鈴木裕子
はじめに
今年2026年7月23日は、金子文子(1903―1926年)没後100年にあたります、文子が獄中で抗議の自死をしてから早くも100年も経ちます。金子文子は横浜に生まれましたが、両親はいまでいう事実婚で、文子は「無籍」でありました。父方の祖母が母の実家にいた文子を迎えに父の妹夫婦がいた朝鮮に渡りましたが、典型的な植民家庭であり、朝鮮人一家を「下男」とし、こき使い、同じ日本人でも貧しい家には蔑視をもって臨んでいました。文子は朝鮮の小学校で優秀な成績を収めましたが、女学校にやってやるという約束も反故とされ、「女中」同然の扱いをされました。それは祖母・叔母一家の朝鮮人や貧しい日本人家庭に対する搾取や蔑視に対し、文子が嫌悪を感じていたからです。詳しくはわたくしの編著『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』をご覧いただけたらと思います。
今日のお話は、表題にありますように文子の反天皇制思想を検討することです。1923年9月1日、関東大震災が関東地方を襲います。そのうえ、主に「朝鮮狩り」をおこなった自警団と称する組織が在郷軍人その他によって結成されます。内務省筋が流した「朝鮮人が井戸に毒を流した」という類の流言蜚語が流され、朝鮮人や中国人などに対する虐殺がおこなわれます。日本人でも戦闘的な労働者が軍隊によって殺害され、著名な社会主義者も殺害の対象になります。アナキストの大杉栄・伊藤野枝夫妻が憲兵隊によって拉致され、扼殺され井戸に放りこまれたりします。
1 関東大震災と金子文子
朝鮮人大虐殺を隠蔽するのを図ってか、文子は伴侶である朴烈とともに9月3日に保護検束ということで検挙されます。大量虐殺という国家犯罪の隠蔽化の一環ともいえます。
最初は爆発物取締違反、ついで治安警察法、さらに「大逆罪」というようにエスカレートしていきます。こうして朝鮮人大虐殺(一説に犠牲者6000人といわれる)よりも、この事件の方に民衆の関心を向かわせていかせるためでしょう。この「大逆罪」によって文子と朴烈は死刑判決を受け、ただちに恩赦が発表され、無期になりますが、文子は受け取った天皇の恩赦状をびりびりと破り、抗議の意を表します。もとより実行行為に至らず、訊問調書に見られるように天皇制を批判したにすぎません。1911年、大逆事件の主犯格である管野須賀子も実行犯ではなく、天皇殺害を夢想したにすぎなく、しかしながら管野はじめ12人もの人が無実の罪で絞首刑になりました。文子と朴烈の「保護検束」という名の検挙は、こういう意図のもとになされたといえるでしょう。
2 金子文子の朝鮮体験
簡単に文子の「朝鮮体験」の復習をしておきます。叔母一家というのは岩下という姓で叔父はかつて鉄道で働き、小金を貯めて朝鮮人の土地を買い上げ、高利貸しをしたりして、資産家になります。しかし大資産家というものからは程遠いです。文子は養女候補失格となり、なにか不都合なことがあるとすべて文子のせいとなり、食事もさせられず、冬でも外に追い出され、彷徨をいたします。そうしたうち、朝鮮人のおかみさんから「麦飯でよかったらいただきませんか」という温かい言葉をかけられ、初めて「人間の愛」というものを知ります。でもまた祖母からひどい仕打ちを受けることを思い、固辞します。そのうち死のうと思い、着物の袖に小石をいれ、川での入水自殺を考えます。しかし自分が死んだら誰がその真実を知るだろうかと思い返し、とどまります。その川は忠清北道芙江の錦江といい、わたくしがかつて行ったときも美しい絶景の地でした。
