斉藤小百合
はじめに
この文章を書いている2026年5月末の時点で、いよいよ衆参両院議長により「とりまとめ」られ、法改正に進む様相の皇室典範であるが、憂うつなことではある。本質的・根源的に人間を差別化するものにほかならない、日本国憲法の原理から遠くかけ離れた言辞であふれ、個人の尊厳を押しつぶしてしまっても「仕方がない」ことにされてしまう領域のことを理解しようとすることは。そもそもが「modus vivendi(暫定措置)」として大日本帝国憲法から引き継がれはしたが、すぐれて立憲主義的な憲法である日本国憲法の規定の中で、際立って「異質」で、本来的にはないほうが全体の整合性に貢献する(そして、「整合的にする」ことは主権者である国民の意思で可能である)であろう制度であるのが「象徴天皇制」である。普遍性に開かれた翻訳可能な原理といった点がかけらもない、特定の歴史と限定的な地域においてのみ通用するコンセプトであることも、考察の対象としてなかなか前向きになれないところである。
たとえば、「皇室典範」という語それ自体である。なぜせめて「皇室法」とか「皇位の継承に関する法律」といった中立的な語を用いないのか。皇室経済法の例がある。しかし、憲法2条も「皇室典範」と規定してしまった。単に一般的・抽象的に「法律」というのではなく個別の法律名が憲法の中で言及されているのは、これだけである。そして、言うまでもないことではあるのだろうが、この規定もまた、大日本帝国憲法2条「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」を引き継いでしまったのである。それと相俟って、「皇室典範的なるもの」が日本国憲法の中に刻印されてしまっているのだ。ただし、「皇男子孫」を削除しているところに日本国憲法らしさがかろうじて垣間見られるのではあるが。
あるいは、今回、取りざたされている皇室典範の改正の趣旨を皇族「数」の確保としていることもそうである。たしかに、日本国憲法の原理からすると異質な存在ではあるのだが、しかし、その役割を担うのは現実には自然人であって、国民主権原理と衝突しない範囲で個人として尊重されるべきだとは思う。だから、単に「数」を確保するという視点でのみ議論することにとても違和感がある(のに、これらを論じている政治家たちはもちろんのこと、これらを報道するメディアにも、あまり躊躇があるように思われないことも、さらに違和感を増幅する)。対象となる人たちにもそれぞれの考えがあるだろう(しかし、それを勘案することもできない。憲法4条によって、「対象となる人たち」が政治的影響力を及ぼすことは禁じられているからである)。非人間的な「数」の論理にはそうした多様なありようをなぎ倒して、押し切ってしまう暴力性がある。
そうではあるのだが、ますます日本国憲法からかけ離れた運用が積み重ねられていく現状に対して、すでに多く語られていることではあるが、繰り返しておくことにも一定の意義はあるだろう。せめて、少しでも日本国憲法が構想する象徴天皇制にとどめるために。
「陋習」〜独特な皇位継承システム
さて、現在議論されている皇室典範改正に関する焦点は、要するに「お世継ぎ問題」である(「とりまとめ」の基になっている2021年「報告書」は、「皇位継承」についての議論は棚上げにするとしているが、それは女性天皇・女系天皇論への牽制なのであろう)。現行皇室典範は、一夫一婦制度を前提としながら(ということは、あとで述べるように「皇胤繁栄」を支えた「庶系の皇族」、「庶出の天皇」を認めないということ)、かつ男系男子主義を維持するという難題、つまり、現状がまさにそうであるように、皇位継承者の調達に困難を来すおそれがあることを認知しながら、その時点では皇族男子が十分に存在したために、歴史上、男系男子皇位継承者を「中継ぎ」してきた「女帝」を否認し、問題を先送りしたのだった。
