やじうま日誌 2025年8月

【8月1日】
徳仁、雅子、愛子◆「静養」のため、静岡県下田市の須崎御用邸に入る。最寄りの伊豆急下田駅に到着した際、駅周辺を含め100人以上が集まる。須崎御用邸での「静養」は2019年8月以来6年ぶりで数日間滞在すると報道。
徳仁◆7月の参院選を受けた第218臨時国会が「召集」され、参院本会議場で開かれた開会式に出席。
靖国参拝◆参政党の神谷宗幣代表が記者会見で、幹事長兼政調会長に安藤裕・参院議員、国対委員長に鈴木敦・衆院議員を充てる人事を発表。8月15日に靖国神社を国会議員や地方議員で参拝する意向を明らかに。
「戦後80年」首相見解◆石破茂首相は「先の大戦」の検証を巡り、戦後80年となる当月15日の「終戦の日」に自身の見解を示さない方向で最終調整に入ったと、複数の政府関係者が明らかにしたと報道。「首相は、閣議決定する『首相談話』の策定は既に見送ったものの見解表明には意欲的で、別の機会に発信する可能性は残る。首相は『敗戦後80年』との言い回しを使っており、日本が降伏文書に調印した9月2日に表明するとの見方が浮上している。(略)首相は3月に、激戦地となった硫黄島を訪れた他、参院選の街頭演説では各地の空襲被害に触れ、大戦の教訓を学ぶ必要性を訴えた。戦後80年の検証に対する思い入れは強い。/1月の講演では『今年は「敗戦後80年」だ。終戦と言うと事の本質を間違えるかもしれない』と指摘。昭和天皇が『玉音放送』で終戦を告げた8月15日よりも、戦争が終結した9月2日を重視する持論を以前から示している。ただ退陣圧力が強まっており、9月時点の政治情勢は見通せていない。」
【8月2日】
「終戦の詔書」◆国立公文書館が、「終戦」前後の公文書を展示する特別展「終戦—戦争の終わりと戦後の始まり—」を開いており、8〜21日には、ポツダム宣言の受諾を表明した「終戦の詔書」の原本を見ることができると報道。
高松宮記念世界文化賞◆ロバート・ウィルソン芸術基金によると、ロバート・ウィルソン(米舞台演出家)が7月31日、東部ニューヨーク州で死去したと報道。「23年に第34回高松宮殿下記念世界文化賞演劇・映像部門を受賞した。」
ペルー大統領◆ペルーの国会が、ボルアルテ大統領の日本訪問を承認。8日に東京で石破茂首相との首脳会談や徳仁との面会に臨み、9日にはペルーのナショナルデーに合わせた大阪・関西万博訪問を予定していると報道。
ブラジル◆共同通信が「大阪・関西万博参加国連載企画」で「人種、生物の多様性誇る/世界最大の日系社会も」と題してブラジルを取り上げ、「人種や文化が入り交じる移民大国で、海外最大の日系社会も抱える。熱帯雨林が広がり生物多様性も世界屈指だ。大阪・関西万博のブラジル館では、森林伐採による温暖化など地球規模の課題に警鐘を鳴らす仕組みも。館のデザイン担当ビア・レッサ氏は『エンターテインメントだけではない。世界を変える好機だ』と意気込む」と報道。「今年で日本と外交関係樹立130周年を迎え、3月にルラ大統領が国賓として来日、6月に秋篠宮家の次女佳子さまがブラジルを公式訪問され、両国の絆を確認した。」
【8月3日】
オーストリア◆共同通信が「大阪・関西万博参加国連載企画」で「『音楽の都』伝統と革新/楽譜オブジェ、AI作曲」と題してオーストリアを取り上げ、「『音楽の都』ウィーンを首都に持つオーストリア。第2次世界大戦後に永世中立国として独立し、国際機関の本部が多く集まる。大阪・関西万博のパビリオンは、楽譜をモチーフとしたらせん状の特大オブジェが目印だ。館内では人工知能(AI)による作曲体験もでき、担当者は『音楽を通じて、伝統と革新を感じてほしい』と胸を張る」と報道。「日本の皇室とも関わりがある。日本との外交関係樹立150周年を迎えた2019年、秋篠宮家の次女佳子さまが同国を公式訪問。今年5月に万博会場で開催されたナショナルデーには、秋篠宮妃紀子さまが出席し、ウィーン少年合唱団の歌などを楽しまれた。/パビリオンのテーマは『Composing the Future(未来を作曲)』。中に入ると、1869年に当時の皇帝から明治天皇に献上されたグランドピアノ『エンペラー』のレプリカの展示が目を引く。」
【8月4日】
ペルー大統領◆政府が、ペルーのボルアルテ大統領が大阪・関西万博のナショナルデー行事に参加するため、6〜10日に訪日すると発表。滞在中、徳仁との会見や石破茂首相との会談を予定していると報道。
【8月5日】
愛子◆日本赤十字社の勤務のため、「静養」先の静岡県下田市の須崎御用邸から帰京。
