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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 第二章-10

第二章《高級官僚の系譜》

無思想の出世主義者が国体護持の“愛国者”と化す過程

10 原爆も大空襲も「恐れ」なかった事務官

 ただし、戦犯パージの話はまだ先の敗戦後のこと。その前に、この「戦時版」地方制度の惨たんたる結末のひとつを確かめて置きたい。

 昨年の原水爆禁止運動は、かつてない盛り上りを見せた。ありとあらゆるマスコミ工作、弾圧にもかかわらず、国内の運動も続いてきたし、何よりも、国際的な反響は年々増加する一方である。また、国内での資料発掘も、止むことはない。そして、当時の広島県知事、つまり内務省高級官僚の一人が、原爆投下の翌日に出した「告諭」の実物も出てきた。すでに公史には明らかなものだが、実物発見ということで、朝日(’81・8・2)も「被爆翌日、非情の通達」と、大ぎく報道した。その書き出しに、こうある。

《「広島県民諸君ヨ 被害ハ大ナリト雖(いえど)モ之戦争ノ常ナリ…軍モ亦(また)絶大ノ援助ヲ提供セラレツツアリ…速(すみやか)ニ各職場ニ復帰セヨ 戦争ハ一日モ休止スルコトナシ」――。三六年前、人類初の原爆で市街地の九割が焼き尽くされ、一〇万人近くが即死したうえ、多くの人がもだえ苦しんでいる被爆翌日の八月七日付で、当時の高野源進・広島県知事の出した告諭の実物が一日、同市・平和記念資料館に市民から寄贈された》

 この「告諭」を発した当人の高野源進は、同年一〇月に警視総監となった。出世である。だからといって、この高野だけを責めるつもりはない。朝日の取材にこたえて、ファシズム史の研究者、藤井忠俊は、「当時『長』のつく立場にいた人は、苦悩を抱きながらも……」、といっている。あるいはそうかもしれない。

 だがまず、そのような「告諭」の背景には、「戦時版」地方制度があり、小林らによる、つぎのような「本土決戦態勢」づくりがあったのだ。

《昭和一八年七月に地方行政協議会が設けられ、戦争がひっ迫してくるとともに、その総合連絡調整の権限が強化され、最後の段階に迫った二〇年六月に、それが地方総監府に変わった。ブロック単位の知事及び国の出先機関は、地方総監の指揮監督の下におかれることになった。それは、陸軍の地域的な防衛態勢とも照応していた。単に行政の広域的な連絡調整を行なおうとするのではなく、空襲どころか敵の本土上陸も予想して、交通通信等の杜絶や地域の分散弧立化を考えての、国内防衛態勢だったのである。…(略)… これらの仕事は、吉岡さんや鈴木さんがやっておられ、私は間接的な関係にあった。…(略)… いわゆる時局事務とは違った、遥かに切追した、直接的な戦時態勢整備事務である。武器を整備するだけではなく、ゲリラ的な戦闘力をも形成しようとするのである。単なる銃後の守りではなく、本上にまで拡大されようとする前線の守りに、国民を加わらせようという構えである。地方総監府の設置は、こうした切迫した状勢と対応するものであった》

 そして少なくとも小林自身に関しては、原爆投下時の「苦悩?」の程度が、かなり正直に語られている。

《終戦を意識しながらも、私は強気であった。原子爆弾だということは、あとで分ったのだが、被害を防ぐには何をかぶったらよいとかなどと、子供だましのようなことも伝えられて、動揺は大きかった。私は、B29が大編隊できて、ジュウタン爆撃をやるのと変わらないじゃないか、一夜にして、都市が壊滅し、多くの死傷者を出すことは、一緒だ、何も新兵器だといって格別に驚くことも、恐れることもないと言っていた。…I(略)… 私は、必ずしも、徹底抗戦、焦土作戦を主張しようとしたのではなかった。しかしながら、なお、多くの戦闘力を持ちながら、――それは本当は、どれだけの力だったのか、皆目知らないが、私にはなお相当の航空兵力が残存していたと思われた――このまま、無条件降服することが、気に喰わなかった。今一度、全力をあげて戦うべし、その上でいざまよく服そう。そして、将来の再興を期すべきである。私はそう思いつめていた。そうすることが、将来の再興をはかる所以である。後世、懦夫をも起たしめずにおかない。祖先の耿々たる義気を発揮しておかなければならぬ。敗戦は必定ではあるが、再興の気魂を残すことが肝心である。くしゃくしゃと崩れ去った、神州不敗の精神からは、再興の意気が生まれてこない。戦い抜き、抗し抜いて、最後を飾ってのみ、切歯奮起の契機が残る。この民族の魂の、玉の緒を、いかにつなぎとどめるか。それが、当時の私の問題であった。いかに敗けるか、その敗け方が問題だと考えていた。