繰り返すようだが、天皇制、とりわけ「萬世一系」(明治憲法1条)にこそその特質を見いだす立場の人たちが主張するところ、「2600年間」、「126代」男系男子で継承されていると誇るのだが、なぜ可能だったかといえば、一夫一婦多妾制の下で「皇胤」が継がれていれば、嫡出であろうと庶出であろうと問わず(そして、補助的に「中継ぎ女帝」も許容する)、ある意味でおおらかな皇位継承ルールがそれを可能にしてきたことを忘れてはならないだろう。「非嫡出子」であることそれ自体は、皇位継承者となる際に、なんのマイナス材料にもならなかったのである。明治典憲体制確立期にも、明治天皇には即位後10年を経過してなお、後継ぎとする子女がいなかったため、「世継ぎ問題」が発生していた。しかし、これもまた「庶系容認」のために解消された。1879年8月31日、明治天皇の側室のひとりである権典侍柳原愛子が男子を生み、のちに皇子明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)となることで男子継承者が確保されたのである。
その大正天皇本人も含め、その父・明治天皇から遡り、115代桜町天皇以降の桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治と、九代にわたって、「庶出の天皇」であった。現在も岩波文庫版として読むことができる伊藤博文『憲法義解』には、旧皇室典範の解説書である「皇室典範義解」が含まれている。旧皇室典範制定過程で枢密院への諮詢過程で顧問官に配布された文書に、「皇室典範義解」の原案となる説明書という文書がある。異説はあるが、この文書には「皇位121代ニシテ庶出ノ天皇実ニ四十六代ナリ」との言及があり、さらに遡れば、歴代天皇のほぼ四割が「庶出の天皇」だということになる。「萬世一系ノ天皇」とは、こうして作られてきたのだ。
「庶出」だから正統ではないと言いたいのではない。上記文書の中で、当該部分が現在、わたしたちが読むことができる『憲法義解』収録の「皇室典範義解」からは削除されていることからも、当時の皇族関係者や法制官僚らにとっては、当の明治天皇がそうであるところの「庶出の天皇」の存在は、公然とは明らかにしにくい(「恐れ多い」?)だろうし、「不敬」と言いがかりをつけられて政治的に窮地に立たされることなども懸念したかもしれない。しかし、明治初期の権力エリートらが欧米諸国との不平等条約から脱却するために、憲法体制を整えて近代化の体裁を示すという要請に直面していた一方で(こちらの側面は貫徹させず)、天皇家のみならず一般社会においても、一夫一婦制という観念が存在せず、正妻以外の女性が生んだ男子が、その「家」を承継・相続するという慣行があったため、臣民一般にも「庶出の天皇」を許容する「萬世一系」男系主義の採用は、ごく自然に受け止められるものとしうるような社会的基盤があったのだろう。
明治天皇がそれまで慣れ親しみ、強い愛着を持ち、伊藤博文らによる「改革」には抵抗を示していたところの「後宮」とは、女性たちが、后以外に、妃、夫人、嬪、さらに典侍、権典侍、掌侍、権掌侍といった序列をつけられて「皇胤繁栄」のために存在させられる理不尽な場所であった。「臣民一般にも「庶出の天皇」を許容する「萬世一系」男系主義の採用は、ごく自然に受け止められるもの」だっただろうと述べたが、「庶出の天皇」を「ごく自然に受け止める」社会的基盤においては、こうした女性に対するランク付けも「ごく自然」のことだっただろう。
そうした目線は、「官製プレコン(プレコンセプション・ケア、妊娠・出産をめぐっての知識をもって自身の健康を配慮すること)」が着々と進められ、それに対して社会は「女性は産む機械」との現職大臣の妄言を糾弾した時ほどの反応は乏しい現在、「皇位継承者」のプールを確保することに携わる人々、すなわち皇族の人たちだけでなく、日本社会を生きる女性に150年後の現在も向けられているのではないだろうか。およそ150年前の当時、ある宮内省御用掛が指摘した「甚シキ陋習」から抜け出すことはできないものだろうか。
婚姻後も皇族の身分を保持する?
