池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
Ⅰ ナルヒト「慰霊の旅」
天皇ナルヒト・皇后マサコが、戦後80年に際した「慰霊の旅」(「祈りの旅」)をしようとしている。4月に硫黄島、6月上旬に沖縄、同月下旬に広島、7月にモンゴル、9月に長崎を訪れると報じられている。硫黄島では、天皇アキヒトに倣い、自衛隊機で訪問し、日本人の戦没者を祀った天山慰霊碑(厚生省)、日米の戦死者を祀った鎮魂の碑(東京都)に供花すると思われる。沖縄では、2022年にナルヒトが訪沖した際と同様、「国立沖縄戦没者墓苑」で供花するだろう。広島では、原爆慰霊碑への献花や被爆者との面会などが調整されている。「国民文化祭」出席に合わせた長崎訪問でも、「滞在中に原爆の犠牲者の霊を慰め」ると報じられている。ちなみに、ナルヒト皇太子時代の2007年にモンゴル訪問の際には、日本人抑留中死亡者慰霊碑に供花している。
Ⅱ 皇室総がかりの「慰霊」
この戦後80年に際した「慰霊」が、皇室総がかりで行われていることも忘れてはならない。東京大空襲から79年に当たる2024年の3月10日に東京都慰霊堂で行われた慰霊法要に、秋篠宮・紀子が参列した。また、悠仁は、2025年2月12日に舞鶴を訪問し、「舞鶴引揚記念館」を私的に訪ねた。6月23日の「沖縄慰霊の日」に合わせて、天皇家族が黙とうするといったことも行っている。2024年の場合、訪英中のナルヒト・マサコはロンドンのホテルで、愛子は皇居で、アキヒト・ミチコは仙洞御所で黙とうをした。
Ⅲ アキヒトが始めた「慰霊の旅」
「慰霊の旅」は、アキヒトが“戦後50年”に始めた「公的行為」である。「公的行為」とは、「私的行為」でも「国事行為」でもない。「やってはいけないとされていないことはやっていい」という論理で行われているものだ。アキヒトは、その一つとして新たに「慰霊の旅」をほぼ十年刻みでやった。それでは、訪問先で、知事や慰霊施設関係者などから話を聞き、食事会などをする。「聞し召し」、「食す(おす)」、即ち「治める」者であることを示す現代版の「国見」だ。その「国見」で「理解者」を演じ、天皇による戦争の被害者からも有難がられる。その記録は、宮内庁ホームページでは、「戦没者慰霊」の項で、全国戦没者追悼式、「忘れてはならない4つ日」(沖縄慰霊の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、終戦記念日)と並び、その最後に掲載されていた。
Ⅳ 戦没者慰霊とは何か
「慰霊」は死者のことを思い起こす「追悼」とは異なり、死者の「霊」を「慰める」ためのものである。その「霊」(タマ)の中で、善悪と関係なく強い威力のある「タマ」が「カミ」とされる(伊藤聰『神道とは何か』中公新書、2025年増補版参照)。「タマ」「カミ」には、敵味方関係なく、動植物、山など自然、さらには人工物(モノ)でも、なり得る。「鎮魂」は、「タマ」が祟りをなす「荒魂」でなく「和魂」としての威力を発揮するようにする「祈り」だ。しかも、「鎮魂」には、「自らに活力を与えて神の気を招くことで自身の霊魂を充実させ」るという意味もある(ホームメート用語辞典の神社・寺院用語辞典)。
天皇の「私的行為」である「宮中祭祀」には、「天皇が皇祖皇霊を筆頭とした神と人間を媒介し、神を祭ることによって国の繁栄や平和が実現する」という観念が体現されている(萱野覚明『神道の逆襲』講談社新書、2001年参照)。この「神祭」の観点から言えば、「戦没者慰霊」は、戦没者の「霊」が祟りをなさない「国の繁栄や平和」に寄与する「和魂」として威力を発揮するよう「祈り」、「自らの活力」を得ようとするものなのである。これを通して、被害者である戦没者の「霊」は加害者である天皇の「祈り」に応じて天皇を守護する「霊」になる。「戦没者慰霊」は、こうした天皇神道祭祀を「私的領域」から「公的領域」へと溢れ出させるものなのだ。
Ⅴ “戦後80年” に “昭和100年” を寿ぐ旅
