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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第二章-6

第二章《高級官僚の系譜》

無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程

6 《阿片ルート》の「宣撫工作」に「運命共同体」演説

 さて、興亜院文化部の二年間という仕事なのだが、これがまた、「暗部」なのである。近頃耳なれない役所名、しかも、公式資料はほとんど残っていない。あの八月一五日の“玉音”放送直後から、いわば帝国官僚最後の作戦ともいうべき大仕事が、炎天下にくりひろげられている。《隠滅作戦》である。占領軍に押収されては困る書類は、つぎつぎと炎の中に投げこまれた。とりわけ当時は大東亜省となっていた興亜院の後身は、最早、存続を許されない役所である。やけっぱちの高級官僚が、恩賜の酒などの隠匿物をば両手に抱えこみ、その一方であらゆる証拠の抹殺を計っていたのではなかろうか。

 そんなこともあってか、たとえば国会図書館の索引カードにも、「興亜院」という項目さえない。だが、民間には断片的な資料が残されているだろうし、いずれ深く追及してみたいと思っている問題だ。その際、小林与三次の回想録も、その断片のひとつである。

 一九四〇年(昭和一五)、日米開戦の前年のことである。

《薮から棒に、警察部長から、興亜院文化部の事務官に、きてほしいという話があるということだ。これは、全く夢にも思い及ばないポストである。地方行政を志して、警察勤務を命ぜられたどころの話ではない。もっとも、今度は、一方的な命令ではなく、先方からそんな希望があるが、どうだということだった。話は、夢想もしなかったことで、意外には思ったが、私は、動揺もしなければ、たじろぎもしなかった。対支政策を遂行する興亜院の存在は、勿論知ってはいたが、文化部の存在や所掌などは、知りはしない。興亜院の政務部長が、私にきてはしいということだというが、政務部長なる人は、全然知らない。中央におればわかっていたかも知れないが、地方庁勤めの若輩者にとっては、中央政府の交流人事などは、一向に縁もなければ、関心もなかった。しかしながら、私は、即座に、引き受けた。そして、対支文化政策という新しい職務に、胸をふくらませた》

 「政務部長」直々の御声掛りとはいえ、何が小林の、「胸をふくらませた」のであろうか。わたしの方は、大いに疑念をふくらませながらも、なかなか興亜院発掘の時間が作れない。小林与三次の経歴としてだけではなく、日本の近代史の暗部の黒々とした深淵が、この「興亜院」の三文字からのぞけるような想いであった。ところがそこへ、絶好の労作が現われたのだ。

 『皇軍“阿片”謀略』(千田夏光著 汐文社刊)である。横帯の宣伝文にはこうある。

「支那事変はアヘン戦争だった?! 蒙彊銀行元行員が語る東条チャハル兵団と金融工作員のアヘン謀略の実態! 興亜院・蒙彊連絡部“経済第一課”の張家口進出から“大東亜薬品(=阿片)会議”の密計に至る、アヘンにからまる戦争の裏面史を抉る!」

 しかも、発売が一昨年のダブル選挙直前。横帯にはさらに、「大平首相と閣僚たちの黒い結合のルーツは?」とあった。まさかこの宣伝文でショック死を起したわけではあるまいが、故大平正芳は、かつて興亜院の現地機関での経済第一課長であったというのだ。

 ともかくわたしは、この本を夢中になって読み進んだ。

 まずはっきりしたのは、さきの引用文中で小林が二度まで使った「中央」ということばの意味である。戦後派のわたしなどの感覚では、「興亜院」と「中央政府」というつながりは、異様であった。ところが、まず組織上からいって、興亜院は「中央」も「中央」、首相直轄の最重点官庁であったのだ。

 「支那事変中内閣総理大臣ヲ総裁トシ、外務、大蔵、陸軍及海軍ノ四大臣フ副総裁トスル対支中央機関ヲ設置シ“対支院”卜称スル」以下云々の閣議決定があり、その後、名称は“興亜院”になったものである。

 設置に関する法令は、議会を通さぬ「勅令」である。『法令全書』(’38)から関係個所を引用してみると、次のようであり、小林の職務は「事務官」だったというのだが、「調査官」に近い仕事をしていたようだ。