さて、「庶出の天皇」にことのほかこだわってしまったが、現在の議論に戻ろう。2021年の「「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議」の答申を経て、今国会中(20262年7月日閉会予定)にも改正案が成立するという皇室典範改正の主要な論点は二つの案となっている。ひとつは、女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能にするかどうか。もうひとつは皇統に属する男系男子の養子縁組を容認するか、である。
まず、女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持するという案を見てみる。現行皇室典範第一条(「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」)が女性皇族に皇位継承資格を認めないのは「法の下の平等」を定めた憲法14条1項に違反すると考えれば(後述するように、わたしはこの立場を取らないが)、そのコロラリーとしても、当事者の意思を反映できるとしたら、憲法上妥当だということにはなろう。
だが、その「当事者の意思」である。この制度改正の目的は「皇族数の確保」とされているが何のためだろうか。いわゆる「公務」の担い手確保だという。日本国憲法が設定している天皇制は、国民主権を損なわない限りで存在しうるにすぎないように設計されている。そうだから、国事行為以外に、自然人として、一般のわたしたちも行うような日常の「私的行為」ができるということはある。しかし、その間(国事行為と私的行為の間)に存在するとされる中間的な「公的行為」(宮内庁やメディアは「公務」と称している)というのは、憲法上、何ら根拠がないばかりか、この領域を肥大化させることは、憲法が本来構想している天皇制を逸脱してしまう。国民主権を毀損してしまうからである。それゆえ、「公務」の担い手確保としての、女性皇族身分保持案は認めるべきではないと考える。
結局、報告書の表向きの趣旨からは外れるが含意されているのは「皇位継承者の確保」だろう。こちらは、日本国憲法自体が天皇制を「世襲」として規定しているため、上述の難点は当てはまらない。この先の制度設計は不透明であるが、何のために女性皇族を婚姻後も皇族の身分を維持するようにするのか。婚姻して、「皇胤」を残すことを期待するからではないか。現行皇室典範では、年齢15年以上の内親王・王・女王は、婚姻によるばあい(第12条)以外にも、その意思で(皇室会議の議を経る必要はあるが)皇族身分を離脱できる(第11条)。しかし、「身分保持」の改正がなされれば、婚姻に際してももちろん「その意思に基き」「皇族の身分を離れる」ことが困難になるのではないだろうか。実質的には女性皇族から「皇籍離脱」のチャンスを奪ってしまう制度改正になってしまう。
現状では、親王は「やむを得ない特別の事由」がない限り「皇族の身分を離れる」ことはできないし(大問題となった、三笠宮寛仁親王の事例)、天皇も、「退位特例法」は平成天皇明仁の退位のみに適用されるものだったから失効し(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則2条「この法律は、この法律の施行の日以前に皇室典範第四条の規定による皇位の継承があったときは、その効力を失う」)、天皇をやめることはできないけれども、女性皇族は、「その意思」あるいは「皇族以外の者と婚姻したとき」「皇族の身分を離れる」、皇族であることから離脱し自由になることができる、そのチャンスを残しておくことのほうが、日本国憲法の理念にふさわしいと思う。
しかし一方で、婚姻後も皇族身分を保持する女性皇族の配偶者や子に皇族身分を認めることには強硬な反対論があるという。女系天皇につながり、「萬世一系」が崩れるからだとされる。一般の女性が男性皇族と結婚すれば皇族になり、子も皇族となる。女性皇族だけが皇族で女性皇族の配偶者と子は一般の国民ということでは、男性皇族のばあいと整合性がとれない。一般の国民なら投票権を持ち、政治活動も自由だ。ひとつの家族の中に、政治的権利がある人たちとそうでないひとがいることになる。親族の中に、たとえば、(悠仁が天皇となったばあいに、姉が結婚して皇室に残ったばあい)天皇の姉の配偶者が特定の政治活動をすることがありうるということだ。政治活動をするひとがあれば、皇室の政治的な中立性は著しく揺らぐ。
