日本ナショナリズム研究会
「万邦に対峙する」の国家目標 13-14
––1920年代「ウラの世界の大勢」
伊藤晃
「ウラの世界の大勢」
吉野作造や美濃部達吉が明治国家の修正を考えるとき、自由主義・国際協調へ向かう英・米主導の「世界の大勢」を想定し、これをよりどころとした、と以前お話ししました。ところが、その「世界の大勢」はたしかに存在していたとしても、そのウラにももう一つの「世界の大勢」があり、それが世界の不安・動揺のなかにつぎの戦争への道を開いていた、ということにも少しふれ、いずれくわしくお話しする、と予告してありました。今回はそのことについてお話しておこうと思います。
この「ウラの世界の大勢」を表現する思想が日本にも、北一輝・上杉慎吉らに代表されて存在したのです。彼らのナショナリズムは、吉野作造らと、19世紀明治国家を批判して20世紀へ向かう、その道の選択を争う位置にあったもの。これらについてお話するのですが、そのためには、いま言った「ウラの世界の大勢」をざっと見ておくなくてはなりません。そこで、その「大勢」を構成する要素をいくつかあげて、私の考えを説明することにします。
第1に、「国際協調」のウラに大きな不安、つぎの戦争の火種が存在したこと。
第1次大戦後の講和会議、ヴェルサイユ会議は敗戦後ドイツをきわめて過酷に扱い(とくに賠償金について)、ドイツ国民に深い怨みと不満を残した。これがヨーロッパ世界再建への障害と、さらに次の戦争の火種を養った。
また太平洋地域においても、日本・米国の対立が深い。日露戦後の日米対立について前にお話ししたことがありますが、日本人移民排斥問題もあって、1910年代にはかなり深刻、一時は戦争の聞きさえ取沙汰される状態でした。
こうした対立に加えて、後進列強(「持たざる国」、独・伊・日)からの先進列強(「持てる国」の領土・資源独占)への不満も一つの役割を果たすことになります。
つぎに第2の要因、世界「赤化」の危機。第一次大戦は1917年ロシア革命を生み、このロシアを含めて、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコの4帝国を崩壊させました。引きつづきドイツをはじめヨーロッパ諸国の相当数に社会主義革命の危機が迫ったかに見えた。これらが20年代初頭に大体鎮圧されたあとも、前に述べたコミンテルンの存在を別にしても、資本主義体制は社会主義からの声なき、しかし執拗な問いを意識せざるをえないのです。資本主義は本当に自体制を維持できるのか、恐慌と失業を防ぎ、生産力上昇を実現できるのか。また、資本主義は本当に各国に民主主義を、世界に平和を実現できるのか。ここに20世紀を通じての両体制間対立のイデオロギー構造が作られます(それは、21世紀を迎えたいま、資本主義側が優勢を維持しているようにみえますが)。
「赤化の危機」はアジアの民族解放闘争と結びついて深刻さを増したのですが、日本においてそれはことに重大でした。このことにここでふれておきます。
日本に対して、朝鮮-中国-シベリア(日本はロシア革命干渉戦争でここに大量出兵した)という、その大陸進出の道を逆に辿って、「革命」が流れこんでくるかのようであった。しかし日本にこれへの認識が十分であったとはいえないと思います。
1919年に朝鮮に独立を求める3・1蜂起があります。この日本支配への反抗は日本社会に朝鮮人への憎悪・敵意を強めた(23年関東大震災における朝鮮人大量殺害はその一つの結果でしょう)が、そこには時代の変化への認識が働いていたとは到底言えません。
中国に対しても同様です。1919年に中国国民革命(辛亥革命)が起きている。そこにしばらく混乱期があったのをよいことに、満州での権益を中国全土に拡げる野望さえかくさなかった。第一次大戦に、ドイツの山東省での権益横どりをねらって押しかけ参戦、1915年に21ヶ条の要求。また、これは日本に限らないが、列強は中国中央政権の弱体のなかで、各地に蟠踞する有力者(軍閥と呼ばれた)と結託してそれぞれに勢力範囲を固めようとする。日本の場合その相手が満州を縄張りとする張作霖ですが、さらに、大戦中から「満蒙独立」の陰謀さえいくつかあります。
