読売グループ新総帥《小林与三次》研究(2-5)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.5

第二章《高級官僚の系譜》

無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程

5 「かなりはなやか」だった「大人の火遊び」

《私には警防課長の経験は、まことに有難いものである。それがなかったら、果してどんな形で、こんなことを考えたであろうかと思うことが、現にいくつかある。思いついたかも知れず、思いつかなかったかも知れず、或いは別の発想の仕方をしたかも知れない》

 これが小林自身の言である。だからわたしは、最近の日本テレビにおける小林の動きを、この「警防課長」という経験に関係ありと「警告」してきた。『テレビ腐蝕検証』などでも論じたところだが、地震や火事、果ては「赤字」で脅しをかけ、人を踊らそうとする発想が小林にはあるのだ。

 小林は、京都府地方課長の辞令を受け取って大喜び。かねてからの念願の部署につけると思いきや、たった五日で、防空課長に変えられた。中央との連絡の行き違いがあったらしいのだ。そして、その防空課が、警防課に改組されるというあわただしさだったのである。

 時すでに一九三九年(昭和一四、日米開戦の二年前である。「支那事変」と称する戦争は、芦構橋事件以来すでに二年の経過。ナチス空軍によるゲルニカ無差別爆撃は一九三七年だが、日本のヒロヒト軍隊も、中国大陸の各都市に無差別爆撃を加えていた。ゲルニカ爆撃と同じ年には、三〇万人以上ともいわれる「南京大虐殺事件」まで引き起していた。だが、その「皇軍」は、中国の各地で血みどろの「前戦こう着」状態にあつた。国内には、いくら弾圧しても消せぬ厭戦気分が、拡がっていた。

 前年の四月一日には、国家総動員法が公布され、矢継ぎ早やの総力戦体制づくりへと、「官民一体」の押しつけが進んでいた。警防課設置の目的もそこにあり、警察署、消防署=消防団、市町村の防護団、町内会、部落会、隣組にいたるまで、ひとまとめに動かそうという発想であった。そしてその危機感をあおるために、「たまたま、会議で上京中に、支那の飛行機が、熊本、宮崎の県境にビラをまいていったという事件が起こった。それは、支那事変中唯一度の、支那軍の本土飛来だった」と小林自身が記す事件などが、最大限に利用された。いまもなおテレビタレント竹村健一が、パイプ片手に、「ソ連の潜水艦がそこら中にウヨウヨ……」などとやらかすのと同じ手口だ。すでに史上稀に見る残虐な侵略戦争をくりひろげていながら、「事変」と称し、一方では、自国を「守る」というデマゴギー。クラウゼヴィッツが、「侵略者は常に平和を愛好する(ナポレオンすら、このように自称していた)」(『戦争論』)と書いてから一五〇年後のことであった。正直なことには、小林はこうも語っている。

《警防課長の仕事は、消防業務と、防空対策とである。防空対策は、当時は、まだ、太平洋戦争の発生などは夢にも考えられず、初期の計画啓蒙訓練時代で、極めて幼稚なものであった》

 ともかく、防空訓練の始めには、当の警防課長さえ、こう考えていたのだ。当初の目的は、やはり、「国民精神総動員」、そしてそれを口実としながらの、国内スパイ組織づくりであった。だから、まずはマスコミも「総動員」しての大作業。小林課長は、「はなやか」に、この新規事業に励んだようである。

《当時の警防課長の仕事は、かなりはなやかなものであった。防空演習とか、防空施設の督励視察とか、警防団の視閲とか、新聞記事になることが、少なくなかった。それについては、私は、多少意識的でもあった。それは、固より、人気などを考えたからではない。仕事の性質上、なんでもよいからできるだけ、広く、反覆的に、宣伝することが必要であると、考えたのである。

 私が赴任した当時は、京都の防空課では、防空計画とか、総動員警備計画とか秘(注:丸囲み)や極秘(注:丸囲み)などの判を押した書類を多く扱っていたせいか、とかく、秘密主義が採られていた。それが、いかにも警察流とでもいうのか、京都市あたりと、ピタリと呼吸があわない一つの原因にもなっていたのではないかと思う。私は、その秘密主義をひっくり返して、なんでもかんでも、宣伝第一、防空や消防に関する関心をあふり、空気づくりをすることが、根本だと考えた。市民の百パーセントの協力を、殆んど唯一の頼りにしている国民防空に、秘密などある筈がない。ぃわんや防空といっても、初期の啓蒙宣伝時代であるから、すべてを、啓蒙宣伝のたね(注:傍点)に使わなければならぬ。こんな気持が、私にあった。したがって、熊本時代とは全く変わって、新聞記者諸君ともよく話しあった。そんなわけで、わりとはでに警防課長の仕事をしていたのである》