そもそも、家族の中で皇族であるかないかという位置づけの違いが生ずることは、保守派が強く訴えてきた「家族の一体感」の重要性とも矛盾するだろう。一般国民に対しては、家族のあいだでの「氏」が同じこと(夫婦同氏)にこだわるのに対して、女性皇族については、その家族に身分上の違いを設けるということなのだろうか。疑問は尽きない。
たどり着くのは「世襲制」という、個人の意思によって自分の人生を選び取っていくことを根源的に剥奪する制度には、そこに性・生殖が必然的に介在することで、当事者の性的自己決定権を決定的に否定するものでもあるということだ。個人の性的自己決定権を否定しないことには成り立たないのだ。「庶出の天皇」に関連してすでに述べたが、世襲の天皇制は、「子を産むこと」を女性に迫ることなしには成り立たない。もちろん、皇族男子にも子を持たないという選択肢はないのだが、より深刻なのは女性だ。「萬世一系イデオロギー」派からは、皇位継承者を産むための不妊治療までが取りざたされたりもする。自分の存在価値は「子(現状では男子)を産むこと」にしかないという制度に直面して、絶望的にならない女性はいないだろう。極論すれば、憲法18条が禁止する奴隷的拘束に該当するようにも見える。
そしてわたしは、女性の価値が「子を産むこと」つまり性・生殖に焦点化され、そこに貶められる制度を国家の制度としてもっていることが、「女性の性」を「買う」、いわゆる買春が、あれやこれやの抜け道を作りながら、いうならば公然と黙認され、当たり前のように扱われる社会につながっているような気がしてならない。どちらも、女性の性的自己決定権というものに、さらに言えば、女性の尊厳というものに徹底して無関心なのである。
養子案の復権が意味すること
女性皇族の身分保持案に否定的な見解を並べ立てると、憲法的により悪性の高い「養子縁組案」を勢いづけてしまいそうであるが、こちらはこちらで、もっと良くないと思う。
巨大与党となった自民党が第一優先とする養子縁組案は、小泉純一郎政権時代の2005年にまとまった有識者会議報告書で退けられた案だ。今回、菅義偉政権時に設置されたあらたな有識者会議が、2021年岸田文雄内閣に提出した報告書で「復活」させた養子案であるが、これには憲法上大きな問題がある。2021年報告書で、この憲法上の問題点が説明されたようにはまったく読み取れない。単に皇位継承が「男系男子主義」でなければならない、ということを強硬に主張しているだけだ。
どういうことか。この案は、一般の国民の中から、特定の血筋(「皇統」)を理由に皇族の身分を特権的に与えることになるが、これは一見して門地(家柄)による差別を禁じた憲法14条に抵触するのである。しかし、天皇制それ自体が、そもそも法の下の平等に反した制度であるために、これが差別的取り扱いであることを希薄化させてしまっているのかもしれない。大きな差別の中に、小差別が新たに入り込んでも、目をつむろうということか。
そうであってはならないと思う。既存の「皇室典範的なるもの」の遺物を憲法的に説明(合理化)するという局面ではない。あらたに制度を作るのだから、できるだけ憲法適合的になるよう考えるべきではないだろうか。日本国憲法下で天皇制が存立しうるのは、明治憲法下の天皇制と違って、憲法によってその存在のありようは徹頭徹尾拘束されているのでなければならない。議論のありかたも、憲法的な価値を尊重しながら行われるべきではないか。この養子案が復権したのは、国際的なジェンダー平等に関する評価で常に低迷する日本を支える「男系男子主義」イデオロギーの断末魔のあがきのように見える。それが、男性中心主義や家父長制に異議を唱えず、時に男性よりも男性原理を打ち出す、そうだから有力な男性の庇護を受けて政治的なリーダーとなりおおせた高市早苗政権下で展開する。強引に軍事化を進めつつ。
この案が示された「報告書」では「基本的な考え方」として、「悠仁親王殿下の次代以降の皇位の継承について具体的に議論するには現状は機が熟しておらず、かえって皇位継承を不安定化させるとも考えられます」(報告書6頁)と議論を枠づけている。「次代以降」の継承についての議論は先送りする、ということだ。この文章に言外に意図されている点を補えば、このようになるのではないか。「秋篠宮の次は悠仁が皇位を継承し、その悠仁が婚姻後に、配偶者は男子に恵まれるかもしれない。そうすれば、(傍系になるが)男系男子で続けられるのに(だから、女性天皇・女系天皇の議論について「現状は機が熟しておらず」つまり、そこまで切迫していない)、この段階で、次世代について議論すれば、かならず現天皇の娘の皇位継承が浮上する。それは、男系主義の「萬世一系」イデオロギーに立脚した皇位継承を不安定化させる」のだ、と。