1919年3月1日、抗日独立の非暴力の示威運動が各地で展開され、芙江でも起こり、文子は目前で見て、朝鮮の人びとがなさる独立の抵抗運動をみて、とても共鳴したというようなことをいっております。が、総督府の3・1独立運動への弾圧は巣凄まじく、多くの朝鮮人が殺害されます。その直後、文子は日本に帰ります。堤岩里事件といって、教会に逃げ込んだ朝鮮の民衆が教会ごと焼かれるという悲惨極まる惨事もありました。
3 「無籍」であるということ
文子は、父母が事実婚であり、なお、その後、文子の母の妹が父の妻となり、長い間、文子は無籍であり、国籍も持たずじまいでした。このため「正規」の学校に行かず、「皇国民」教育を受けていません。実母は、手に職も持たず、転々と暮らします。まあ、いうならば「男性遍歴」を重ねたといえるでしょう。実弟は父のもとで育てられ、泣く泣く姉弟は別れざるを得ませんでした。その後、母は落ち着き、主婦業に励みますが。
朝鮮に渡るに際し、母方の祖父の籍に入ります。詳しくは後述しますが、文子が幼年時代、少女時代を苦しいことも体験したでしょうが、無籍で暮らしたことがあったことが、彼女の思想を形成する大きな核になっていると信じるものです。
4 文子の反天皇制を読み直す
「虚無思想」から「共存共栄」の思想の転回へ
前に申しましたが、文子らは爆発物取締規則違反・治安警察法違反から旧刑法73条の「大逆罪」へとエスカレートし、刑法73条の大逆罪実行に至らない行為に対してもこの法律は適用されます。文子への訊問は、23年10月から開始されます。文子は、虚無主義を開陳しますが、やがて「共存共栄」思想に転回いたします。さらに弱者からいえば強者への服従は「道徳」になると喝破します。
強いものは弱者(社会的マイノリティ)に服従を強いる。弱者からいえば強者への服従が道徳になる。「私が親族的関係を中心として虚無的思想を抱くようになった一端」は、「親の愛という美名のもとふみにじった親の権力、博愛の名に隠れて,私を虐げた国家社会の権力、私はこの権力がたまらなく癪になります」。
権力者は「弱者を虐げる」以上、「すべての権力を否認し反逆」し、「自分はもとより人類の絶滅」のための運動を図っていたと主張。これが文子のいうところの「虚無思想」でありました(拙編著『わたしはわたし自身を生きる—手記・調書・歌・年譜』梨の木舎、2006年、増補新版第3刷2013年、「第2回訊問調書」24年1月17日、294-300頁。なお、以下の引用はすべて前掲書による)。
「虚無思想」から共存共栄を求める「生」への肯定は、25年11月21日の「公判準備調書」において展開されます。判事の「肯定する理想とは何をいうか」との問いに、文子は「強い力に反逆せんとする理想をいうのである」。判事の「権力に反逆すること」は「善なりや」という問いには「善なり」と答える。共存共栄についての問いに対しては、「現実的の共存共栄を意味するのである」という。「共存共栄は現実的のものなりとせば万類を絶滅するという観念と相容れ、いかん」という問いに対しては、かつての「万類を絶滅するという考えは今日では間違って」おり、「先に疑いありといいたりはこの点なり」といい、「皇室を権力と思いおるか」という問いに「権力の総帥」とみていると答えている。さらに判事の「この歌はお前のいう共存共栄の思想と反せざるか」に対し、「この種のものは嘘です。これにある栄えるものは有産階級の者のみなり」。
怯むことのない権力への批判
文子は権力に徹底的に挑戦しました。まず「日本の国家社会制度に対する被告の考え方ほどうか」について、文子は「私は日本の国家社会組織を三段にわけてみております」として「第一階級は皇族であり、第二階級は大臣その他政治の実権者であり、第三階級は一般民衆であります」といい、さらに「実質的に第二階級が実権者でありながら、形式的に第一階級が実権で」「この両者は表裏の関係」にあり、「主として第二階級に、従として第一階級に私の反逆心を満足することを考えておりました」という。
