野毛一起
1990年代半ばに本格的なインターネットが始まり、今や地球規模でSNSの普及を見ています。それにより今日の私たちはいわゆるサイバーカルチャー(インターネット文化)の只中にあるといえるでしょう。これまでの主流メディアによる情報や言語とはまるで異なるかたちで、そこではローカル(またはプライベート)とグローバルが同時に現象し、独特の言語や表象が行き交っている——そのような情報文化の只中にいるわけです。この状況下では、民族・人種・ジェンダー・セクシャリティに関する多様な人間観が交錯すると同時に、それぞれの行動規範や価値観や感情がサイバー空間からはみ出して対立する「文化戦争」が生じることもあります。そして、その文化戦争の担い手はもはやテレビ・ラジオや新聞などかつての主流メディアではなく、ネットやSNSの情報で動く素(す)の個人たち(多くは匿名)なのです。それは若年層に限りません。この「新しい文化」は中高年層に至るまで広く伝播しています。
というわけで、このサイバーカルチャーに囲まれた今、天皇制はいったいどう機能しているのか、いないのか。今回はそんな視点から書こうと思います。
サイバーカルチャー
ところでサイバーカルチャーといっても多岐に渡るものですから、ここで一括りに論ずることはできません。私はこの分野について詳しくはないので、いろいろ調べながら恐る恐る書くしかありませんが……。まず辞書的な定義をすれば、サイバーカルチャーとは「サイバー空間およびインターネットコミュニティにおけるコミュニケーションや情報交換に関わる文化現象」ということでしょう。そこには様々な問題やその対処法についての情報と意見交換、また娯楽的なものや音楽・ダンス・アート作品などの発表、それに加えて旧来のメディアが配信するニュースや映画・ドラマ、さらにはポルノや詐欺まで、好意と悪意が入り混じるありとあらゆるものが混在しています。表現手法も多種多様で、文字の他に写真、動画、アニメーション、CGなどが用いられます。ですからこれらをまとめて論じることは不可能に近いため、特定の分野からそれぞれの切り口でサイバーカルチャーを論じるしかないわけです。
インターネットミーム
そこで、ここでは特に「インターネットミーム」(以下「ミーム」とだけ表記)に焦点を当てることで、サイバーカルチャーの現在を垣間見ようと思います。というのは、このミームこそインターネット文化の何たるかを簡潔に表現しているからです。
ところでミームというのは、ご存知だとは思いますが、インターネット上で見られる画像・動画・文章などのうち、ある「ネタ」が様々な人に模倣されて2次3次的に拡散するものを指しています。それには必ず「元ネタ」があり、それがアニメやCGあるいはビデオ動画、文章などで加工されて広がっていくのです。2次3次というのは、加工されたものがさらに加工し直されて拡散するからです。こうして、なかには「元ネタ」のコンテキストや意味合いとはまるで関係がなく、時には逆の意味にさえなるものがあります。この「ネタ」は動物の写真(この国では数年前から「猫ミーム」が拡散中)や漫画やアニメのキャラクター、動画や画像の一部などが使われることが多いのですが、学校の教科書の挿絵を「元ネタ」にしたものも登場しています。何が「元ネタ」になっても不思議はないのですが、「ネタ要素の強いもの」が選ばれるということらしい。「叫ぶ」「泣きわめく」「大笑いをする」著名人の画像などが狙われるようです。政治家では小泉進次郎や石丸伸二とかが格好のネタにされています(さまざまなミームを集めたサイトがあります。「インターネットミーム」で検索してください。海外の物だと“9GAG”で見ることができます)。
天皇のミーム、エリザベス女王のミーム
のっぺらぼうの表情で登場する日本の皇室は「元ネタ」にはしづらいのでしょう。天皇や皇族の画像を用いたミームにはまだ出くわしていません。ただし「猫ミーム」の姿で明仁前天皇の青年時代を風刺したものならあります。でも、これはおもしろくないので見ないほうがいい。その動画ときたら週刊誌ネタ以上の内容はなく、風刺にもなっていない。むしろ明仁が(前)天皇であるがゆえに成り立つ「裏話」を取り上げることで、明仁が天皇の地位にいる(いた)ことを無前提に受容し補強している。しかもその矛盾に気づく契機をまるで持たないお粗末な動画です。この動画自体はデキもよくないし、拡散することはないでしょう。拡散するのは「猫」のミームだけです。なんでこういうものを作るかなあ。