根強い「愛子天皇」待望論をどう考えるか
時代錯誤に思える主張がそれでも声高に叫ばれるのは、それがまさしく「ジリ貧」にあるからではないか。ここ数年の世論調査で女性天皇や女系天皇について問うと、おおよそ7割程度、調査によっては90%ほどが女性天皇に賛同し、女系天皇についてもほぼ同様の数値を示してきた(あるいは、数字が逆転して、女系天皇のほうが支持が高いこともある)。むしろ、旧宮家の男系子孫を養子に迎え、男系男子の天皇制を維持する案には反対の声も強い。世論と今回の「とりまとめ」案には乖離がある。
そうした世論と平仄を合わせるように(それが、平成天皇以降の天皇家の生き残り戦略だとわたしは考えている。つまり、「国民に寄り添う」というやつだ)、天皇夫妻は、「公務」とされる活動に愛子を伴う事例が多い。これは、平成天皇の時代にはあまり見られなかったことだ。そうしてメディアに露出することによって、女性週刊誌などを中心とした「愛子天皇待望論」のようなものが作り出されているようだ。
反天ジャーナルでは、すでに桜井大子さんや天野恵一さん、中嶋啓明さんが論じておられるので、蛇足のようなものではあるが、高市が首相になったからといってジェンダー平等が進展しないのと少し位相は違うが(でも、そのことを強調しておきたい)、女性天皇が実現したからといって、ジェンダー平等に、現代の日本社会を生きる女性にとって少しでもいいことがあるかといったら、そんなことはないはずなのだ。
法の下の平等という観点からすると、皇族の女性が天皇になれないのと同様に、一般の男性もまた天皇にはなれない(いや、今回の「養子案」が実現すれば、一般男性の中から皇位継承資格を持つ者が出てくるということにつながるのかもしれないが)。日本国憲法がそうであるような立憲主義的な憲法が作り出そうとしている社会は、すべてのひとが、「平等な関心と平等な尊敬」をもって扱われ、そうであるために、公的な役割―それは天皇もそうであるはずなのだが―がすべてのひとに開かれている(すべてのひとが意思と能力があればその地位を選び取ることができる)のでなければならない。そのような制度でなければならないはずだ。
その点で、それ自体が差別体系である天皇制には、そもそも存立する「合理的な理由」もまた、ない。存在しているのは、明治憲法の「遺物」としてのみ説明できるのだと思う。女性天皇、さらに(「萬世一系」イデオロギー派が忌み嫌う)女系天皇が存在するようになったとしても、この「不合理」は払しょくされない。天皇制という、どのように手を入れようとも、根源的に差別の体系であるこの制度を容認し、多くの場合は、それとなくその価値や権威にひれ伏し、もしかすると、今回の場合にも、女性天皇や女系天皇の成立を擁護して、問題の核心を議論することを先送りしてきた私たちの社会こそが問われている。
議論のあり方のおかしさ
話の筋はずいぶん変わるのだが、‘Nemo judex in causa sua’ というラテン語の法諺がある。これは、「何人も自分自身の事件の裁判官たりえない」とでも訳したらいいだろうか。自分自身が利害関係のある事件を誰も裁くことができない、自身の利害関係がある事件には、公平であるべき裁判に偏見を持ち込んでしまうからということだ。裁判の公正さは、公正が保たれているというだけでなく、公正であるように見えるのでなければならないとも考えられている。そこで、偏見がないばあいでも偏見の疑いを避けるために裁判官の忌避制度としても具体化されている。政治にも公平さが求められる。
しかし、今回の議論に強い影響力を及ぼしていると伝えられているのは、三笠宮寛仁と結婚した信子が妹である自民党の麻生太郎副総裁である。また、衆議院議長として「とりまとめ」にかかわる森英介の叔母の満江は実業家の安西正夫夫人であり、その長男孝之は上皇后美智子の妹・恵美子と婚姻関係にあり、こちらもまた皇族と姻戚関係にある。さらに森衆院議長が法務大臣として初入閣を果たしたのは、2008年の麻生太郎内閣時であり、麻生派の元事務局長を務めてもいる。この二人が、皇位継承にかかわる重大な案件に携わってよいものだろうか。本来考慮すべきでない事柄が考慮材料となって、筋違いの結論に達するということになりはしないだろうか。少なくとも、市民目線では公正さに疑いをさしはさむ余地がある。