獄中の日誌に「君らと妥協する」「改心して社会に順応して生きる」「そうするためには『改心しました』」。「一札入れさえすれば甘くいくことは知っています」、「だがね、将来の自分を生かすために現在の自分を殺すことは私は断じてできない」「私はね、権力の前に膝折って生きるよりは、むしろ死してあくまで自分の裡に終始します。それがお気に召さなかったらどこなりと持って行ってください」。これが昔も今も変わらぬ私の心持ち」(24年1月22日「第3回被告人訊問調書」前掲書303-304頁)と答えました。
人間絶対平等の思想
文子は24年5月14日の第12回訊問に対し、人間絶対平等を唱えます。
私をかねて人間の平等ということを深く考えております。すべての人間は人間として平等であらねばなりませぬ。……地上における自然的存在たる人間としての価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきものあると信じております。……地上における人間によって為されたる行動のことごとくが、人間であるというただ一つの資格によって一様に平等に人間的行動として承認されるべきものであると思います。しかしこの自然的行為、自然的な存在自体が、いかに人為的な法律の名の下に拒否され、左右されつつあるか、本来平等であるべき人間が現実社会にあってはいかにその位置が不平等であるか。私はこの不平等を呪うものであります(320頁)。
文子にあっては、人間は平等であり、これがために、天皇・皇族も公侯伯子男爵といった華族階級にある人もみな平等であるということから出発し、国家、国民、君主について次のように述べています。
神授君権説―架空的な伝説に依拠
侵すべからず高貴なある者の存在を直感的に連想せしむるところの心持が、恐らく一般民衆の心に根付けられているのでありましょう。語をかえていえば日本の国家とか君主とかはわずかにこの民衆の心持の命脈に上に繋がりかかっているのであります。
文子はさらに具体的に「もともと国家とか社会とか民族または君主とかいうものは、一つの概念に過ぎない。ところがこの概念の君主に尊厳と権力と神聖とを付与せんがために、ねじ上げたところの代表的なもの」は「神授君権説」であり、「架空的に捏造した伝説に依拠して、鏡だとか刀だとか玉だとかいうもの」「こうした荒唐無稽な伝説に包まれ、幻惑されている憐れなる民衆は、国家や天皇をまたなく尊い神様と心得ているか」「日本の民衆がこの神様の下、歴代の神様たる天皇の霊の下に存在しているものとしたなら、戦争の折に日本の兵士は一人も死なざるべく、日本の飛行機は一つも落ちないはず」(321頁)と喝破している。
天皇・天皇制の欺瞞性を衝き、学校教育・道徳・法律・制度は支配の装置とみなす初等教育において正式な学校教育を受けていなかった文子の天皇制に対する把握はいまだに光を放つものである。初等教育は子どもたちの心と頭を「天皇漬け」に機能すべく位置付けられたものであった。「無籍」ゆえに「天皇漬」けを免れ、過酷な「朝鮮支配の実体験」を経た文子は、愛国主義、エスノセンタリズムから自由であり、グローバルに物事を考えることができたのである。
天皇・皇族や、それに対するパラダイム転換をおこなっているのである。
「学校教育は地上の自然的存在なる人間に教える最初において『ハタ』[日の丸]を説いて、まず国家的観念を値つけるべく……」(322頁)と。いまごろ「国旗損壊罪」を設けるという時代錯誤を、泉下の文子は鼻で笑っているのではないだろうか。
法律も道徳も制度も社会の優勝者によりよく生活する道を教え、権力への服従のみ説いている。法律を掌る警察官はサーベルを下げて人間の行動を威嚇し、権力の累を揺るがす者をば片っ端から縛り上げている。また裁判官という偉い役人は法律書を繰っては人間としての行動の上に勝手な判断を下し、人間の生活から隔離し、人間としての存在すらも否認し、権力擁護の任に当たっている(322頁)。
