天野恵一
--前回で、女性(系)天皇論や大衆天皇制論の今日的問題には一区切りついたと思いますので、今日は、「戦後80年」キャンペーンが「昭和百年」と重ねてあれこれマスコミをにぎわしていますので、〈戦後80年〉をどのように語るべきか。この問題と象徴天皇制批判をどう重ねて考えているのか、という切り口から話してください。
1946年の11月3日に、日本国憲法が公布されて、翌(47)年5月3日に施行だから、象徴天皇制は80年というわけではないけど……。
天野 ハイ、間違いなく戦後憲法の成立が象徴天皇制という政治制度のスタートだけど、「国民主権」の戦後憲法は、いったいどこからスタートしているのか、この点がまず大問題。だから象徴天皇制のスタートも、正確に言うと、どこからというのは何とも言えない問題もありますね。
――エッ、どういうこと? 具体的に説明してください。
天野 多くの戦後の憲法学者は無視してきたし、そのことの説明や解釈はしないで、あたかも存在していないかの如く扱ってきた文章、「上諭」から「日本国憲法」は始まっています。
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを、深く喜び、枢密顧問の諮問及び帝国憲法七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」。
これに「御名御璽」と「昭和二十一年十一月三日」そして内閣総理大臣・外務大臣吉田茂以下14名の大臣の肩書付きの名前がズラズラと並んでいますね。
--あまり気にしないできたけど、言われて考えてみれば、かなりおかしな文章ですね。
天野 この文章に、日本国憲法の成り立ちのわけのわからなさが凝縮されていると言えると思います。
長く戦後の憲法学会の第一人者であった、東京帝大から東大へ連続しての教師だった宮沢俊義さんの『法律学大系(コンメンタール扁1)』〈日本評論社・1955年〉の説明を、基本的に旧字は新字に改めて引きますね。
上諭は、もちろん、日本国憲法の構成部分ではない。/明治憲法にも上諭があったが、その上諭は、この上諭とは違い、単なる公布文の性質を有するものではなく、むしろ今日の前文に相当するものであり、明治憲法の一部を構成するものであった。/この上諭は、日本国憲法の制定の手続きを明示している点で、ここで研究するに値する」。憲法の構成部でない文章だが、制定手続きを明示しているから検討するというわけ。「『枢密顧問』は明治憲法で定められた天皇の諮問機関であり、管制では、『枢密院』と呼ばれていた。枢密院議長・同副議長及び枢密院顧問官からなる合議体で重要な国務につき天皇の諮問に応じ、意見を天皇に提出した(明治憲法五六条)。成年の各親王及び国務大臣もその成員の資格を与えられていた。/憲法改正は枢密院官制によって、枢密顧問の諮詢を経るべき事項とされていた(枢密院官制第六号)から、日本国憲法案も、明治憲法七三条による改正の形をとる限り、枢密院の諮詢を経なくてはならなかった。/『諮詢』とは意見を聞くことを意味する。諮詢機関とは、諮詢に応じて意見を述べることを主たる職務とする機関をいう。諮詢に対して述べられる意見(答申)は、法律的に諮詢者を拘束するものではなく、諮詢者はただそれを参考にすればよかった。しかし、天皇の諮詢に対する枢密院の意見は、実際には政府を拘束する威力を有したので、枢密院はしばしば帝国議会の両院に次ぐ『第三院』と渾名された。/天皇以外の行政機関の求めによって意見を述べる場合には『諮詢』よりは、『諮問』との言葉が多く用いられた。/日本国憲法が枢密院で議決された時、美濃部達吉顧問官は、ただ一人これに反対したと伝えられる」。「日本国憲法は、右に述べたように、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正〈全部改正〉として成立した。それは大日本帝国憲法第七三条の定めるところにより、天皇により--国務大臣の輔弼に基づき--発案され、枢密院の諮詢を経たのち、勅書で帝国議会に提出され、帝国議会の各院で、総議員三分の二以上出席の会議で、出席議員の三分の二以上の多数でそれが可決され、さらに、天皇によって裁可され、公布された。それは形式的に見る限り、どこまでも大日本帝国憲法第七三条に基づく改正である。(傍線引用者)
--それなりに「改正」手続きを踏んでいるのね。チットモ知らなかったわ。
天野 ウン、そのようだね。でも、手続きを踏めばいいってもんじゃないでしょ。そもそも、原理的にそんなことが可能なのかね?
