山岡強一 虐殺 40年に、「叛史」を読む

池内文平(「山谷」制作上映委員会)

ニホン列島を実効支配する自民党系政府が繰り出す「激動と復興のショーワ100年」のキャンペーンがいわゆる「正史」だとすると、この「反天ジャーナル」で繰り広げられている〈敗戦80年・「昭和」100年〉欄の格論考はさしずめ「叛史」ということになる。そのなかで、今回は「叛史のなかの叛史」という本を紹介しておきたい。

中山幸雄著『暴動の時代に生きて 山谷 ’68 – ’86』(月曜社、2024)

『暴動の時代に生きて 山谷’68 – ’86』。

タイトル通り、東京の寄せ場・山谷の闘いの記録だ。68年から86年。——1968年は中山たち「広島大グループ」が山谷の闘いに参入した年であり、86年は継続した闘いの中で山岡強一が殺された年だ。反天皇制運動を長く続けている人は「皇誠会戦」というのを覚えていると思う。83年の11月3日(「天長節」の日だ)に、地元ヤクザ(西戸組)が「大日本皇誠会」を名乗って登場し、山谷争議団を襲ってきた。それに対して闘われた「対ファシスト戦」だ。その闘いの中で、84年12月22日に佐藤満夫が殺され、86年1月13日に山岡が殺害された。

だからこの本は、ある意味で、83年からの「対ファシスト戦」の「前史」の記録ともいえるし、天皇主義者や権力者どもが、いったい何を本当に恐れたかの具体的なドキュメントとして読んでもいいかもしれないと、ぼくは思う。2025年は佐藤さんが殺されて41年、そして今年(26年)は山岡さんが殺されて40年になる。


文字通りの「叛史のなかの叛史」としてのこの本には、伝えたいことがいっぱい詰まっているけど、その中でいくつかのキーワードとなる事柄に絞って紹介たい。——まずは題名にもとられた「暴動」。いまの市民社会ではちょっと想像ができないけれど、少し前には東京の山谷では暴動はしょっちゅう起こっていた。著者の中山が山谷に入り込んだのも、広島大時代の盟友である船本洲治たちが86年の夏に山谷で遭遇した暴動の話を聞いて触発されたからだ。

因みに、ぼくが「山谷暴動年表」などを見ながらいいなと思っているのは、1960年1月1日の暴動で、パチンコ店でのトラブルで警察が無茶な介入をして反撃に遭い、交番が滅多撃ちにされたというものだ。世の中は、たぶん、安保の改定阻止=「岸を倒せ!」で盛り上がっていく60年の1月1日に、山谷ではパチンコ屋だ。当然、社会運動史の年表には入っていない。当時の山谷では、59年の10月にパトカーが燃やされ、60年の夏には暴動が立て続けに起こっている。ドヤ街の住人たちは、国会には向かわなかったけれど、交番に石を投げていた。

山谷の暴動はその後も断続的に続き、62年、64年、66年、67年、そして中山たちを山谷に引き入れた68年。暴動は何夜も続くこともあるから相当な回数が起こっていたことがわかる。暴動の夜には1000人から3000人の労働者が集まり、ほぼ間違いなくマンモス交番に投石した。——「暴動」に関して中山たちは奥深い見方をしているので、それは後で触れたい。

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もうひとつ、「暴動」と並んで、この本の底部を流れる要(カナメ)となる言葉は「現場闘争」だと思う。この「現場闘争」こそが、68年に中山たちが山谷の闘いに加わり、それまでの運動を徹底的に批判しながら、新たな活動を開始する画期的な闘争のスタイルだった。当初、中山たち広大グループは、既成の告発・救済型の運動(日本共産党系)を批判的に捉えようとした梶大介たちの活動に合流していくが、それとはすぐに決別していく。そうして、梶たちもまた引きずっていたスケジュール的な行政闘争による「改良主義」ではなく、それとは全く別の「改良闘争」、つまり寄せ場労働者たちの生活実態に即し、労働条件の改良を実力で勝ち取っていくような直接的な闘争を実践し、それを押し進めていった。

寄せ場の労働者は、朝に雇用されて夕方には解雇される日雇の労働者たちだ。朝の就労形態の多くは(職安法違反の)手配師による路上求人だが、手配師の殆どが暴力団(ヤクザ)の支配下にあり、労働者はその手配師制度をテコにした暴力支配に晒されている。また日雇労働者は、必要な時に雇用され、不要となれば解雇されるという使い捨て労働者であって、資本の生産活動の安全弁として都合よく使われている存在だ。そんな取り替え可能な労働者に、単純再生産以上の労働条件の「改良」などは資本にとっては何のメリットもないし、考えてもいない。とくに重層的下請け関係にある末端の業者にとってはそうだ。日常的な暴力支配はそれを抑え込むためにあるといってもいい。