《朕枢密顧間ノ諮詢ヲ経テ興亜院官制ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御名御璽
   昭和十三年十二月十五日
    内閣総理大臣 公爵 近衛 文磨
    海軍大臣      米内 光政
    大蔵大臣      池田 成彬
    陸軍大臣      板垣征四郎
    外務大臣      有田 八郎
勅令第七百五十八号(官報 十二月十六日)興亜院官制
第一条 支那事変中内閣総理大臣ノ管理ノ下ニ興亜院ヲ置キ左ノ事務ヲ掌ヲシム但シ外交ニ関スルモノハ之ラ除ク
 一 支那事変ニ当リ支那ニ於テ処理ヲ要スル政治、経済及文化ニ関スル事務
 二 前号ニ掲グル事項に関スル諸政策ノ樹立に関スル事務
 三 支那ニ於テ事業ヲ為スヲ目的トシテ特別ノ法律ニ依リ設立セラレタル会社ノ業務ノ監督及支那ニ於テ事業ヲ為ス者ノ支那ニ於ケル業務ノ統制ニ関スル事務
 四 各庁ノ支那ニ関係スル行政事務ノ統一保持ニ関スル事務
第二条 興亜院ニ左ノ職員フ置ク
  総裁
  副総裁    四人
  総務長官   一人  勅任
    (中略)
  調査官 専任十八人  奏任
  事務官 専任十八人  奏任
    (中略)
 総務長官ニハ親任官ノ待遇ヲ賜フ
    (中略)
第六条 総裁ハ内閣総理大臣ヲ以テ之ニ充ツ院務ヲ統理シ所部ノ職員ヲ統督シ判任官ノ進退ヲ専行ス
第七条 副総裁ハ外務大臣、大蔵大臣、陸軍大臣及海軍大臣ヲ以テ之ニ充ツ総裁ヲ補佐ス
第八条 総務長官ハ総裁及副総裁ヲ佐ケ院務ヲ掌理ス
    (中略)
第十二条 調査官ハ上官ノ命フ承ケ調査、審査及立案ヲ掌ル
第十三条 事務官ハ上官ノ命フ承ケ事務ヲ掌ル    》

 もちろん、総理大臣以下の大物総裁や副総裁が、実務に当るわけではない。直接責任者としての総務長官には、柳川平助中将が任命されたのだが、この将軍こそ、かの《南京大虐殺》事件を起した軍司令官であった。三〇万人を一挙に虐殺した戦争狂が、しかも、総務長官兼文化部長。つまり、小林事務官の直属の上司だったのだ。

 柳川平助は、観念右翼の国本社首脳としても知られていた。この国本社の中心人物は、総理大臣として総動員体制を完成した平沼騏一郎である。平沼はA級戦犯として絞首刑が確定したが、その前に獄死したという人物。生涯独身を通したことでも知られ、特異なキャラクターであつた。

 この平沼が、日米開戦の年の第二次近衛内閣では内務大臣、柳川が法務大臣となり、言論弾圧コンビを組んだのである。興亜院「文化」部の文化たるや、推して知るべしである。

 ただし、千田夏光の「聞き書き」をもとにした推論では、ミソは現地機関の「連絡部」にあった。

 とくに、蒙彊連絡部経済第一課を中心とした阿片の密造・密売による利権こそが、支那事変拡大の秘密ですらあったというのだ。そして、そこには、“若くて将来大臣になる資質を持つ者”という選抜条件で、「えりすぐりのスゴ腕のエリート官僚があつめられていました」、というのである。

 文化部の内容や、そこへの選抜基準については、残念ながら何も書かれていない。しかし、一旗挙げられそうなにおいが、プンプンしていたのであろう。また少なくとも、のちの人脈的利権への近道であつた。

 小林自身はこう語っている。

《興亜院文化部に勤務するなどとは、全く、思いも及ばないことだったが、おかげで、各省から出向してきている、いろんな先輩同僚と知り合う機会を持つこともできた。植民政策に関する本なども、初めて手にした。大陸政策の一端にも触れたわけだが、今にして思うと、満州事変から支那事変への発展、対支政策の行きづまりなど、大陸問題について、もっと突っこんで、勉強しておくべきだった。大陸政策にからんで、急カーブに変わってゆく国内の政治情勢や経済政策の動きや、国際情勢の変遷などまでは、とても気が回るはずもないが、大陸問題は、いわば、自分の本職に関していたのだ》

《対支文化政策の企画立案とかなんとかいう、大仰な看板の下で働いていた》

《大陸にゆく学校教員のための講習会に、出て喋べりもした》

《馬上天下を取るは易く、人心を得ることは難い。そんなことをいって、医療防疫や社会事業などの宣撫工作や、日本語教育その他の文化施策などのことをいっていたものだ》

《人並みに、同文同種といったり、共生同死といったり、運命共同といったり、アジアは一つといったりはした。真実、そうと思ってもいた》

《現地には、中支と北支蒙彊を、十日あまりの旅だったが、一度ずつ訪ねた。それだけでも、大陸の上を踏んだことを喜びとしなければならぬ。自分としては、ほとんど為すところなく終わったのだが、わけの分らぬままではあっても、対支政策の片鱗に参加したのである》

 一体小林は、何を「喜び」とし、如何なる「片鱗」に浴したのであろうか。少なくとも、かの「運命共同体」論についての反省がないことは、つい昨年の七月にも実証されている。あのヤクザ商法集団、読売七日会(読売新聞幹部と販売店ボス)の「総会」とやらでも新社長として就任あいさつ。五百人を前にして胸を張り、「運命共同体を基にした理念で、創業以来の立派な業績をさらに発展させ、いかなる競争に対しても勝ち続け、勝ち抜く覚悟でのぞむ」(『経済往来』’81・9)、とやらかしたらしいのだ。もしかすると、例の国会答弁式《円月殺法》とやらで、「うん、ありゃあ、販売店の親分衆相手の話じゃから……」と逃げを張る気かも知れないが、そうはいかない。


7 「大東亜戦争」擁護論の“現実的”効用