桜井大子
「明日はてんのうへーかのお誕生日だからきっと晴れるよ」。
これはおそらく、断定はできないが、私の脳裏に初めて「てんのうへーか」という言葉を焼き付けたセリフであったと思う。子どもの頃の記憶で曖昧ではあるが、何か楽しみなことがあったのか、その日の天気を心配する私に、親か身近な大人が私に語ったセリフだ。ちょっと大げさだが、奇跡をともなう神秘的なイメージが付与された天皇像が、その言葉と一緒に潜在的な記憶に埋め込まれた瞬間だったのかもしれない。
1960年代に子ども時代を送った私と同年代の人たちの天皇体験、天皇認識の最初は似たようなものではないかと、漠然と思っている。少なくとも私の天皇認識の最初は学校教育ではなかったし、実は学校(義務教育)で教えられた記憶もない。中学・高校あたりで憲法について教師が語った話では、9条のことしか記憶にない。天皇が象徴であるとの話があったのかもしれないが、とにかく記憶にないのだ。しかしそれでも、いつの頃からか、子どもの私も天皇の存在は知っていた。そういう意味では、私と同じ年代の人たちが受けた学校教育に大差あるわけもなく、天皇教育も似たり寄ったりだろうから、同世代の人たちの天皇認識のありようは私と大差ないのではないかと思ったりするのだ。
実は私の子ども時代だけでなく、そこから半世紀以上も経った現在においても、天皇(制)については、義務教育においてまともに教えていないようだ。たとえば東京都教育会という、1883年に発足した東京府教育談会を前身とし、幾つかの変遷を経ながら現在にいたる民間団体があるが(私はよく知らない)、そのHPに「提言」というのが多数上げられている。その「提言101」では「象徴天皇制について、学校教育でどう取り扱うか」などと大真面目に語っている。2016年の天皇のビデオメッセージを受けて書かれたものだが、教育現場の実態について「象徴としての天皇の在り方について、事例を通して児童生徒に理解させることは難しかった。結果として、「天皇は日本国の象徴」という言葉だけの学習で終わっているという例が多かった」と吐露している。
「日の丸・君が代」認識も似たようなところがある。子どもの頃、それらが「日本」のシンボル的なものとして記憶に登場したのはオリンピックの表彰式の映像だったように思う。学校が「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」として教えられるはずもない時代であり、学校での掲揚などもあまり記憶にない。「日の丸」「君が代」も学校の外で教えられていたのだ。そのTVの画面が映し出した「日の丸・君が代」が表現するものへの大人たちのコメントは、一緒に見ていた子どもにどのような影響を与えるのだろうか。私の場合、残念なことにまったく記憶がない。ただそれは、表彰台までの過程をともに観戦し、「勝つこと」を目的とするその価値観を共有し、だから勝てば共に喜び、興奮気味に語る解説者の言葉と「日の丸・君が代」による「勝利」の実感や誇らしさや感動を、見ていた者たちが共有するという体験で、おそらくその全体をとおして「日の丸・君が代」に付与された意味を学んだのだろう。
日常生活のなかで子どもたちに埋め込まれる価値観や「常識」と呼ばれるものは多い。その多くは、合理的な根拠などないことが多い。それらは子どもにとって絶対的な信頼関係にある、あるいは自身の生存の拠り所であることを直感的に認識している、身近な大人たちとの関係の中で作り出されたり、教えられる。その価値観や道理を導き出す理屈など不要なのだ。たとえば、女の子だからそんな乱暴な話し方をするものではない、と言われればそれに従うしかないし、なぜ女の子だからダメなのかという納得のいく理由が説明されるわけでもない。大人と子どもの縦社会でなされる価値観の伝達なのだ。それらは自分の価値体系のなかに自分自身が埋め込んでしまうやっかいなものでもあり、幼少の時であれば、絶対的なものとしてあるにちがいない。
なぜ学校は象徴天皇制を教えないのだ?
