君主制は廃止すべきか?

ニコラス・クロイダー(Nicholas Kreuder)
The Prindle Post 2022年9月15日
https://www.prindleinstitute.org/2022/09/should-monarchies-be-abolished-the-argument-from-equality/

要約・翻訳:編集部

 

2022年9月8日、イギリスのエリザベス2世が96歳で亡くなった。エリザベス女王は70年間王位を維持し、英国史上最長の君主となった。彼女の息子、現在のチャールズ3世が2023年半ばに戴冠式に臨むことになるだろう(編集部注:上記のように本論文は2022年9月15日に掲載された)

英国君主の死は、さまざまな反応を引き起こしている。ほとんどの公的機関や団体は、先の君主に敬意を表し、彼女の家族に同情している。しかし、女王と君主制そのものへの批判もある。英国では反王制デモで複数の人が逮捕された。否定的な感情は英国の植民地であった地域で特に強く、多くの人々が植民地主義における王室の役割をソーシャルメディア上で批判している。南アフリカ議会の野党「経済自由戦士」は「エリザベスの死を悼まない」という声明を発表し、アイルランドのサッカーファンは「リジーは箱の中だ」と唱えた(編集部注:2022年9月にダブリンのサッカー場で観客たちが観戦中に “Lizzy’s in a box”と大合唱したことを指す。Lizzyはエリザベスの愛称で boxは棺桶)。マヤ・ジャサノフ教授はこの2つの立場の橋渡しをし、エリザベス2世はその職務に全力を尽くし、一人の人間として悼まれるべきだが、「彼女は植民地主義がもたらした血塗られた歴史をごまかす役割を果たした。植民地主義の規模の大きさと後世への影響はまだ十分に認識されていないのだ」と述べる。

本論文の目的は、君主制と、その現代社会における役割について考察することである。特定の君主に焦点を当てるつもりはなく、ここでの私の主張は「良い」君主にも「悪い」君主にも当てはまるものである。さらに、特定の国の君主制ではなく、君主制という考え方そのものにフォーカスするので、私の分析は歴史的な出来事には依存しない。私は、君主制はたとえ概念上であっても、民主主義社会の道徳的信条とは相容れないものであり、結果として廃止されるべきであると主張する。

民主主義社会は、すべての人が道徳的に平等であることを根本的な真実としている。この平等こそが、政府への平等な参加の権利を根拠づけるのである。

対等な関係は、上下関係(ヒエラルキー)とは対照的である。ヒエラルキーは、ある個人が少なくともひとつの点において他の個人より「上」とみなされる場合に発生する。エリザベス・アンダーソンは著書Private Governmentの中で、複数のヒエラルキーを区別している。ここで特に重要なのは、尊敬のヒエラルキーである。尊敬のヒエラルキーは、ある個人が(ある)他者に敬意を示すことを要求される場合に生じる。この敬意は、肩書きで相手を呼んだり、お辞儀や平伏といった劣等感を示すジェスチャーをしたりするなど、さまざまな形をとる。

一般的に言って、尊敬のヒエラルキーは機械的に許されないものではない。自主的にその関係を選ぶ人もいるかもしれない。例えば上司を「何々夫人」と呼ぶ人がいるかもしれないし、スポーツ選手はファーストネームではなく「コーチ」という肩書きを使うかもしれない。しかし、このような関係に自由に入ることができるのであれば、その上下関係に悩まされることはない。さらに言えば、尊敬のヒエラルキーは、自主的に入ったわけでないにもかかわらず、道徳的に妥当とされていることもある。例えば、子どもは一般的に、親に対してある程度の敬意を払うべきものとされている(親が思いやりがあり、子どもの最善の利益を考えている、などの条件を満たしていればの話であるが)。

君主制の問題点は、敬意のヒエラルキーを作り出すことではなく、それがなければ平等なはずの市民の間に、強制的で不当なヒエラルキーを作り出してしまうことにある。

君主のいる国に住むということは、特定の個人とその一族が自分より社会的に上位とみなされるということであり、道徳的には平等であるにもかかわらず、その特定の人々に敬意を払うことを期待されるということである。これは自分で選んだ関係ではなく、押し付けられた関係だ。さらに、私たちが君主に対してもっていると言われる敬意や、君主の高い地位は、彼らが自分たちで勝ちとったものではない。親が誰であるかという事実だけで、君主の地位が高いのはその血統のおかげであると主張されるのである。挙句の果てには、単に敬意を集めるだけでなく、君主は生まれながらにして贅沢な生活を約束されている。彼らは城に住み、外国の高官と会うために世界中を旅し、彼らの死は喪に服す期間として国を停滞させるかもしれないのだ。

要するに、君主制は民主主義の道徳的基盤を損なうということだ。私たちが民主主義体制を評価する理由(の一部)は、民主主義が私たちの平等な道徳的地位を認めているからである。先祖代々の血筋だけを理由に、一部の人たちを選別し、彼らをヒエラルキーの上位者と位置付けることで、君主制はすべての人々が平等であるという考え方と相容れないものとなっているのだ。

もちろん、これに対する反論のしかたはいくつかある。経済的な理由で反対することもできる。君主制が経済的利益を生む可能性があると主張する余地はある。王族は観光の目玉となるかもしれないし、国際的に人気があれば、その国の知名度や好感度が上がり、その国の製品や文化の魅力が増すかもしれない。つまり、君主制が正当化されるのは、それが全体として有益だからなのかもしれない。

