中村利也(差別・排外主義に反対する連絡会)
日本の原水爆禁止運動に対する違和感
今年が「戦後80年」ということで、「かつての戦争」を問う報道や番組、論述が数多く発表されている。その中では、広島・長崎の原爆被害の実態や経験、投下の是非を問い直す取り組みも例年に比べ多いように感じる。それはかつてないほどに核兵器使用の可能性が高まっている世界情勢にも影響されていると思う。広島で開催された平和祈念式典には過去最多の120か国・地域、EU代表部が出席(ロシアと中国は欠席)した。しかし、「世界初の」原爆投下を巡る問題や原水爆禁止を巡る課題、諸問題に鋭く切り込んだ報道や分析はさほど多くはなかったように感じる。何が問われているのか。
昨年、ノーベル平和賞を日本の被団協(被爆者団体協議会)が受賞した。ノーベル平和賞自体はかなり政治色を帯びており、演説(プラハ)しただけで受賞したオバマ元米大統領や「非核三原則」を表明しNPT=核拡散防止条約に署名したとして受賞した佐藤栄作元首相が、実際には核拡大に役割を果たしたことを思えば、無条件には評価できない。
しかし、被団協の受賞には率直に祝意を表したい。米軍の占領下で悲惨な被爆被害を訴えることも出来ず、逆にアメリカによって原爆の効果の「研究材料」にすらされてきた。声を上げられたのは占領が解けた1950年代になってからだ。それ以降も日本社会から差別・偏見の目で見られ、その歩みは決して平坦ではなかったと思う。核兵器の廃絶と被爆体験の継承という不断の労苦がようやく報われたのだ。
一方で、日本の原水爆禁止運動には大いなる違和感を持たざるを得ない。被害者の運動ではなく、政党や労働組合、市民によって組織され推進されてきた運動に対してだ。
原水爆禁止運動は、1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被爆し(他にも多くの漁船が被爆した)、放射能に汚染されたマグロが築地市場で廃棄処分されるなどして日本中がパニックとなり、築地に出入りしていた杉並区の鮮魚商の妻が区内で開かれた女性団体の集会で署名を訴えたのが始まりだとされる。そこから一気に運動が広がり、同年8月には早くも原水爆禁止署名運動全国協議会が発足。翌年8月には広島で「第1回原水爆禁止世界大会」が開催され、署名運動全国協議会と世界大会を母体に原水爆禁止日本協議会が結成された。以降、路線の違いから共産党系、社会党系、民社党系に分裂していくが、原水爆禁止運動が戦後の反戦・平和運動の大きな推進力になっていったことは確かだろう。
しかし、この運動はいくつもの欠陥、限界を持っていた。一つは、アメリカの原爆投下の責任を問うてこなかったことであり、もう一つは朝鮮人被爆者の問題に取り組んでこなかったことだ。この事実は原爆問題だけではなく、帝国主義の植民地支配、他民族抑圧政策を問うてこなかった点、「唯一の被爆国」という自己規定が日本のアジアへの加害責任を覆い隠し、戦争責任、植民地支配、ひいては天皇の戦争責任を追及して来なかった日本の反戦・平和運動の欠点、問題点にもつながっている。
アメリカの原爆投下の戦争責任、そのすり替え
第1のアメリカの原爆投下の責任、民間人の大量殺害という戦争犯罪を追及して来なかった点は、当初からアメリカの周到な政策の成果だとも言える。アメリカは「原爆投下によって戦争終結が早まった」とその正当性を語り、原子力が「世界平和を維持するための強く効果的な力になる(トルーマン大統領声明)」ことを宣伝してきた。また、昨年封切られた映画『オッペンハイマー』でも描かれているが、「ナチスに先んじて開発をしなければいけなかったのだ」とも正当化する。第二次世界大戦で「1人勝ち」になったアメリカの自分勝手な論理に反対する国は(少なくとも資本主義国では)なく、むしろイギリスやフランスはその後を追い、核拡散が進行する。しかし、昨年放映されたNHK朝ドラの『虎と翼』でも描かれたが、1955年広島と長崎の被爆者たちが、サンフランシス講和条約でアメリカへの賠償放棄を行った日本政府を相手取り賠償請求訴訟を起こした。そして、63年12月三淵嘉子裁判官を始めとする東京地裁は原告の訴えは退けたが、原爆投下は「(非人道的な兵器の使用を禁止した)セント・ペテルスブルグ宣言やハーグ陸戦法規などの国際法に違反する」とアメリカの戦争犯罪を明確に認めたのだった。