ここでささやかな疑問を一つ。国の制度である天皇制やそれを支える天皇・皇族について、国はなぜ学校教育でまともに教えないのか。たとえば立法・司法・行政という国の最高権力について、あるいはその三権に対する三権分立の原則、憲法三原則としてある「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」等々については、それが有名無実と成り果てているにもかかわらず、それとして教えているのではないか。私も教わった記憶がある。それなのになぜ、憲法一章に書き込まれ、三権の長よりも高いところに位置すると思われている天皇について、きちんと筋立てて教えないのだろうか。天皇の存在の根拠や歴史的背景などについてはド素人の大人たちが、迷信や聞きかじりの話で子どもたちに伝え、現在であればTVニュースや特番などの映像によって学習させる事態を、国はなぜ放置しているのか。
さらにささやかな疑問2として、では、学校での教育を放棄する国は、天皇の存在や天皇制に関する教育については、ド素人の大人たちが教える「常識」程度のものと考えているのか、といったことも気になってくるだろう。
これらについてはおおよその推測はできる。元首規定もないのに、天皇はこの国の元首的存在としてふるまい扱われてもいるし、なんの法的根拠もなく文字通りの公的な最高権威者として存在している。尊重義務規定だってないが敬称つき・敬語まみれで語られる。そのような天皇とその制度について、学校は筋の通った説明などできないという問題があるのではないか。それ以上に、なぜ敗戦を境に憲法が変わり、天皇が象徴天皇に変わったのかの説明ができないのだ。日本政府と天皇の戦争責任問題に触れることなくその説明はできないし、それを国は許さないのだから。教科書問題でもそうだし、日本の戦争について語る教員を偏向教育者として処分するような教育界なのだ。
とはいえ、だからといって親や身近な大人たちに任せるのか?と、素朴に考えてもいいように思う。私の記憶する大人たちが語った天皇の話はいい加減なものばかりだ。たとえば「天皇のおかげで戦争が終わった」「あんな広い家に住むのは掃除も大変だ」「焼きたてが食べられず、冷めた焼き魚はさぞかし不味かろう」的なものばかりだ。国の制度に関する教育がこれで良いのか?と考えない方がおかしい。
しかし、それで良い、むしろその方が良いと国は考えているのだ。要するに、天皇(制)のことは詳しく教えない方がよいと、積極的にそう考えているのだろう。
「お優しくてお綺麗で、国や世界の平和を祈る」といった天皇・皇族像を信じる程度の教育が好都合なのだろうが、さすがにそれを学校で教えるわけにはいかないし、やはり巷の大人たちやマスメディアに都市伝説や天皇神話をもとに語らせておくことは悪くないと。実際その教育は功をなし、学校でまともに教えられない制度が、政府がよく言うところの「国の根幹に関わる重大事」であることに疑問も出てこない社会ができあがっている。
ド素人が教える天皇制社会の「常識」と生き方
天皇(制)に限らず、学校(義務教育)の外で教えられ身につけるものは数多い。多かれ少なかれ親や親しい大人たちは、自分の信じる価値観や「良識」をもとに、より良く、あるいはよりうまく生きる術として、さまざまな知恵や技術を子どもたちに伝える。それらももちろん、親や大人というだけで子どもたちの絶対的信頼を握っている大人たちからの助言として受け取らされる。
それらは小さな「作法」のようなものから、生き方を左右するような「思想」にかかわるところまで、その範囲は広い。食事の準備やその作法、いろんな場でのあいさつ、座り方、歩き方、風呂の入り方、親戚や友だちとの付き合い方等々、驚くほど多い。それらは「常識」だったり、特別な場合は「お袋の味」「家風」など表現されたりするのだろう。中でも「常識」というのは、かなり厄介だ。
少し大きくなると、仕事を持つことが大事で、そのための受験も重要であること、あるいは結婚や子どもを産み育てることがいかに大事で幸せなことなのか等々を、伝えてくる。また、いい大人やダメな大人について、その生きた見本として自分や配偶者、身近な人たちを例にトクトクと述べたりする。
