米須清真(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)
米軍普天間基地の代替施設として名護市辺野古新基地が建設されている問題で、昨年2024年の12月、政府は大浦湾側の地盤改良工事を開始した。このことについて、一体なぜこのタイミングなのかと沖縄の側からは疑問や反発の声が上がっている。年末という慌ただしい時期であり反発を最小限に抑えようとしたのではないかとも言われている。最深部が海面下約90メートルに達すると指摘される地盤に砂を固めた杭を打ち込むことは前例のない難工事であり、その地盤も「マヨネーズ」と形容されるほど軟弱であるという。また、当初3500億円とされた事業費は、現在では9300億円に膨らみ、このまま進めば総額は4兆円を超えるとの試算まである。工事費用や工事期間がかさみ続ける杜撰さを隠すために既成事実を積み重ねようと躍起になっているのだろうか。建設会社が琉球の大地を餌にして膨張し、「無理」に向かって加速する様からは現代的なニヒリズムが見てとれる。琉球・沖縄を踏みしだきながらアクセルをベタで踏み続ける、そうしたスリルを味わう「享楽」がアディクションになっているように見えるのである。
今年2025年の1月、辺野古新基地をめぐる国と県の間の訴訟は全て終結した。和解・取り下げの4件を除き、いずれも県 の敗訴に終わった。もしもこのまま琉球の側から手も足も出ないということであれば、これから私たちは、悲嘆に明け暮れる日々を過ごすことになるのだろうか。このまま、またも琉球は我慢をさせられていくのだろうか。否、そうではないはずだ。琉球・沖縄の抑圧に、琉球人はもう耐えられられなくなっている。こうなったら、琉球の側から防御をする作法を考えていく必要がある。そもそも辺野古新基地建設において、問題の核心とは一体なんなのだろうか。私は、「辺野古が唯一」の決定プロセスを検証することにより、憲法14条の問題、つまり平等権の侵害という問題が浮き彫りになってくるのではないかと考えている。さらに、歴史的に積み重なってきた植民地化の暴力、琉球に対しての征服戦争をつまびらかにしていく必要があると考える。このことについて、説明していこう。
まず、はじめに、「辺野古が唯一」という決定がなされたプロセスと、その論理を振り返ってみる。故・安倍晋三元首相は国会で、「辺野古新基地」の根拠を問われ、「移設先となる本土の理解が得られない」を閣議決定の根拠として説明した。また、中谷元・防衛相はかつて「分散しようと思えば九州でも分散できるが、(県外の)抵抗が大きくてなかなかできない」とし、森本敏・元防衛相もまた「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と証言した。このことから、新基地建設が、その決定プロセスにおいて沖縄とヤマトを不合理な区分で分けた上で、沖縄のみをないがしろにする認識のフレームのもと決定がなされていることが分かる。ヤマトが支配し、沖縄が従属させられる権力関係の構築がなされている、ということである。さらに言えば、こうした事態は、憲法14条の「法の下の平等」において、琉球人に対しての「差別」として機能しているのではないかと考える。「差別」は、構造化されることで見えにくくなっている。
憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としているが、沖縄が置かれた立場は、構造的に、憲法14条が言う「平等権」から除外されていると考える。
どういうことかと言うと、例えば、女性参政権の問題を考える。女性参政権の問題は、憲法15条「成年者による普通選挙を保障する」を指摘するだけで事足りるのか。それとも、憲法15条のみに絞らずに、憲法14条「法の下の平等」とセットで論じていく必要があるのか。このことは、「辺野古新基地」の問題でも同じように考えることができる。「本土の理解が得られない」という理由による「決定」は、憲法92条の「地方自治」のみの問題なのだろうか。それとも、憲法14条「法の下の平等」とセットで論じていく必要があるのか。
歴史を紐解けば、男性の参政権は1889年から始まり、女性の参政権は、1945年からはじまった。一方、琉球人はというと、1945年に参政権を剥奪され、1970年に再開したのである。1970年の「国政参加選挙(西銘順治、瀬長亀次郎、上原康助、國場幸昌、安里積千代、喜屋武眞榮、稲嶺一郎を選出)」が今も語り草となる一方で、琉球人の参政権が剥奪された1945年のことは、あまり知られていない。さらに、この参政権剥奪は、当時の帝国議会において多数決によって決定されたというプロセスを経ているのである。その時に反対をしたのは、沖縄出身の漢那憲和議員ただ1人のみであった。このことからも次のようなことが言える。参政権剥奪は、琉球に基地が集中したメカニズムと深く関係している。というのも、憲法制定、日米安保条約批准、改定は、沖縄抜きの国会で決定されたからである。こうした体制に、琉球人の殲滅が埋め込まれているということである。さらに、この頃、ヤマトの米軍基地周辺で基地反対運動が激化し、その作用としてヤマトから沖縄に米軍が移設され、結果、基地が固定化されていった経緯がある。