これも少し前のミームですが、イギリスのエリザベス女王とお茶をするパディントンのミームがあります。晩年の女王のとぼけた表情やしぐさとクマのパディントンのモコモコした動作がぴったり合っていて、良い画質の動画です。それもそのはず、エリザベス女王の即位70周年を祝賀する行事の1つとして開催されたコンサートのオープニングで流されたもので、その製作にはプロの監督や俳優が関わっている。ですからこのミームは明確に女王礼賛の肝入りミームです。さらに2012年のロンドンオリンピックの時には、女王自らがミームとなって007のジェームス・ボンドと共にヘリコプターで開会式会場まで飛んできて、上空からパラスシュートで降下する。そして開会宣言をするという動画もあります(これらは「エリザベス パディントン」「007エリザベス」などで検索すれば見られます。興味ある人はどうぞ)。
イギリス王室は、このように自らインターネットミームになって、積極的に宣伝に努めているのですから、日本の皇室だってそれを考えるはずです。しかし、この国ではまだそこまではやらない。確かに皇室や皇族はミームにしづらい「ネタ」ではあるのですが。今のところ皇室の画像・動画公開は宮内庁配信のSNS止まりです。ミームで登場するところまでいかないようです。
しかもSNS配信について、秋篠宮は皇族に対する「いじめ的情報」にならないようにと注文をつけている(昨年11月の「誕生日インタビュー」)。このインタビューの中で、秋篠宮バッシングについて、皇族もまた「生身の人間」であるとか、皇族への「いじめ」があるなどと口にする秋篠宮にはあきれました。「国民の一部が皇族をいじめている」と皇族自身が泣き言をいうのです。ギャグとしてなら笑えないこともない。しかし本気でそう思っているようですから、あきれ果てる。天皇制こそ身分や性差に基づくいじめの制度であって、そのヒエラルキーの頂点に鎮座している者らが「いじめられている」と言うのですから。このひっくり返しの泣き言こそギャグとしてミーム化できそうです(このインタビューについては後で触れます)。
カエルのペペ
ミームのなかで特筆すべきは、なんといっても「カエルのペペ」でしょう。それは2016年の大統領選挙のときに登場したミームで、ドナルド・トランプを勝利に導いたといわれています(今回の選挙でも登場したかどうかはまだチェックしていません)。
カエルのペペはマット・フュリーの漫画のキャラクターで、分け隔てなく人に接し友だちになって元気づけるという話。子ども向けの漫画で、広く人気を集めていたようです。
そしてそのペペがネット上にミームとして現れる。2015年頃には4chanをはじめ世界中の電子掲示板にペペのミームがあふれていました。そしてある時、大統領選に臨むドナルド・トランプの顔にペペを貼り付けたものが登場します。漫画のなかで「feels good, man(いい気持ちだぜ!)」というセリフを吐くペペの顔を切り取って加工したものです。弱い立場の人や悲しんでいる人たちが元気づけられるキャラクターを、トランプの顔に貼り付けることで皮肉めいた批判を表現したかったのでしょう。
ところがトランプはそれを逆手にとって、選挙キャンペーンのため積極的に用いるようにしたのです。「トランプは弱い者の味方」という意味に改編したということでしょうか。それを当時の対立候補だったヒラリー・クリントンが批判的に取り上げたのがきっかけで、アメリカのオルタナ右翼に「火がつく」のです。彼らは白人至上主義、非白人排外主義、反フェミニズムなどを掲げ、カエルのペペを自分たちの運動のシンボルやアイコンとして用い、ドナルド・トランプ支持の運動を展開したのです。そしてネット上でも街頭でも彼らのヘイトが展開されました。その結果、ペペは排外的白人国家主義のシンボルとなりました。そして第1期トランプ大統領が誕生した。
この運動は民主党政権が展開したPC(ポリティカルコレクトネス)というリベラルな人道主義路線に真っ向から対立するものでした。(PCじたいの問題性もあるのですが、それはさておき)分かったふりの進歩主義や知性的人道主義をことごとくぶっこわすと言い放って、トランプを支持するオルタナ右翼が前面に出てきたのです。今回の大統領選挙ではオルタナ右翼よりも富豪のイーロン・マスクが前面に出てきたのですが、このサディスティックで排外的な白人国家主義はより顕著になっているといえます。
ところでこのカエルのペペは、さらにまた別な局面でも登場します。2019年から2020年にかけての香港民主化デモ。そこでもまた使われたのです。プラカードにシンボルとして貼られたり、ネット上でデモ情報や参加を呼び掛けるためのアイコンとしても用いられたと思われます。