 それこそ、物を知らない少年の客気だったかも知れない。大勢を見抜かない暴虎馮河の勇みだったのかも知れない。

 いろいろ考えつめて、内務次官室に灘尾次官を訪ね、真剣に心中を述べたものである。骨も魂も失ってしまう戦敗民族の腑甲斐なさ、意気地なさが思われて、いかにも口惜しく、やり切れなかった》

 何ともはや、あきれかえった“青年将校”振りではないか。その上、「二重橋前で動哭」したり、「多摩御陵前」まで行って、「さまよい歩いた」とある。一般国民は、やっとの想い。ほっとはしたものの、今晩の飯もない。そんな所をうろつく暇はなかったのである。

 だが、ここにも例によってあいまいながら、聞き捨てならぬ部分がある。原子爆弾について、小林自身が「恐れることもないと言っていた」とあるのは、どういう立場での発言なのだろうか。

 小林はその時、内務大臣訓令さえ起草するブレーンであった。だとするとこれは、廊下の雑談ではなく、内務省地方局のスポークスマンとして、その見解を述べ、それが、かの広島県知事「告諭」の状況認識を成したのではなかろうか。ならば小林は、少なくとも、「告諭」“以後”の作業による被曝者に対しては、その責任を取らねばならない立場だ。

 その戦争責任を逃れたまま、いままた、自民党政権の軍国主義化・軍拡路線を唱和する気なら、一言いわずはなるまい。

 とりあえずここは、「後世の懦夫」を代表し、最新の『広告批評』(’81・9)よりの抜粋で、現役コピーライター作の「反戦スローガン」を奉っておこう。

 「戦争は、あなたが人を殺すこと」

 「行かない人がやりたがる」

 「戦死、お先にどうぞ」

 「まず、・総理から前線へ」

 そして、わたしの自作も特注物として、

 「高等官殿、最後をお飾り下さい。あとは引き受けます」

 ところが、ところがである。帝国高等官たるもの、そう単純ではない。軍人と違って、頭の切り換えも早い。ただちに、「三千年に一度の敗戦」だとして、「復興の、私の場を、守ることにした」のである。エッ《紀元は二千六百年……》の非科学年代が、もう三千年にもなったのか…。

 まあ、いいでしよう。ともあれ、三千年とはいかずとも、三〇数年の戦後史で、小林がいかにして、「私の場」を守ったかについて、若干は知っておかなければなるまい。

 なお日本の戦後民主化の不徹底さに関しては、フランスの対独協力者追放、ナチ党員追放をはじめとした事例との、国際的な比較がなされている。その際、五月のナチ降伏以後のヒロヒト帝国の、絶望的な三ケ月が、大きな意味を持ってくるのだ。降伏条件に「国体護持」を確保すること、ひいては資本主義経済。政治構造を守ること、そのための捨て身のデモンストレーションとして、沖縄県民の三分の一の生命が犠牲となり、ついには、アメリカ軍を占領と戦後処理の中心にすえるべく、二発の原子爆弾さえ度用されるに至ったのである。アメリカの空爆は、すでに三月一〇日の東京大空襲で、民間人大量殺戮の実績を示していた。東京の空はアメリカ空軍に開放されていた。だから、本当にヒロヒトを撃ちたかったのなら、同じ東京で、部厚いコンクリートと鋼鉄板、最強の防空部隊に守られた“御文庫”めがけて、人類史上初使用の原爆を、ただ一発落しても良かったのだ。

 トールマンは、なぜそうしなかったのか。

 すべては戦後の世界戦略に掛っていた。そして、この“貴重”な三ケ月の間に、アメリカの対日占領計画は、大きく修正され始めていた。

 「ヒロヒトが対米協力を誓うなら、臣従の礼を取らそう」。アメリカの支配層はこう決定していた。あとはアメリカ自身にとって、アメリカ国民をどうなだめるか、連合国、とくにソ連をどういなすか、それだけの問題であった。だから、原爆は、本来なら最高の目標である“御文庫”をねらわず、広島と長崎に落されたのだ。ヒロヒト本人だけではなく、その近くの霞ケ関周辺で、小林ら高級官僚が生き残り、四の五のいったかどうかは知らず、基本的にはアメリカの世界戦略に組み込まれていったのは、やはり、意図的な結果に他ならない。アメリカは、東京のトップと京都の文化財を、決定的な爆撃目標から外していたのである。


第三章《逆コースの水先案内》1 アメリカ兵に殴あれた戦闘帽の中身