日本ナショナリズム研究会:第1期
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その2
伊藤晃
「万邦に対峙する」観念の江戸期における準備 2
幕末公議思想
19世紀半ば、江戸幕府体制が社会的・政治的危機に面していたこと、そこに欧米列強の「外圧」が加わってきたこと、これらは前回に述べた通りです。武士支配集団は、この二重の危機を切り抜け、国土と人民とへの支配を守らなければなりません。この時期、体制への批判・変革に立つべき人民勢力の主体形成は遅れていましたから、ここに武士集団支配の自己転換が試みられる余地がありました。水戸・薩摩・長州・越前・土佐・肥前などに動きがあります。少壮改革派が発生し、やがて彼らの間に連絡も始まります。ペリー来航以降にわかに深まった危機への対応、そのイニシアティヴの争奪をめぐってこれら諸藩が幕府批判派となり、幕末の政局が展開されます。「外圧」に対して武士集団の一般的傾向は攘夷ですが、外交当事者として現実的に対応せざるを得ない幕府に対して、批判派の中に急進攘夷運動が起こる。これらは幕府権力に対して自派の統一と権威のよりどころとして朝廷を押し出し、ここに尊王攘夷運動の高揚ということになりますが、明治維新にまで至る幕府・反幕府の抗争は皆さんよくご存知のことでしょう。
この過程で浮かび上がってくるのが「公議」、「公論」・「公議世論」、みな同じ意味ですが、そういう考えです。いずれの派にせよ、権力構想には有効な武士集団統一の方式、国家意思決定方式が必要で、そこに「公議」が着目されたのです。バラバラな私的意見を公(おおやけ)議論を通じてまとめ、一つの意思に作り上げる、そのための場を作る、ということです。欧米の議会政治から示唆を得たものですが、当時そうした海外事情は、流入する海外文献、また幕府側からも反幕府側(こちらは差当り非合法)からも海外に送られた人々からの情報(福沢諭吉の『西洋事情』などがことに有名)を通じて、武士知識層にある程度知られるようになっていたのです(海外渡航者の欧米議会を見ての感想はなかなか面白い。「たくさんの男がみな筒袖股引姿(洋服のこと)で大きな広間にがやがやしている。1人が腕を振りまわして大きな声でしゃべる。高いところに1人いるのが全体を指図している。なにか、どこかの魚市場で競りでも見ているようだ」云々)。
もちろん公議といっても、その範囲は政治抗争の当事者、諸侯や諸藩の指導的幹部、つまり武士指導層で、庶民に言及することもあるが、豪農層の一部くらいが頭にあるのでしょう。また広く議論をかわすといっても、それが一つの意志にまとまる保障が必ずしもあるわけではなく、ほとんどの構想が、天皇のもとでの公議を考えているのです。後でいう天皇のもつ歴史的権威が思い出されているのです。しかしいずれにせよ、公議は当時の国家構想にかかわるいくつかの提案に採用されます(例えば坂本龍馬が考えたという「船中八策」など)。やがて幕府との妥協を画策した土佐藩による幕府への大政奉還提案にも取り入れられ、明治維新権力の「五か条の誓文」(広く会議を興し万機公論にに決すべし)につながっていきました。幕府批判派のなかで土佐藩に対して武力討幕方針をとったのが薩摩・長州両藩ですが、こちらも武力独裁権力が天皇を独占することで、自らを私的武力でない「公」に転化させ、さきの「五か条の誓文」を出したりもしたのです。
私は、「公議」という西洋の政治思想を日本で主体的に実現しようというとき天皇が出てくる、これが重要だと思うのです。政治的に「公」性を得る保障を、天皇すなわちすべての「私を超えたとされる権威が与える(佐久間象山の西洋の芸に対する東洋の道徳の、これも一つの表れでしょう)。なぜここで天皇が出てこなければならないのか。私は、天皇というものが日本の国家史上いつもある働きをしていたことが、当時の政権争奪当事者のだれもの頭にあったと思うのです。この天皇の働きについて私は『反天ジャーナル』に寄稿した「象徴天皇制を批判するとはどういうことか——子安宣邦『天皇論』について」で自分の考えを少し述べておきましたからご参照ください。
つまり天皇が権力抗争の当事者でなく、支配諸集団間の妥協・融和を通じて、その統合更新の機能を果たすということですが、これが幕末・維新の政局でも思い出されたわけです。ただしこのとき新権力は天皇を権力機構内に直接加わらせることで働かせようとしたのですが(お配りした資料「維新の宸翰」参照)。