そうした「改良」さえ許されない状況の中で、朝の手配(就労)から仕事現場(労働過程)までを通して「横暴な業者や低賃金の業者と現場で闘うこと」を目指したのが「現場闘争」だ。寄せ場の若手活動家たちは、72年に大阪・釜ヶ崎で釜共闘(暴力手配追放釜ヶ崎共闘会議)を結成し、山谷では現闘委(悪質業者追放現場闘争委員会)を結成した。その名の通り、労働者の目の前にいる「暴力」的な手配師や「悪質」な業者を、行政の手を借りず、自分たちの力で責任を追及し、いま強いられている「秩序」を覆そうとした闘いだ。通常の労働運動と違って、寄せ場の「改良闘争」というのは、中山の言うように、現状を「ひっくり返すこと」にほかならない。暴力を背景にした寄せ場の支配関係と直接に対峙した釜共・現闘の闘いは進展していき、「労働条件は労働者自身が決める」という原則のもと、寄せ場の力関係は劇的に変化していく。

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ところでこの本は、二人の編者がリードして中山の経験を聞き出すという「聞き書き」というかたちをとっている。その「語り手」である中山幸雄は1945年の10月生まれ。そう、敗戦と同じ年だ。天皇ヒロヒトが「玉音放送」を流した8月15日の後だから紛れのない戦後派といえる。64年に広島大学に入学。そうして冒頭でも記したように、68年に大学の寮で知り合った船本洲治や鈴木国雄たちとともに山谷に入っていく。

68年当時の山谷は、60年代初頭に政府・自民党が打ち出した「高度経済成長」政策に乗った、都市の再開発、建設ブームのなかにあった。朝の路上、その日の仕事を求めて集まってくる日雇労働者の数は膨大で「都電通りなんてもうほとんど歩けないくらい人がおった」と中山は語っている。そのころの山谷にはおよそ2万人の労働者がいたといわれている。けれど、その多くは「それまでオリンピック関連の工事で東北からどんどん労働者が集まったけど、オリンピックが終わっても、帰れない人がいっぱいおったわけだから、そのまま出稼ぎのままで職を求めて滞留しとった」という人びとであり、そして「次に70年の大阪万博の工事が始まるというんで、そっちに流れていく人とか、そのために待機している労働者」たちであった。

高度成長の時期は、全国の寄せ場が加速度的に肥大化していく時期でもあり、またそれは、中山のいうように、下層労働者の「流動化」が顕在化していく時期でもあった。一方で、経済の成長はいわゆる「一億総中流」という「市民社会」をつくり上げていったが、しかしそれは、実は、日雇労働者をはじめとする「下層社会」を切り離す過程でもあった。既成の労働運動は、日雇労働者たちの抱える問題を、失業対策と捉えていても「組織化」の対象とはしなかったし、社会運動も「上からの救済」の対象とは考えても、下層で生きる者を「主体」であるとは考えもしなかった。こうして戦後の「復興」過程は、叛史の観点からみれば、下層への差別を下敷きにした社会的構造が蓄積されてきたプロセスだということもできる。

そうした構造的な差別が積み重なる中で、先ほど触れたように、ドヤ街の労働者たちは何度も断続的に暴動を起こしてきた。——この暴動について中山は、盟友である船本の捉え方を踏まえて、暴動そのものが「労働者が自らを解放するエネルギー」であり「労働者自身の解放」であると繰り返し述べている。それまでの運動の系譜では、暴動そのものを対象化して考えたことはなく、逆にそれを「政治的圧力の手段」の一つと考えてきたこと、いってみれば、上からの目線で、暴動を改良の道具として捉えてきたのに対して、中山たちは、実際に暴動を起こす労働者たちを前面(全面)に据えることによって、闘争の「主体」と「客体」を転換したのだ。暴動は——山岡強一の言葉を借りれば——「そこには極限を生きる者の意志があり、たとえ蹴散らされることが分かっていても決起自体に希望を託する不屈の魂と切なさ」があるのだ。そう、そこには労働者たちの「意志」がはっきりあったのだ。

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その「意志」を、中山たちは「現場闘争」の中にも見いだす。労働者たちは「イチャモン」という形で、日常的に現場監督らにモンクをつけるなど、現場=闘争の土台を築いてきた。釜共・現闘の72年以降の闘いは、それを「組織的にやったということ」だけなんだ、と。——この、労働者の内発性ともいえる「意志」への信頼は、毎朝のビラまきの行動にも現れていると思う。毎日2000枚、活動家たちは朝の寄せ場でビラをまいたという。むろんそのビラは「外向け」の宣伝ではなくて、寄せ場の「仲間」への闘いの報告であり、「仲間」に対する闘いへの呼びかけである。こうして闘いの輪は騒々しく(⁈)波及していくが、実は、このビラなどを印刷したのは中山の設立した「十月工房」なのである。中山は、このビラまきの定着化を自分たちの「唯一の成果」とやや控えめに語っているが、寄せ場労働者の「内発性」に依拠し、それを闘いの原動力して闘争は更に押し進められて行ったのだ。——「ヤクザを粉砕できる場所はただ一つ。朝の寄せ場のみである」として。