ただし、香港ではカエルのペペは民主化のためのシンボルであって、排外的白人主義国家のそれとは全く関係ないのです。かつての「黄色いベスト運動(2018年)」のように、シンボルが変化しながらあちこちの国に伝播していくことはあるのですが、このカエルのペペはインターネットミーム特有の拡散のありようを示していると思われます。
インターネットミームとは何なのか
アンジェラ・ネイグルはアメリカのオルタナ右翼とサイバーカルチャーの関係を著書『普通の奴らは皆殺し』(2025年1月)で論じ、こう分析しています。サイバー空間にあふれるミームは人々の「侵犯transgress」への情動に満ちており、オルタナ右翼はそれを政治化したのだと。
ここでいう「侵犯」とはタブーを侵す、あるいは社会規範から逸脱することを意味しています。社会の主流派が啓蒙してきた道徳・規範、それに基づく表象や言語……つまり「普通の奴ら」の人間観や価値観、つまりは「普通の文化」に対する「侵犯」なのです。そして侵犯すべきものとして「主流メディアが構成する情報」や「進歩主義的な政策」「リベラルな知識人の言動」などが対象になったのです。
彼らの情動を支えるものとして、ニーチェやバタイユの思想への傾倒があるとネイグルは指摘しています。といっても、その思想からキリスト教批判や反道徳性あるいは男性性的倒錯の背徳性など、必要なものだけを切り取ったわけですが。
その文化に引き寄せられていったのが社会の底辺近くで不満を持つ白人男性です。移民に職を奪われたとの被害者意識を抱き、サエナイ生活と社会の下層に沈むことを余儀なくさせられた人たち。彼らにとって「誇れるもの」は「自分は白人の男でアメリカ人である」ことだけと思っている。そういう人たちがインターネットミーム経由でオルタナ右翼に吸収されていったのです。
こうした情動をエネルギーにして独特のカウンターカルチャーが形成されていくのですが、それがフェミニズムだけではなく一般的な女性観や家庭観と正面から対立するミソジニー(女性蔑視)に満ちた男性文化を形成し、ヘイトや暴力的な行動を引き起こしたのです。
主流の文化に対して独特のカウンターカルチャーを形成しているといえば、アメリカ社会でも「オタク」文化が一つの流れとしてあります。そしてこのオタク文化も「侵犯文化」に合流するのですが、ただし全面的にではありません。そこには男性文化の閾や線引が厳然としてあり、一部のオタクは「女々しい」として排除されるからです。さらには、決して主流にはならず、非生産性を軸とするという「オタク」の行動規範と、オルタナ右翼の政治的野望とには互いに相容れないものがある。とはいえこれらの流れはネット上で影響し合い、新しい形のカウンターカルチャーを形成していったことは否定できない。
このような「侵犯文化」形成の仲立ちをしたのがまさにインターネットミームだったといえます。それらはネット上で4chanなどchan共同体をなす電子掲示板や、SNSでは旧TwitterやTikTok、YouTubeなどに数多く投稿されました。そしてミーム特有の拡散をしていったのです。
インターネットミームによるコミュニケーションの特徴
インターネットミームによるコミュニケーションの特徴の第一は、言語や思想ではなく、「感情によるコミュニケーション」であることです。ミームの表現は「反知性的」「反思想的」だと言われますが、言葉が内包する社会規範を侵犯したいという情動に基づくものですから、言葉を捨てて感情から感情へと直截につながる手段をとるのは当然かもしれません。そして伝える「ネタ」としてはより簡潔でインパクトのあるものが選ばれる。一瞬で分かるもの、笑えるもの。そして「イイね」をクリックして、即つながった気持ちになるもの。それらは変形したり薄まったりしながら伝播していくのです。
さらに第二の特徴は、「社会的事実」であることよりも「ウケるネタ」を重視する点です。「普通の奴ら」が垂れ流す事実や価値や美意識、それらによって構成され報道される「社会的事実」は何かの「陰謀」かもしれないし、唾棄すべきものなのです。そういうものではなく、社会貢献などしたくもない「自分独自の事実」がネタに上書きされる。そこには時折「捻じれた承認欲求」もみられます。それがフェイクニュースや危険な動画を掲載する行動につながっているように思います。
第三に「拡散力」です。ミームの拡散力の強さはウイルスのそれに例えられ、「ミーム汚染」などと呼ばれることがあります。
ここでは深く立ち入りませんが、元来「ミーム」という概念は進化生物学からきています。脳神経内に保存された文化的情報が、自分の外にいる他人の脳でも複製され拡散していく。そして一定の社会的文化的なモードとなる。この社会文化情報の複製のありようは遺伝子のイメージから来ているのですが、そこには遺伝子情報による複製という生命活動だけではなく、それと異なるかたちで「ミーム」の働きがあるとされ、それによって進化する人間社会と文化のしくみを捉えようとするものです。