公議論は、19世紀欧米立憲制が日本にとってモデルになったことを意味しますが、これについてもう一つ重要なのは、欧米立憲主義の本質的な政治的歴史的内容(人民勢力と君主権力との抗争——裏から見れば妥協)に理解が弱く、一つの結論に到達するための形式として受け取られた、ということでしょう。国家の意志が作られて権威をもって働くための国家機関としての議会。のちに帝国議会が開設されるときも、この場に人民の代表を参加させる、国家指導集団が作った国会に人民を引き込む、という発想が働いたと思います。こんにちも、国会での議決が主として国会意志の正統性の保障として働かされる傾向が眼につきますが、この伝統を受け継いているような気がします。
幕末における日本文化論の一源流 本居宣長
欧米文化の受け入れは、その際の日本の主体性という問題を伴う(象山の東洋の道徳・西洋の芸)、これをもう一度考えてみます。明治以降多くの日本文化論が生まれたということに関してですが、この「日本文化の自覚」も幕末に準備が始まります。その最重要の一つとして、まだ西洋への直接的な対抗意識ということではなく、むしろ中国文化からの自立の意識ですが、本居宣長の「日本への自覚」、彼の「国学」にこの問題を見ておくことにします(彼以前の国学の伝統については省略)。
宣長の国学は、古日本語の研究、古日本人の心性論、日本古典文学の研究などにわたりますが、いずれについても中国文化からの日本の自立という考えが大きな推進力になっています。
古日本語については、日本に独自の文字なかった時代、中国文字を借りて日本語の表記に使った、そこで古文献に書かれている漢字が日本語のどの語に当るのか、これもいちいち解明してことばを復元し、文章を解読した。これがたとえば『古事記伝』という、30年以上かけたとされる大研究です。文化的言語としての日本語が古代に中国語から独立して存在していたことの実証を試みたわけです。国民語の自立は近代国民国家形成の不可欠の要素で、ヨーロッパのルネサンス期にも文化的学術的方面でのラテン語からの自立がありましたが、宣長の仕事にもそうした意味があったでしょう。ただし彼は国民語の根拠を古代日本の古典語に求めたのであって、現に日本人民に使われていることばを洗錬し、高めるということがありませんでした。人民の文芸語を戯作文学の水準から脱却させるというようなことも重要な課題だったと私は思うのですが。
宣長は古文献の言語的研究から日本人の心を探る方向へ進みます。戦前に村岡典嗣という学者が、ここにヨーロッパの「文献学」(philology。文献に書かれたことの読解・解釈を通じて、その時代の人が認識していたことを後代のわれわれが再認識する学問)と似た方法があると言いましたが、たしかに宣長はそれをやった。ところが彼はそこからさらに進んで、古日本人の心性に止まらず、それが後代まで日本人の心性一般に通じていると考えたようなのです。彼が古日本人に見たのは、神が意志し、定めたことに「さかしら」(利口ぶった浅知恵)を働かせず素直に明るくそれを受けとる心、「神ながらの心」ですが、こういう権威に従順な自分を言い立てない心を当代の日本人にもあるべき心としたのです。こういう宣長の思想が近代日本のある時期に大いにもてはやされたことはご存知でしょう。
この「神ながらの日本」賛美と反中国意識が結びついています。日本には神がいて人のあるべき姿を教えるからこういう「直き明き心」があるのだが、中国には神の定める道がないため、浅はかな人間が人智で争いあって国を奪いあうあさましい国柄なのだ、と宣長は言います(それに対して日本には万世一系の天皇がいる)。儒教の教えが道徳や政治秩序、仁だの礼だのを説くのはこうした欠落への対処としてにすぎない、しかも当然効果はあがらない。日本人がこれを人倫・政治の道として学ぶなどとんでもないことだ。これを言う宣長の中国批判のことばは罵りに近いものです。これも近代日本に反中国、中国蔑視が現れてくるとき、それらにある原型を与えました。
つぎに、宣長の日本文学研究は、和歌と源氏物語が中心ですが、彼が据えた基本概念「もののあはれ」は、こんにちでも日本文化の基本性格を語る美的理念として、広い支持があります。
