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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第三章-1

第三章《逆コースの水先案内》

公職追放の日本側窓口はGHQから何を守ったのか

1 アメリカ兵に殴られた戦闘帽の中身

 さて、すでに若干触れたように、小林は戦犯パージに関係していた。そしていま、GHQと対立したと自称している。だがそれは、読売新聞の“売り込み企画”がにおわすような、個人的な抵抗精神とか、ましてや“勇気”などとは程遠いもので、自己保身術に他ならなかった。

 というのは、官僚たるもの、ましてや内務官僚ともなれば、“共同謀議”の専門家ぞろいである。重要な問題では、単独行動などはしないものである。そして、利権的人脈を守り抜くためには、ボスの指令で一致協力、先手を打ってまわるのだ。

 もっとも小林事務官には若干の“青年将校”気取りがあり、たとえば敗戦後も戦闘帽にザンギリ頭で通していたらしい。本人は、「多少の意地もあって」、そうしたのだと称している。そして、GHQへ行くのにも、それで通したというのだ。ところが、いまの大蔵省前で「アメリカ兵に、戦闘帽の上から、頭を殴られた」という。「司令部のエレベーターの中でアメリカ兵と乗り合わせ」た際に、「帽子を指して、笑いながらファイティングキャップだといった」そうである。

 それはともかく、敗戦ともなれば、旧内務官僚のスネは傷だらけ、とうてい無事では済まされない。そういう覚悟もあっただろう。だが彼等は、旧支配体制全体の先頭に立って、「国体護持」の作戦を継続していったのである。その際、最早軍人の出番はない。われら内務官僚の本領発揮の時という意識も、大いに、あったに違いない。

 たとえば、地方局事務官は、つぎのように、重要な国事の伝達役となる。

《終戦ときまるや、敵の占領を前にして、終戦応急処理方針を地方に徹底させなければならないと、地方総監府へ、直接人を派し、政府の方針を伝達することになった。地方局の事務官が手分けしてその任に当たることになり、私は、東北総監府と北海道総監府とを受け持った。無料パスをあてがわれて、ごった返す東北本線の車中――それこそ敗戦の混乱のはしりであるスシづめの汽車の中に無理に乗り込んだ。立ち続けで仙台に至り、丸山鶴吉総監にお会いし、さらに、汽車と船と汽車を乗りついで札幌に向い、直ぐに引き返した。北海道総監は熊谷憲一さんだった。戦後活動が始まったのだ。一切の感傷を乗りこえて、戦後活動が始まったのである》

 このような内務官僚の活動には、隠された内容も多かったに違いない。すでに鈴木俊一の証言で紹介したように、例の《隠滅作戦》の徹底などは、その最たるものだろう。そして、この種の活動はGHQの支配が確立するまで、かなり精力的に展開されていたようである。たとえば最近のNHK「終戦秘話」によると、内務省は、アメリカ軍を東京に入れず、神奈川県内に留めるよう現地に指示したという。これなどは、いま流行の大国日本ムードには、打ってつけの掘り出し秘話かもしれない。放っておけば、日本人もなかなか勇気があったという話になりかねない。事実、吉田茂などについての、大国主義的“修史”(歴史の粉飾)による物語が、マスコミ受けする時代なのだ。

 だがわたしは、吉田茂らの“売国性”のみを云々する気はない。むしろ彼等の“悪”の本領は、敗戦後における《逆コース》の布陣、旧体制の利権擁護のための暗躍にあると思う。そして、そういう動きの中に、小林与三次ら高級官僚の果した役割を、位置付けるべきだと考える。

 その際、彼等の体質として重要なのは、いわゆる「外地」、植民地での自らの経験だったのではないだろうか。つまり、日本の植民地での経験が、今度は逆に、占領される側の“しぶとい”生き残り作戦に生かされたのではなかろうか。

 満州事変の時に奉天領事、そして植民地拡大をねらう「東方会議」のメンバーだった吉田茂はいうに及ばず、下は興亜院文化部にいた小林与三次にいたるまで、占領軍が現住民支配に際して何を気に掛けるかということを、かなり良く知っていたメンバーなのだ。逆にいえば、どうすれば自己保身が可能で、しかも仲間を守れるかというノウ・ウを、彼等はだれよりも多く持っていたのである。

 その典型例のひとつが、現東京都知事、鈴木俊一のパージ逃れであろう。


2 元特務機関員鈴木俊一パージ逃れの秘密