理的だけではなく、実は虚妄以外のなにものでもないということ、このことこそを我々は問題にすべきなのである。米国政府はアジア太平洋戦争終結以来ずっとこの虚妄の正当化を主張し続けている。最近話題になった映画「オッペンハイマー」も、実は、この虚妄の正当化を観客が無意識のうちに受け入れてしまうように巧妙な形で制作されている(この米国側の「招爆画策」の詳細については、拙著『検証「戦後民主主義」:わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』第2章を参照されたし。映画「オッペンハイマー」批評については下記のブログ記事を参照されたし。https://yjtanaka.blogspot.com/2023/11/blog-post.html )。
一方、日本側も原爆無差別大量虐殺の被害を政治的に利用する独自の「神話」を創り出した。8月15日に裕仁が発表した「敗戦の詔書」は、日本が原爆無差別大量虐殺を被ったために日本が降伏したかのような印象を与えるために作られた。裕仁と日本の軍事指導者たちにとっては、最大の関心事は原爆被害ではなく、日本がソ連軍に侵略される危険性であり、その結果、天皇裕仁が戦争犯罪人として裁かれ天皇制も廃止される可能性だったという事実を、原爆を利用して隠蔽しようと謀ったというのが真実なのである。
よって、「敗戦の詔書」の原案では、原爆についてはまったく触れられていなかったのも、なんら不思議ではないのである。なぜなら、裕仁や閣僚、戦争指導者たちにとっては、原爆が降伏の決定的要因などとは考えてもいなかったのであるから、当然である。ところがその原案草稿が、高名な2人の学者(川田瑞穂と安岡正篤)の、あるいはそのうちのどちらか1人の提案によって修正され、以下のような言葉が加えられた。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶところ真にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却すべし」(敵は新たに残虐な爆弾〈=原子爆弾〉を使用して、罪のない人々を殺傷し、その被害ははかり知れない。それでもなお交戦を継続すれば、ついにわが民族の滅亡を招くだけでなく、それから引き続いて人類文明をも破壊することになってしまうだろう)。このようにして、日本もまた、独自の原爆神話を作り上げたのである。
裕仁は、降伏の決断を先延ばしにすることで、アメリカの原爆攻撃を招いてしまった責任の一端を担っていた。彼は、自らの命と地位と天皇制を維持するための条件付き降伏を求めて戦っていたのである。もちろん、ソ連軍が日本の本土に侵攻してくれば、それは不可能だった。彼は戦犯裁判にかけられ、処刑になることを恐れていたのである。最終的に、降伏に際して裕仁は、日本の侵略戦争、軍隊による数々の残虐行為、日本の植民地の朝鮮人や台湾人に対する搾取に対する自らの責任を隠蔽するためにも、原爆を利用したのである。アメリカは日本の条件付き降伏を受け入れ —— 実は最初から天皇を戦後の日本占領のために存続させ、政治的に利用するつもりであったゆえ——天皇制は維持された。
すでに述べたように、終戦直後、日本政府とGHQは、「平和主義」の裕仁は、戦時の軍指導層に操られていた戦争被害者であったかのように偽装し、裕仁の戦争犯罪と責任を隠蔽した。その上で、新憲法であたかも天皇が平和の象徴に戻ったごとく装った。かくして、日米両国は互いの二枚舌を黙認し合い、それぞれの戦争犯罪と責任を拒否し無視することを互いに受け入れた上で、戦後が始まったことになる。さらには、この政治的詐欺のせいで、日本もアメリカも、過去の悪行に対して責任を取るような倫理的想像力を働かせることに完全に失敗した。同時に、過去を厳密に自己検証することがなかったため、より人道的で創造的な未来を構想することもできなかった。
日米両国が、いかに都合よく各々の戦争責任を隠蔽するために、それぞれ独自の虚妄の「原爆神話」を創り上げたのか、我々はその歴史事実をもっと広く世界に普及させる運動を反核反戦市民運動の一環として行っていく必要がある。
政治家の嘘について、ハンナ・アーレントは以下のように述べている。
