「民族の記憶」としての「昭和100年祭」に抗するための助走 

 太田昌国

ネット上の情報、雑誌の特集、単行本などを見ると、2025年から2026年にかけて、「昭和100年」(1926年12月25日〜)あるいは「昭和100年祭」という周年行事を企画する動きがあるようだ。なかには、2125年の「昭和200年祭」をも見据えた「壮大な」歴史的展望を誇示するものもある。思い返せば、日本社会が政治的・社会的激動のただ中にあった1968年にも、政府主催による「明治100年」記念行事が行なわれた。今回、岸田政権時代に、2026年に政府主催の「昭和改元100年」の記念行事を行うよう要望した国会議員連盟会長は麻生太郎だったから、そのイデオロギー的根拠は明白だ。要望書では、1968年に明治改元100年を記念した政府主催行事が開かれたことに触れ「明治よりも長い元号の時代となった昭和は、明治に劣らず歴史的に深い民族の記憶となっている」と指摘し、「激動と復興の昭和の時代を顧み、国の将来に思いを致す機会となり、新たな平和と繁栄の出発点になると期待する」と強調している。

「民族の記憶」! 100年という切りのよい数字にだけ拘って発想する人びとは、対外関係なしにはあり得なかった100年を貫く歴史を、「日本民族」の視点から回顧しようとするのだ。私たちには今後、その虚妄を突く批判的な視点を、先方が出してくる企画内容に即して多様な形で展開すべき課題が待ち受けている。今回は、差し当たって、100年後どころか、500年後の周年行事によって「世界が変わった」実例を参照することで、人間が考え方を改めるためには/それが変化するためには、けっこうな時間がかかるのだということを、諦念を抱くことなく、確認する場としたい。その時、どんな条件が必要なのかを含めて。

周年行事という発想に、私はけっこう拘ってきたほうだと思う。いちばん印象に残っており、世界的にも見ても少なからぬ意義があったと考えているのは、「1492年→1992年」の「コロンブス大航海と地理上の発見」から500年という節目に注目して1992年前後に行なった一連の問題提起的な発言や、多くの仲間たちと行なった「500年後のコロンブス裁判」という企画である。500年前のこの出来事は、長らく、ヨーロッパ中心主義の立場からする「偉業」と捉えられてきた。陸地から限りなく遠ざかって大海原へと乗り出す勇気に満ちた偉業! その果てに未知の土地を発見し、「主なき」その地を無限の暴力を駆使して我がものとしたという偉業!

私たちが使っていた中学英語の教科書には、能動態と受動態の比較の項になると、決まって次の例文が記されていた。

Columbus discovered America. コロンブスがアメリカを発見した。
America was discovered by Columbus.  アメリカはコロンブスによって発見された。

「アメリカ」大陸に「他者」が住んでいたことなどは少しも念頭にない世界観だが、当時の私は自ら考えることもなくそのまま「受動的に」受け入れていた文例だった。同時期にはハリウッド製の西部劇にハマっていたわけだから、そこに登場する「獰猛な」インディアンの描かれ方を見ながら、教えられている歴史に対する、小さな違和感が少しずつ芽生えていたと言えるだろうか。

それから30数年が経った1992年には、500年前の歴史的な出来事は、実は、先住民族に対する人種差別的な処遇が始まり、先住者の土地と資源をはじめとするすべてのものを奪い尽くし、自らがそこの「主」であるかのような貌つきで入植する植民地主義の開始を告げたのだという歴史観を持つようになった。そして、それは世界規模で始まっていた歴史的「覚醒」だった。

米国の言語学者にして政治思想家のノーム・チョムスキーは書いている。

「1992年を考えてみよう。コロンブスの500年めが1962年だったなら、その記念は、コロンブスのアメリカ『解放』を祝うもののみであったろう。1992年には、『解放』を祝う反応一色というわけには行かなかった。ほとんど全体主義的ともいえる統制に慣れていた文化支配人たちは、これによりヒステリー状態に陥った。これら文化の支配人たちは、アングロ・サクソン以外の人々と文化とに敬意を払うことを要求する行為は『ファシズムの行き過ぎ』であるとどなり散らしている。」(『アメリカが本当に望んでいること』、益岡賢訳、現代企画室、1994年。原著の執筆時期は1986〜1992年)。

つまり、1992年には、欧米が主導してきた歴史観・世界観の捉え返しが同時多発的に世界各地で行われたのだ。言葉を換えると、欧米の近代化とは、何を/誰を/どこの地域を犠牲にして実現されたものなのかという問題意識がここで定着したということである。東京で「500年後のコロンブス裁判」を開いた私たちは、事後的にではあれ、同一の観点に基づいた集会・シンポジウム・デモ行進などが世界中で試みられていたことを知って、心強く思った。犠牲者たちは、500年前にも、400年前にも、100年前にも——それぞれが生きていた時代の中で、こんな事態が不公正であり不平等であることを訴えていたに違いない。だが、世界秩序を形成しうる強者の側は、政治・経済・軍事・言論の場での圧倒的な優位性を基盤にその声を抑えつけてきたのだ。ふつうの民も、つまりは私たちも、強者である「帝国」内に住む限りは、その叫びを受け取ることは容易なことではない。

チョムスキーが挙げている「1962年」とは、黒人の基本的人権を要求する公民権運動がすでに開始されてはいたものの、ワシントン行進が成功裡に実現(1963年)したり公民権法が成立(1964年)したりする時期からすれば、その1~2年前である。コロンブスの大航海から500年めがこの年であったなら、コロンブス当人を捉える視点の大転換がなされることはなかっただろうと言っているのだ。チョムスキーは米国の現実に根ざして考えたのだろうが、物事の転換が図られるときの世界の同時性を思うと、世界全体が同じような状況にあったと推定できよう。

