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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第二章-7

第二章《高級官僚の系譜》

無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程

7 「大東亜戦争」擁護論の“現実的”効用

 あの時は「お国のため」、この時は「役人だから仕方がなかった」等々といういいわけを、これ以上見逃して置くわけにはいかないのだ。しかも「運命共同体」論は、務台も大好きで、いわば読売の伝統スローガンだ。読売「共同体」は、ホテル・ニューオータニでオダを上げ合ったらしいが、もともと「共同体」論には酒宴がつきもの。とぐに「大陸」の場合は、派手だったらしい。

 『皇軍“阿片”謀略』でも、元銀行員の「Aさん」などが、あまたの実例を証言している。「大陸」らしい話が多いのだ。「上海でひらかれた興亜院のある会議」のあと、三井物産上海支店長から招待される。白系ロシア人の、当時としてはこれも日本国内ではご禁制だったヌードショーにも招待される。さらに、宏済善堂(阿片問屋)の酒地肉琳の宴に招待」等々という例もあったらしい。

 もっともこの頃、占領地の利権切り取り強盗では、職業の別なく、血眼の競争であった。新聞界も御多聞に洩れず、朝日はインドネシア、毎日はフィリピン、読売はビルマ、同盟はマレーシアと、分割協定を結び合っていた。それもどこぞの料亭で、シャンシャンシャンと手打ち式。万歳! 万歳! 天皇陛下云々などとやらかしたのだろう。ともかく、読売の現会長務台光雄が書かせた伝記には、ビルマで「将官待遇」、「一方に生命がけの生活があり、一方に豪華な生活がありで務台には懐しい思い出になっている」(闘魂の人)、とあり、まさにイケシャーシャー。これなら小林社長とも話が合うに違いない。なお、ビルマ方面軍司令官の木村中将と参謀長の田中中将は、連合軍接近の報に接するや、部下を見捨て、芸者、仲居、板前ら一六〇名とともに輸送船で逃げ出したことで有名である。これが務台将軍閣下の「豪華な生活」の秘密であろう。

 話を戻すと、小林の戦争観は、いささか「反省?」してみせるかとみえて、すぐに、つぎのような、典型的自己弁護に後戻りするシロモノである。

《わが国は、侵略戦争の遂行者、戦敗国として、史上拭い得ない汚名を浴びているのであるが、この大東亜戦争を含む第二次世界大戦は、結果的であるにせよ、国際的に、植民地開放の絶大な意義を持っている。完膚なきまでに敗れながらも、日本やドイツが、驚嘆すべき発展を遂げ、自由を持つことができるのも、この大戦で、自由な平和的発展の開放的環境が国際的にできたからである》

 これには、まともな論評を加える気は起きない。ともかく、戦争の犠牲者、ことにアジア諸国の民衆からは、軽蔑で済めば幸い。怒号を浴び、石を投げられ、腐った卵を顔面に殴げつけられても仕方がないシロモノである。

 それはともかく、一仕事済ませた小林与三次は、古巣の内務省地方局に戻る。どうやら「文化政策」なる作文で、興亜院は御用済み。阿片そのものの利権にはありつけなかったのかもしれない。その後の経過も合せてみると、小林は、官僚作文の能力を買われていたようなのである。「大蔵省と自治省の役人がつくった法案は内閣法制局をほとんどフリーパスで通過する」(『官僚王国論』というが、これは、税制と地方財政を抱える役所ゆえの伝統らしい。

 大陸との関係でも、小林は、戦争末期に一作文している。「内鮮台一体化」と称して、朝鮮と台湾にも衆議院選挙権を与え、「同じ」扱いにする。つまり、徴兵。徴用を強化して、ドンドン弾よけに使う。その上、「直接国税」金一五円以上なりを、吐き出させようというものであった。

 その時、小林事務官は、「形ばかり」とか、「泥縄」だとかいって、「反対」したそうなのである。ところが、追憶のダラダラ続くのをたどると、段々妙チキリンで、ついには「いささか得意」気になってくるのだ。

《そんなことで、鮮台人の心を引き寄せ、本土決戦に、一体的協力を期待しようとする考え方には「私は納得できなかつた。そしてそれを、この期に及んでの重要緊急施策として急遽断行しようとする、政治感覚には、到底同調することができなかった。私は反対した。しかしながら、内閣の方針として、立案を急がれた。改正案を作るのは、内務省地方局行政課の仕事である。そして、それは、私自身の職掌である。私は、反対を宣言しながら、改正案を作った。

