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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第三章-2

第三章《逆コースの水先案内》

公職追放の日本側窓口はGHQから何を守ったのか

2 元特務機関員鈴木俊一パージ逃れの秘密

 鈴木は、すでに紹介したように、小林の先輩である。敗戦時には同室の仲。そして、内務省上層部がGHQ覚書によって罷免されていったあと、鈴木が行政課長、小林はその直属事務官となる。急ぎの仕事は選挙法改正だったが、その実施直前に、パージが始まる。

 まず、鈴木自身の弁を聞いてみよう。

《ぼくも特務機関におって、およそこの特務機関に勤務した者はオールパージと、こういうメモランダムだったんですから……。私は本当ならば特務機関に勤務した故をもって追放されると思っていたし、事実、追放されたままでおったら私の人生のいき方は大分変わったものになったと思うんです》

《特高パージとか何か。みんな内務省の連中全部マークされていますからね。そういうリストというのは、一番危険性のあるもので、我々たとえば同期生の名簿を作ってね。それで住所が変更あったのを入れて回すと、そいつがつかまってしまうわけですよ。それですからリストなんかも、その後総理庁の自治課だとか、財政委員会、選挙管理委員会の両者が合同していろいろ作りましたけれどもね、白表紙で名簿の標題は、何にも書かないわけでただ『名簿』としてくばったわけですね。わかると危いですから》

《まあとにかくその後追放されずにすんだんですが、これはいろいろ内務省の先輩や、……いろいろ司令部と特別の関係のある諸君を知っておって、そういう人がやっぱり何かいろいろ横からも言ってくれた。それから林敬三さんとか、内務省の関係の者もいろいろ斡旋をしてくれて、それでパージは一応まぬがれたんです》(『内政史研究資料』)

 鈴木の話に出てくる林敬三はいすでに紹介ずみの人物。元統幕議長として有名だが、戦時中に内務省地方局の行政課長、戦後には人事課長となっている。つまり、鈴木や小林の直属上司だったのだ。そしてもちろん、鈴木が「内務省の関係の者」と、明らかに目下の者を指して呼ぶ中には、小林与三次が含まれていたに違いない。小林は、うたがいもなく事前の相談あっての上、林や鈴木の命令に従い、パージ関係の最重要ポストに送り込まれたのである。

 その経過を、小林自身はこう語っている。

《総選挙の実施が司令部でおさえられたのは、選挙法を検討するためでもあったが(司令部の当局者はそういっていた)、それと同時に、追放の実施を準備していたのである。年末から年始にかけて、なにかえらいことがあるぞという気配が感ぜられたのだが、果然、昭和二一年一月四日に、「好ましからざる人物の公職よりの除去に関する覚書」と「ある種の政党協会等の廃止に関する覚書」が、司令部から発せられた。軍国主義や極端な国家主義の主張者であった者などは、すべて中央の政官界から追放し、かつ、これらの者の帝国議会の議員に立候補する資格を剥奪すべき旨が、指令されたのである。

 堀切内務大臣も坂次官も、覚書に該当して辞任され …(略)… 私は追放令の制定作業に関与することになった。総理官邸の中で、正月早々、追放令(正確には、「就職禁止、退官退職者に関する件」立案のペンを執ったものだ。その施行規則や衆議院議員の議員候補者たるべき者の資格審査に関する内務省令もつくった。衆議院議員の議員候補者の資格審査は、すべて内務省地方局でやったのだが、私は内務省監察官として、その仕事に専念した。資格審査の基準の作成にも、いきおい関与した。泊り込みの日が続いた。月給の三倍は働いていると、私はよく広言したものだ》

 仕事の内容は別として、泊り込みの奮闘は事実だろう。そうしなければ、追放リスト作り、いやさ、仲間かばいの虫食いリスト偽造作業の、イニシャティブを握れなかったのである。すでに引用した鈴木の話の中にも、メモランダム(覚書き)が出てきたが、鈴木のいうオールパージ(例外なしの全員追放)そのままのリストづくりなら、「内務省監察官」が、わざわざ泊り込むまでのこともない。

 メモランダムの「いかなるときでも以下の地位にあったあらゆる人物」という区分の中には、「陸軍警察(憲兵隊)および海軍警察、特務機関、海軍特務部その他の特殊あるいは秘密諜報機関、陸・海憲兵機関に勤務した将校、下司官、兵隊および軍属」といったように、範囲が厳密に示されている。命令一下、みんなで洗い出せば、簡単に終ってしまう作業である。ところが、「監察官」のやったことは逆で、密室にこもり、鈴木行政課長こと元特務機関員などを、如何に隠すか、逃すかということで腐心するわけだから、ついつい泊り込みにもなったのである。以下、このような「逆向き」の努力、ひいては「逆コース」を準備した過程は、長々と語られている。

《その後、追放は、国会議員だけではなく、中央政府の公職から地方の公職にまでその範囲が拡大され、同時に、経済界、報道機関などにも広汎に拡大されていった。それは、追放の覚書を逸脱するものと て、大いに抵抗したものだが、これも結局、覚書の解釈権は司令部にあるということで、次第に押し切られていった。…(略)…

 私は、衆議院の選挙に始まり、引き続いて地方の公職に追放の重点が移され、その間に市町村長から町内会部落会長、隣組にまで及ぶ地方末端組織の追放、武徳会を中心とする警察署長の追放、在郷軍人会を中心とする地方有志の追放等、政治的追放が国内のすみずみにまで浸透して行く過程中、ずうっと追放事務に関係していた。…(略)…

 とくに地方の公職への拡大については内務省としては直接関係が深く、私は、直接司令部には顔を出さなかったが、事実上関与を続けていた》

 このうち、「報道機関」では、小林の義父、読売新聞社長だった正力松太郎が、A級戦犯に指名される。正力は、ただちに巣鴨プリズン入り。釈放後も公職追放であった。戦犯の方は、連合軍が設置した極東国際軍事裁判所に対する起訴であるが、公職追放と同じ資料に基いている。そして、小林らは、GHQによる調査状況を、いち早く知りうる立場にあったわけだ。ともかく正力は、下獄寸前に、『読売争議の真相』と題するパンフレットを作成し、その中で、GHQへの自己弁護にこれつとめている。なぜか、手まわしが良過ぎるのである。


3 地方《翼賛会》幹部へのドロボウに追い銭