では、その寄せ場労働者とは、何者なのか? もう一つだけキーワードをあげておきたい。「流動的下層労働者」——船本洲治が発見した言葉だ。「流動的」には二重の意味が込められていると、ぼくは思う。日雇労働者の特性として、全国に点在している寄せ場や飯場などに、文字通り流動していく様相がひとつ、もう一つは、当時でいえば、農業政策やエネルギー政策の転換によって、離農や失業などを強いられて、生産点から無理矢理に引き離される労働者層の流動化である。これがさっき引用した、中山たちが朝の路上で出会った労働者の実態である。

そして、その流動する労働者群を生み出した戦後の「経済成長」はどのような背景を持っていたのか。これはいまの政府がいう「激動と復興」に直接に関わってくる問題だ。(…以下この項では、ぼくがいちばん信頼する歴史社会学者である内海愛子さんの記述を、勝手かつ強引に引用するのだが)…端的にいうと、

「激動」の戦争で落ち込んだニホンの経済は、朝鮮戦争の「特需」と「賠償特需」で立ち直り「復興」したといえるのだ。賠償とはいうまでもなく帝国日本のアジア侵略に対する損害賠償だが、日本政府はその多くを、アメリカ政府の後押しを受けながら「経済協力」というかたちで行っていった。つまり、役務、生産物の供与と加工品による支払いである。実際に日本はアジアの各地で道路や発電所や工場などのインフラ設備を作ったり、機械や加工品を送ったりしている。もちろん、その工事を受注するのは日本企業であり、日本人技術者が役務を供与し、日本の工場で加工された機械などが相手国に送り出されていった。「賠償は『商売』であり、形を変えた『貿易』」といわれる所以だ。こうしてニホンの企業は生産力を回復し、また同時に海外再進出の切っ掛けをつかんでいく。
*参考:内海愛子著『戦後補償から考える日本とアジア』ほか

こうして、叛史的にみれば、「戦後」が「戦中」と直結しているのが露わになるなか、寄せ場の活動家たちは「流動的下層労働者」という言葉に、もうひとつの姿を見出していく。「労務者」という、日雇労働者らに対する侮蔑的な呼称を自ら引き受けていくのだ。船本は73年の文章で「われわれは、朝鮮人労務者・中国人労務者の中に労務者としての歴史的・普遍的な運命をみる」と書き、自分たちのいまある姿を、歴史的な「労務者」の存在に重ね合わしている。ここでいわれる朝鮮人・中国人労務者とは戦時中に強制連行され使い殺された者たちだ。そういう存在に自分たちを重ね合わせていく。資本が「戦後」に「戦中」を甦らせたように、そして、そこにははっきりとした国家意思が示されたように、自分らの身体には「労務者」としての歴史そのものが刻まれているのだと。そうした「普遍性」を自覚することによって、寄せ場の「世界観」は、地理的にはアジアの各地へ、そして時間的にはそこに蓄積された歴史性へと広がっていく。

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いくら「叛史」とはいえ、本の紹介としては長くなりすぎた。先を急ごう。いままで「暴動」「現場闘争」「流動的下層労働者/労務者」という三つのキーワードを挙げてきたけど、これらの内容が交錯して底流となり、ときに夾雑物も含み込みながら、68年以降の寄せ場の闘いが積み上げられてきたとぼくは思う。——この本にはそれらが陰に陽に躍動する活動や闘争が具体的に紹介されているけど、それはぼくが下手になぞるよりも、直接ページを捲って当たってみてください。いろんな人々が名前付きでたくさん出てくるから、それをアタマの中で組み立てて〈ドキュメンタリー映画〉のように想い描いたらかなり楽しめる、と思います。

ま、それはさておき、中山は73年8月に自身の「十月工房」をたたんで広島に帰還する。とはいっても、寄せ場の運動から離れたわけではなく、山岡強一らと連絡を取りあい現場の情報は把握していたし、山谷にもよく行っていたという。また、広島でも印刷場所(ファソン工房)を作り、寄せ場の闘争を報告するパンフなども作っていた。けれど、——72年に昂揚した山谷の闘いは、しかしながらその後、オイルショックなどで現金仕事が減少したうえに弾圧も続き、74年ころには「現場闘争」が次第に困難になっていく。が、しかし、——いくつかの「契機」をはさんで、80年代に再び息づくことになる。