すでに述べたように、自民党が(ということは、おそらくは麻生が)「第一優先」とするのが「旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎える」という案である。勘ぐれば、この「養子を迎える」のは、彬子女王が三笠宮家を継承したのを機に三笠宮家を離れ、2025年9月、新たに「三笠宮寛仁親王妃家」として独立した生計を営むこととなった信子なのではないだろうか。その点で、憶測にすぎないが、井上毅らとならんで旧皇室法制の立案に重要な役割を果たした法制官僚柳原前光と、のちに大正天皇となる皇子・明宮嘉仁親王を生んだ、天皇の側室のひとり権典待柳原愛子の兄妹関係を連想させる。
もうひとつ、今回の改正議論に関して非常に違和感をもつ点がある。今回の皇室典範という法改正について、突如として「立法府の総意」という言葉が出てきた。「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」で政府が安定的な皇位継承策を検討し、国会に報告、この報告を受けて国会は安定的な皇位継承を確保する方策について「立法府の総意」をとりまとめる、とされていることを受けてのことだ。天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」と規定した憲法1条が念頭におかれているのだろう。
しかし、これにもモヤモヤする。「主権者国民の総意」といい、その主権者の代表たる「立法府の総意」。主権者である国民のことを持ち上げているようで、そうであるならば、なぜいずれの世論調査でも高い支持を示している女性天皇・女系天皇を検討の対象とはしないのか。なぜ、「皇室典範」の改正だけが他の法律を差し置いて、それほどの合意を要請するような特別な法律として特別に扱われなければならないのか。それでは、「明治典憲体制」と称されたように、皇室自律主義に立脚し、大日本帝国憲法と同格の法規として位置付けられた旧皇室典範と同じだということなのか。
そうではないはずだ。「幅広い合意をめざす」ということは重要なことだ。直近に成立した「国家情報会議法」などについても「幅広い合意」をめざし、情報機関を監視する独立機関を設置するなど、市民の表現の自由・プライバシーの侵害がないことを担保する仕組みを整えるべきではなかったか。そんなことはしないのである。おそらくは、この「幅広い合意」の背景には、大日本帝国憲法74条第1項「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」という規定の下、皇室自律主義にもとづいて議会は関与ずに皇族会議・枢密顧問の諮詢および勅定という格別な手続きによるということが念頭にあるのではないだろうか。むしろ、「皇室典範」とういう名の「単なる法律の改正」として扱うことのほうが、日本国憲法にふさわしいはずである。「立法府の総意」ということをわざわざアピールすることなく、国会両院の単純多数決によって通常の法律と同じように改正すればよいことである。
戦前・戦中には明治憲法を、戦後には日本国憲法を教えた憲法学者の宮沢俊義は新皇室典範を開設する小論で「「萬世一系」という言葉は、明治憲法第1条、その上諭、旧典上諭などで使われたが、新憲法にはまったく出て来ない。新典範にも出て来ない。しかし、その原則は少しも変わったわけではない」と述べている(宮沢俊義「皇室典範と皇室経済法」[「新憲法関係法令の解説」](2):『国家学会雑誌』61巻3号61頁、1947年)。皇室の自律権を認めるのだから、国会には介入する権限がない旧皇室典範の位置付け。およそ80年前と変わらないのだろうかと考えると暗澹たる思いだ。
今国会でも、識者・市民から批判の強い重要法案が成立しようとしている。一主権者として、「世論を二分する」ような高市政権が推し進めようとしている政策についても、「立法府の総意」といえるほどの慎重な議論を求めたい。そして衆参の両議員には(高市チルドレンにはとりわけ)、その「立法府」こそが主権者国民を代表する「国権の最高機関」であるという自覚をもっていただきたい。
どんな天皇制?
たしかに、今回の改正によって、あらためてどのような天皇制をわたしたちが望むのかということがかかっているのだと思う。より日本国憲法適合的な改正となるのか、あるいは、高市政権が強引に推し進めようとしている、立憲主義に無関心で、後ろ向きな憲法改正の下準備として、「皇室典範的なるもの」のほうが凌駕してしまうような改正となるのか。「国民的な議論」が得意でない日本社会においても、いまこそ、「国民的な議論」が展開されなければならないはずだ。わたしは「萬世一系ノ天皇」が統治する「國體」イデオロギーが復権する(あるいは、いよいよ大手を振るうようになる)ことに加担したくない。わたしたちは、そうした岐路に立っているのだ。
(おわり)