そこで語られるお説教や逸話の多くは「しつけ」の一環であり、おそろしく不条理なものだったり、行き着くところ、女性差別や学歴差別、職業差別、身分差別等々につながるものも多く、しかもそれらは、やはり「常識」や「良識」「道理」などに結論される。実際この社会はこういった差別構造の上に成立していて、その社会に生きなくてはならない小さな存在である一市民は、その中でうまく生きるための「常識」を身につけようとするのだろう。悪夢のようなぐるぐる回る悪循環だ。
こういった大人たちの「しつけ」に、天皇制はどうかかわっているのか?を、ここでの最後の小さな疑問とする。
「しつけ」とは大人になれば無縁のものとなりそうだが、社会はその「しつけ」というお仕着せの結果である「常識」を要求することが多い。親たちはそのことを知っているからこそ「しつけ」に熱心になるのだ。だから、大人になっても「しつけ」というものから解放されるどころか、理不尽な「常識」にがんじがらめにされることが多い。世の「常識」も大人が子どもに教えた「常識」の延長上にあるのだ。そういった幼い頃から大人たちに叩き込まれ、しつけられた「作法」など「常識」とされているものが、「社会規範」「礼儀作法」などとなって、学校や職場、地縁・社縁を席巻している。場合によってはそれらは「伝統」「文化」と格上げされる。
たとえば多くの場合、女子には女性になるための「しつけ」がなされ、それがそのまま大人社会でも一種の規範とされていることが多い。おそらく男子にも同じような「しつけ」があるのだろう。そういった大人社会の規範が、いまの天皇制を支える「観念」を作り出しているはずだし、逆に天皇制の「伝統・文化」と言われるようなものが、社会の「常識」を支えていたりもしているはずだ。
ほとんどの大人は大人社会のどこかに属しながら生きるが、そのしつけられた「常識」から逸脱しても生きていけるケースは少ない。ありきたりの例を出すが、いまでも女性はいたるところで家事の延長にあるような雑用を期待されることが多い。それを拒むのにもエネルギーがいる。なぜなら、この社会にはまだ、女性の仕事だからという「常識」が生きているからだ。そんな会社・組織はいまでもごまんとあるだろう。そういった社会通念や「常識」のようなものを正当化するのに、家父長制で男子・男系主義を「伝統・文化」とする天皇制の価値観は都合が良い。いまのところ、組織による女性の扱い方は天皇家が見本をしめし、正当化していると言える。男であるというだけで、家父長になる鍵を持てる男社会への願望がまだ消えていない社会であるのだ。家制度や身分制を保持し、家父長でもある天皇の制度と、この社会はお互いに共鳴し合う関係でもあるだろう。いや、天皇制と男子社会は共犯関係にある。そこに価値を見出す女性社会もあるならば、そういう意味では天皇制といま私たちが生きる天皇制社会は共犯関係を持っている部分が多々あるということになる。共犯となれるのは、もちろんその上層部だけであるが、身分差別・格差差別、女性差別社会であるその底辺にいる私たちも、無関係ではないということだ。
余談:天皇一族と「民間人」の「伝統」「文化」
象徴天皇制は、国が作り出す社会をその住民たちに納得させる役割を果たすことで大いに貢献しているが、一方で、その住民たちの方から積極的に皇室の「常識」や「作法」等に近づいて行ったり、皇室に対して彼らの悪しき風習(「伝統』)を皇室の外から強要している例も少なくない。
前者は、言ってしまえば「高級」な人たちへの憧憬やそこに近づこうとする願望からくるものであろう。「家柄がいいと窮屈なものである」という「常識」によって、ひどい人権侵害を家族内でやりあう。家父長が存在し、結婚も自分で勝手に決められない「厳格」な家柄であるとか、「これはお祖母様がそのお祖母様から譲り受けた〇〇です」と、所持品を通して代々続く家柄の自慢だったり。身分差別、家制度、女性差別が入り混ざり、天皇家に連なる「家」であることに価値を見出しているとも言える。
後者は皇室報道でよく眼にする話だ。たとえばここ数年来、凄まじい秋篠宮家バッシングが続いているが、あるべき皇室(の常識・良識)から逸脱しているというのがその「悪口」の本質だ。皇室を離れた秋篠宮の眞子結婚問題はいまでも尾を引いている。皇族の結婚相手として相応しくない夫、ダメ男との結婚を許す親、と責められ続けている。古い話だが、現皇后になかなか子どもが生まれなかった頃の、そのことを理由とした皇室内外からのバッシングもひどかった。日本社会は当人を病気にさせるまでの重圧をかけた。このような例は少なくない。両者とも、こういった言動をなす人びとが、いま法的には否定されている家制度や家父長制を「伝統」とする天皇家の「常識」を内面化している結果でもあり、象徴一族に相応しい「常識」を押し付けることも当然のことなのだろう。
