天野恵一
--さあ、今回は宮沢俊義さんの「八月革命論」の、何がどのような異論があるのか、より具体的に理解しやすく、論じてください。
天野 ハイ、そのつもりです。でも最初に、前号の「読者のおたより」に答えさせてください。
「日本国憲法9条は、本当は1条であるべきなんですね!! 皆さんいかがでしょうか?」それにやっと気づいたという声です。八月革命論議にストレートに関連しますから。
--ハイ、どうぞ。
天野 私も、この意見に基本的に賛成です。この文章を眼にした時、私はすぐ池田浩士さんの「『憲法』の『天皇』条項とどう向き合うべきか?--さしあたり問題を整理することから」(『いま、「共和制日本」を考える』〈第三書館・2011年〉)という論文を思い出しました。
そこで池田さんは、自分がデモをする時、常につけているゼッケンには、「憲法の九条を第一条に!」と書いてあると語りつつなぜ一章(象徴天皇制)はいらないのかをキチンと整理して論じています。未だ読んでない人は、ぜひ読んでください。
--私も読んでみます。アレ、まだ読んでいなかったのか、という表情ですね(笑)。
天野 モチロン(笑)。ただ私はこのステキな提言を以前読んだ時、基本的に反対ではないのですが、正直、ストンと胸に落ちない気分もありました。
--エッ、どういうところ?
天野 あのネ、日本国憲法には、立派な「前文」が書かれています。書き出しの部分は、こうです。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する……」
立派で文句ない文章ではあるが、憲法が排除しているはずの法(軍事政策)にかこまれて生きている現在の私たちには、眩しい言葉ですね。
そうした問題はともかく、このように〈主権在民〉原則は、前文にハッキリと書かれていますね。だけど本文には、それがない。
--エッ、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」って書かれているんだから、あるじゃない、一条に。
天野 でもネ、それって天皇条項とセットで書きこまれているわけでしょう。一条に、天皇条項のブレーキとして。それすらカットすると、ナシ。だいたい、天皇条項がトップにまとまっている、大日本帝国〈天皇主権〉憲法のスタイルが踏襲されていること自体がおかしいじゃない。だから、この占領軍の強いたスタイルから脱出するためにも、一条にはスッキリと「主権在民」の宣言が入っているほうがいい。
--ナルホド。その点に、こだわるわけね。
天野 ただ、池田さんも、九条が一条になることの積極的意味について、そこでこう論じています。
「これがまず最初に掲げられるべき最重要の要件なのだ。ということです。民主主義国家を標榜している現在の様々な近代国家が、第一条で、実質的な第一条で謳っている『国民の権利』よりも前に、これが来ることになるんです。そういう意味で私たちの新しい憲法は特異な憲法になる。天皇条項ではなくって、戦争放棄と戦力不保持。/そして実は、第九条というものが重要なのは何故かというと、『日本は二度と戦争をしません』とか『平和国家です』とか『世界に誇れる第九条!』とかいうんじゃなくて、第九条が文字通り、自由・平等・友愛のうちの、とりわけ平等と友愛の実現と不可分のものだからです。もちろん自由の実現は他の二つの実現と切り離せません。つまり簡単に言うと、第九条は非排外主義、反排外主義のシンボルだと思うのです。つまり軍事力によって国際紛争を解決するということを放棄するというのはどういうことかというと、これは自分たちの国家社会のために暴力によって、言い換えれば国力や国際的地位や差別的圧力によって他の国家社会を否定しない、他国に干渉しないということです。つまりこれは自分たち自身の日常生活の中では、自分の社会的な力で地位や財力や『門地』で、他者を威嚇したり攻撃したり抑圧したり排除したりしない--つまり言葉の本来の意味での排外主義的な生き方をしないということであって、これは現在の第九条を日常の中で実現するということと密接に関わっていると思います」。
