読売グループ新総帥《小林与三次》研究(2-1)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.5

第二章《高級官僚の系譜》

無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程

1 「親の大罪」は子に報いるに止まらず

 小林与三次における「出世主義」は、いわゆる「明治型」ではなく、「大正・昭和初期型」とでも名付けるべきものだろう。寡聞にして、その種の類型分析を知らずに、私見を展開することになるので、予め、読者にお許しを願っておきたい。

 若干の論及を眼にしたことはあるのだが、日本人の近代における思想形成の画期的条件として、大逆事件とロシア革命=米騒動などが挙げられている。つまり、社会主義思想=革命の時代と、それへの「反動」の渦の中で、どちらを選ぶかという人生問題である。

 小林はもちろん、「反動」の側に組する思想に陥入った。だが、もともと「反動思想」とは単なる言語上の工作物に過ぎず、本来の意味での「思想」などではありえない。人類史の発展方向を、科学的に思索し、それを押し進めようとする構想づくりだけが、「思想」と呼ばれてしかるべきなのである。いわゆる「反動思想」とは、そのような人類の現実と理想の発展から、旧支配階級の既得権益を守り、被支配階級への弾圧を自己弁護するためのヘリクツ以外の何物でもない。明治の民衆は、法を振りかざしては、なけなしの土地や家宅を奪い去る権力の手先に対して、「三百代言」という蔑称を投げつけた。だが、その「法」のすぐ背後には、サーベルをわしづかみにし、聞きなれぬサツマ弁でわめきちらす「警察官」なるもの、はっきりいえば権力の暴力団正規兵が控えていたのである。

 つまり、「反動」思想には常に、権力側の暴力が寄り添っているのである。

 ついつい厳しい表現を続けてしまったが、わたしは、ここ二〇年ほどの小林与三次の行状を、つぶさに見聞きしている。のちの章で取り上げるように、日本テレビが暴力団をやとったり、警察の介入を策した事実も知っている。小林の労務政策による大量の死傷病者激増の事実も知っている。さらには、それらの事実に対する小林のいい逃れの数々も知っているのだ。だから、決して抽象的な規定をしているのではない。そういう確信があるのだ。

 ともあれ、話を戻すと、大逆事件やロシア革命、米騒動を経て、大正デモクラシーと対決し、一五年戦争へとなだれ込んだ時代のことだ。その時期の日本における反動思想たるや、ドイツのナチズムに優るとも劣らぬ狂暴なしろものであった。想像を絶するというべきだろう。たたかう民衆、とりわけ社会主義者への拷問・虐殺はすざまじかったが、これは決して特殊な例外ではない。そこにこそ、その時代の支配の本質が、典型化されていると見なくてはならない。それは、封建支配の特質を「切り捨て御免」の一言で説明するのと同様、簡にして要を得た歴史観なのである。

 その際、直接に手を下すのは、常に下っ端である。いわゆる手下である。皇族・華族はいうに及ばず、高級官僚の端くれともなれば、実際には血を見ることもなしに生涯を終えることもできる。しかし、基本的な命令権を行使したものこそが、真犯人として裁かれるべきなのは、論を待たない。

 そこで、そのような権力の座に向けての、小林の野心の程を見ると、これまた、典型的である。

《いつから、内務省にと、思い定めたか、はっきりしないが、大学の卒業や就職を考えたときは、とも角も、内務行政にと、考えがきまっていた。…(略)…内務省以外は思い及ばなかった。それは、或いは、当時は、内務官僚が、官僚の花形視されていたので、そんなことに、知らず識らずの間に、影響されていたのかも知れないが、なんといっても、特定の、部分的な行政、とくに特定の産業を中心にした行政には気が進まず、総合的、一般的な行政に、惹かれていた》

 つまり、今風にいえば、「花形」志願のミーハー的野心家以外の何物でもない。まことに素直な告白のようだが、それには事情がある。「自治雑記」(『自治時報』’64.1~『地方自治』’65・5~以下、注記を略す)という連載の第一回に、このような「想い出」が語られているわけだが、この「雑記」の始めには、こうある。

《自治省を離れて、いつの間にか五カ月あまりになった。

 内務省に志してから自治省をやめるまでの、役人生活を中心にして、地方自治に関する想い出めいたものを、自由に書いてみよという話がやめるそうそうからあった。しかしながら、新らしい仕事について、心のゆとりが多少でも持てもしないのに、そんなことにペンを取るわけにはゆかない。また、そもそも、想い出話でもといわれると、本人は、地方自治を引退して、脇役になったのだという気に、露塵ほどもなっているわけでもなく、いささか、抵抗を感じないでもない》

 このように、書き出しからして、自治省または旧内務省OBの「現役」宣言である。そして、読者としては、後輩のキャリア組だけを意識しているので、まことに露骨、よくいえば正直な証言が多い。もちろん、自分に都合良く話をまとめている点は、この種の回想録の常であろう。そこでまず正直なのは、出世主義の自認である。それも、いわば没理想の出世主義である。中身は何もないのである。この伝統は今も続き、自治省志願者には「きわめて明るい権力志向」(『官僚王国論』)が見られるという。

 もっとも、ここまでの思想形成には、本人の責任はほとんどないといっても良かろう。ただし、すべてを時代の責任に帰するわけにはいかない。歴史を見直すことは、過去との対話により、一人一人の未来に生かす知恵を得ることでなくてはならないのだ。

 たとえば最近、『母の大罪』という単行本が出された。BC級戦犯として巣鴨プリズン絞首刑第一号となった元陸軍中尉、由利敬の母の物語である。「息子を戦犯にしたのはおろかな母の大罪です」。息子の処刑直後、巣鴨プリズンの教悔師にこう語ったツルは、名家の出ではあるが、ごく「平凡な日本の母」であったという。ツルが自分に宣告した「大罪」とは、「息子が偉くなること」を、ただひとつの願いとし「軍人一心に養育した」ことであった。最愛の息子、敬は、当時としては模範生で、捕虜収容所長となり、二人のアメリカ兵の死の責任を問われたのである。

 「偉くなること」への願い、出世主義、もうけ主義、競争主義、排外主義、軍国主義、等々。この思想系譜に気付いた母親は、もしかすると、大いに非凡だったのではないだろうか。もとより、母親だけではない。由利敬の場合は片親だったが、一般には、父親の責任も問われなくてはならない。つまり、これから母となり父となっていく若者を含めて、すべての人類の今後に、この歴史の教訓が投げ掛けいれなければなるまい。そういう悲痛な叫びとして、この一書は編まれたのである。  だがさらに、そういう歴史との対話の能力を持ち、社会人としての経験を積み、自らの実践によって理論の是否を確かめ得る段階に達した者には、本人の責任をも問わなくてはなるまい。この場合は、小林与三次本人の反省の有無である。ところが、事態は逆で、むしろ最悪である。小林は、出世主義・競争主義を、自ら体系化し、長広舌に仕立て上げるにいたったのである。それも、救い難いほどに重症の《競争教》信者もしくは教祖というべき有様だが、その実情のすでに前著でも紹介したところである。


2 高等文官試験の席次にまつわる裏話