こういう政策は、ある中国認識(というより認識の欠如)と結びついています。1921-22年ワシントンで日米中心の国際会議がありました。前に述べた日露戦後の深刻な日米対立を緩和し(海軍軍縮など)、日本の中国進出の頭をおさえることが目的、当時の原敬(ルビ:はらたかし)内閣は積極的にこれに応じます。従来の中国政策を修正し、軍事進出一本槍から、大戦中少し経済力がついたこともあって、産業・金融力に重点をずらそうとする。こうして米・英との協調を安定させようとする。もちろん米・英としても日本の顔は立てるわけで、その妥協の状況が、日露戦後列強が承認した日本の満州における権益は当然として手をふれなかったことです。
ところがこれは国民革命を経た中国国民には到底認められないことだったのです。旧時代には帝国主義列強どうしの取引きを旧中国は認めざるをえなかったのだが、新時代に入っていた中国国民にはそれが通らなかったということです。重大なのはこのことの認識が日本に生まれていなかったことなのです。原敬首相ですが、彼はその死に至るまで詳細な日記を書いています。日本近・現代史を研究するものの必読資料で、私もこれを通読したことがある。そこで気づいたことですが、首相となった原敬は、対米関係については実に細かく眼配りをしていますが、中国の状況についてはほとんど記述がない。つまり中国が、国民革命時代のその国民が、何を考えているか、ほとんど関心がないということでしょう。当時日本で第一級の政治家だった原敬が、そんなものなのです。
もうちょっと話を延ばしておきます。その後1920年代、日本の中国政策の主流はワシントン条約の線上にあります(長く外務大臣をやった幣原喜重郎の名を取って幣原外交と通称される)。国際協調という点からは穏当な外交だが、依然中国国土の一部に居坐っているのだから、中国側との気まずい関係は従然どおり。20年代後半から中国革命の進展(北伐。中国国民党の軍閥打破・国家統一の軍事行動)のなかで、日本には「大陸の危機」の叫びが強まり、中国現地の日本軍(関東軍)の策動も重なって、国民の間に危機の宣伝が次第に効果を挙げはじめます。これは、そのころ議会政治を担うべき政党に党利党略と全権腐敗が見立ち、軍や旧勢力に迎合する傾向もあったこととあわせて、自由主義的方向を失速させるのです(27年幣原外交と田中外交の交代、陸軍の実力者田中義一が首相となり、国際協調の枠を突破した強硬な中国政策に向けて舵をとる)。
1920-30年代の世界経済
「ウラの世界の大勢」の第3の要因、1920-30年代の世界経済。その詳しいことは省略しますが、1920年の戦後恐慌ののち、巨大な生産力を実現したアメリカ的生産様式の影響もあって、全体として世界経済は安定を取り戻すかにみえた。しかしドイツなど厖大な失業者群を解消できない国もあり、社会不安が潜在しています。自由主義経済復活と繁栄の夢を一気に打ち砕いたのが29年の世界恐慌で、これが尾を引いて30年代世界的な政治危機の背景をなしたことは、皆さんご承知のとおりです。
こうした推移のなかにも、「つぎの戦争への準備」が見立たないながら進行していた。「ウラの世界の大勢」の要因の第4です。第1次大戦の2つの重大現象、兵器大系の大変化と国家・国民総動員とへの対応です。
第1次大戦は長期の消耗戦、物量戦ですが、質的にも火力の飛躍、戦車・航空機など新兵器の登場が見られます。軍人というものは一般に保守性が強いようで、これら新現象をとらえて各国軍隊の一新を争った、とまではなかなか行かなかったらしいが、それなりの対応は各国に見られます。産業の最先端を軍事に結びつける必要がありますが、この、かつての軍需工業との違いは、軍需・民需の dual use という状況が現れてくることでしょう。アメリカの自動車工業が第2次大戦において兵器の大量生産でもった意味など思い出してください。これは諸産業において再生産軌道の変化に軍事的契機が入りこむということでもあります。
日本も例外ではありません。第1次大戦後は世界的軍縮時代で、日本は陸軍でも数個師団を廃止しますが、その代わり航空機や戦車の導入など装備の高度化の準備を進めたようです。他の列強とくらべて経済低位で資源も乏しい日本では、産業を軍事の眼で見るという場合、統制経済化の着想を伴うわけで、27年、陸軍の革新グループの永田鉄山らが主導した「資源局」はその方向を見せています。この資源局、30年代には経済参謀本部などと呼ばれた統制経済の元締め、「企画院」の前身の一つになります。
国民総動員の面は、つまり社会の軍事化(逆に軍事の社会化でもある)ですが、これを日本について言うと、田中義一らが主導した在郷軍人会、また青年団の機能高度化がある。20年代半ばには、中等学校以上の男子校に陸軍から将校を一人ずつ配って(配属将校という)軍事教練をやらせる、進学しないものに向けては「青年訓練所」を設けて、普通の教育と並べて軍事教育をやる、というようなことがありました。