事態がまさしく嘘を語る者が主張するとおりであるかもしれないので、欺瞞はけっして理性と対立するようにはならない。嘘を語るものは聴衆が聞きたいと思っていることや聞くだろうと予期していることを前もって知っているという非常に有利な立場にいるので、嘘はしばしばリアリティよりもはるかにもっともらしく、理性にアピールする。嘘をつく人は公衆が信用してくれるように注意深く目配りしながら物語を用意するが、リアリティはわたしたちが受け入れる準備のできていない予期せぬものを突きつけるという困った習性をもっている」(ハンナ・アーレント『真実と政治/政治おける嘘』より)。
結局、戦争は常に、戦争中はもちろん戦後においても、戦勝国にも敗戦国にも真実を偽らせる。その意味では、戦争被害を被るのは人間だけではなく、「真実」も「虚偽」という戦争被害に晒されるのが、戦争のもつ必然性であると言えよう。戦争は、どんな形で行われ、どんな形で終結されようとも、結局は反民主主義的な国家原理(=「国益」のために「他者を殺し、自分も殺される」ことを国家が国民に強制する原理)で貫かれるのである。なぜなら、「人を殺す」ということは、いかなる理由があるにせよ、民主主義的な行動ではありえないからだ。
繰り返し述べておくが、最初は「敗戦の詔勅」で原爆に全ての責任を負わせる形で、天皇裕仁が自己自身を「戦争被害の国家的象徴」として打ち出し、それを引き継ぐような形で、今度は米国が天皇の「象徴権威」を日本占領政策に利用するために、日本政府と結託して、「軍に利用された平和主義者」=「戦争被害の象徴」として裕仁を祀りあげるという、まさに「虚妄の神話」を創り上げたのである。そして今や、その嘘が、リアリティよりもはるかにもっともらしく、我々にアピールしているのである。
3)「敗戦国ナショナリズムの象徴」としての天皇の「慰霊の旅」はすでに裕仁から始まっていた
このように1945年8月15日から早くも始まった原爆無差別大量殺戮の政治的利用は、敗戦後、日本の政治社会体制が「民主化」された後も、違った形で続いた。
1947年12月7日、広島は、原爆被害を国家被害のシンボルとすることで国家原理の中に取り込み、「戦争被害国家幻想」を作り出した張本人である裕仁の訪問を受けた。その日、天皇を迎え、爆心地の市民広場に約5万人の市民が集まったとのこと。この時の状況を中国新聞は、次のように報道している。「5万人の国歌大合唱が感激と興奮のルツボからとどろき渡る。陛下も感激を顔に表され、ともに君が代を口ずさまれた。涙…涙…感極まって興奮の涙が会場を包んだ」。感激にむせぶ群衆に向かって、裕仁は、「犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と、あたかも他人ごとのような言葉を発した。
このとき、裕仁が被爆者の健康について楠瀬常猪広島知事に質問したのに対し、知事は「人体の健康はまったく心配なく、植物が学問的にいえば多少の影響を残している程度で決してご心配はいらない」と述べている。裕仁の東京大空襲被害状況視察にあたって被害者の屍体がきれいに片付けられ、裕仁の目には触れられないようにしたのと同様に、広島でも再び被害の実相は裕仁には伝えられず、真の戦争被害者の姿は、「戦争被害の国家的象徴」である「天皇」の前からは消滅させられたのである。こうして、原爆ならびに焼夷弾無差別大量殺戮に対する責任を部分的に負っていた日本陸海軍大元帥=天皇である裕仁に、責任の自覚を被害者の側から促すことすらなかったというのが実態であった。
裕仁のこの広島訪問は、1946年2月から1954年8月まで、沖縄を除く日本全国各地を裕仁が巡り、天皇が国民に深い「慈愛」を表明する「巡幸」の一環として行われた。戦前・戦中は、皇室「慈愛」の象徴的活動は主として皇后、皇太后や女性の皇室メンバーに依拠しており、天皇は、どちらかと言えば「家父長」的な厳格な存在であり、帝国陸海軍大元帥という威厳のある権力保持者=父としてのイメージが国民に提示される傾向が強かった。にもかかわらず、「大御心(おおみこころ=天皇の心)は母心」というような表現もしばしば使われたように、「赤子」に対して「母性的なやさしさ」を兼ね備えている存在としても国民には知らしめられていた。戦後は、天皇の性格としてはそれまでは副次的性格であったこの「母性的なやさしさ」がにわかに強調されるようになり、皇后ではなく天皇がその「慈愛」の主体として、突然「おやさしい」存在として公的場所に現れるようになった。