その「困難な時期」の75年6月25日に、船本洲治が「皇太子暗殺を企てるも、彼我の情勢から客観的に不可能となった。…」と書き残し、沖縄・嘉手納基地第二ゲート前で抗議の焼身決起をした。その前の5月19日には、東アジア反日武装戦線(3部隊)が一斉に逮捕されている。そして76年2月16日に鈴木国雄が大阪拘置所で「精神安定剤」を投与され、凍死させられた。船本の自死から4年目の79年6月9日に、現闘委の中心メンバーであった磯江洋一が単身決起し、山谷マンモス交番の警官を刺殺する。マンモス交番は、いうまでもなく、暴動の時にいつも標的となった交番だ。

こうした「契機」をはらんで、山岡強一をはじめ、かつての現闘委のメンバーたちが再結集し闘争を甦らせていく。79年、磯江の決起を受け止め引き継ごうと「6・9闘争の会」を結成、いくつかの争議を経るなかで、81年に「山谷争議団」を結成した。この時期は、73年以降のオイルショックなどの打撃で経済成長率は大幅に低下し、それまでの「高度経済成長」も終わりを告げて、寄せ場も「冬の時代」を迎えていた。山谷争議団は、そうした時代背景の中で「冬の時代を超える冬の闘い」を合言葉に、飯場争議(押しかけ団交)を軸に「現場闘争」の再生・深化を図っていく。

ここで重要なのは、山岡たちが争議を進めながら、四大寄せ場の運動の統合を目指したということだ。四大寄せ場とは、東京・山谷、横浜・寿、名古屋・笹島、大阪・釜ヶ崎の各寄せ場だ。81年から「寄せ場交流会」が持たれ、82年には日雇全協(全国日雇労働組合協議会)が結成される。山岡たちは、現闘委・釜共闘の闘いを継承して、より発展した段階に進もうとしたのだ。この四大寄せ場の拠点建設と並んでもうひとつ忘れてならないことは、「流動的下層労働者と被植民地人民の闘いの水路を目指す」という国際主義の再確認だ。具体的には、在日朝鮮人、そして韓国労働者との連帯・共同闘争が課題とされた。「全協」という名前は「1930年代の困難な時代を、渡日朝鮮人と共同して戦闘的に戦い抜いた『日本労働組合全国協議会』の土建部会、すなわち『全協土建』の伝統を引き継いでいきたい」という思いを込めたものだ。

そうした寄せ場(山谷)の運動の流れに対して、その担い手である山谷争議団を潰そうとして出てきたのが、暴力団西戸組が作った右翼政治結社・皇誠会である。83年11月3日、襲ってきた皇誠会は1000名の労働者によって撃退され、情宣車はひっくり返され、火を放たれた。以降、約160日間の闘いで皇誠会は山谷から事務所を引き払ったのだが、西戸組は、今度は手配師を纏める「互助会」を組織しようと策動を始める。文字通り、寄せ場の暴力支配の更なる強化を狙ったものだ。これは単に暴力団の利害に関わる問題ではなく、天皇制イデオロギーを背景にした現代版「労務報告会」の動きといえるだろう。こうしてまた寄せ場の就労過程をめぐる闘争が始まるが、それはむろん68年から開始され、70年代に展開してきた闘いの継続にほかならない。その闘いの中で——

——84年12月22日に、山谷のど真ん中にカメラを据え、寄せ場の実相を写し撮っていた佐藤満夫監督を、ヤクザたちは「ファシズムの手」で殺害し、そしてその一年後、86年1月13日、今度は佐藤の残したフィルムを受け継ぎ、それを完成させた山岡強一、「現闘委」以来の活動家であり、「6・9闘争の会」「山谷争議団」の運動を作り、「全協」結成をリードしてきた山岡強一を、同じ手をもって殺害した。

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以上、本には書いてないことも含めて、かなり偏向して本の紹介してきた。この本にはいろんな読み方があると思うけど、少なくとも「1月13日」という日には、この本をこう読んでおこうというぼくの基本的な視点だ。それともうひとつ、この本のカバーについても書き添えておこう。水野慶子が装幀したこのカバー写真は、中山が当時歩いたであろう地面を重ねて作ったものだ。十月工房の前の道、船本と出会って別れた路地、パチンコ屋への道、玉姫職安の前、玉姫公園、争議団の事務所のあった池尾荘前、旧都電通り、それに、中山が広島で借りてた家の前、ファソン工房があった道、などなど。この道を人々は行き交い、その地面の一つひとつにこの本に現れた68年から86年という「時代」が重なって埋め込まれている。——もちろんその中に、山さんの足跡も当然あるはずだ。

 

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