そう、それは1〜2年の、実に僅かな時間差でしかなかった。だが、広くは市民権、狭くは少数者の人権、平和、フェミニズム、環境などの問題に視点を定めて過去を振り返る時、こんなギリギリの時間差の中で事態は急変し、旧きものが消えて、新たな胎動が始まっているということが分かる。事実、1960年代初頭から1992年に至る30年のあいだには、「状況は変わった」と実感できることが多々起こった。

一例を挙げてみよう。1960年代には、内向きに強制力を働かせがちな個別の国民国家に対して、国際条約や規約によって外部から枷を嵌める試みが始まっている。「国際人権規約」「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(AS規約)」「市民的及び政治的権利に関する規約(B規約)」などが国連で定められたのが出発点であった。その後も先住民族、少数民族、女性、子ども、老人、障害者など、従来はその権利を剥奪されてきた「弱い存在」を「擁護」する国際規約が次々と成立して現在に至っている。人類史を支配してきた男性原理にもとづいて成立した国民国家は、ようやくにして、これまで「周辺部」に追いやってきた特定層の人びとが享受すべき権利について十分な考慮を払わなければならない時代が来たのだ。

こと人権に関わる問題については、近代国民国家成立の枠組みを尊重しながらも国際的な論議の場をつくろうとするこの試みには、その起点となった1960年代特有の社会的・政治的背景があると思われる。「パリ5月」「プラハの春」「日本の全共闘運動」などが起こった1968年から、ジョン・レノンが「国なんてものがないと想像してみよう。それはむずかしいことではないんだよ。そのために殺したり死んだりするようなものがないということは」と歌ったベトナム戦争さなかの1971年にかけての時代状況を思い起こしてみよう。この一連の動きの中で感受すべきことは、人びと(わけても若者たち)のあいだに、自らを包摂してきた国民国家、すなわち、揺るぎない存在と考えてきた「国」なるものへの疑念が生まれたのではないか、という一点である。これは外在的な推定ではなく、その渦中にあった私自身の、そして共にいて語り合い、活動していた友人たちの実感に基づいた物言いである。

私たちは国民国家の内側にあって、その揺らぎ、あるいは来たるべき崩壊をさえ予感していたのだが、それから20年後の1991年末には——それは奇しくも、コロンブス500年=1992年の前年だった——人権抑圧国家=ソ連邦の瓦解に出会ったのだった。いまは安穏としているいかなる国家といえども、いつソ連と同じ惨めな運命に見舞われるものか、わかったものではない。1960年代以降の状況の変化を見ていると、その程度のものでしかないひとつの国家の器量では解決できない困難な問題として放り出されてしまうような課題に取り組もうとする、国境を超えた共同の事業が開始されたのだと思えてくる。国連の組織構造そのものに、そこで打ち出される任意の方針に、また加盟している各国政府の対応に見られる打算的態度に対しては、日頃から深い批判を持つ私も、時に国連の内部からのイニシアティブもあって実現しているこのような動きの意義を認めないわけにはいかない。国民国家の過去・現在を無限に肯定し、国家の硬い壁を打ち固める時代は終わりを告げたのだ。

そのことを確信した1992年から数えてさらに30数年を経て、2025年を生きる私たちがいる。上に述べてきたこととの関連でこの時代の特徴をひと言でいうならば、人権や平等を追求する考え方は、この間、被害者の立場から植民地支配を問い直すことに焦点化しつつある。1945年、日本帝国の敗北が象徴する形で第二次世界大戦が終わりを告げて、戦後過程が始まった。その過程で、欧米日の植民地帝国を支えた植民地主義は終焉の時を迎えたはずだった。だが同時に、この戦後過程の主要矛盾は「米ソ対立=冷戦構造」に集約されており、植民地支配の終焉に伴ってなされるべきであった、人種差別・奴隷貿易・奴隷制・植民地支配・侵略戦争などの人道上の犯罪を問い直す契機は先送りされてしまった。ソ連邦の崩壊で「米ソ対立」という最大矛盾が消えて、見えない地下に押し込めてられていた「民族・植民地問題」が噴出した。1991年のソ連邦崩壊、1992年のコロンブス500年以降の30数年間は、欧米日にとって、先送りしてきたこの課題に向き合う歳月だったのだ。どの国も、「継続させてきた植民地主義」の捉えかえしを迫られている。国際政治のうえで大きな比重を持つに至っている「グローバル・サウス」の国々は、植民地支配の被害者側であった。その発言力は一体となって、歴史的過去に向き合ってこなかった旧宗主国を包囲しつつある。

このような世界状況の中で、日本の支配層は「昭和100年祭」(1926年→2026年)を、また米国の支配層は「独立250周年記念祭」(1776年→2026年)を祝おうとしている。双方とも、植民地支配と侵略戦争に貫かれた歳月だ。歴史的過去に秘められていた真実を掴むには、早いほうが好ましい。500年後なんて論外だ。100年後だって、遅すぎる。だが、現実は、ここに見ての通りだ。何年後であろうと歴史を振り返るときの「民族の記憶」は、犠牲となった他民族の視線によって相対化されなければならない。
*      *      *      *

【付記】本稿後半部の叙述の一部に関しては、2015年の私の旧稿「『外圧に抗する快感』を生きる社会」(『〈脱・国家〉状況論——抵抗のメモランダム 2012—2015』所収、現代企画室、2015年)における記述を援用していることをお断りします。

 

カテゴリー: 天皇制問題のいま, 敗戦80年・「昭和100年」, 状況批評 パーマリンク