読売グループ新総帥《小林与三次》研究(3-4)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1

第三章《逆コースの水先案内》

公職追放の日本側窓口はGHQから何を守ったのか

4 戦犯パージのスリカエがレッドパージ?

 公職追放についても、すでに、GHQと吉田内閣との取り引き関係が成立し、両者ともに、公職追放を自らの支配の武器として活用し始めていた。

 小林のいう、「相手を蹴落すために追放を利用」した最右翼こそは、吉田茂であった。吉田はGHQから入手したリストを利用し、それを操作したかのようにいわれているが、その原本のリストは、小林らが作成していたのだった。この両者の関係にも謎の「暗部」がある。それはともかく吉田茂は、追放や戦犯の「お目こぼし」権を握ることによって政権を補強し、また、政敵を売り渡したのであった。

 かくて、このような日米支配層の、いずれキツネかタヌキの化けくらべによる野合の下、小林ら下僚は確信を持って、パージの範囲縮少に奮闘したのである。そして、「すべてを軍閥に」のスローガンの下、「ワールインダ、ワールインダ、トージョウが悪いンだ」のダミ声コーラスをバックにして、小林も、ここぞとほえ立てるのであった。

《市町村長であったが故に追放するなどということは、全く考えられることではない。いわんや全国二十万余の町内会部落会長であった者については勿論のことである。その及ぼす影響の甚大なことはいうまでもないが、そもそも、軍国主義者や極端な国家主義者を排除しようとする追放の精神からは全く逸脱するものであり、善良な国民を侵略的な軍国主義者等の名を冠らせて、政治的社会的に追放し、国家再建のための奉公の道を閉ざすことは、まことに不公正不条理で、到底納得できるところではない。戦争中、市町村長に対しては勿論のこと、町内会部落会長に対しても戦争行政の遂行について協力を求め、とくに大政翼賛会が成立するやその地方の下部組織が徒らに重複混乱することを避けるために、市町村長、町内会部落会長との一体的な連繋を強調し、そのように持ってきた内務省としては、受け容れることができなかったのは当然のことだが、単に内務省だけの問題ではなく、政府全体としての大問題であった。幾度か閣議にはかって、司令部と折衝が続けられた。そして、司令部の再考を求めるために、何度か文書が提出された。その意見書の材料の準備や下書の作成などに、私も働いた》

 いやはや、二十何万人だか知らないが、大げさもいいところなのだ。まず、この数は、全国民の〇・二%でしかない。むしろ、そのひとつまみの地方ボス、「善良な国民」どころか、いずれ大地主や資産家出身の悪玉が、地方支配の天皇制警察と一体になっていたことが、大問題だったのだ。それも、単に「長」を辞めて、自分の職に戻れば良いだけのこと。それを、いかにも人道問題であるかのように、番犬よろしくほえ立てるのだから、まともに聞かされる方が大変だ。念のために確認しておくが、小林自身の高給はもとよリパージ逃れの「有給町村長」の給料も、「退職金」も、すべて税金でまかなわれたのである。そして、このような官僚群の戦いによって、パージばかりか、やがては、農地開放もうやむや、自治体警察も、教育制度も、いつの間にか先祖帰りをしていったのである。

 ただし、小林らのやり過ぎについては、文面上だけとはいえGHQからもきつい非難が加えられた。その有様と龍頭蛇尾の結末を、いずれキツネとタヌキの化かし合いの当事者、小林は、こう説明している。

《八月二〇日に、追放令の決定及び趣旨の励行に関する方針及び細目手続きの決定方に関するステートメントを手交し、公職追放を都道府県だけではなく市区町村にも及ぼし、さらに経済界にも拡張する計画を立案するように命じてきた。これは、昭和二一年一月四日の指令のように正式の総司令部の覚書(memo-randum)ではなかったが、statementとして文書で渡された。メモランダムでないだけに、それから、追放の地方及び経済界への拡大について、司令部との間に長い交渉が繰り返されたのだが、このステートメントが第二次公職追放の基礎になっている。

 右のステートメントの目的について、ホイットニー民政局長が最高司令官に対してなした説明の中に、次のような言葉がある。

『指令に特記されたカテゴリーに該当する人物はすべて、たとえ地方政府の職であろうとも、また、任命による職たると選挙による職たるとを問わず、公職から排除することが追放指令の基盤をなす政策であることは、なんら疑いがない。しかるに、日本政府は、基本指令の精神および意図を無視するのみならず、追放指令の規定を極端に形式的、字句的に解釈して、これを逃れようとする傾向を示しつつあり、多くの事件において明らかに政治的不正直さを表わしている。日本政府は、町村長または市町村会議員の資格審査は行なわないむねの計画を非公式に提出してきた』

『公職から、実際上これと同じ機能を果たす影響力ある実業界の地位に移りかわることは、追放を愚弄することであり、もしこれが一般化すれば、総司令官は愚かな存在となるであろう。国会議員で追放された者が、党の高級政策に参加したり、立法の協議に加わったりすることも、同様の性格のものである』

『地方官僚組織の粛正を怠ったことに関する抗議の手紙が、数多く日本人から当司令部にあて提出されている。しかし、日本政府の立案した計画を公表し民衆の承認を得るという方法は、地方官吏に対する追放の適用という点に関しては、正式の指令を発するよりも良い計画を生むことになるであろうと、本官は確信している』

 ホイットニー民政局長がいみじくも指摘したように、われわれは『追放指令の規定を形式的、字句的に解釈して、これを逃れようとする傾向を示し』たのである。それはいずれにせよ、非公式の話合いにより、日本政府をしてイニシァティプをとらせる形をとった》

 こうした「非公式」のやり取りのうちに、公職追放の基準そのものが、ますます疑わしくなっていく。そしてついには、「占領目的」の本音に近づき、軍国主義者パージがレッドパージヘと、奇っ怪な様変りを遂げてしまうのだ。

 GHQと「闘った」はずの小林与三次が、この日米両権力の狭間で出世していくのも、その様変りの具体例であろう。

《当時、公務員制度の改革が討議にのぼり出し、政府部内でも、臨時行政調査部に公務員部が設けられ、浅井公務員部長(後の人事院総裁)の下で、公務員制度の調査研究が進められることになり、やがてアメリカからフーバー使節団が来ることになったのだが、これに伴い、地方公務員制度についても同様に考える必要があり、内務省地方局に職員課が設けられた。私は、初代職員課長を命ぜられた。しかしながら、公務員制度の改正については、もっばら勉強時代で、卒直のところ、使節団の調査待ちというところであった。職員課長としての私の仕事は、追放事務が中心であった。市町村長や町内会部落会長の追放が問題になる以上は、かりに従来の行きがかりがなくとも、国内的には文句なしに内務省が関与しなければならなかった》


5 「GHQ批判」バンフレットの真相