同日の各紙の夕刊はこの判決をトップで報じた(山我浩『原爆裁判』毎日ワンズ)が、この判決を受けて、原水爆禁止運動の中でアメリカの原爆投下を追及する声は上がったのだろうか?知識がないので確定的なことは言えないが、知る限りにおいてはそうした声は大きくは上がってこなかったのではなかったろうか。アメリカの戦争犯罪を追及する被爆者の声は、原水爆禁止運動には届かなかった、いや無視すらされたのではないか。
日本政府・社会はむしろ「原子力の平和利用」「原子力発電所建設」に向いていく。原水禁運動の一方の担い手であった共産党系も、福島原発事故以前は、「反核」「反原発」を進めてきた市民運動などを「科学技術の進歩を敵視する反科学主義」と批判し、「安全な原子炉の開発」を掲げていた(『原発推進政策を転換せよ』日本共産党中央委員会出版局1988/7/1初版発行)。
原爆投下以降、「原子力は平和に利用できる」という言説はアメリカの政策だった。長崎で原爆により妻を亡くし、自身も被爆して「幼子二人を残して、病のためまもなく逝く父」として自らの体験を綴った『長崎の鐘』がベストセラーとなった医師の永井隆もそうした役割を担っていた。同書で永井は「原子爆弾の吹き飛ばした穴を通して、新しい世界の光が射し出すのを人類は見た」とむしろ原爆投下を評価すらしている(柴田優呼『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』作品社)。
今年3月、これまで沖縄戦で亡くなった犠牲者の遺骨発掘活動を続けてきた「ガマフヤー」の共同代表の具志堅隆松さんが、新たに、東京大空襲の司令官だったカーチス・ルメイに勲章(最高位の勲位一等旭日大綬章)を授与したのは不当だと政府に迫った。カーチスは原爆投下の直接の指揮官ではなかったが、原爆を搭載したB29が所属していたテニアン島の基地司令官として、命令書を手渡し、ゴーサインを出した(上岡伸雄『東京大空襲を指揮した男 カーチス・ルメイ』ハヤカワ新書)のだから責任はある。こうした事実も歴史に埋もれていた。
かつてオバマ大統領は広島の平和式典で「雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」と他人事のような無責任な演説をぶった。しかし、これに対する厳しい批判は日本も反戦・平和運動の中からも巻き起こらなかった。アメリカの原爆投下の責任を問うことは、翻ってアジアに対する日本の加害責任を問うことにつながる、という警戒心が働いていなかっただろうか。かなり穿った見方かも分からないが、もし日本の運動の側にそうした意識があるとすればまずそこから克服していく必要があるのではないか。
朝鮮人被爆者の切り捨て・無視
第2は、原水爆禁止運動に限らず、日本社会や日本の「反戦・平和運動」が長い間、朝鮮人被爆者の存在を無視してきた点だ。広島では在日朝鮮人約5万人が被爆し約3万人が死亡、長崎では約2万人が被爆し約1万2千人が死亡したとされる。しかし、多くの被爆者が帰国したこともあり、戦後長い間朝鮮人被爆者の存在は忘れ去られていた。60年代中頃、後に広島市長になる、当時『中国新聞』記者の平岡敬氏やキリスト団体の取り組みを除いては、私自身も含め日本社会がそうした人々に関心を向けるようになったのは1970年釜山在住の被爆者、孫振斗さんが治療のため日本に密入国し逮捕された事件からだった(映画『倭奴(イエノム)へ 在韓被爆者・無告の二十六年』1971)。
孫さんは被爆者手帳交付を求め訴訟を起こし、日本の市民は「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」を結成、孫さんの訴訟を支援していく。孫さんは入管令違反事件で刑務所や大村収容所(強制送還のための施設)に収監されながら訴訟を続け、1978年、最高裁で勝訴した。