その「祈り」は、善悪に関係のない「カミ」に対する「祈り」なのだから、「責任」といった概念とは無関係だ。戦争責任に即して言えば、その清算というより、無化をもたらす。ただ「祈り」に励むことのみが自己目的化・規範化される。「祈」っていれば「平和天皇」。ヒロヒトもだ。即位後朝見の儀で、アキヒトは「大行天皇には,御在位60有余年,ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され」たと述べ、ナルヒトは「上皇陛下には御即位より,三十年以上の長きにわたり,世界の平和と国民の幸せを願われ」たと述べ、皇位を継承した。「大行天皇・ヒロヒト」を「ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念」した「平和天皇」と位置づけている。ナルヒトも、そうした「祈り」を継承して「慰霊の旅」を行うわけだ。だから「慰霊の旅」は、“戦後80年”に際して“昭和100年”を寿ぐ「旅」でもあるのだ。
Ⅵ 戦後型慰霊
この「慰霊の旅」は、靖国派の一部から批判されている。靖国は「対外戦争で「栄誉ある戦死を遂げられ」た者と称揚・顕彰された戦死者の霊が、「護国の神」、忠魂・英霊として「奉慰」され合祀されている」施設で、「御霊神祭祀の系譜からはまったく断絶し、人神祭祀の系譜をいっそう強調して継承している」(川村邦光『弔いの文化史』中公新書、2015年)が、そうした「靖国型慰霊」と「慰霊の旅」の「慰霊」は異なるというわけだ。
「慰霊の旅」の「慰霊」は、「戦没者の慰霊碑(塔)というものは、じつは圧倒的に戦後の建立が多」く(田中伸尚等著『遺族と戦後』岩波新書、1995年)、しかも「敗戦後二〇数年して、新しく建てられたそれには「鎮魂」と刻まれるようになった」(川村邦光『弔いの文化史』中公新書、2015年)と言われる状況にマッチした「戦後型慰霊」とも言えるかもしれない。それは、「広島の原爆死没者慰霊碑と、その前で行われる平和記念式典」など、「靖国神社型の「慰霊」追悼に対立する性格の、公的な「慰霊」追悼を創り上げる動き」(赤澤史朗「戦後日本における戦没者の「慰霊」と追悼」『立命館大学人文科学研究所紀要』82号、2006年)を取り込む巧妙な仕掛けだとも言えよう。今年の広島、長崎への「慰霊の旅」でも、この取り込みのためのパフォーマンスが展開されるだろう。
Ⅶ 戦没者慰霊・自衛隊慰問・靖国
だが、1952年の初めての全国戦没者追悼式における吉田首相の式辞が「戦没者を『国に殉じ』『平和の礎』になったと意味付け、それが『民主日本の成長発展』につながっていく」(前掲『遺族と戦後』)としたような「国に殉じ・・・平和の礎」になった戦没者の顕彰は、これからの「国に殉じ・・・平和の礎」になる者を創り出すことに通じている。「慰霊の旅」の度に駐屯地前を通る天皇に自衛隊がと列するといった「奉迎」が行われるが、「慰霊の旅」には、それらを通して自衛官に「平和の礎」になるために天皇を最高権威者とする「国に殉じる」意識を植え付ける役割も果たしていると言えよう。「慰霊から慰問へ」の道が通じているとも言える。
一方、自衛隊に「靖国型慰霊」が顕在化しつつある。自衛隊幹部の制服での靖国参拝が相次ぎ問題化したが、昨年2024年3月には、靖国神社の14代目宮司に元海将で元ジプチ大使が就任した。公用車の使用は不適切でも「私的参拝」自体は問題ないし、「元職」なら靖国神社宮司になってもいいというわけだ。これは、「戦後型慰霊」と対立するのだろうか。むしろ、「靖国型慰霊」を“顕教”にはしないが、“密教”として許容するのも、「戦後型慰霊」の本質ではないだろうか。全国戦没者追悼式の式壇中央の柱には「全国戦没者之霊」と表記して「追悼」と「慰霊」を混交させ、「霊」の表記で靖国派の多数の期待をつなぎとめつつ、「追悼」の名で天皇神道の慰霊祭祀色はゴマカスといったヌエ性こそが「戦後慰霊」の特色であり、それをフル利用して靖國に抵抗感を抱く「護憲派」を「平和天皇」支持者に取り込んだのが、アキヒトだとも言えるだろう。
Ⅷ 硫黄島「慰霊」から見えてくるもの——日米安保型慰霊
