土方美雄
中曽根首相による「靖国公式参拝」への道 その9
結局は、奥野個人の作文として、見解がまとめられたのが、(1983年)11月14日のこと。同見解は翌15日の、政調会内閣部会と小委員会の合同会議で了承され、同24日の政調審議会で了承されたあと、党3役あずかりとなり、今年(84年)の4月13日の総務会での了承で、自民党としての正式な党決定となった。
見解は5つの項目からなる主文に、詳細な解説がつけられている。
まず、(1)では、77年津地鎮祭最高裁判決(津市が体育館を起工するにあたって行われた神道式地鎮祭が憲法の政教分離規定に抵触するか否かが争われたもので、最高裁は地鎮祭を「世俗的行事」と強弁、逆転「合憲」判決を下した) から、
①憲法で禁止される宗教的活動は、その目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような行為で、その典型的なものは宗教の布教、教化、宣伝等
②挙式に際し、教職への報償および供物料を市の公金から支出しているが、特定の宗教組織・団体に対する財政支援的支出とはいえず、憲法89条に違反しない
の2個所を引用している。
これが「目的・効果論」といわれるもので、津最高裁判決には15名中5名の裁判官の連名で、「政教分離の原則を多数意見のように解すると、国家と宗教の結びつきを容易に許し、ひいては信教の自由の保障そのものをゆるがしかねない」との異例の反対意見がつけ加えられている。
ところが自民見解はこの反対意見の存在を全く無視した上で、多数意見を、それも恣意的に引用するのである。1例をあげれば、「典型的なものは」云々といって、あたかも参拝が禁止される宗教的活動ではないかのごとく結論づけるのであるが、同判決では引用個所のすぐあとに「そのほか宗教上の祝典、儀式、行事であっても、その目的・効果によっては禁止されるものもある」という文が続くのだ。さらに、津判決は1回限りの神式地鎮祭に対する判決であり、それをもって、恒常的に行われる公式参拝の「合憲」根拠として引用できるなずもないことは、いうまでもない。
(2)では彼等のいうところの「憲法の宗教に関する規定の精神を具体的に敷衍されたとされる」教育基本法を引き、
「宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」(9条1項)「国及び地方公共団体が設定する学校は特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」(同2項)と規定しているから、「禁止されている宗教教育や宗教的活動は宗派教育であり、宗派活動であると理解することができる」と、主張する。
「特定の宗教のため」という字句のみをとらえて、国が宗教的活動をすることを否定していない論拠とすることは、到底できないことである。見解が教育基本法が憲法の精神を具体化したものだとするなら、20条3項の「いかなる宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という個所をどう説明するつもりなのか、一度うかがってみたいものである。さらに、これは明確に「神道=非宗教」という国家神道的考えの上に立った見解だということができる。
(3)では「前2項から判断すれば」として、
①公的機関が慰霊、表敬、慶祝等を行うことが適当と考えられる場合に、その目的で神社・寺院等を訪れて礼拝を行い、同時に宗教行事に参加して弔意や祝意を表する等のことは、憲法の禁止する宗教的活動にはあたらない
②その際の玉串料、香華料等を公費で負担しても、供物等を整える経費などにあてられるものであって、当該宗教法人に対するものでないから、89条に違反しないとの結論を引き出している。
(4)(5)は(1)〜(3)までが「合憲」根拠づけのためのいわば屁理屈とすれば、見解の本音の部分である。
まず(4)では、1945年の神道指令は国家主義の淵源をなし、国民を団結させる魔力を持つ神道の排除を意図したもので、独立を回復している今日では効力を失っている、占領政策の洗脳から自己を取り戻していくことが必要……と述べ、さらに解説の中では「憲法の中には占領政策の方向が凍結された形で刻み込まれていることも理解しておく必要がある」と、暗に現憲法を批判する。中曽根のいうところの「戦後政治の総決算」の中身がまさにこれだ。
(5)は2つの部分からなる。
①靖国神社は国家のために命を捧げた全国の戦没者を祀るところである。戦没者のみならず、多くの国民がここを訪れる。それはもっぱら、戦没者が国家のために尊い生命を捧げたという事実に対し、感謝の敬意を表し、みたまを慰め、訪れる者の決意を表明するなどの意図に出るものである
②国を代表する内閣総理大臣が靖国神社を訪れるのは当然の関係である。内閣総理大臣と記帳しての参拝は、公人としての公的参拝とうけとめることができる。多くの人たちの望んでいるのはこのことであって、あえて閣議決定などの様式を望んでいるのではない。
なお、解説の部分ではさらに踏み込んで、「国の独立を守ることは、国民の最も崇高な義務」であるにはじまり、「私人としての参拝ではなく、公人としての公的参拝がふさわしいところである。宗教問題をこえた国民の心情の発露である」などと、まさにいいたい放題の感がある。
ただ一点、(5)の後半で、見解が「閣議決定によらない公人としての公的参拝」なる新たな路線を打ち出していることに注意を喚起しておこう。一気に「公式参拝」が無理なら、当面は「公的参拝」で……との考えとも思われる。
以下、続きます。