だから、九条に、国籍の枠をとっぱらった日本列島住民こそ主権者だという規定がプラスされればいいという修正案です、私のは。
また少し、廻り道をします。1945年10月20日~22日の『朝日新聞』への美濃部達吉のコメント。
「私はいわゆる憲法の民主主義化を実現するためには、形式的憲法改正は必ずしも絶対の必要ではなく、現在の憲法の条文の下においても、議員法・貴族院令・衆議院議員選挙法・官制・地方自治制その他の法令の改正及びその運用により、これを実現することが十分可能であることを信ずるものである」。
宮沢俊義の1945年10月19日の『毎日新聞』でのコメント。
「現在のわが憲法典が元来民主主義傾向と相容れぬものではないことを十分理解する必要がある」。
「この憲法における立憲主義の実現を妨げた障害の排除ということは、わが憲法の有する弾力性ということと関係して、違憲の条項の改正を待たずとも相当な範囲において可能だということを注意するを要する」。
この時点(1945年10月)で、二人とも〈八月革命〉があったという認識など、コレッポッチも持ち合わせていないことが、この発言でよく読めますね。憲法はそのままでヨシなんですから。
憲法問題研究会編の『憲法を生かすもの』(1961年・岩波新書)に収められている佐藤功の「占領初期における憲法論議」で紹介されているものです。
8月15日の〈革命〉には、実は二人とも、頭の中だけでも、それにまったく参加していなかったわけですね。その革命が後からつくられた法理論としての形式的整合性をつくりだすための屁理屈にすぎないことは明白です。(民衆不在の紙の上だけの革命!)
--でも、この説って、戦後の憲法学会を支配した学説なんでしょう?
天野 そうです。今年の八月に宮沢の文章があらためてまとめられて岩波文庫で出ましたね。『八月革命と国民主権主義』。
--読んでこい、というから、まじめに読んできましたよ!「天皇(現人神)主権」から「国民主権」へのラディカルな憲法原理の転換を、わかりやすく説明していて、通説として定着してきた理由は、私なりに、よく読めました。でもそれが、民衆不在の「八月革命」という、おかしな主張である、という天野さんの批判を、もちろん認めないわけではないんですけど。法律の理屈としては、こんな風にするしかなかったんじゃないの?
天野 イヤ、そう単純な話にしてはいけません。だいたい、皇室をそのままでいいという主張と、八月革命憲法はどういう関係になってるの? おかしいでしょう。どんなに「偉い人」の主張でも、変なものは変、ダメなものはダメなんですから。
また、美濃部さんの方から行きますね。
大日本帝国憲法でいいじゃないかという立場が、宮沢とともに、彼の戦後のスタートだったことは、今確認しましたが、枢密院での彼の新しい憲法反対論の理由なんですがネ、法の論理として認めがたい、というだけじゃなくて、天皇制が新しい憲法でどうなるのか不安だったことが、もう一つの決定的な理由だったようなんですよ。
--エッ、なぜ、どうして。あの大正リベラリストの美濃部さん、神権天皇主義者の右翼にピストルを撃ち込まれた人でしょう?