アキヒト「慰霊の旅」の始まりである硫黄島を、ナルヒトも「慰霊の旅」の最初の地とした。硫黄島は、日米両軍に多大な戦死傷者を出した激戦地である。島民は、戦中、強制疎開され、未だ島に戻ることができない。現在は、自衛隊しかおらず、日米共同演習も行われる「軍用島」だ。
そこに、アキヒトは自衛隊機で日帰りし、厚生省が管理している日本人戦没者を「慰霊」した「天山慰霊碑」と東京都が管理する日米の戦没者の「慰霊碑」のある「鎮魂の丘」で「拝礼」を行った。ナルヒトも、それに倣うだろう。
アキヒトがその際に述べた「お言葉」は、「先の大戦中の硫黄島における戦いは大洋に浮かぶ孤島の戦いであり、加えて地熱や水不足などの厳しい環境条件が加わり、筆舌に尽しがたいものでありました。この島で日本軍約二万人が玉砕し、米軍の戦死者も約七千という多数に上りました。/このたびこの島を訪問し、祖国のために精根込めて戦った人々のことを思い、また遺族のことを考え深い悲しみを覚えます。今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたものであることに深く思いをいたしたく思います。鎮魂の碑の正面に立つ摺鉢山は忘れがたいものでありました」というものだった。ナルヒトも、同様の「お言葉」を発するだろう。
この「お言葉」は、「違法な侵略戦争を行った日本の兵士」とそれと戦ったアメリカの兵士を同列に「祖国のために精根込めて戦った人々」と扱うものであり、アメリカ側から反発があっても不思議はないように思うかもしれないが、過去は現在のために作り替えられるものである。
日米合同慰霊祭が、毎年、行われている。今年は石破首相も参列した。2023年の合同慰霊祭では、硫黄島協会会長寺本鐵朗氏が追悼の言葉で「今日我々が享受する平和と繁栄は、それぞれ祖国、郷土そして家族を愛する勇敢な戦士たちの尊い犠牲と日米両国民のたゆまぬ努力の上に成り立ったことも忘れてはならない」と述べた。一方、米側からは「献身的で勇敢な両国の兵士たちの事は決して忘れられることはありません。今日私たちがここで目にしている和解は日米間の歴史的な友情の揺るぎなき土台となるものです」というノーマン・スミス海兵隊中将(退役)のメッセージが読み上げられた。
日米両戦没兵士は、「祖国に殉じ」た日米安保につながる「平和の礎」となったというわけだ。
無論、アメリカ側も神道的鎮魂祭祀に基づいて慰霊をしているわけではなかろう。その意味では同床異夢と言えるかもしれない。だが、アメリカにも、敵味方関係なく戦没者を美化する公的記憶が存在する。
ジョン・ボドナー著、野村達朗ら訳、『鎮魂と祝祭のアメリカ』(青木書店、1997年)の以下の一節を、「南部・南」を「日本」に、「北部・北」を「アメリカ・米」に置き換えて読んでみて欲しい。
商業・産業の利害は・・・南部の諸都市でも公的記憶の再構成をおこなった。南部人は文学や教育や公的記念行事において「失われた大義」と呼ばれる一連の記憶をつくりあげるために、1880年代までに膨大な労力を注ぎこみはじめたのである。この解釈によれば、南北戦争で南軍兵士は勇敢に戦い、ただ数の点でのみ北軍に敗れたとされる。南部人は、崇高な大義を抱いて戦ったのであって、何ら恥じる理由はない。実際、ロバート・E・リーなどの指導者は、戦後には抵抗の継続ではなく、南北間の和解を説き、国民国家にとっての愛国者とみなされたのである。/ゲインズ・フォスターが「公的記憶」と呼ぶこのような過去の解釈は、戦いに敗れた南部人に精神面での充足感を与えただけではなく、勃興しつつある南部の産業資本家たち・・・北部との交流の再開を望む人々の利害とも合致したのである。このように南部を免罪し、成長しつつある国民経済に再び組み込むためには、戦没者への嘆きや悲しみを中心とした記念行事に力点を置くのではなく、むしろそれとは反対に、あくまで南部人としての自尊心を保ちつつも、再統合を促進するような記憶の育成が求められたのである
同書には、以下のような記述もある。