「社会の優勝者」とは、ブルジョアジー、上中流のインテリ階級でしょう。文子はこうも述べております。
天皇・皇族と民衆の関係に関し、文子は「地上の自然にして平等なる人間の生活を蹂躙している権力の代表者たる天皇、皇太子という土塊にも等しい肉塊に対して、彼らより欺瞞された憐れなる民衆は大袈裟にも神聖にして侵さざるものとして至上の地位を与えてしまって搾取されている」と見抜き、ついで「天皇に神格を付与している諸々の因襲的な伝統が純然たる架空的な迷信に過ぎないこと」「日本の国家が実は少数特権階級の私利を貪るために仮設した内容の空虚な機関に過ぎないこと」「かの忠君愛国なる思想は、実は彼らが私利を貪るための方便として美しい形容詞をもって包んだところの己の利益のために他人の生命を犠牲にする一つの残忍なる欲望に過ぎないこと。したがってこれを無批判に承認することはすなわち少数特権階級の奴隷たることを承認するものであること」「人間は完全に自己のために行動すべきもの、宇宙の創造者はすなわち自己自身であること」「すべての『もの』は自分のために存在し、すべてのことは自分のためになされねばならぬこと等を民衆に自覚せしむるために私は坊ちゃん[皇太子裕仁。のちの昭和天皇]を狙っていたのであります」(323頁)。
「坊ちゃん」云々はともかく、天皇・天皇制の欺瞞性を衝いているのである。
反天皇からの転向強要が執拗になされる
検挙以来、文子は転向強要がおこなわれるが、25年5月30日、文子は大逆罪であると予審判事から告げられる。文子は予期していただろう。25年6月6日の第23回訊問調書では、判事の「日本古来の地に生れたる被告に対しては、特に反省してもらいたいがどうか」という言葉に、文子は「日本古来の地に生れたるがゆえに私のこれまで考えていたこと、しようとしていたことがより必要であり、より正しいものであることを信じます」(333頁)。
死刑判決が確定し、収監されてもなお転向強要は繰り返される。転向の強要とは、皇室に対する見方の転回を示すものであった。文子はすでに「皇室は権力の総帥」と述べており、検事の「現時の社会状態を観察していわゆる権力と称するものは、いわゆる共存共栄に反するものと考えおるや」に対し文子は「然り」と返答。文子は皇室を権力の総帥と述べる。検事の「仁慈の府として皇室を認むるを得るや」に対しては「これを認むる。ただし侮蔑をもって認むる」(前掲書342-343頁)と検事の言を暗に茶化しています。
25年11月提出の書面で、文子は「人間社会におけるあらゆる現象を、ただ所有欲によって説明したいとし、こう論じた。「そこに争闘が生れる」。「その争闘に解決を与えるものは力である。「すなわち腕力に基礎をおく力、いわゆる暴力である」。国家の尊厳も天皇の神聖もこの力〔暴力〕に護られてはじめて、尊厳であり、神聖でもあり得る」(前掲書344-350頁)。
「人類社会における善とは。各人が共栄共存の状態である」。「すなわち圧制者に反逆することは被圧制者にとって善」であり、「美」である。「生を肯定する」、「肯定するがゆえに、生を脅かそうとするいっさいの力に対して反逆する」(前掲書、346-347頁)。
すなわち文子は、国家も天皇・皇族たちは国家の「暴力装置」によって護られているのであり、被圧制者が圧制者の「暴力」に対して反逆することは「善」であり、また「美」でもある。「生を脅かす」一切の暴力に反逆することは、被圧制者の「生を肯定」することと抉るわけです。
今日は、文子とフェミニズムについてもお話するつもりでしたが、時間がないようですので、割愛いたします。
