・6月4〜5日(2025)、天皇徳仁は皇后雅子と娘の愛子とともに、沖縄への「慰霊・追悼」に出かけた。訪問が決まったその日から、天皇および天皇制国家と沖縄に関する歴史や天皇たちの沖縄への「思い」について、報道ラッシュが続いた。それらは、天皇制と国にとって都合のよい情報ばかりで、都合の悪いことにはダンマリを決め込んでいた。
・首都圏の反天皇制運動の実行委は天皇たちが出発する前日の6月3日、東京駅から皇居に向かう「行幸通り」と呼ばれる大きな通りで、抗議のスタンディング行った。雨が降りしきるなか、メディアが語らない天皇の沖縄慰霊の旅の問題について訴えられた4人の発言を紹介します。
・以下は、発言者のお一人である米須清真さんのスピーチを、ご本人に文章にしていただいたものです。
天皇の訪沖について——
米須清真
2025年6月の初め、日本の天皇が沖縄に訪問しました。報道によれば「戦後80年」の「戦没者慰霊」を目的としたものだということです。さまざまなメディア報道が流れてきましたが、まるで日本と沖縄の「和解」が準備されているとでもいうような物語が随所に見受けられました。そうした中で、私はそのニュース記事を読みながら鬱々とした気持ちになっていました。なぜかというと、天皇と琉球・沖縄の関係性・接点はというと、けして無邪気に「和解」に至るものではなかったと見ているからです。歴史的にネガティブなものの蓄積があり、そのことが恨みとして回帰してくるのです。このことについて、いくつか歴史的経緯を確認していきたいと思います。
1945年2月のことです。近衛文麿は「敗戦はもはや必至」と昭和天皇に話し、終戦を提案しています。ところが、その応答として昭和天皇は「国体護持」にしがみつき、拒みました。そして、その年の4月、米軍が沖縄に上陸する頃のことです。飛行場が占拠された時、天皇は「現地軍はなぜ攻勢に出ぬか」と不満の言葉を発しています。天皇の意志を受けた大本営は攻勢に出ますが成果もなく終わりました。さらに、天皇はその後に及んでも「米軍をぴしゃりと叩くことはできないのか」などと要望しています。
繰り返し繰り返し、同じような指示を出している。引くことが出来ない、アクセルをベタで踏むスリルを味わる「肝試し」の享楽に没入しているように見えます。そのような中で、日本の支配と琉球の従属という権力関係が構築されてきたと言えます。琉球の民が踏みしだかれ、死していったということ。つまり、琉球に対しての殲滅戦争の過程が沖縄戦だったということです。
そして今、まさに沖縄戦の実相は再び書き換えられようとしている最中です。
今年2025年の6月12日、中谷防衛大臣は、衆議院安全保障委員会で沖縄戦について「捨て石作戦だった」とは「一切持っていない」との認識を示しました。しかしです。沖縄が「捨て石にされた」という認識は、諫山台湾軍参謀長の「我々は本土決戦のための捨て石部隊なのだ」という発言をひいたものです。又、帝国陸海軍作戦計画大綱も沖縄戦を「時間を稼ぐ持久戦」と規定していました。
つまり、沖縄が「捨て石にされた」という認識は、けして沖縄人の主観ではなく、日本が沖縄を従属化させる為のイデオロギーだったのです。加えて、当時は「生きて虜囚の辱を受けず」という「戦陣訓」もありました。琉球の人間を「生の例外」「死すべき者」として組み伏せ、支配するネクロポリティックス(死政治)が起動しているということです。「お国のため」「天皇陛下万歳」が、統治装置のイデオロギーだったということです。
いわゆる「戦後」の1947年9月。米国が日本を占領する上で、米軍による沖縄の長期占領を要望することを天皇が米側に対して伝えています。これが、いわゆる「天皇メッセージ」です。さらには、翌1948年2月。ソ連の侵攻に備え「琉球」を「反共」の「砦」とする考えも天皇が米国に伝達していました。この少し前、1945年12月に琉球の参政権は剥奪されていますが、つまり、琉球の口を塞ぎながら、アブジェクトする(おぞましいものとして棄却する)、と同時に「必要な犠牲」として「包摂」する。このメカニズムにおいて、「天皇」が統治装置として機能しているのです。
さらに歴史を紐解きます。「琉球併合」期においても天皇と沖縄の接点は禍々しいものとして現れています。琉球併合の過程において、琉球と清国の冊封体制を真似て、琉球藩王と天皇の間で君臣関係が結ばれました。これは、そのほかの自治体の「廃藩置県」とは異なるメカニズムで執り行われています。冊封の後、天皇から藩王に対し、警察権や外交権などの移管が命令されています。そして、それに従わなかったことを理由として、「琉球処分」がなされています。ところで、この「処分」という言葉の意味ですが、「懲戒処分」や「退学処分」のように「悪いことをしたから罰する」というニュアンスがあります。琉球併合も又、琉球の立場を「おぞましいもの」として棄却する上で、統治装置として「天皇」の意志が機能しています。
このように、天皇制国家と琉球の関係性を紐解いてみると、ネガティブなものが幾度も幾度も蓄積されてきていると言えます。琉球の歴史は、「天皇」のもとに「時間」と「空間」を配置する「神話」とは別の、つまり、「外在的」な歩みを辿ってきたと言えるでしょう。そして、だからこそ、その琉球に棄却しながら包摂するようなことが繰り返されると、その暴力から弾き出された者たちの無念が回帰してくるのです。
2025年になって天皇が「訪沖」をしても、けして「和解」には至らず、それどころか逆に鬱々とした感情になっていくということです。琉球を踏みしだく殲滅戦争・略奪戦争と、その統治装置として現れる「天皇」のメカニズムから逃れ、その外に出る、離脱していくベクトルの中で私たちは生き延びているということです。