だがしかし、これらの議論の問題点は、比較不可能なものを比較していることだ。道徳的な懸念に対して、経済的な利点を指摘しているのだ。

君主制があらゆる点で悪いと言いたいのではない。実際、君主制が経済的利益を生むことは確かだ。が、私が主張したいのは、君主制が民主主義の道徳的正当性を揺るがすということなのだ。

大きな議論なしに、経済的利益は道徳的懸念を上回るのに十分だとする考えに従うことはできない。これは、経済的利益があるから票の売買を合法化すべきだと主張するようなもので、現に存在している公的な仕組みを成り立たせている、道徳的理由を無視しているように思われる。

(反君主制に対する)もうひとつの反論は、文化を根拠にしようとするものだ。おそらく君主制は、それが存在する社会の文化に織り込まれており、何百年、何千年と続く誇り高い伝統の一部になっている。君主制を廃止することは、人々の文化の一部を消し去ることになるというわけだ。

君主制が多くの国の長い伝統であることは事実だが、この議論はそこまでのものでしかない。ある慣習がその民族の文化の一部であるからといって、批判を免れるわけではない。もしローマ帝国の娯楽である剣闘士による死闘が今日まで存続していたとしたら、何千年もの文化的歴史にもかかわらず、私たちはそれを排除すべきだと考え、排除されることを願うだろう。

ある慣習が私たちの社会の基本的な道徳原則に反するものである場合、私たちがどんなにその慣習に愛着を持っていたとしても、その慣習は廃止されるべきである。

最後に、君主制はわざわざ廃止するほどのものでもないとする議論もある。歴史上の君主制の地位に比べれば、20世紀と21世紀の君主制は権威失墜している。君主制をとっている国のうち、象徴的な権力以上のものを持っている君主はほとんどいない(注目すべき例外もあるが)。この議論は、「統治者としての君主」と「看板としての君主」を区別することに基づいている。統治者としての君主は、市民が政府に参加する権利を否定することによって民主主義の基本に抵触するが、象徴的な権力しか持たない「看板君主」はそうではない、あるいはそうではないと論じることもできるというわけである。

この議論の問題点は、民主主義が要求していることの全容を過小評価していることだ。この(象徴的な君主制であれば民主主義に反しないとする)議論は、人々が自分たちを支配する政府に対して何らかの発言権を持つに値することを認めるのが民主主義だと考えている。しかし、民主主義とは、すべての人々が何らかの発言権を持つに値するということを意味するのではなく、すべての人々が平等な発言権を持つに値するということなのだ。すなわちそれが、「一人一票」である。

民主主義を正当化する理由のひとつは、個人は自分の人生を形成できるべきであり、したがって、私たち全員に影響を与える制度について発言する資格があるということだ。

知識や能力には個人差があるかもしれないが、私たちの意思決定において一部の者に大きな発言力を与えることは、その者に対し、他人の人生を左右する不均衡な権力を与えることになる。どのような個人も、私たち全員が従わなければならない立場に、機械的に立つべきではない。私たちは、例えば、ある人物を公共の利益に関連する特定の事柄の専門家とみなし、その人物に従うことに合意するかもしれない。しかしこれは、私たち全員が平等な発言権を持つプロセスで、その人に直接投票するか、その人を任命する人に投票するかのどちらかで、集団的に合意した後に初めて実現する。このプロセスにおいて、すべての人々が平等な権力を持たないのであれば、一部の人々から自らの人生を切り開く力を削いでしまうことになる。

このような理由から、もしある国の人々が投票によって君主を権力の座に就かせるのであれば、君主制を正当化できるかもしれない。これは単純に、集団的な委任のもうひとつの手段となるだろう。しかし、選挙民は常に変化しているため、有権者が依然としてこの君主に従うことを望んでいるか確認するために、定期的な投票が必要となる。しかし、現在の君主制は、君主(と一族)を他より上位に置く一方で、これを集団的意思決定の領域外に置いているため、民主主義の道徳的正当性に反している。一部の人々がデフォルトで尊敬のヒエラルキーの上位に置かれているのだ。民主主義の確立とすべての君主制の廃止は、同じ木から生える2本の枝にたとえることができる。人間の平等を認識することは、無害で純粋に象徴的な形であっても、君主制を否定することにつながるはずだ。

*著者のニコラス・クロイダーはビンガムトン大学で博士号を取得。マンハッタン大学とマンハッタンビル大学で教鞭をとる。研究テーマは応用倫理学と幸福の哲学。本誌のほか、the Journal of Value Inquiry、Public Affairs Quarterly、the Blog of the American Philosophical Associationに寄稿。
The Prindle Postはデポー大学ジャネット・プリンドル倫理研究所が主催、運営、管理する公共哲学に関するデジタル出版物。ホームページには、時事問題によって提起されたり、我々の文化に存在したりする重要な倫理的問題を扱うとして、次のような目標が掲げられている。
「我々の目標は、放置されているすべての道徳的問題を探求することである。フェイク・ニュースと本物の情報を見分ける能力の向上には多くの関心が払われているが、我々は、展開されているサインやシグナルを読み解く能力を開発することに、より多くの意図が向けられるべきだと考える。我々の政治的、文化的、社会的意見の相違の根底には、競合する道徳的価値にどのように優先順位をつけるかという根本的な問題がある。我々の社会的リテラシーを向上させるには、こうした直感や信念の根底にあるものを持続的に調査する必要がある。こうした調査は単に日々のニュースを見ているだけでは達成できないものである。その代わりに、私たちを道徳的核心へと導き、すべてを理解するための効果的な戦略を明らかにする倫理的ツールを開発することが求められるのだ」。

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