 それが、長い役人生活中、法制局から御馳走になって、法案の審議をやった、ただ一度の経験である。総理大臣官邸の下の防空壕にこもって、法制局の各部長総出の審議を受けた。お歴々を向う側にして、こちらは灘尾地方局長、林行政課長と私とで、向う側からの、当時としては豪華な差入れに舌鼓打ちながら、いかにも冥加に尽きる法案審議に従事したものだ。

 私にしては、内閣に頼まれた法律案作成の臨時雇いといったような気持ちで、反対しながら、技術的に案をまとめるのだから、極めて気らくである。それだけに、そのような殊遇の下に事を進めるのだから、いささか得意でもあった。今にして思えば、多少の衒気といったようなものも動いていたような気もする》

 ただし、この妙案は、公布されたのが敗戦の年の四月一日で、この日は、米軍の沖縄上陸の日。「内鮮台一体化」政策は、ついに施行されずに終った。  そして、小林事務官も、例の敗戦直後の《隠滅作戦》に参加した。

《改正法の一件書類は、敗戦直後、いよいよ占領軍が本土に進駐してくるというときに、他の戦争関係書類とともに、焼却してしまった。全くつまらぬことをしたものと、後悔されてならないのだが、内務省の庭先で、戦敗れて、くろぐろと重く覆いかぶさった夜空に、赤々と焔をあげながら、書類を焼いたものである》

 隠滅作戦の指令は、内務省発であった。鈴木俊一は、こう語っている。

《いろいろな書類ですね、公文書等をやはり米軍に見られては適当でないと思われるようなものは、極力焼却をするというようなことで、本省、各府県庁それぞれへ連絡をして、そういう廃棄処分を相当やりました。いろいろ今日からいうと貴重な書類もあったと思いますが、そういうようなことをみなそれぞれ焼いておったわけでございます》(『内政史研究資料』)

 だが、いかなる偶然によるものか、戦時下の小林事務官の演説の速記が、国会図書館にも残されているのである。

 小林がなぜ内務省に戻ったのか。そこでの主要な仕事は何だったのか。

 それがなんと、あの悪名高い隣組、トントントンカラリンと反戦思想を密告させ、バケツ片手に原爆が落ちてもまだ「国体護持」の戦いを続けさせたという、世界にもまれな民間憲兵組織、その法制化と普及が、小林事務官の最後の御奉公だったのである。若干皮肉な書き方をするのは他でもない。ここでも小林が、相変らずの自己弁護と、「いささか得意」気な様子を、隠そうとしないからである。

 しかし、若干の「反省?」を含みつつも、ほとんどが自慢話と反動的自己弁護に終るこれらの文章は、何の効果をねらったものだろうか。ふと、そんな疑念も浮ばずにはいなかった。とくに、読売新聞や日本テレビという、マスコミ機関への天下りを意識していたのであれば、という気がしないでもなかった。ところが、別の話を思い出している内に、おやっと妙なことに気がついたのである。この「自治雑記」の就筆者名が、小林「与」三次となっているのだ。当り前ではないか、といわれるかもしれない。だが、本名は、小林「與」三次なのである。そして、日本テレビでは、労組発文書に「与」の字を使ったら、突き返されたという事実すらあるのだ。しかるに、その五年も前のこと、『自治時報』誌には、「小林与三次(元自治事務次官)」などと書いてある。もちろん、本人の意向に沿ったものであろう。

 何かと復古調の好きな、意地っ張りでも有名な小林が、なぜ「与」の字への省略を望んだのだろうか。答えは簡単である。選挙の一言だ。読売新聞への入社までは、本人は選挙に出る気満々だった。だから、易しい名前の方が有利だったのだ。

 そして、選挙となれば自民党。それも旧内務官僚閥を味方に、正力松太郎の二代目をねらうとなれば、これまでに紹介した「大東亜戦争」弁護論等々の効用も、おのずから説明できるというもの。つまり、『自治時報』などは、小林与三次予定候補の政見発表の場でもあったのだ。その上、回想のそこここに、当時の先輩、同僚の名前が出てくる。いちいち掲載時の現職までカッコに入れてある。読みづらくていやになるのだが、これまた、選挙への協力目当てでもあろうと考えれば、納得がいくのである。

 その有様は、たとえばつぎの如くである。


8 「戦犯的」と自認する内務省の戦争末期行政