 新聞だけではなく、「『大人の火遊び』とかいう題で、ラジオ放送をやった記憶もある」そうだから、まさに京都の名士ではないか。だれが保存していたものか、当時の京都新聞からの切り抜きも、写真版にされている。大見出しに「家庭でもバケツ警防」とあり、大火の教訓から、のちのバケツリレーにいたる道程のひとつが、ここに見られるようだ。小林課長も、顔写真入りで招介されている。

 だが、そのころの新聞記者は、どういう状況に置かれていたのであろうか。

 すでに前著でもふれたところだが、用紙統制に名を借りる一県一紙への新聞統合は、一九三八(昭和一三)年からの動きである。全国で七三九紙を数えた日刊紙が、四年後には一〇分の一以下の、五四紙へ統廃合されたという、史上稀にみる言論機関への干渉であり、それを強制・指導したのが、地方警察だったのである。

 小林の最初の任地、熊本でも、熊本日日新聞への統合が行なわれた。しかし残念ながら、社史『熊日二十年史』には、その間の事情が記されていない。

 示都府では、京都新聞への統合が強行されており、『京都新聞九十年史』は、京都府警察部特高課長中村清が、「合併を勧告」したことを記している。また、『京都新聞社小史』は、そのころの状況の一端をつたえてくれている。

《発表記事のほかは何もかけない暗くて重苦しい時代であった。一県一紙令が出され、新聞社の統合が強行された。京都においても、京都日日新聞と京都日出新聞が、特高課長のあっせんのもとに合併した》

《競争紙の京日と日出の合併は、なかなかの難産であった。時の府警察部特高課長が、両社を呼んでのひざづめ談判であったが、合併の条件や人事についての合意がえられなかったためであった。結局は、特高課長の裁定で対等合併となった》

 わずかに残る合併前の資料に、京都日出新聞の「整理部日誌」があるという。合併直前の一九四一(昭和一六)年後半、対アメリカ宣戦布告の一二月八日を前にして、「とくに目立つのが、特高からの記事差し止めの指示」だという。また、「七月一六日の項には、近衛内閣の総辞職と後継内閣の組閣について、同盟通信社からの注意事項、特高からの指示が、ぎっしりと書きとめてあった」という時代であった。

 最近評価の高まった桐生悠々が、「関東防空大演習を嗤う」を書いて信濃毎日新聞を追われたのは、早くも一九三三年(昭和八)のことであった。悠々は、「将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば」、と仮定し、「木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろう」「関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろう」「だから……我軍の敗北そのものである」と論断した。不幸にして、その予言は適中した。しかも、唯一の盟友ナチス・ドイツの降伏後、消息通のだれしもが絶望状況を知りながら、ただ、ただ、「国体護持」条件の秘密交渉を続けるうちに、阿鼻叫喚の生き地獄が展開されたのだ。その上日本は、最早、防空のボの字も無意味な原爆の、実験場にさえされて終ったのである。

 ところが、小林元警防課長の回想たるや、もし自分が指揮棒を振っておれば、といった感じのもの。これまた、何の痛痒も感じてはいないらしいのだ。

《防空施設の整備や、防火改修や、防空演習などに関して、いろんな所に、顔を出しながら、現有の防空勢力で、敵の空襲に対する警備対策を、いかに樹てるかを考えたものである。防空課には、嘱託で、下村というまじめな予備の陸軍大佐が勤務しており、同氏とともに、京都市の地図をひろげ、いろいろな状況を想定して、矩形の紙型を図上におき、いわゆるジュウタン爆撃を仮想しながら、作戦を練った。

 防空態勢は、いってみれば、零である。それで明日に備えてその整備を図らなければならないが、同時に、今日にも備える策を樹てなければならぬ。明日のために準備しながら、今日の策を樹て、今日の対策を用意しながら、明日のために整備をはかる。当時、私は、生意気だったかも知れなかったが、ペンを執り、国民防空に関する何点かの意見書をしたためて、内務省の防空局に送ったことがある。今読んでも面白そうなことを書いたような気がしているが、無論記憶はない。もとより記録もない。ただその一つに、防空に関する認識を論じ、一体、今日に備えるのか、明日に備えるのか、何年後に備えるのか、それをはっきりさせることが、防空対策の根本であるというようなことを、書いたようだ。…(略)… 私が防空の仕事を離れて、何年か経って、本土の空襲が繰返されることになった。その殆んどは、なすなく燃えるままであった》

 小林は、米軍さえ「文化財保護」の目こぼしをした古都京都を、「じゅうたん爆撃」を受けてまで「守る」気だったのだ。だが、「何点かの意見書」の熱意が認められてか、その小林に、新たな部署へのさそいが掛った。


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