読売グループ新総帥《小林与三次》研究(2-8)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.5

第二章《高級官僚の系譜》

無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程

8 「戦犯的」と自認する内務省の戦争末期行政

《当時は、地方局の事務官は四名で一室を占め、鈴木(現東京都副知事)、吉岡(前人事院事務総長、消防検定協会理事長)、加藤(防衛事務次官)の三先輩と机を並べた。その後二各ふえたが、広い部屋に移って、相変わらず一室で顔を合せることにした。一室にとぐろして、議論もすれば、放談、漫談、雑談もし、高笑も爆笑もして、まことに、自由な雰囲気であった。現在の課長補佐諸君のように、細かく分れた課に分属し、それも一課に何人かおって、常務を分担するのではなく、一局に数名で、一つ部屋におって、重要な企画立案その他重要局務に参加することになっていた》

 このうち、鈴木とあるのは、現都知事の鈴木俊一である。小林は、鈴木との関係を大事にしており、内務省入りの直後のことについても、こう書いていた。

《私の前の自治事務次官で、現の東京都副知事の鈴木さんと、道路公団の理事で故人となられた宮前さんが、行政課に机を並べて居られたが、私は、その末席を与えられた。私は、それ以来ずうーっと、鈴木さんの御指導を受けて今日に至った》

 さて、鈴木、小林ほかのエリート官僚が、戦争末期に一室を与えられて、何を謀んでいたのだろうか。まず、小林自身の説明を聞こう。

《当時は、内務大臣は湯沢さん、次官は山崎さんで、古井地方局長、中島行政課長という陣容であった。丁度、地方制度の戦時改訂版といわれる、昭和一八年の市町村制府県制の改正、東京都制の制定が考えられていたところで、私は、その作業の一員に組入れられたのである。古井局長、中島課長の下で、鈴木さんが府県制、北海道会法、北海道地方費法等の道府県関係、加藤さんが東京都制、私は市制町村制というのが、一応の分担だった。もっとも、事柄は相互に関連しているので、しょっ中、 一緒になって、討議立案を進めた。この改正は、地方制度の戦時版として、議論が多いのだが、その批評は、当たっているところもあり、当たっていないところもある》

 要するに、地方支配の制度全体を、「戦時版」に改悪しようという仕事である。それがやはり小林自身の解説によっても、「ミッドウェー海戦の敗北から、大東亜戦争は、既に守勢に転じ、米軍の反撃次第に効を納めて、戦局とみに重大性を加えてきた」という時期のこと。「泥縄」行政もいいところだ。ただし、小林がつづけて、「国を挙げて、死にもの狂いで戦争完遂に邁進しようとしていた」と、いかにも「国」というまとまったものがあり、「国民」が総力を挙げる気になっていたかのようにトクトクと語るのは、事実をあざむくもはなはだしいものだ。事実はまったく反対である。むしろ、このような内務=警察=特高行政の狂暴化にもかかわらず、反戦の動きは活発化した。たとえば、内務省警保局発行の『社会運動の状況』には、すでに一九三五年『反戦反軍の状況を之を事件件数について観るに、……飛躍的増加を示しおれり、……悪戯的なものは全く影を潜め、内容頗る不逞悪質のもの多きに上る』とある。その後の状況については、小林らが否定しにくいように、前著と同じく『読売新聞百年史』からも引用しておこう。

《敗色の深まりとともに流言や落書きがふえ、憲兵や警察官は取締りに躍起となった。

 『食う米なしのいくさより、負けて腹の肥る方がよかろう』

 『敗戦で天皇陛下は千代田公爵となられる』

 これら不穏な言動は、内務省警保局保安課の統計によると、昭和一七年三〇八件、一八年四〇六件、そして一九年にはいると一挙に六〇七件にふえ、このうち反戦反軍的なものが三二四件となっている》

 これが、日本共産党はもとより、朝鮮独立運動から宗教家にいたるまで、反戦思想の持主、そしてあらゆる反政府運動の指導者を、投獄し、虐殺し、激戦地に送り、トントントンカラリンの鉄棒引きまで総動員していた状況下のことだ。いかに反戦気分が拡がり、好戦的ヒロヒトイズムヘの憎悪が高まっていたかの証しに他ならない。なにしろ、小林らの徒党に落書きの現場を見付けられようものなら、生命の保障はなかった時期のことなのである。

 ところで、内務省地方局なり地方制度なりについて、この際特筆すべきことは、「徴兵」とか「召集」とか「徴用」という事務であろう。帝国軍隊に赤紙一枚で兵士を供給するのは、内務省の管轄下、市町村役場の仕事であったのだ。つまり、いまも復活が恐れられている「徴兵制」は、あの内務=警察=特高による地方行政支配なしには、成立しなかったのである。いいかえれば、徴兵制復活租止の運動は、旧内務省勢力を粉砕することによって、その目的の半ばを遂げるといってもよいだろう。

 というわけだが、この地方制度の問題を、小林は長々と語ってくれている。連載の三回にわたり、二三ページも費している。例によって、弁護と自慢が入れ替り立ち替り、話は本土決戦態勢」づくりに及ぶ。

 「反省?」のなかには、「戦犯」の自認もある。小林はこの時、地方制度改正に関する内務大臣訓令も起草しているのだが、その訓令の前後の事情については、こう語っている。

《内務次官の依命通牒によると、「市町村長ノ地位及職責ノ重要性二鑑ミ官民ノ協力ニ依リ市町村長ニ真ニ適材ヲ挙ゲンコトヲ期スル」ものということだったが、まことにすさまじい改正であった。これはあるいは戦時版どころか、戦犯的な自治制度の改正だったということになるのかも知れない。「苟クモ肆ニ法ヲ行ヒ濫ニ権ヲ用ヒ因リテ民意ノ暢達ヲ阻塞スルガ如キハ本改正ノ真精神ヲ没却スルモノニシテ厳ニ之ヲ戒慎セザルベカラズ」と内務大臣訓令は、その運用について、一般的に戒慎を求めてはいるけれども、そこにいう改正の真精神なるものが、まことにはげしいものであった》

 戦時版地方制度の具体的は内容は、すでに触れた「徴兵」に始まるもので、列挙してみると、大変なものだ。

《当時の地方行政といえば、召集徴発、徴用、防空、軍事援護、食糧の増産供出、物資配給、資源回収、貯蓄増強等々、戦争の遂行と関係のない行政は、ほとんどない。少なくとも、もっとも緊要とされた行政は、それである。そして、それはすべて、地方団体の力にまたなければならず、地方行政と中央行政とを一体的に運営し、戦争行政の強力な能率的遂行をはかることが、至上の要請であった》

 そして、市町村長の任免権や、各種民間団体への指令権が強化された。「勝ってくるぞと勇ましく……」の演出は、ますます強制されるようになったのである。


9 ヒロヒトイズムの一席はいまなお続く