天野 ハイ、私もキチンと読みこんでない時は、信じられなかったんですが、それって「戦後民主主義」が作りだしたムード的な神話に私たちがのみこまれていたからにすぎませんね。この問題、また長くなって、マワリミチが長くなりすぎるといけませんから。トータルな美濃部研究書というやつは、おそらく一冊しかありません。家永三郎さんのその力作の、この問題の結論部分を紹介します。「憲法よりメシだ」の飢餓の時代ゆえに「憲法改正不要論」を、この時代に美濃部が主張していることを紹介したのち、家永はこう論じています。
「美濃部は『最近十数年のわが国政が反民主主義的情勢をなすに至った原因としては、第一次軍閥内閣の成立とそれに伴う武力政治の実現、第二に議会殊に衆議院の機能の喪失、第三に国民の自由に対する極端な圧迫、第四に極めて偏狭で且つ神秘的な国体観念の強要などの諸点を挙げることが出来る』としながらも『此等のいずれにしても憲法の正文に基づいたものではない』と言い、単に憲法の解釈・運用ならびに下級法令の改廃のみによって民主主義的な憲法政治を実現することが可能である、と主張したのである」。
多年にわたり明治憲法の前向きの解釈によって、最大限の立憲主義の実現の努力をつみあげて、学会の通説となり成果をあげてきた彼が、こうした保守主義になるのは、ある必然性があると家永は美濃部に同情的です。ただ天皇制の問題については、家永もさすがにハッキリと批判的に論じています。
「それにしても、明治憲法下における非民主主義的国政を単に『最近十数年』の『軍閥』政治のみに限定していることや、もろもろの非民主的国政を憲法と全く無関係の偶発的産物であるかのごとく考え、憲法自体に内在する非民主的規定や、憲法と密着して裏側に持続している天皇制の機構とイデオロギーの大きな役割を無視することなどは、明治憲法体制の認識として、著しく非科学的との批判を免れえないであろう」。
--フーン。「軍閥」に責任をおしつけて、占領下の民主主義体制に自分たちの戦争責任を問わずになだれ込んだ、日本の天皇制や政治支配者たちと、同じ心情と論理がそこにあるわけね。
天野 どうもそういうことのようで、美濃部さんだけでなく、ファナチックな右翼に攻撃され続けた津田左右吉さんなんかも同様な強烈な天皇家愛好家で、敗戦直後はみな驚かされたようですね。オールド・リベラリストはほぼ、天皇家を国家のシンボルとして生きること自体を批判的に考える視点はなかった。
この辺は「重臣」のリベラリズム(ファナチックな右翼嫌い)とほぼ共通しているようですよ。
--とすると、美濃部さんは、非政治・非宗教のタテマエであるとする象徴天皇制に変えられることに、日本の政治支配者たちと同様、不安を感じていたわけ、彼でも。
天野 そのようです。国家への一体感を持たせるシンボルとしての世襲の天皇(一族)への崇拝は強くあった。天皇制の民族排外主義的イデオロギーにもほとんど批判的な意識はなかったようですよ。
詳しくは、家永さんの『美濃部達吉の思想史的研究』(1964年・岩波書店)を参照してください。岩波で出た家永さんの全集の第六巻(1998年)に収められています。
--だとすると、宮沢さんの「八月革命」論とはひどく距離があるじゃない。〈革命〉てのは、彼にとっては言いすぎじゃない?
天野 宮沢に引っ張られてかどうかは知らないけど、ポツダム宣言受諾を民主主義革命成立とする主張を、すでに紹介したように、この時代、彼も展開していることは間違いない。
あの、私がこだわりたいのは、美濃部さんの方ではなくて宮沢さんの方なの。
--エッ、だって宮沢さんの方はスッキリしているじゃない。国民主権への天皇主義からの「革命的」転換の意味を、あれだけ熱っぽく論じているわけだし。
天野 ウーン。家永さんは、美濃部は年齢的に新しい時代(社会)の変化に対応するのは無理だったのでは、とその点も同情的です。でも宮沢の方は美濃部さんに比較しても若かったから。かなりスピーディーに占領軍の意図をくんで激変に対応した、だけかもしれないんです。あなたの読んだ、主に法哲学者尾高朝雄との論争文などを通して「憲法学的意味での革命」=八月革命説は、自分の中でキチンと論理的に整理されていったんじゃないのかな?
天皇主権の論理と「国民主権」の論理が連続しているかのごとく説く「ノモス」(正義・則(のり))主権論は、大日本帝国憲法と戦後憲法にも共通しているということを示すための、すこぶる政治主義的な主張(モチーフ)のもとに作られたものであったことは明白ですね。天皇制の連続性を積極的に意味づけたいというね。この点は、尾高自身が認めているわけですから。
--キチンと論証してくれないと。
天野 宮沢の主張と態度は、読みとくのがかなり困難なんですね。もちろん、私の推論はそれなりに示せますが。
これ自体、大テーマなんで、八月革命論それ自体の批判的検証とともに、次回なんとかやってみたいと思います。
--めずらしく、逃げましたね(笑)。
天野 まさか、そんなことはないですよ(笑)。
*初出:『市民の意見』市民の意見30の会・東京発行、no.211, 2025.10.01