ウイルスは生命体としての遺伝子はもっていませんが、断片のようなわずかな遺伝子を持っており、それが他の生物の細胞内に入り込んで複製・増殖されます。それによってウイルスに侵された生物の遺伝子やウイルスじたいの遺伝も改変・上書きされることがあります。そういうことから、ネット上で拡散する「断片情報」をインターネットミームと呼んだのでしょう。ウイルスの感染力も拡散のイメージを添えている。
ミームの拡散性が意味するもの
ミームが拡散する背景には重大な問題点がいくつかあります。
拡散するためにはまず「ウケる」ことが必要です。つまり受容されることです。たとえばウイルスがヒトの細胞内に侵入するとき、外から暴力的に侵犯するのではなく、ヒトの細胞側から出た「受容体」と結合することで侵入可能になるのです。しかし、この受容体はすべてのウイルスを受け入れるわけではなく、型にあったものだけを受け入れる。型の記憶や認識機能を通して取捨選択されることになるのです。
ウイルス感染のプロセスに例えて、言語のウイルスともいわれるインターネットミームを捉えるならば、その「受容体」の部分が問題になる。受容体は誰でも歓待するわけではない。受容するのは型にあったもの、認識できたものであるわけです。となると、ミームがウケるということは「元ネタ」を知っていなければならないし、その情報があり、それに基づいて受容することになるのです。
つまりミームは「元ネタ」への共通認識が必要であると同時に、「元ネタ」のもつ影響力に左右されるということです。これが問題なのです。
そこで、もし「天皇ミーム」を作ったとすれば、それが受容されるためには「その天皇が天皇である」という情報の同定、つまり「元ネタ」の意味の受け入れが必要になるわけです。ではそのとき「天皇が天皇である」ことの意味は、どのように形成されたものでしょうか。そしてどんな内容を持つ「天皇」なのでしょう。
ミームの拡散過程ではそういうことは問われません。それがそれと分かればすぐ受容体を出す。つまり、そこでは「天皇が天皇であること」の意味や「天皇がいる」ことの意味は問われることなく(つまり天皇制という権力に関する洞察なしで)、「これは天皇だ」という記憶と認識だけが必要とされ、それによって「天皇の意味」は無傷のまま通過していくのです。どんなに背徳的なミームであったとしてもそうでしょう。こうなると、もし「天皇ミーム」がいくら過激に登場したとしても、天皇制のシステムを攻撃するよりも、そのシステムの補強の具になる可能性が強いと想像できます。
これは「元ネタ」の共通認識に寄りかかり「元ネタ」の影響力に依存するミームの宿命かもしれません。ウイルスは「元ネタ」ともいうべき宿主の身体に侵入しますが、宿主を滅ぼしてしまうと自らも滅ぶため、やがては毒性を抑えながら感染力を増す方向で「進化」に向かいます。不思議ですが、インターネットミームもそういうことなのでしょうか。
秋篠宮バッシングが意味するもの
眞子と小室圭の結婚・アメリカ移住、悠仁の大学入学に至るまでの進学問題、そして紀子や秋篠宮自身に向けたバッシングが以前から続いています。このバッシングは折あるごとに話題を変えて続いています。ネット上では、秋篠宮は明仁の血を継ぐ子ではないとか、悠仁も天皇家の血筋ではないなどの言葉が目立ちます。「秋篠宮家から天皇を出してはいけない」とか「秋篠宮は身勝手だ」とか。紀子へのバッシングは、「特権的身分に胡坐をかいて悠々と生きている」「顔が気持ち悪い」とか、さらには、紀子が講師を務めた子育て関係の講演会の最中に、「お前なんか、子育てを語る資格はない」とかのヤジが何度も飛んだと紹介する動画もあります。それらは従来の週刊誌などの「暴露記事」を元ネタにしていると思えます。ですがバッシング動画の多くはAI音声とアニメを使ったものです。ネット上で「反道徳的」な表現が用いられるのは、匿名性が確保されている(と思っている)からでしょう。
インターネット空間にとどまらず、週刊誌などのメディアでも暴露記事や不快感をむき出しにしたものが目につきます。秋篠宮インタビューでの「いじめ情報」発言については、発信元を明記した旧メディア系サイトでも「秋篠宮は国民を敵に回す覚悟を」(文春オンライン)とか「天皇家の姿勢とはまったく違う」(プレジデントオンライン)という趣旨の言論が見られます。ネットのサイトではあの「いじめ」発言は逆効果だった、次に天皇になるべき資格があるとは思えないなどというものも。そしてそれら秋篠宮バッシングの論調は「だから秋篠宮家に皇位を譲るべきではない」「そもそも男系天皇制というルールはおかしい」「天皇制が安定するためには愛子を天皇にするのが一番だ」という方向に流れています。秋篠宮バッシングには「愛子天皇」を望む声が重なっているのです。