孫さんの提訴をきっかけに、1972年の原水爆禁止世界大会(社会党系)の基調に初めて「朝鮮人被爆者問題」が登場、分科会報告に「『日本国民は唯一の被爆国民』という言葉を改め、朝鮮人・中国人等の外国人被爆者の実態調査に立ち上がり、その救援運動に併せて取り組むことを確認した」と記載された(「広島ブログ」2025/7/16)。
原爆医療法には「国籍条項」はなく、在日韓国人の中からは日本人と同様の被爆者手帳の交付や被爆者を追悼する動きは早くからあった。しかし、日本社会の無関心、偏見と差別の中で実際には在日韓国・朝鮮人は排除されていた。1965年に締結された日韓条約や法的地位協定でも明記されなかった。日本政府は「請求権は放棄された」と朝鮮人被爆者の声に対してより一層無視を決め込んだ。
その一方で、在日韓国人有志によって1970年4月、平和公園の外側、本川橋西詰めに韓国人原爆犠牲者慰霊碑が完成する。「公園内に新たなモニュメントは認めない」という市の方針による。これは明らかな差別だと批判され、1999年になってやっと平和公園内に移設された。
長崎でも1965年、ルーテル教会の岡正治牧師らによって「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が設立され、79年8月9日、長崎平和公園内に長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑を建立する。更に岡牧師らは、81年から長崎の被爆者の実態調査を始め、記録集『原爆と朝鮮人』(全6集)を出版した。
私は1981・2年頃広島と長崎を訪れたことがある。まだ広島平和公園の外にあった韓国人犠牲者追悼碑を見て違和感と不快感を覚えた。長崎では8月9日、追悼碑の前で行われた朝鮮人被爆者追悼式に参加させていただき、岡牧師や長崎県朝鮮人被爆者協議会の朴玟奎会長からお話をお聞きした。碑は平和公園内と言ってもかなり端の目立たない場所にあり、ここでも「差別・排除」の雰囲気を感じた。
1981年盛善吉監督により映画『世界の人へ 朝鮮人被爆者の記録』が製作された。1986年には在日朝鮮人二世の朴壽南さんにより映画『もうひとつのヒロシマ~アリアンのうた』が製作され、各地で上映運動が行われた(私自身も地域の上映会に参加した)。
90年代に入り、戦後帰国した在韓被爆者からの訴えも起きた。1995年には、朝鮮半島から広島市の旧三菱重工業の工場に強制連行され被爆した韓国人の元徴用工40人(うち25人が提訴後に死亡)が、国や三菱重工業などに対し、未払い賃金の支払いや補償を求めて提訴した。2005年の広島高裁二審判決では国に総額4800万円の賠償が命じられた。2007年11月1日、最高裁第一小法廷は、「海外に住む被爆者に手当を支給しなかったのは違法」として国の上告を棄却し、二審の広島高裁判決が確定した。実に戦後60年以上経ってから司法による救済が実現したのだ。
戦後の原水禁運動、反戦・平和運動を問い直す
核兵器は現在、決して「抑止」されていない。それどころかむしろ使用の危険性が増している。侵略に粘り強く抵抗するウクライナに対し、プーチン大統領は核兵器の使用を否定していない。イスラエル政府の幹部は、パレスチナ・ガザでの核兵器使用を辞さないと発言している。バイデン前米大統領は核戦略を改定した「核使用ガイダンス」を承認した。そして、トランプ大統領はイランの核施設を空爆した。広島の平和式典で湯崎県知事は「核抑止論はフィクション」と批判したが、石破首相は「核共有及び核持ち込み」論が持論だった。
新たに首相に就任した高市氏は、かつて「非核三原則について「米国の拡大抑止のもとにあるのであれば『持ち込ませず』についてはしっかりと議論しなければいけない」と発言している。また、連立政権を組む日本維新の会も22年、米国の核兵器を日本に配備して共同運用する「核共有」の議論を政府に求める提言を外務省に提出している(『毎日新聞』2025/10/22)。危険な政権が誕生したと言える。
以上指摘してきたアメリカの原爆投下責任を問う声や朝鮮人被爆者支援を求める声は、なお小さいと言わざるを得ない。「戦後80年」を問う一環として、日本の原水爆禁止運動、反戦・平和運動が見落としてきた点は何なのか、今後の運動に何が求め求められているのか、改めて考えていく必要がある。
			