文子は朴烈との共同生活においても「同志として同棲」すること、運動の方面において「女性」であるという観念を払拭し、一方において思想的に堕落し、権力者と握手するようになったら共同生活を解くことを決めています。
文子はみずからは、日本社会では被圧迫階級という意識をもっていましたが、植民地朝鮮での体験から帝国主義民族としての認識を持っていました。
話が飛びますが、近年、「慰安婦」問題について日本と韓国の民族主義を同一視する傾向がありますが、わたくしはそうではないと思います。日本の民族主義は。結局、天皇制ナショナリズムに帰着します。かつての植民地支配、侵略戦争でも、主流的なフェミニズムが戦争協力し、天皇翼賛していった痛苦に満ちた歴史があります。
しかも被害者意識に囚われ、加害性認識を欠いたかつての主流的フェニズムが戦後の女性運動を主導いたします。典型的なのは、母親大会です。指導者・運動家であった女性たちの行動と思想について追及していく必要があります。同時に金子文子のように高等教育はおろか普通教育さえろくろく受けなかった女性が反天皇制の思想をどう形成していったか、詳しく追及する必要性を痛感いたします。これでもってお話を終わりにいたします。
質疑応答(一部を抜粋)
金子文子は理論的なことをどこで学び、何から影響を受けたのでしょうか
鈴木 金子文子は、シュティルナー(Max Stirner:ドイツの哲学者)の思想からずいぶん影響を受けています。朴烈と『太い鮮人』という雑誌を出しておりまして、文章を発表しています。獄中時代には差し入れの本をたくさん読んでいます。でも、わたくしは学習と同時に彼女が自らの体験を通して世の中を見てきたことが大きいと思います。
天皇制に対する批判や思想が当時、裁判が公開されるとかあるい訊問調書などが公刊されていたならば、日本社会をそれなりに変える力があったと思います。しかし戦後になってようやく明らかになっていったのです。獄中で書いた自叙伝『何が私をこうさせたか』は、没後7年(1931年)に春秋社から刊行され、それなりに読まれたと思います。これは自分の生い立ちから始まる体験が中心です。残念なのは文子の思想、特に反天皇制の思想が明らかにされたのは、1977年でして『朴烈・金子文子裁判記録』として黒色戦線社から出されました。これは当時の書き言葉です。筆で書かれていたりして達筆、悪筆もあり、読み通すことは大変です。
『何が私をこうさせたか』は戦後に新字で刊行されました。最近ではが岩波文庫で復刊されて、山田昭次先生が解説を書かれています。それと合わせてわたくしの編著書『金子文子 わたしはわたし自身を生きる 手記・調書・歌・年譜』には、自叙伝全部と訊問調書と獄中で詠んだ歌集が載っています。それで金子文子の一通りの概要は掴めると思います。しかしまだ限られた人しか関心を持っていない。天皇制に対して疑問を抱く方々がこれらを読まれれば、それなりに金子文子の思想が100年後に生き返るのではないかと思っています。
大杉栄などの日本の無政府主義者の影響は受けているのでしょうか。
鈴木 あると思います。労働運動社には出入りしていましたから。
関東大震災直後の出来事として、大杉栄と伊藤野枝、それから大杉の甥の橘宗一少年(当時6歳)が麹町憲兵隊に捕まって、憲兵大尉の甘粕正彦らによって虐殺されて憲兵隊の井戸に放り込まれます。このことはある程度知られていると思いますが、このこともだんだん忘れ去らようとしているのかもしれません。亀戸事件、わたくしは亀戸の近くで生まれ育ったのですが、そこには南葛労働会という小さな組合ですが比較的強かった組合があって、そこの組合員ら10人が亀戸警察署に捕えられ習志野騎兵第13連隊に引き渡されて殺害されました。日本人でもそうした犠牲者が出ています。福田村事件と言われる、被差別部落出身で香川から行商に来ていた人たちが、言葉に訛りがあったことから、おかしいと思われて殺されています。その中には妊婦の方もおられました。