最近の世論調査では、女性・女系天皇容認は90パーセントというから、少し変わってきているようにもみえるが、その論理は、世襲制や身分差別が前提の、傍系よりは直系が良いといったやはり差別的なものも多い。女性・女系天皇が出現し、男が女にとって替わっても、その配偶者選びなど、結局同じ「常識」が適用されるのだ。
しかし多くの人たちは、一度身につけた「常識」や価値観を否定したり、価値転換を成し遂げてもいく。人や書物などとの出会いを通してそれらは相対化され、全く別の価値観で考え直すことを学んでいくのだ。人はそうやって大人になっていくし、その過程において今の自分もいるし、ほかのたくさんの「日本人」がいる。とはいえ、その「日本人」たちがこの天皇制社会を作っているのも事実で、穏やかな気分ではいられない。そういうわけで、最後に、ささやかな疑問、ではなく、私が思うところを少し書いてみたい。
学校が教えない天皇制を知ること
天皇(制)や「日の丸・君が代」について、義務教育レベルで教えないことが問題であるかのように書いてきた。もちろんそれは問題だと思うが、むしろここで言いたかったのは、学校で教えられないような制度が、憲法が定める国の制度であるということの方だ。その制度のために毎年270億円程度(2023年度は265億2800万円)の予算が計上されている。この制度の維持は憲法2条の「世襲による」の一言で済ませられているが、その実態は、あらためて書くまでもないが、男性皇族が結婚してその配偶者に男子を産ませることだ。こんな国の政策があるか?という怒りもある。書き連ねるとキリがない。
要するに、国が子どもたちに大きな声で説明できない根拠はありすぎるくらいあり、それはつまり、換言すれば国の制度としてよくないものである、ということだ。しかし象徴天皇制は、いろいろ差し引いても、国にとっては都合の良い制度としてあるのだ。だから続けるための政策を考える。たとえば今は「皇位継承」問題だ。そして、天皇に関する教育はもっぱらマス・メディアにまかせ、「外交天皇」「祈りの天皇」「慰霊の天皇」「慈愛の天皇」「平和天皇」等々、「有益無害」を印象付ける映像とともにイメージを刷り込ませている。メディアもそういった国の意向に沿って自らの存続を図っている。まったくろくでもない社会だ。
いま私たちに必要なことの一つは情報リテラシーだ。他の課題も同じだと思うが、天皇制問題は見えないことが多すぎる一方で、おそろしく大量の情報も流れている。そして、見えない天皇制を知るための情報が得難いのは当然だ。だから見えないのであって、この問題もぐるぐると循環している。
たとえば、天皇・皇族は特別にお優しくも慈愛に溢れてもいないと思うが、巷に溢れる情報はそういった天皇像だ。被災地や施設を公費で視察して回っているだけのことで、警備も歓迎人も動員され、居並ぶ人たちに「大変でしたね」などと声をかける。心ある人のやることではないだろう。それどころか、天皇制に反対の意思表示をすると、大量の警察に取り囲まれたり弾圧に出くわすし、恫喝や暴力で脅してくる右翼に遭遇する機会も増える。反対する者たちにとっては、優しいどころか危険な存在だ。言論の自由も表現の自由もない。皇室には人権がないと言われるが、その皇室によって奪われる人権ははるかに多い。では、誰がなぜ必要としているのだ?
だから、知る必要も学ぶ必要もあるのだと痛感している。いまもその気になれば、知りたいことを伝えてくれる人やメディアとの出会いの可能性は開かれている。この『あめつうしん』もそうだ。ただ、偶然という楽しみもあるが、行き着くまでの個人的な努力も必要だ。私もやっとこのメディアと出会えた。知ることから始まることは多い。出会いを楽しみに、これからも反天でいきたい。
*初出:謄写印刷ミニコミ『あめつうしん』(編集・ガリ切り・印刷・発行:田上正子)no. 349,2024.10/購読料:3000円、振替:00120-4-26978「あめ通信」