今、日本の憲法学のアカデミアが、憲法14条を個人主義的にミクロに解釈することで、死文化させている現状がある。「平等権」を単なる「平等原則」に置き換え矮小化しているのである。こうして、日本の憲法学者は、辺野古新基地問題を憲法14条から排除している。日本の憲法が語られるとき、日本ならではの条文ばかりがなぜか強調して解釈される一方で、逆に、14条はないがしろにされているのである。こうした事態を打開するために憲法14条の積極的な解釈により、沖縄が置かれた従属的立場を是正していくことを探る必要がある。
そのために、具体的に何ができるのか。私は、具体的手順として、以下のことを提言したい。
① 「県民投票の結果」と「全国の議会で、県外・国外移転を求める意見書の採択」を新証拠に辺野古の埋め立てを「再撤回」し、憲法14条違反などをダイレクトに問う憲法裁判に持ち込む。
② 「県外・国外移転の手続き法」を制定し、その法規範に則って「県外・国外移転」を実施する。
このことに関連して、実は、2023年4月25日、私が暮らす東京都小金井市の市議会臨時会において、『沖縄「復帰」50年・東京都及び東京都議会に対し、公正かつ民主的な手続きにのっとり、沖縄の基地負担の軽減を呼び掛ける決議を求める決議』が賛成多数で可決され、その日のうちに東京都及び東京都議会に送付されている。この決議を求める陳情は、その前年の秋に私が提出していたものである。陳情の趣旨としては、以下の三項目である。
1.「辺野古が唯一」という言説の基礎をなす差別を解消するため、沖縄での県民投票に示された辺野古新基地建設工事を中止し、普天間基地を運用停止にすることを国に求めることを呼びかける。
2.沖縄の過重な基地負担を積極的に軽減していくために、「沖縄基地縮小促進法(仮称)」など沖縄の米軍基地の負担軽減の最終責任を国が負うという法整備を要求し、その法に則って、国民的議論を尽くしたうえで、普天間基地の県外・国外移転により解決することを国に求めることを呼びかける。
3.仮に普天間基地の機能が国内に必要だという結論となるのであれば、本土でも一地域への一方的な押し付けとならないよう、憲法第41条、92条、95条の規定に基づき、公正かつ民主的な手続きにより解決することを国に求めることを呼びかける。
陳情が通ったことは、陳情者として率直に嬉しい。実は、これと同趣旨の意見書は、これまでの小金井市議会でも採択されており、三度目である。今回の新しさは、これまで国及び国会を宛先に議論を呼びかけるものだったのが、地方自治体議会から地方自治体へと議論を呼びかけるようにしたことにある。あまり前例のない、ある意味では力技とも言えるアプローチかもしれない。都議会も小金井市議会に続いて国民的議論を喚起してほしいと切に願う。
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ところで、近年、西側の都市の文化左翼は、アイデンティティ・ポリティックスに夢中である。「差異の承認の政治」ということである。少し離れたところから見ていて、何もたいそれた「アイデンティティ」という言葉を使わなくてもよいのではないか、と思っている。というのも、従来の言葉であるパーソナリティ、つまり、「個性の尊重」で事足りるのではないかということである。先にも憲法14条の解釈問題でも指摘したが、近年の「差異の承認の政治」がアイデンティティを個人主義的にミクロにしていくように見えるのである。何に引っ掛かっているのかというと、「一元論的」なのである。「私がこう思ったからこうなんだ」という認知に根ざしている。しかしそれだけでは事足りない。例えば、支配と従属という二元論における権力関係の構築、あるいは、下部構造(フィジカルなもの)の搾取や略奪によって上部構造(精神・文化)が作られる二元論の構築が見えなくなっているのである。
旧来の教条的なマルクス派は、生産関係において「資本家」と「労働者」の階級的な利害の対立が必然的に起きると捉え、それを「搾取」であるとして抵抗してきた。ただ、こうして「階級」の問題を「資本家」と「労働者」の「搾取」だけで捉えることに限界があった。そこで登場したのは「唯物論フェミニズム」や「世界システム論」だった。従来の理論の応用として、「女性の階級化」や「先住民族の階級化」が考察されるようになったのである。ところが、近年の左派の主流は、アイデンティティを個人主義的に矮小化し、階級を抹消して「女性」と「先住民族」の「階級化」を見えないようにしている。