というように、日本人が皇国民思想のもとで受けてきた教育とはなんであったのだろうか。「日の丸」「君が代」というのがその一つのシンボルですが、今いわれている「国旗損壊罪」などはとんでもないですね。「日の丸」は侵略の旗でしょう、「君が代」は侵略の歌です。そういうものをなぜ戦後なくせなかったのか。そでしょうして天皇制が未曾有の危機を迎えていると敗戦時に、日本の民衆や運動家たちが、それを抉る作業をしなかったのでしょうかか。
わたくしがよく知るのは、高野岩三郎という大原社会問題研究所所長でかつて東京帝国大学教授が敗戦直後に、日本共和国憲法私案要綱というものをつくっていまして、天皇制の廃絶をいっています。彼は良識的な自由主義・民主主義者です。共産党や社会党を構成していた人たちが、声を大にして天皇制のやさしい歴史、わかりやすい歴史を市民の方にも読んでもらえるようなパンフレットを刊行したりするなどして、広めていけなかったのか、いまだに不思議でなりません。
古参の社会主義者山川均などは、手紙の中で天皇制批判をしていますが、社会党は当初、「君民統治論」を唱えていました。右から左までいろいろな人がいて、一つの政党をなしていないようなものでした。共産党は、「愛される共産党」というようなことをいってましたが、民衆に対してわかりやすく「天皇制の欺瞞性」を説くべきではなかったのでしょうか。
23歳で亡くなった金子文子が反天皇制の思想をいっていたのです。そのことを知ろうと思えば、知ることができたわけです。
わたくしがずっと研究している山川菊栄も、近衛文麿を批判する文章のなかで、天皇のことを批判しています。残念ですが。他の女性運動家でいえば、平塚らいてうは、戦争中は天皇翼賛思想に傾きました。「新体制に必要なのは天皇陛下に帰一し奉ること」だと書いています。市川房枝も戦争協力をしました。市川房枝さんの自伝の戦前編には、淡々と戦争中に自分が公職についてやったことが書かれていますけれども、他の本で。「闇で食べていた人たちよりも自分たちの方が正しかった」と書いています。戦後も国会議員として天皇の主催する園遊会に招かれたときに、「裕仁天皇はお気の毒であった。もともとは平和愛好家であった」というようなことを言っています。彼女たちだけでなく多くの活動家が、戦争責任や植民地支配責任を自分で問題化せずに、蓋をしてしまった。さらにそのことに対して、戦後の女性史研究家やフェミニストたちは、ほとんど明らかにしてこなかったといえます。
このような歴史であって、天皇制を批判する層が日本社会に根付かずに、今に至っていると言えると思います。
五日市憲法を、あきる野市も「市の宝」と言って持ち上げています。五日市憲法の人権規定が豊かだと、平和を願う人たちも持ち上げたイベントをするのですが、五日市憲法は、明治憲法よりも天皇条項は多くて、立憲主義も天皇一言で根本からひっくり返るような規定もあって、明治憲法の源流というふうにも言えるのではないかと思うんです。でも、そういう疑問を呈すると、攻撃されるのです(笑)。あきる野市民文化祭で市民が五日市憲法の展示をするのですが、「美智子さまも大絶賛」と言って持ち上げている。
最近のSNSでもそうですが、天皇を引き合いに出して、戦争勢力を批判する。平和、革新勢力の中で天皇大好きな人たちが厄介で、どうしたらいいのか? お考えを聞かせてください。
鈴木 もしわたくしが元気で力があれば、「バッサリ!」とやりたいところです。五日市憲法は、色川大吉さんとと東京経済大学の学生が発掘した。それはそれなりに意義がったと思います。ただ、なぜそんなに、天皇が大好きなのでしょうか?