こうして、「おやさしい」裕仁は、天皇制存続をかけて、戦災者激励、戦災復興状況視察、引き揚げ者援護状況視察に焦点を当てる形で全国各地を巡り、大衆に「慰めと激励の言葉」をかけ続けたのである。「慰めと激励」とは言っても、「食糧は足りているか」、「家族は無事だったか」といった類のごく形式的な、単調で無感情な言葉にすぎなかったが、新聞報道は「天皇の御高格を身近に拝し、其の厚き御仁愛を親しく直々に感受」(『静岡新聞』1946/06/19)とか、「陛下のどちらかといえば女性的なやさしい態度こそ実に、平和国家日本の象徴」(『東奥日報』1947/08/29日)という表現で、その「慈愛」深さと「平和的性格」を強調した。
明仁・美智子夫婦、徳仁・雅子夫婦の「おやさしい」被災地訪問や「慰霊の旅」の原型は、したがって、すでにこの裕仁の「巡幸」で堅固に創り上げられていたことが分かる。それにしても、当時の新聞報道による裕仁絶賛と、その後の明仁・美智子夫婦、徳仁・雅子夫婦のメディアによる絶賛の仕方が全く同じであることには啞然とせざるをえない。メディアの皇室報道での不甲斐なさは、この80年、なにも変わっていないのである。
「慈愛」に裏付けられた「象徴権威」は、しかしながら、「巡幸」でその「象徴権威」が高まれば高まるほど、戦災を引き起こしたことに最も責任のある人物の一人であり、まさに「象徴権威」の保持者本人である天皇裕仁の「罪と責任」を見えなくしてしまうという、隠蔽作用が働いた。しかも「象徴権威」は、そのような隠蔽作用だけではなく、皮肉なことには、その「戦争加害者・責任者」を逆に「被害者」の「象徴」として祀りあげてしまうという劇的な「逆転幻想効果」をも働かせたのである。なぜなら、論理的には、「慈愛」を施す「神聖な」主体である「象徴的人物」が、残虐な戦争犯罪を犯す加害者ではありえないからである。「おやさしい」性格であるからこそ、彼は軍人や政治権力者に利用された「戦争被害者」だということになる。「慈愛」は、本来「癒しの心」であり、それはもっぱら被害者向けであって、加害者にはそぐわない。戦争で肉体的にも精神的にも傷ついた多くの国民が渇望していたのは、食糧だけではなく、まさに「癒し」を与えてくれる「おやさしい権威者」であった。かくして、皮肉なことには、戦争を引き起こし、その結果、肉体的・精神的傷害を自分たちに与えただけではなく、その上に食糧難を産み出したことにも重大な責任を持つ人間を、「癒し」の「象徴」と見なすという大逆転の幻想に国民の多くがとりつかれてしまったのである。
敗戦直後には、東久邇宮内閣が「一億総懺悔」を唱え、戦争で敗けたことを全国民が天皇裕仁に懺悔する必要があると主張した。ところが、それから半年後の1946年2月から始まった「巡幸」では、「戦争被害の象徴」である「おやさしい」裕仁が、「敗戦に責任のある国民」に直接会って言葉をかけることで、彼らの「天皇に対する責任」が赦された。よって、「一億総懺悔」はすぐに忘れさられ、自己と天皇を戦争被害者として一体化する「一億総被害者」意識へと変転していったのもなんら不思議なことではなかったのである。言うまでもなく、「一億総被害者」意識は、日本という国そのものが戦争被害国であったという「戦争国家被害幻想」=「敗戦国ナショナリズム」を作り出し、それゆえ自分たちの加害責任を問わないという「一億総無責任」へと即刻直結したのである。
かくして、日本国民は天皇をまさに自分たちの戦争被害体験の象徴と見なすようになり、日本人だけが被害者という「一億総被害者意識」からは、それゆえ他のアジア人である日本軍の残虐行為の被害者は完全に排除されてしまい、朝鮮人被爆者ですら長年の間「被爆者」とは見なされなくなり、今もってその差別は続いている。その一方で、日本人は、その加害の張本人であるアメリカ政府の責任を追及することもせず、日本人がアジア太平洋各地で繰り広げた残虐行為の加害責任を問うこともしないという、甚だしく奇妙な「加害者不在の被害者意識」にとらわれるようになったのである。
4)結論:「敗戦国ナショナリズム」の「国家防衛ナショナリズム」への大転換の危険性にいかにすれば対抗できるか
では、「敗戦国ナショナリズム」に浸りきっている日本の現状を変革するには我々はどうしたらよいのであろうか?