アイゼンハワーは、〔グラントとリーを讃える〕記念式典へのメッセージのなかで、この式典は南北戦争で示された「英雄主義と自己犠牲」を讃える機会をすべての市民に提供するものだと主張した。これらの資質が、「長年にわたって育まれ、発展してきた国家の精神的統一」を維持するうえで必要だとアイゼンハワーは示唆したのであった
この南北戦争分断再統合のために形成された「公式記憶」に見られる「英雄主義と自己犠牲」を、米軍兵士と自衛員が、今後に向けて共有することこそが、アメリカ側の目論見と言えよう。だが、同床異夢の面はある。昨年2024年、日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に旗衛隊として参加した陸自第32連隊の隊員のXへの投稿が問題化した。硫黄島を「大東亜戦争の激戦地」と書いたのだ。また、第32連隊自体のX上のプロフィールには「近衛兵の精神を受け継いだ部隊」との記載があり、“近衛魂”と大きく記された旗の下で、隊員たちが記念撮影している写真を紹介していた。
しかし、自衛隊が天皇の軍隊中の軍隊「近衛兵」を「誇り」として「大東亜戦争」を肯定しても、アメリカから抗議されたとは聞かない。二度目の「大東亜戦争」を仕掛けなければ、OK。天皇も日本兵も免罪。A級戦犯のみが悪く、それを合祀した「靖国」による「慰霊」の公式化はダメ。ただし、「私的」なら許容。アメリカ側も、その線で見て見ぬふりをする。それよりも、今後が大事。未来志向だ。「英雄主義と自己犠牲」の顕彰が、これからの日米が共同して行う「平和のための戦争」で両国兵士が、「国に殉じ」て「英雄主義と自己犠牲」を発揮することにつながるなら、それでよし、というわけだ。
天皇が開会の辞を述べ、自衛隊のブルーインパルスが披露飛行するなど、「天皇・自衛隊イベント」である万博期間中に来日するよう、石破首相はトランプ米大統領に要請した。万博のアメリカのナショナルデーである7月18日頃の来日が取り沙汰されている。万博期間中には、自国展示を観る国賓の来日が相次ぎ、皇室外交ラッシュとなるが、トランプも国賓として天皇会談も行うだろう。この来日を通して一段の強化が目論まれる日米安保と対応した「戦後型・日米安保型慰霊」の出発点としてナルヒト硫黄島「慰問の旅」は位置するのだ。
Ⅸ 戦後型・日米安保型慰霊からの解放の道を切り拓こう!
日本に侵略・植民地支配された地域への「慰問の旅」も、ナルヒトはアキヒト同様にやる気だろう。それは、対中包囲網形成といった外交とも連動する。今回の訪問先にもあがっているモンゴル。岸田前首相は、退陣で中止したが、中央アジア諸国訪問・同諸国首脳との初首脳会談とセットでモンゴルを訪問しようとしていた。しかし、思惑通りに事が進むわけではない。日ソの戦争と思っている人の多いノモンハン事件は、モンゴルからすれば、日本とその傀儡の満州国の軍隊の侵略に対してソ連軍と共に戦った「ハルハ河戦争」なのだ。抑留者追悼碑への供花といった自国戦没者優先主義では、日本の加害の被害者及び彼らを追悼する人たちは鼻白むばかりだ。
もともと、対中抑止などで「共に戦う」意思で一致していない相手には、「日米安保型慰霊」は効かない。いくら国家間での「和解」が演出されようと、「戦後型・日米安保型慰霊」は、被害者及び被害者を追悼しようとする人々には限界があるのだ。表面的に謝罪と補償の要求が封じられたり、後景化したりしても、いつ「和解」が破綻し、責任追及、謝罪・補償要求が噴出してもおかしくない。
日米安保の矛盾が集中する沖縄についても、「戦後型・日米安保型慰霊」は常に破綻の危機に晒されている。そもそも天皇神道慰霊は、「被害者も加害者と平等に鎮魂する祈り」の祭祀だから、責任とは無縁であり、加害を棚にあげ、ひたすら「祈り」続け、あたかも「反省」に基づいて「平和天皇」が「平和への願い」を示しているかのように演出し続ける、騙し続けるしかない。沖縄を度々アキヒトが訪問したのは、その典型例とも言えよう。
今年は、日韓条約60年に当たる。今年を、「近代日本の戦争・戦後」の総体を批判的に検証し、常に破綻の危機に晒されている「戦後型・日米安保型慰霊」の呪縛からの解放の道を切り拓く年にしていこう!