別に天皇から給金をいただいているわけではないでしょう? いっさい天皇の恩恵など受けていません。わたくしは1949年生まれで、物心がついた頃に、天皇がノコノコといわゆる「行幸」で地方を回る様子をテレビでも観て、「とても特別扱いされている、なぜなの」と不思議に思いました。それがきっかけで、天皇制に対する関心が湧き起こってきました。
かくも天皇大好き人間がいるという日本の現実。これは多分にマスコミによって世論が操作されているからだと思います。でもわたくしたちも、声を大にして、天皇制の批判をしていかなくてはいけない。
1991年に『朝日新聞』に頼まれて「従軍慰安婦」問題について書きました。そのときに、「慰安婦」犯罪は国家犯罪、天皇の軍隊が行った戦争犯罪である、したがって、現在の国家・政府がそれを公的に認めて、謝罪し、賠償金を支払わなくてならない、というようなことを書きましたら、デスクからストップがかかりまして、主旨は変えずに前後を入れ替えてようやく掲載されることになりました。しかし、東京本社版に載ると言われていたものが、大阪本社版にしか載りませんでした。そのときに、わたくしが日本で公的には最初に問題化したということもあって、「慰安婦問題」が社会的に争点化されてから、よく電話取材を受けましたが、『朝日新聞』からの取材はそれでおしまいになりました。そのように天皇制を論じることはタブー化しているマスコミ状況をどうするかが大問題と思います。
マスコミだけでなく、一般的にも天皇問題はタブーにされていると思います。私は「大逆事件の真実を明らかにする会」で活動していますが、大逆事件は、天皇暗殺を企てたという権力によるでっちあげで、24名が死刑判決を受け、12名が実際に死刑に処されている事件です。その会でさえも、天皇問題を正面から取り上げて論じることが、ほとんどない。タブーとされている現状があります。安倍首相が戦争法を進めるとか右翼的なことを言うとかすると、天皇がなだめるような振る舞いをする。園遊会で、将棋の米長邦雄が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と天皇に話しかけた時に、「強制になるということではないことが望ましい」と言ったりする。そうすると、天皇は、政府や権力が変な方に行っても、天皇が平和的な観念を持っているから安心だ、安倍や政府は悪いが、天皇は信頼できる、そういったことが、われわれの「大逆事件の真実を明らかにする会」の中でも言う人が出てくる。非常に恐るべきことだと思います。それぐらい今の象徴天皇制、平和主義的に彩られた天皇制というのは国民の中に染み渡っている。おそらく99%が「天皇制打倒」とは言わないだろという状況が今あります。今度は鈴木先生にも相談させていただき天皇制の問題を掲げて、この会をやりたいと思っています。
質問ですが、大逆事件で殺された女性の管野スガや大逆事件に連座した金子文子の言葉や意見などはあるのでしょうか?
鈴木 それはどうでしょうか。わたしも東京でのその会によく出させていただいていますが、天皇制の問題をまともに論議するということはあまりなかったように記憶します。発言を求められた時は話していると思います。「大逆事件の真実を明らかにする会」の系統の会は各地にあります。数年おきに、「大逆事件サミット」が行われます。そこで、今度、長野で行われるそのサミットで、天皇制を軸とした大逆罪、政府によってフレームアップされた事件、ということを軸としたシンポジウムが計画されていると聞きます。「大逆事件の真実を明らかにする会」の長い歴史の中でもこれは初めてのことかもしれないです。
金子文子は本当に自殺したんでしょうか?
鈴木 彼女は何度も転向を強要されます。金子文子は、「決して自分は転向しない、将来の自分を生かすために現在の自分を生かすことはできない」といっています。天皇制に徹底的に反抗して、転向を強要された末に、自死に追い詰められた。わたくしは、ある意味で、官憲みよる「殺害」に等しいと思っています。
ただ、事実を知るための資料を当局が今日に至っても出さない。山田昭次先生が何度も関係部署に書面で問い合わせしても答えが返ってこないのです。
*本稿は「紀元節」と「天皇誕生日奉祝」に反対する2.11&2.21連続行動における「終わりにしよう天皇制! 『天皇誕生日奉祝』反対集会」 鈴木裕子さん講演「天皇制に抗う——現在の視点から金子文子の反天皇制思想を読み直す」の記録です。(2026年2月21日 於文京区シビックホール)