フランスの哲学者ラッツァラートは、その著作『戦争と資本』で、「女性に対しての戦争」や「植民地化された人々に対しての戦争」が「フラクタルな世界内戦」として進んでいると分析している。このことは、沖縄から見える景色とまさに重なるのではないだろうか。どういうことかというと、国家間のレベルで交戦状態になる可能性という認識枠組だけで語ることは難しくなっているということである。そうした「戦争」に先立つ形で、「男性」と「女性」、「日本人」と「琉球人」というような非対称的な形で、略奪戦争、殲滅戦争が進んでいる、ということである。
例えば、「性売買」の問題や「代理母制度」の問題からも、女性の人格から身体を切り離し、その身体に「男性」が領有を仕掛けていく征服戦争が進んでいると言える。「性売買」の問題は、「戦時性暴力」を「平時」において「準備している」ということであり、つまり、総力戦が純粋戦争となって「平時」を呑み込み、「女性に対しての戦争」が継続・延長しているということである。尚、カメルーンの歴史家であるアシル・ムベンベは、その著作『黒人理性批判』の中で、20世紀末の生殖技術が「胎児の選好という形で生殖的選択を処理する技術」で「人種的シンタックスが再現されている」とした上で、加えて、生物の「サイボーグ化」が「『望ましくない』とみなされた人種を排除するために使用されることを何も妨げることができない」と警鐘を鳴らしている。
かつて「国家」の論理でなされたEugenics(優生学)だが、その「国家」の位置に「資本」が入ってきて置き換わり、新たな優生学であるLiberal Eugenicsとして回帰してきているのである。
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アメリカの経済史家であるイマニュエル・ウォーラーステインは、世界の国々をそれぞれ独立した閉じた単位として扱い、単線的時間の「発展」と捉える視座を批判し、「世界システム」という視座を導入、それぞれの国々の権力的関係を論じた。「世界システム」において「低開発の国」が作られて、そこからの収奪によって支配的立場の国が作られていくということである。具体的には、カリブ海の黒人奴隷の重労働によってイギリスの近代資本主義が発展してきたということである。こうした視座は、これまでの世界史の捉え方に画期的転換をもたらした。このことは、日本と琉球の関係を見るときにも当てはまる。
哲学者のジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、その著作『千のプラトー』で、「土地の所有」が先住民族を資本主義のシステムに包摂することで、物理的な権力作用として、「土地」と「人間」を「脱領土化」し「再領土化」していくと論じた。つまり、土地の収奪が「脱領土化」であり、その後に「再領土化」、つまり土地の再編(領有)がやってくる、ということである。これが植民地化の構造と言える。
ハワイの先住民運動指導者のハウナニ=ケイ・トラスクは、その著作『大地にしがみつけ』で、「土地の私的所有という考えがハワイに入ってきた」ことで、「先住民の餓死」と、「広大な砂糖のプランテーションの興隆」につながったと論じた。
私の理解では、「私的所有」という発明が資本主義の中心的教義の一つであり、そこには売買可能性を含むということ、つまり、「土地」の「私的所有」はそれが切り刻まれ切り売りさせられることにつながるということである。興味深いのは、ハウナニ=ケイ・トラスクが、ハワイ語の形式を参照し、「土地」という言葉が「身体」や「両親」と同様に「生得的所有格」であって、「後天的所有格」とは区別されている、と説明していることである。これが、ハワイ先住民のナラティブということだ。
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琉球・沖縄の抑圧が歴史的に蓄積してきていること。そして、このことに多くの琉球人が耐えられなくなっている、ということ。植民地化の暴力は、まだ終わっていない。それどころか、膨張をしている。沖縄に基地を集中させるということは、「捨石作戦」の延長であり、戦争の継続である。戦争のための戦争、純粋戦争が琉球へと侵攻している。2025年、「死への欲動」にドライブされた戦争機械がますます加速しているのである。アクセルをベタで踏む危険な享楽がアディクションとなる一方で、踏みしだかれて死していった琉球の民。暴走するネクロポリティックスにブレーキをかける時にきている。