「ウラの世界の大勢」の第5の要因。人民大衆を政治的に組織する新しい方式の出現。19世紀後半に、人民諸集団の自立的運動発展に伴って、その組織性と意識性の進展があったことを前に述べました。自由主義が愚民と見た demos の主体かということ。自己の運命にただ従うのでなく、それを自ら考え、働きかけるようになるということ。この人民が長期総力戦としての第1次大戦に大衆動員されるのです。多くのものが戦場へ、さらに女性を含めて生産現場などへ。それまでの戦争での前戦と銃後の生活との関係が変わるのです。
戦争が終わると、大量の兵士が復員して来るし、また戦時中に視野を広げ、苦しみ、行動的になった大衆の、昔にくらべて解放されたエネルギーが社会に充満する。そしてこの人びとが戦後の社会不安・経済不安のなかにおかれるのです。この人びとは、自分たちの状況に運命として耐え、あるいは単に反発するに止まらず、危機打開の道を示せと、状況解決を要求するでしょう。
これに対して、既成の政治には、旧勢力はもちろん、それにとって代わろうとする自由主義勢力も解決能力がなく、また社会主義勢力も、国民的変革運動(つまり革命)に発展させるには力不足でした。ここに大衆の不満・怒りに自己表現の形を与え、これを外から大衆を抑圧しようとする国際勢力(「持てる国」)、「国際主義的」資本主義・自由主義・赤化勢力に立ち向かわせようと、この国民的運動に人びとの求める利益の実現がある、とする国家主義勢力が出て来るのです。イタリアのファシスト党、ドイツにもいくつもの集団、その一つに「国民社会主義ドイツ労働者党」と名乗り、Nazi「ナツィ」と俗称されたグループがありました。
これらの運動は、Nazi の正式名もそうですが、運動の形においても社会主義運動から剽窃したところが大きい。自由主義とちがう大衆的な形です。大衆集会、大衆デモンストレーション、大勢でスローガンを叫ぶ。これに参加する大衆は、自分も行動に参加している、物事を解決・決定する力に加わっていると、共同の意志力なかの自分、主体としての自分を感じて血を沸き立たせます。大衆のなかに存在すると想定される感情を、共同の行動を通して、国民共同の意思を感じさせるところまで高める。自分たちを一つの全体にしていこうとする共同の意思、一般意志 volonté générale に近いものを感じさせます(英・米の政治学者の中にルソーの共通意志と全体主義との親縁関係の可能性を言う人がいるようです)。人はすでに個としてバラバラのものでなく、「全体」としてとらえられる集団にその構成者として加わるのだという。こうしてファシズムは、剽窃を通じて、ルソー主義やマルクス主義が人びとの到達すべきところと考えていた集団性や意志性、共同の福利追求を国民的共同性で横取りしようとした、ということになると思います。
つまりファシズム政党は、たしかに一つの政党ですが、自由主義的なエリート党ではない。大衆の「直接参加」の党、demos に擬似的なkracy を与えたもの、社会主義政党がデモクラシーに向かっていくべき、その中途で大衆を奪取したもの、と言えるでしょう。
そして人びとの共通意志を直接表現すると自ら言う権力がファシズム権力、全体主義権力です。その権力の樹立過程では暴力性が多大の意味を持ったが、それだけではない。ファシスト権力は首領による人民投票的独裁だったと言えます。もちろん demos が自発的に首領を押し上げるのではなく、首領(多分にカリスマ性を感じさせる)のもとに人びとが動員される。しかしこのとき、ルソーの「共通意志は人民の自発的意志であるからには、人民はこれに自発的に服従すべきだ」という考えと同じく、人民は首領への自発的服従を要求されるのです。
ファシズム国家の主張からすれば、これは人民が自由主義的な「国家からの自由」を得るのでなく、「共同利益をめざす自分たちの国家への自由」を得たことになります。しかし本当は、自分たちの自己統治、デモクラシーをめざす意志が、その自立性を貫けず、指導者によって自己を表現する権威主義にすりかえられたのです。この権威主義とデモクラシーとの違いですが、これは前者が、成立したとされる共通意志を、国民という絶対的枠の中に固化し、権威あるものが永続的にこれを体現すると主張するのに対して、後者は、共通意志は近似的に実現されることはあろうが、その内に包摂される人民諸集団の利害・自己主張は、社会の変動に伴ってつねに様相を変え、対立を更新する、だからそれらの相互交渉・相互批判の上に共通意志は永続的に作り続けられねばならぬ、その過程そのものがデモクラシーなのだ、しかもそれが「国民」の枠を越えていく方向を持つ、と考えるところにあるのだと思います。
