広島市平和推進基本条例と「規制・排除」

今年(2025)の「8・6広島平和へのつどい2025行動」に参加してきた友人が「いや〜、今年の広島は酷いことになっていたよ」と話しかけてきた。「毎年恒例の原爆ドーム前の行動も、ダイインも、中国電力本社前の座り込みも、とにかく規制だらけでできなかった」と。

その話を聞いて思い出したのは2年前の広島市主催の平和式典出席者に配られたという「平和記念式典に関するアンケート調査」だった。その年の「8・6広島平和へのつどい」に参加した人からもらったのだが大事な問題があると思う、と友人がpdfファイルにして送ってくれたのだった。アンケートとは、市民運動が使う拡声器は市主催の平和祈念式に悪い影響を与えていないか?といった内容のものだった。友人は嫌な予感がして送ってくれたに違いなかった。私もイヤな気分を払拭できず、短いコラムにまとめて本サイトに掲載した(「要請、条例、規制、不自由…、そして排除、弾圧?」)。内容詳細(というほどではない)についてはそちらを参照されたし。

2年前は「要請、条例、規制、排除、弾圧…」と、少なくとも順を追った排除・弾圧までの過程を想定していたので、2年前に初めてこのアンケートを知った私には、なんだか一気に排除まできてしまった感であった。だが実際は、2年前に紹介したアンケートのようなものは、それ以前から続いていた。

また、2021年には「広島市平和推進基本条例」が制定され、その第6条には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式を、市民等の理解と協力の下に、厳粛な環境の中で行うものとする」が書き込まれていた。ようするに、この「式典を厳粛な環境の中で行う」ことを達成するための、市民運動の拡声器使用可否についてのアンケートであり、「市民の声」を集めた結果が今年の市民運動への規制・排除を作り出したということになるだろう。

やはり、規制・排除までにはある程度の順を追った積み重ねがあったのか。

非核・非戦の理念と、市主催の平和式典および市民運動の間に、なぜ「規制や排除」という矛盾が入り込むのだろう。この状況をどのように捉えるべきなのだろうか。あたかも排除された側に理由があるかのように思われがちな社会であるが、ここは慎重に考えるべきところなのだ。

「非核・非戦」の理念には、それを思う人それぞれに相違もあるだろう。ましてや「平和」という大きな概念ともなればその相違の幅はさらに広がる。人はそれぞれに違う経験や知識、抱えている課題、生きてきた環境や条件などを持つのだから当たり前だ。だから当然にも、訴えたいことも多岐にわたる。市主催の式典ではそういった多くの訴えをフォローしない・できないから、それぞれにその主張をその日に訴えたい人たちが集まるのも当然だ。それらがあってこそ、豊かな思想や行動が作り出される。そこに矛盾(規制や排除)を作り出しているとすれば、やはりそれを言い出した市の方に問題がある。と、部外者でしかない私だが、そのように思う。

私が長年関わってきた反天皇制の運動は、行政権力からだけでなく社会からも排除されるケースが多い。それは、「迷惑」「うるさい」等々の市民の声を理由とすることが多い。しかも、排除・規制にとどまらず、その先の弾圧まで加わることもある。

*本サイトでも紹介している直近の天皇弾圧記事も参照していただきたい
・【共同声明】天皇行事=埼玉「植樹祭」反対の現地デモつぶし、弾圧を許さない
/もうやめよう!「植樹祭」埼玉実行委員会
埼玉植樹祭「でっち上げ」弾圧:敗戦80年後の天皇制・警察国家/桜井大子
9・11茨城育樹祭ビラ弾圧への抗議声明と賛同・カンパのお願い /茨城育樹祭ビラ弾圧救援会

もちろん、排除・弾圧の理由は「市民の声」だけではない。たとえば祭りが作り出す音やマラソン大会などによる道路使用を迷惑がる人だって少なからずいるはずだが、規制などない。規制されるのは反天皇制の行動だったり、行政にとって理解不能な、あるいは不都合な主張に対するデモや行動なのだ。

警察・行政の都合による恣意的な規制・弾圧である。そして行政が認めない集会やデモは最初から規制や排除の対象となり、行政が認めない領域の思想・良心の自由やその表現の自由は完全に侵犯される社会なのだ。そして、その「認めない」とする領域は広がりつつあるようだ。

そういった社会づくりは、周到に、あるいは姑息になされている。とりあえずは一昨年の広島のように「市民の迷惑」を証明してみせたり、議会で条例案を出して押し通したり、その積み重ねが規制・弾圧にもつながる。この社会はずっとそのように作られてきて現在があるのだった。そしてここ数10年の間に戦争をする国になってしまい、差別排外主義が跋扈し、天皇弾圧はどんどん厳しくなる…。反戦・反基地・平和運動も状況は似てきている。

10年前も、20年前も、30年前も、「とんでもない社会になった」と多くの人が嘆いた。現在も同じように嘆いている。いまがどん底かと思っていたが、さらにもっと底があったか、と。うかうかしていると、またしても数年後には「とんでもない社会になった」と嘆く羽目になる。

「市民の声に応える」だとか「社会安寧のため」といった言葉が使われるとき、そこから導き出される結論が本当にいい結果を作り出すのか。難しくても面倒でもよくよく考なくてはなるまい。さもないと、本当にどん底のどん底が待っているぞっ。(橙)

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