日本の戦後ナショナリズムは、実は、戦争加害責任を逃れるために、専ら自分たちが受けた被害だけに焦点を当てる「慰霊」を、天皇の象徴権威を強力な媒介にして執り行うという、「敗戦国ナショナリズム」の形態で、つまり、ナショナリズムが剥き出しではない形で、それゆえ国民の多くがそれをナショナリズムとは意識しない形で表象化され、日本社会に広く深く浸透してきた。「慰霊の旅」を続ける天皇夫婦を絶賛し、「提灯奉迎」に参加して感激する多くの一般市民は、自分たちが、例えば「日本会議」のメンバーのような右翼などではないと思っているであろう。
しかし、天皇の「象徴権威」を強固な中心軸にして多くの日本人の情念に強烈に影響を与え続けるこの「敗戦国ナショナリズム」は、前回の論考でも少し述べておいたように、「悲しい犠牲を再度出さないための国家防衛」という「国家防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいる。「おやさしい、慈愛あふれる天皇」を、国民をまもるために、再度「厳格で威厳のある父親的な権威」を発揮する象徴天皇へと逆戻りさせることは、為政者にとってはいとも簡単である。なぜなら、天皇崇拝は理性ではなく、理性をあくまでも拒否する情念——それが「天皇制イデオロギー」の本質的な性格だからである。例えば、戦争を遂行するためには、理性を拒否する情念の一種である敵国人種・民族に対する差別や憎悪が煽られるのが常である。この「(在日を含む)外国人差別」の点でも、日本はすでに「国家防衛ナショナリズム」への転換への危険性を大いに孕んでいる。
それと並行して、国家原理(=「国益」のために「他者を殺し、自分も殺される」ことを国家が国民に強制する原理)もまた、憲法9条ゆえに、その原理を剥き出しで露呈することは難しいため、戦後長年にわたって「平和を守る」というお題目で、つまり糖衣をかける形で軍事力の強化をすすめてきた。そしていまや、現在の日本の軍事力は ——猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化などから —— 「〈平和を守る〉国家防衛の最も強力な手段は、敵地攻撃能力の保持・強化」という戦略に沿うものへと急速に転換しつつある。
この謂わばハードウェアー面で急速に変化する状況を、ソフトウェアーである国民の情念=天皇の「象徴権威」崇拝によっても支える必要があると考える為政者たちが、「敗戦国ナショナリズム」の象徴である天皇を、「国家防衛ナショナリズム」の象徴へと転換させる危険性は、もうすぐそこまで迫ってきている。おそらく、その手始めとして、もう数年もすれば、自衛隊の閲兵式は、首相ではなく天皇が行うようになるのではなかろうかと私は懸念する。
では、最初の問いに戻るが、「敗戦国ナショナリズム」に浸りきっている日本の現状を変革するには我々はどうしたらよいのであろうか?
残念ながら、これまでの市民運動のやり方では、とうていこの問題に対処していくことは無理であると私は考える。なぜなら、我々の相手は、単なる政治的な問題ではない。我々の敵対者は、日本社会の隅々にまで沁み渡っている「天皇制イデオロギー」という怪物、理性を喰い殺す大怪物である「日本の情念文化」だからである。日本の国家原理もまた、この「日本の情念文化」に支えられている。これに我々が対抗していくためには、理性に訴える市民運動で理性をあくまで拒絶する情念文化に立ち向かっても、ほとんど何の効果もないであろう。よって、こちら側も全く違った形での「情念文化」——「天皇制イデオロギー」を喰い殺すことができるような——謂わば人類普遍的な「人道的情念文化」と称することができる文化の構築運動を展開していくより他には道はないのでは、と私は考えている。
その詳しい議論は、またの機会があればと願っているが、結びとして、加藤周一の言葉で、この2回にわたる論考を一応終わらせていただく。
天皇制は何故やめなければならないのか。理由は簡単である。天皇制は戦争の原因であったし、やめなければ又戦争の原因となるかも知れないからである。
—終—