吉野作造たちが自由主義的改革のよりどころとした「世界の大勢」のウラにもう一つの「世界の大勢」があったことを述べてきました。これは、「20世紀」が「19世紀」を批判・克服しようとするとき、自由主義や社会主義に対して、もう一つの選択肢として存在した、と私は考えているのです。
日本においても同様で、1910年代から20年代にかけて、自由主義・社会主義に対抗する多くのナショナリストが現れました。彼らは、古い衣装をまとっているかにみえる場合もあるが、実は20世紀の現実に立って、旧体制、明治天皇制国家を批判、言いかえればこれらを20世紀の水準に更新しようとしていた。だから彼らはみな、古い衣装のかげに新しい相貌を持ち、だから自由主義や社会主義を封殺するイデオロギー闘争にも立てたのです。そういう思想をこれから何人かの人について見ていきます。まずは北一輝から。
北一輝
明治社会主義者集団の周囲から出発した北一輝は、「赤化の危機」に対して、日本も社会主義に進むべきだと考えます。ただし日本ではそれが国家社会主義になる、というのです。
今日世界に広く存在する、人民の福利をどうするかの社会的対抗だが、北によれば、日本にはこれを独自の国家(天皇の国家)が解決し、そこに国民一体が存在するのであるから、そこから出発すれば当然国家社会主義になるわけなのです。ただ、現代においては、その国家社会主義への道程に革命過程が想定されます。
北は中国革命(辛亥革命)に自ら参加し、革命党幹部と交流するなかで彼の革命理論を作りました(北『支那革命外史』)。
北によれば、革命というものの主要契機として国民(民意)と力とがある。力が民意を表現する。力とは、武断性・権力性・独裁制をその要素とし、それらはつまり軍隊に表現される。少数者の精神、意志性がものごとを決定する中心になる。革命においては、まず独裁権力、少数革命家の専制が作られ、これが人民の自由・願望を自らの意志のなかに持ち、その表現者・体現者になる。つまり革命の本質的目的(人民の自由)が直接めざされるのでなく、まず独裁権力のもとに国家を樹立し、これが古いものを力で打破し、その上で民意を実現するのだ云々。この革命論では、自立的主体としての人民が考慮されていないことが注目されます。
この革命論は、近代の革命史、フランス革命のナポレオン、明治維新の明治天皇、ロシア革命のレーニンを総括することから引き出されたようです。明治維新の場合、明治天皇はもちろん象徴で(北はそう言ってはいないが)、具体的には、まず天皇を国民の首領の地位においた、国民の自由を意識のなかに持つ少数革命家(実は薩長中心の維新指導集団)の専制が成立した。これが天意と民意を感知しながら、軍隊をもって旧勢力を一掃し、ここに天皇を首領とする国民の民主的統一(と北は言う)が実現した、ということになるわけです。
重要なのは、まず少数集団に人民の解放への希望、この共通意志が感じとられ、これが明治天皇に托された、だから天皇の意志に共通意志を見ることができる、という考えです。demos の民意を体した独裁、demos は自ら決定し、行動する主体ではない。自らの意志を天皇に托する。ここにはルソーの共通意志論から全体主義の独裁が出てくる論理がうかがわれます。前に申しました世界的な全体主義の流れを思い出してみると、ここに北の思想の20世紀性を見ることができるでしょう。
そこで、その共通意志を天皇に托すことになっている人民ですが、北はつぎのように考えます。アジア世界においては人民の意志は首領によって表現・代表される。つまり人民の一般的性格として、受動性・依存性があるということです。この人民と、その意志を体現する君主が結合すれば「東洋的君主制」になる。つまり日本の天皇制ということ、これは人民の意志を支配する西洋の君主制とは違う、というわけです。一方、アジア的人民の意志が非君主の首領に託されれば「東洋的共和制」になる。中国革命の将来に、北はこれを見ようとする。東洋的君主制の日本が東洋的共和制の中国を指導して西洋支配に対抗する、北はこんな夢を見ていたようです。