宣長は文学を儒教・仏教の思想にもとづいて考えることに反対します。文学研究に理知的判断、勧善微悪はもちろん、積極的自己判断、主体性や能動性、意志的自己決定的、雄々しい、といった面は文学の価値基準として不適当、それは人間というものが本来そういうものでないからだ。日本の文学は、人間のありのままのあり方、おろかで弱くなさけない、だらしがない、柔弱未練、女々しい、そういうものを素直に表現するのだ(「きっとした」雄々しい心を言いたがる、人の感情よりも理屈道徳を先立たせたがる、そういうものは中国思想だ)というのです(「雄々しいに反対だ」は私は支持しますが)。人事・自然を問わず人の心にしみじみとした情趣(もののあはれ)が感じられ、あふれ出るやみがたい感情が生まれるとき、それをそのまま受けとり、表現するのだ。こういう情趣はことに男女の関係、恋において感じられるものだから、それが日本文学の主たるテーマになるのだ。
この「もののあはれ」を中心におく文学理念は、道徳や政治価値で文学を考えるのに比べれば、文学・芸術の価値の独自性を認めた点、正しいと思います。武士道的なものと並んで日本人の文化感覚の底にもののあはれを置く考えは今も強くありますが、そこにはもっともな面もある。しかし私の考えでは宣長の論には別の一面性もあって、彼の源氏物語研究を見ると、それに由来する大きな見落としがあった、と思われるのです。
源氏物語の大テーマは男と女との別れ話です。ところが宣長の源氏物語論にはこのことへの深い言及がないようです。
源氏物語には「世」ということばがよく出てきます。社会とか世間とか一般的意味でなく、この物語では男・女の関係を言うのにこのことばを使う。源氏物語は光源氏という人と「世」を取り結んだ多くの女たちの物語です。
光源氏という人物を、作者(紫式部)は、まったく申し分のない、時代の価値意識、美意識に合った人として設定しています。彼が多情なのも、あらゆる女に「もののあはれ」を見るからです。だから自然、多くの女性が源氏に惹かれるものを感じますが、そこに「世」が成立したとき、女性たちの多くが源氏との「世」において自分は何であるのか、自分にとってこの「世」は何であるのか、に深く悩み、苦しみます。そして結局多くの女が(すべてのではないが)、自分はこの源氏との「世」から離れようと決心し、自らの意志的行為によってそれを貫く。これが源氏物語の中心テーマだと私には思われます。ところが宣長はこのことに関心がうすかったらしい。多分女性たちの「きっとした」ふるまいが気に入らなかったのではないだろうか。全巻を通してこの物語では、通常女より男の方に片寄せて理解されてきた理性とか意思とかが、女の方に片寄せられていると言えるでしょう。だから、この物語の作者紫式部と宣長とにははじめからズレがあるのです。
この物語に描かれた女性たちの悩みや苦しみ、行動には人の感情に激しく訴えるもの、つまり「もののあはれ」があります。ところが宣長が感じとったものを例示しているのを読むと、女性の悩みそれ自体よりは、源氏がそれらを見たときに覚えたあれこれの興趣であるように思えます。源氏は多感だから、女性たちに発する「もののあはれ」から得た感情に心を浸す。しかしそれを「わかる」こと、まして心を一つにすることはない。この物語では、女性が男性の心に感興を満たさせるための客体になっていることが書かれている。作者はこの関係そのものを書いているが、宣長は心を満たされる男に共感してそれで終わりです。
源氏物語はたしかに男女間の「世」における「もののあはれ」を書いているのです。そしてその「世」は、この関係において満足を覚える男の立場と、そこで自分が否定されていると感じる女の立場が表裏をなしています。宣長にはこの一面しか見えなかった。女性の側からの批判を重要契機として作られている緊張した男と女の関係構造としての「世」、この「世」に対する女性側からの批判を一つの物語にした、そういうものとして源氏物語は一つの思想小説なのだ、と私は思います。これへの宣長の浅い理解には、男の眼を普遍的な眼とみるところの、ある種の男権主義が働いていた、というべきかもしれません。私は多くある宣長研究を広くは読んでいないけれども、一般にこのことへの関心はあまり強くないのではないでしょうか。男権主義についてはこの研究会でもこれからいろいろ議論する機会があるでしょうが、私は男権主義というものがどこの国でもナショナリズムの重要な構成要素になっていると考えています。こんにちも肯定的に迎えられることの多い宣長の日本文化論は、この観点からも日本ナショナリズム批判の一環になるのではないかと思い、私の素人考えをお話しいたしました。
2025年9月19日 於文京区民センター
「日本ナショナリズム研究会」が伊藤晃さんを中心に2025年6月からスタートしました。この「日本ナショナリズム研究」シリーズでは、研究会での伊藤さんの報告記録を随時掲載していく予定です。どうぞ、お楽しみに。