こうした秋篠宮バッシングを見ると、そこにインターネットミームの特徴が顕著にみられるようです。というよりも、これらのバッシング記事もまたミームの一種として扱ったほうが分かりやすいでしょう。実際、言語的ミームとして考えるべきです。
すなわちここで展開されているのは、宮内庁の公式情報や主流メディアによるニュースの「うそっぽさ」、つまり「普通の感覚」で受け止める天皇・皇族ではなく、「普通」から逸脱して、主流派の道徳規範を侵犯する「自分なりの真実」なのです。それが「言語ミーム」となってニュース情報に上書きされている。そして拡散しているのです。
「逸脱・侵犯」の承認欲求と「愛子天皇」待望論
じつはミームが拡散していく過程には、もうひとつ重要な問題があります。大きな陥穽といいますか、その「成れの果て」とでも言いますか……。それをひとことで言うなら「侵犯の承認欲求」の問題です。
主流文化への侵犯や逸脱は「ただ侵犯すること」だけに目的があり、そのことだけを楽しんでいるのかいうと、決してそうではありません。ミームには電子掲示板という公共空間が必須であることや、掲載したものが「ウケる」ことが動機になっている。それからすれば、「ただ侵犯すること」に終始するものではない。
「侵犯」「逸脱」には必ずと言っていいほど「承認欲求」が伴っています。キリスト教文化では「罪」や「逸脱」があるところには「裁き」だけではなく、必ず「罪の赦し」がある。そもそも「裁き」は「赦し」を伴っているといってもいいほどです。そこに「赦しの主体たる神」(「戸締りの神」)が登場する契機がある。
何故に「主流」に背を向け、社会的規範に反してまで文化侵犯をするのか。なぜ「ミーム」を製作するのか。今、その理由を問うことはやめましょう。「侵犯」「逸脱」が悪いわけではないし、そもそも生命活動や繁殖は侵犯と逸脱によって「進化」するのだと、ダーウィンも言っているくらいですから。
ただし、インターネットミームについては、その文化的侵犯行為において「承認欲求」という避けがたい陥穽があることは重大な問題点です。
秋篠宮バッシングが言語ミームとなって拡散するプロセスを見ると、そこにあるタブーの侵犯はやがて承認欲求の行先として「愛子天皇待望論」へと帰結する方向性を示しています。男系による皇位継承という「伝統」から「逸脱」した女性天皇の誕生、すなわち男系天皇制がみずから「タブー破り」をして誕生する「愛子天皇」によって、「侵犯文化」の担い手は一定の「承認欲求」を満たすことができるということです。そして「気持ちいいfeels good」と感じる。けれども「天皇制をなくすこと」については、そう感じないらしい。
こうして、皇族バッシングのミームは、ミームが内包する承認欲求のエネルギーを貯めて、「男系」という「皇統の本筋」から逸脱する「女性天皇」誕生へと政治化されていくのです。 天皇が天皇でありつづける空間、つまり天皇制の身体に寄生してはじめて拡散するミームですから、天皇制を妨害するように見えても、結局は宿主の身体を突き崩すことができない。ですから、その侵犯と逸脱の文化的産物は、天皇制の「進化」のエネルギーとして消費されるのです。そして耐性を備えた変種ウイルスとなって、より感染力が強く、しなやかな強靭さをもつ天皇制へと「進化」することだってありうるのです。
「非意味」へのたたかい
文化的な背景は大きく異なるのですが、トランプ大統領を誕生させたカエルのペペのミームも同じように政治化され、変種の大統領制へと「進化」するエネルギーになったのです。それは「アメリカおよびアメリカ人」という文化空間で生じたのですが、同様のことが「天皇制」という文化空間で生じることはありうることで、それはなんとしても避けたい。
天皇制の身体に寄生したままでなされるバッシングや暴露ネタは、天皇が天皇であることの意味に依存したものです。そこでなされようとする逸脱や侵犯は、結局のところ寄宿する身体に回収されるか、消費されて終わるのです。
そうではなく、天皇が天皇である意味を剝奪するたたかい、それこそが反天皇制運動において展開されるべき内容です。
「天皇が天皇である意味」を叩くのではなく、剥奪すること。では、それはどんなものなのか。そのことについてもいずれ書きたいと思いますが、しばらく時間をください。