さて、中国革命に「奔走」していた北は、第1次大戦後の、既成列強による圧迫のなかでの日本の「国難」を感じ、これに対処するために、一つの国家改造綱領(「国家改造案原理大綱」)を書き上げ、これをもって日本に帰ってきます。この綱領は、天皇を実行主体として押し立てた国民社会の変革構想、「ウラの世界の大勢」に対応した基本的指針を示したもの、と言ってよいでしょう。
北はまず、天皇大権の発動によって一時憲法を停止し(立憲国家の廃止)、クーデターによって改造を実現すると言う。これにより天皇は国民の意志と合体、平等な国民による「民主主義」の総代表となる(国民の天皇)。軍人が国民の中堅として、この天皇の機関となって働く。この権力のもとで、華族など天皇と国民の間にあるものを除き、普通選挙(女性を除く)を実現する。国民の基本的自由権、労働者の経済的権利(労働は国家のなかで地位を与えられる)、女性の国家的重責とその「本来の役割」への社会的尊敬、国民の生活権・教育権などが列挙される。
さらに資本主義への歴史的批判に応ずる諸項。私的所有権の制限、生産の社会化傾向に沿った統制経済。国家によって実現された社会主義による生産力拡大の思想。ここでは国家が社会的対立の上に乗り、諸階級・諸勢力それぞれの国家社会主義における地位・権利を認めるのです。
もう一つ、この天皇・国民一体国家の国際社会における権利について言っている。「つぎの戦争」に至るべき「戦争の必然性」を日本は主体的にどうとらえるかの問題。日本は不義の力に抑圧された諸民族の解放のために戦争を起こす権利がある。また「持たざる国」が強いられる不平等解消のための戦争を起こし、英・露などの独占する領土を開放させる権利がある。国内階級闘争と同じく、国際的にも有産国・無産国(日本のような)間の階級闘争がある。つまり北においては、列強への非抑圧民族解放戦争が、すなわち、列強の土地・資源独占の「無産国日本」への開放戦争である、ということになるのです。この場合朝鮮は、ただの植民地の地位を脱して日本帝国と一体化し、朝鮮人は資格ある帝国臣民になる「権利」を与えられる、ということになっています。
北の20世紀的現実への対応において、国民と一体化して変革の中心におかれるのが天皇なのでした。その北の天皇観をまとめておきましょう。これは明治期に若い彼を世に知らしてた著作『国体論と純正社会主義』から一貫していたと思われるものです。
北は天皇を古今不変のものと考えません。万世一系の国体なるものは、それが事実であったとしても、日本国家の本質を示すものではない。人民はもともと自分たちにかかわりあるものとして天皇を見ていなかった、と考えています。
北によれば、人民が到達すべき本質的な存在形態は国家であり、明治維新においてその国家に到達した。すなわち、それまでは国家観念がなかったが、ここで国民(公民)になったのだと。北は、人民の解放への積極的希望・意志がここで国家に結集し、愛国、国への忠誠の観念もここで生じた、と見ているのでしょう。同時に天皇も、それまでは種々の私的勢力(貴族や武士勢力でしょう)との関係で存在していたのが、国民国家(公民国家)の君主に、ここでなったというのです。明治憲法政体はこの国民(議会)と天皇が主権を構成する君民共治体制と見ていたのでしょう。国民には、自分たちとともに自分たちの国を作っている権威あるものに対する尊皇心育った、ということになる。近代国民の主体性を天皇に結びつけ、天皇の権威性の根拠を国民に求めようとした。これが北の天皇観であったように思われます。
最後に、私もよく覚えているのですが、第2次大戦後(ことに1960-70年代ころ)、左翼というか左翼くずれというか、一部の人に、北一輝という人は変に人気がありました。明治的官僚的天皇制を批判したというと、ちょっと小興奮を起こす人がおり(権藤成卿などに対してさえも)、しかも北は天皇にうらぎられて殺された敗者というわけですから、戦後左翼のこの時期の敗北意識と重ね合わせて、あるエモーショナルな共感を抱くのかもしれない。しかし私は、北は時代に沿った新しい天皇を考え、いずれ述べるようにそれは戦後天皇主義に遠く連なる一面を持っていたのだと思います。このことを北一輝観の根底におかなければならないでしょう。
「日本ナショナリズム研究会」第13回および14回(2026.07.17, 2026.08.21 於文京区民センター)の、伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。