「朕が国民主権憲法を『公布せしめる』」なんてことが。
宮沢もここで、「問題は、そう簡単ではない」と論じつつ、以下のように主張しています。
大日本帝国憲法の改正については、その第七三条の定める手続きによりさえすれば、どのような内容の改正も可能だ、という解釈もあったが、通説はそうは解せず、大日本帝国憲法の基本的建前たる原理--天皇が神話に基づいて統治権を総攬するという原理(それを当時国体と呼んだ)--は第七三条の手続きをもってしても、改正できないと解した。/前の解釈によれば、大日本帝国憲法第七三条による改正によって、日本国憲法がきわめて合法的に生まれたことは明瞭であるが、後の解釈をとるとすれば、日本国憲法が大日本帝国憲法第七三条による改正だと解することはできない。日本国憲法は疑いもなく、大日本帝国憲法の基本的建て前たる原理、すなわち、国体を変えるものだと考えなくてはならないから、したがって、この解釈による限り、どうしても日本国憲法成立の根拠は、大日本帝国憲法七三条以外に求めなくてはならなくなる。
--ウーン、法律の論理としてはそれなりに理解できるけど、問題は法理論という次元を超えているでしょう。
天野 そうなんだね。ここでは、なんか改憲派の右翼みたいな物言いはしたくないんだけど、アメリカを中心とする連合軍への「無条件降伏」下、占領の強制というトンデモない条件の力について、何も語らないのが、とってもおかしいんですね。
--一つ聞き忘れたけど、美濃部さんは、どうして反対したのかしら、たった一人で。
天野 断言はできないけど、法論理的に許されないという点に、一番こだわったんじゃないかな。勇敢な人だからね。学者の筋論。
--ヘエー。以前加藤典洋という文学研究者が、評判になった『敗戦後論』(講談社・1997年)で、占領にただ一人抗ったと評価してたじゃない。
天野 あれは、トンチンカンなホメすぎ。美濃部は、戦後憲法がつくられると、すぐそれの解説書を何冊も書いている。後でふれますけど、そうしたテキストには、占領に抗う意識は宮沢同様にまったく読めない。
--アッそうなの。
天野 宮沢も美濃部も、自分の法〈解釈〉理論を、それなりの整合性をもって組み立てることにのみ熱心。優秀な学者さんて、軍事占領の現実より整合的論理(解釈)作りで、リアルな現実を無視しちゃうんだね。
--もっと、キチンと説明してください。とっても大切な問題に向き合っていることは、私でも十分に自覚的なんだから。
天野 ハイ、ハイ(笑)。では、いきます、宮沢は改憲の根拠をどこに求めたのか。彼は、ここで、こう続けています。
かような根拠は、降伏によって事実上もたらされた憲法的変革に求められなくてはならない。/太平洋戦争の降伏は、日本憲法(実質的意味においていう)に対して、独立の消滅・領土の縮小・国民主権の確立などの数々の変革をもたらしたと見なくてはならないが、これらの変革は、多くは大日本帝国憲法の下では合法的に許されなかった性格のものであり、その意味で降伏がもたらした憲法的変革は、法律的に言えば、ひとつの超法規的変革、すなわち革命であったと考えなければならない。かような革命によって、降伏とともに、大日本帝国憲法は、形の上では別に変わらなかったが、内容においては根本的変革を経験した。とりわけ、そこで、これまでの天皇主権が否定されて、国民主権の原理が確立された。したがって、この原理に基づいて制定されなければならなかったのである。(傍線引用者)
長くなりすぎますね。以下の結論は、帝国憲法と戦後の新憲法との間に形式上は法的連続性があるものとすることが「実際政治上望ましい」とする政治判断から、大日本帝国憲法の第七三条が「利用され」たのである。と、こんなふうに書いていますね。ついでに「マッカアサア総司令部によって起草された」草案にもとづいてつくられたともキチンと書かれていますね。
--占領軍の「草案」でつくられた憲法であることは、占領軍は隠していたんですが、以前から隠しようもない事実として「護憲」派のエースであった宮沢自身が認めているんですね。
天野 戦後憲法の〈起源〉をめぐっては、実はさらに厄介な問題があります。宮沢らのいう「超法規的」変革だから〈革命〉というしかない〈革命〉は、いったい、いつ、どのような法理に基づいて起きたとされるのでしょうか、という問題です。
