永田浩三(ジャーナリスト)
今年の3月、16年にわたる大学教員の生活に終わりを告げた、今度はこれまでお世話になった方たちへの恩返しが始まっている。江古田の武蔵大学で働き、杉並区民として「東京8区の政治をかえる」ことに取り組んできたため、練馬と杉並の2つの区での活動がこれまでより増えた。それに加え、国会の前で、再審法の改正を求めたり、日本学術会議の改悪に反対の声を上げたり、忙しい。
練馬での活動拠点は、一にも二にもなく武蔵大学正門前のギャラリー古藤である。ギャラリーのオーナーである田島和夫・大崎文子のご夫妻がおられなければ、わたしの人生はなかった。6月半ば、画家の貝原浩さんの鉛筆画「FAR WEST」展の応援に伺った。貝原さんといえば、中曽根・レーガン、国鉄民営化、安倍晋三、昭和天皇や皇族たちをテーマに、批評精神あふれる風刺画を描いた。なかには、出版社の忖度のせいからか、絵の一部が削除されることもあった。
2015年、ギャラリー古藤で開いた「表現の不自由展・消されたものたち」。日本軍慰安婦問題をテーマにした「平和の少女像」の原型の展示が話題を呼んだが、天皇を題材にした貝原作品もしっかり展示した。この時観客のひとりとして訪れた津田大介さんが、2019年にわれわれを出品作家として招待したのが、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」である。しかし、展示は右翼などの攻撃や脅迫によって、わずか3日で中止。その後わずかな期間、再開したが中途半端なものに終わった。そのリベンジが2022年国立市で開催した「表現の不自由展・その後」である。右翼の攻撃はあったものの、国立市はまったく揺るがなかった。
最後までやり遂げることができた理由は二つある。一つ目は、国立市が育んできた高い人権基準である。国立市の永見理夫市長は開幕の前日、市のHPにこんな見解を掲載した。「施設利用については、内容によりその適否を判断したり、不当な差別的取り扱いがあってはなりません。これは、アームズ・レングス・ルール(誰に対しても同じ腕の長さの距離を置く)と同じ考え方です」。実に堂々たるもの。18世紀のフランスの哲学者ヴォルテールは「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉を残したが、それとも重なる。アームズ・レングス・ルールは民主主義の根幹であり、日本国憲法第21条の「表現の自由」を行政が実現するための具体的なツールでもある。
二つ目は、展覧会を生み出す人間と見る人間の連帯である。いつだって展示作品のなかには論争を巻き起こすものは当然ある。世の中にさざ波を立てることが表現だからだ。展示にあたっては、実行委員会が出来る限りの準備を行い、攻撃に負けない体制を構築する。その上でお客さんを信頼し、仲間として連帯の絆を生み出す。展覧会をやり遂げることで、お互いにこころから信頼し、仲良くなるのだ。わたしとギャラリー古藤の田島・大崎夫妻、そして地域の方たちとの関係はまさにそのようなもので、その輪の中に「反天連」の方々もたくさん加わっていただいた。ほんとうに素晴らしい出会いに感謝している。
国立の公共施設の利用の指針の根底には、日本国憲法があり、教育基本法があり、社会教育法がある。あの戦争の時代を二度と繰り返さないよう、地域に暮らす人々が自分たちで学習し、自分の頭で考え、地域の仲間と分け隔てなく話し合い、ともによりよき社会を築いていこうという、戦後民主主義の熱い理念が流れていた。
国を挙げて戦争に突き進んでいった時代。地域のボスに盾突くことはしないこと、お国のために命を捧げること、植民地や占領地のひとびとを含め、天皇を神としてあがめることを当り前だとする価値観が暮らしの隅々まで浸透していた。
そうした歪んだ世界から訣別するために、公民館がつくられた。公民館は、民主主義の砦となることが期待され、地域の人々が自主的に企画した学習会を、社会教育主事が業務としてサポートすることになった。
日本国憲法の条文を、ひとりひとりがどうすれば深く理解し、行動に移し、血肉とすることができるか。新制の学校、公民館、そして公共放送のラジオが、たがいにその特性を生かし、連携しながら新たな時代を創り出そうとした。
わたしは大学教員になるまで、32年間NHKで番組をつくる現場にいた。戦後の初代NHKの会長は高野岩三郎。経済・統計学者で、共和国憲法を考案したひとりだった。共和国憲法、つまり天皇制は廃止すべきだと考え、世にそれを訴えるひとが公共放送のトップに就いたのだ。高野を会長に選出した放送委員会のメンバーもすごい。滝川事件(1933年)という冤罪で京都大学を追われた法学者・滝川幸辰(ゆきとき)、労働運動家・荒畑寒村、作家の宮本百合子、岩波書店の創業者・岩波茂雄らであった。
寒村や百合子は、天下の悪法・治安維持法の被害者でもあった。占領下というバイアスがあったとはいえ、放送は因習を打破する起爆剤となった。当時の「食糧メーデー」(1946年)のようすを伝えた記録を見ると、「朕はたらふく食っている、なんじ臣民餓えて死ね」というプラカードを紹介したあと、天皇批判を堂々と行う女性のインタビューを紹介していた。天皇に対するタブー、菊のタブーということが言われるが、戦後すぐのNHKにはそんなものは存在しなかったようにもみえる。
こうしたラジオのニュースや番組を、公民館の会議室で集まって聴き、みんなで感想を述べあおうという講座も生まれた。あのころの総合雑誌をみると、天皇制を存続させるか、廃止するかということが日常的に議論されていた。廃止論は過激でもなんでもなかった。国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を国是とする日本にあって、足枷となるという意見がそれなりの説得力を持っていた。わたしが多くの番組でご一緒した加藤周一氏も、天皇制の廃止の論考を発表している。歴史にもしもということは禁句だが、あのころやめておけばどんなによかったかと思わずにいられない。
だが、そんな時代は長くは続かない。朝鮮半島で戦争が始まり、日本は兵站基地となり、軍事特需に沸く。惨禍の反省を忘れた逆コースが始まっていく。朝鮮戦争では、原爆が投下することも検討された。そんななか、被爆地・広島では、毎年恒例の8月6日の平和式典を中止する命令が出される。それでも平和を願う人々は黙ってはいなかった。広島の中心部、八丁堀の福屋百貨店の屋上から、原爆使用反対のビラがまかれ、道路の上ではビラを拾った人たちが集まり、わずか数分間の平和集会が開催された。わたしは10年前、ビラの仕分けをしたひと、百貨店の女子トイレの窓からビラを落したひと、拾ったひとを取材したことがあった。みなヒロシマ・ナガサキを繰り返してはならないと必死だった。
最近、長年会いたかった方にお目にかかることができた。小畑哲雄さん、98歳。日本で初めて開催された「綜合原爆展」(1951年)の展示の開催に関わった、歴史の生き証人である。小畑さんは当時、京都大学の1年生。原爆の惨状を市民に広く知らせるための展覧会を準備した。峠三吉や四國五郎の絵、原爆投下直後に広島に入った京大医療チームからの報告、原爆の構造、建物の破壊のメカニズムなど、文学部・医学部・理学部・工学部など、それぞれの学部の専門性が発揮された。
綜合原爆展から3か月後の1951年11月12日、昭和天皇が京都大学を訪問することになる。京大は、戦争中、先ほど述べた滝川事件や、京大俳句事件(1940〜1943年)など、さまざまな言論弾圧に遭遇してきた。そうした歴史を踏まえて、学生たちは天皇に公開質問状を送り、戦争の責任について、回答を求めようとした。だが、直後の国会審議で文相や保守派の議員が学生たちの態度を「不敬」だとして非難し、また多くのメディアも同様の論陣を張った。
これに反応した京大当局は、綜合原爆展を主催した京都大学同学会に解散命令を出し、学生8名が無期限の停学処分を受けることになった。この時期、対日講和条約と日米安保条約が締結されたが、昭和天皇は宮内庁御用掛の寺崎和成を通じて、沖縄への軍事占領を25年から50年続けてほしいといったメッセージを送っていた(1947年)。沖縄を犠牲にして自身の保身をはかる。それが昭和天皇の内実であった。
さて、小畑さんは、この頃処分を受けただけでなく、警察からも事情聴取をされた。取り調べのなかでのエピソードを小畑さんは語った。
「警察官からは、厳しい取り調べを受けることはありませんでした。そのかわり、おずおずと聞いて来るんです。いったい人民政府はいつ頃できるのかと。人民政府ができたら、俺たち警察官はどうなってしまうのかと・・・」
小畑さんが言いたかったことはこうだ。1951年の段階でも、革命が起き、資本家が駆逐され、労働者が主体となる政府ができるというリアリティーがあったということだ。NHK時代から、1949年に起きた下山事件、三鷹事件、松川事件といった謎の事件の調査を続けてきたが、「人民政府」というものが事件後2年経っても警察官の口から語られたことに驚いた。戦前からの権力の温存を図るひとたちは、それを脅かす存在に対して、謀略を使ってでも叩き潰すことにためらいはなかったのかもしれない。
わたしが生まれたのは1954年。ビキニ事件、つまり第五福竜丸の乗組員がアメリカの水爆実験で死の灰を浴びた年だ。1940年代後半から50年代前半、歴史の転換点の肌触りを小畑さんから教わった気がした。
まもなく参議院議員選挙。メディアは参政党という時代錯誤の政党に興味津々のようだ。明治に回帰した憲法をつくり、天皇を元首にするのだそうだ。こんなことが許されるはずがない。いまこそ掘り起こしたいと思う。敗戦後の理念のもとで、本来形成されようとしたものは何だったのか。そこには「まだ使える過去」が埋もれており、未来を切り拓く知恵がいっぱい詰まっているのではないかと。