--もったいぶらないで、急いでください(笑)。
天野 ここで、美濃部達吉さんに登場してもらいます。1947年(7月)に早々と出版された(憲法施行はこの年の5月3日)『新憲法逐条解説』(日本評論社)で、帝国憲法(73条)の改正手続きで新憲法が成立したことを強く批判しています。できるだけ新字になおしますね。
此の如き新憲法の制定が旧憲法第七十三条の改正手続に依りて行はれたことが、果して形式上正当と認めるべきや否やは、頗る疑はしい問題で、旧憲法第七十三条が此の如き根本的変革をも想定した規定であるとは、容易に思考し難い。同条は欽定憲法の改正手続に付いての規定で、欽定憲法たることは之を固持し、唯その或る条項を改正する必要がある場合に於いて同条の手続に依るべきものとして居るのであって、同条に依り憲法の改正を行はせられるのは天皇であって、議会ではなく、議会は唯之に協賛するに止まるのである。同条の手続きに依って定められたに拘らず、国民がそれを制定したとするのは、それだけでも名実相反するの嫌(きらい)を免れないであらう。/以上の如き非難は唯ポツダム宣言の受諾及び之に基づく降伏条項を考するに依ってのみ之を解くことが出来る。ポツダム宣言及び我が政府の同宣言受諾の申入に対する連合国政府の回答文書中には、何れも、『日本国国民の自由に表明せる意思により』平和的な新日本国の政府の形態を決定すべきことを要求して居る。それは国民が新憲法の制定者であり最高権者であるべきことを命じて居るもので、其の命令は我が国に対し憲法に優る絶対の拘束力を有し、而してそれは、我が従来の憲法の基礎たる君主主権主義及びそれに基く欽定憲法主義を覆して、新憲法が国民の自由意思に依り制定せられるべきことを命じて居るのであるから、それに依りて従来の憲法は既に廃棄せられて居たもので、唯新憲法の制定に至るまで一時其の効力が継続することを認容せられたことに止まるのである。/それであるから我が国としては、新憲法の制定に当っては、必然に国民の自由なる意思の表明に依らねばならぬ拘束を受けてゐたのである。唯国民の自由なる意思の表明を得る為に如何なる方法を取るべきかについては、降伏条項の中にも別に指示する所は無く、而も憲法制定の為に、政府は形式上は旧憲法七十三条により之を決するものとすることが、国民の自由なる意思の表明を得る為の最も適切な方法であると思惟し、因って此の方法を取ることと為したものに外ならぬ……。
--ストップ。長すぎます。結局ポツダム宣言の受諾が〈革命〉だったという理屈なのね。
天野 そうです。これは戦後の憲法学会を広く長く支配した「八月革命」説の美濃部による解説といえますね。
--誰が言い出したの。
天野 もちろん、宮沢俊義です。新憲法「公布」(46年11月3日)前に、1946年5月号の『世界文化』に書かれた「八月革命と国民主権主義」がそれです。宮沢はもちろん美濃部の高弟だったわけですから、美濃部の「枢密院」でのたった一人の反乱(反対)の〈欽定憲法の手続きで国民主権憲法がつくれるわけがなかろう、どうするのだ〉との怒りが、八月革命説をつくりだしたのかもしれませんね。
--エーと。話がドンドン難しい方向へ向かって流れだしていますし、また八月革命説そのものも検証されていません。時評としての問答としては、次回以降も続けていいか、決めかねますが……。
天野 戦後憲法と〈敗戦後80年〉を語るとき、どうしても、前提的に必要なことだと思って話し出しました。やはり大テーマ、それだけで大変です。次回から毎回時評と二本立てを目指して、ガンバル方向で、どうでしょうか。
--ハイ、そうしましょう。どこまでお付き合いできるかどうかわかりませんが。
それと、天野さん、この前の集会「『昭和100年』継続する天皇制国家の戦争・植民地責任の未清算 4・28沖縄デー集会」でもお会いしましたね。反天皇制の実行委の中での論議の紹介も、できたらお願いします。
天野 本当に肉体的にはギリギリ。やっと集会にだけは参加している状態ですが、できるだけ、そうしていきたいと思います。
*初出:『市民の意見』市民の意見30の会・東京発行、no.209, 2025.06.01