「昭和の報道写真秘話」◆共同通信が、新刊紹介記事で「『終戦の日』撮影に秘話/新聞写真史、研究家が刊行」と題し「原爆投下後の広島や『終戦の日』、連合国軍最高司令官マッカーサーの神奈川・厚木飛行場到着…。元共同通信写真調査部長で報道写真史研究家の沼田清さんが、戦時中の同盟通信社の配信写真を調査し、撮影の経緯や裏話を『昭和の報道写真秘話』(公益財団法人新聞通信調査会・2200円)にまとめた」と報道。「本書は昭和前期を中心に、関東大震災から昭和天皇の被爆地訪問まで全29話で構成。中でも興味深いのが『終戦の日』の写真報道を巡る秘話だ。/45年8月15日の正午にラジオから玉音放送が流れた後、皇居前広場で多くの人々が正座し、頭を下げる光景は、敗戦を象徴する場面として同盟など各社が撮影し、多くの新聞に掲載された。/ところが同盟は、皇居前で男女約10人が平伏する姿を事前に撮影し、14日の段階で全国の新聞社に写真を送っていたことが調査で判明した。15日以降の掲載を想定し、一定の演出の下で撮影した『予定稿』とみられ、当時の写真部長が終戦を3日前に知っていたと述べた資料も残っていた。/写真は2枚あり、1枚は大阪朝日新聞が『国体護持を祈りつつ宮城前広場に涙のお詫(わ)びをする民草』と説明を付け15日付朝刊に掲載。沼田さんが朝日新聞社に要請し、14日午後5時25分に受信した同盟の写真と確認した。他にも11紙がいずれかの写真を使用。17日付朝刊に載せた東奥日報(青森)だけが説明に『十四日』と日付を入れていた。」
マニラ市街戦◆共同通信が、「戦後80年」の大型連載企画「残響—戦禍をたどって」で、「忘れない、でも憎まない/10万人巻き添えの市街戦」と題し「息絶えた赤子を抱き、母親が悲しみの目を向けていた—。フィリピンの首都マニラの観光地イントラムロスにある広場に、太平洋戦争末期に起きた市街戦の犠牲者をかたどった慰霊碑がある。その台座に『私たちは忘れてはならない』との文字が刻まれている」と報道。「戦後のフィリピンには強い反日感情が残ったが、現在は『黄金時代』と呼ばれるほどの親日国だ。転機は53年。当時のキリノ大統領がマニラ郊外モンテンルパの刑務所に服役していた日本人戦犯105人を恩赦で釈放したことだ。(略)/フィリピン大のリカルド・ホセ名誉教授(歴史学)は『当時の世論は恩赦を好意的には受け止めなかったが、56年の国交正常化につながった』と解説する。62年に皇太子(現上皇さま)ご夫妻がフィリピンを訪問。70年代には政府開発援助など日本の経済協力が進んだ。ホセ氏は『さまざまな積み重ねで友好関係が築かれた。「忘れない、でも憎まない」。それがフィリピンが前に進む最善の道だった』と話す。」
日航機墜落事故◆共同通信が「御巣鷹40年」で「悲惨な光景、教訓思い返す/墜落生存者運んだ消防団員」と題し「520人が犠牲となった1985年の日航ジャンボ機墜落事故では、現場となった群馬県上野村の消防団員らが直後から最前線で捜索、救助に当たった。元消防団員の宮沢年彦さん(81)は生存者を乗せた担架を運んだが、今でも遺体が散乱する現場が目に焼き付いている。12日で事故から40年。『悲惨な光景だった。人命第一との教訓を思い返す機会としたい』と語った」と報道。「事故から16年後、気持ちが救われる出来事があった。2001年11月、国民文化祭出席のため群馬県を訪問中だった皇太子時代の天皇陛下が、墜落現場の麓にある上野村の追悼施設『慰霊の園』に赴き、供花された。消防団長を務めていた宮沢さんと団員がその様子を見守った。/陛下から『本当にご苦労さまでした。当時は大変でしたね』と声をかけられたという。数分だけだったが優しい言葉遣いが耳に残り『これまでの活動が報われた気がした』と振り返る。」
「戦争終結」◆石破茂首相が参院予算委員会で、「戦後80年」に合わせた自身の見解発出時期を問われ、戦争が終結したのは、日本が降伏文書に調印した9月2日だとの評価が国際法的には大勢だと説明。「どの時期が適当なのか。中身についてはよく考えたい」。8月15日について戦闘が終わった日だと位置付け「戦没者追悼式が行われ、日本中が祈りの日だ」。9月2日に関して「他国にとっては戦争に勝ったということで、いろいろな行事も行われる」。
サッカー皇后杯◆日本サッカー協会が、第47回皇后杯全日本女子選手権の日程や会場を発表し、決勝は翌年1月1日に東京・国立競技場で開催することが決まる。
【8月6日】
徳仁、雅子◆広島原爆の日に当たり、静養先の静岡県下田市にある須崎御用邸で黙とうしたと報道。
明仁、美智子、愛子◆宮内庁によると、明仁、美智子は東京・赤坂御用地の仙洞御所で、愛子は皇居・御所でそれぞれ黙とうしたと報道。
【8月7日】
徳仁、雅子◆静岡県下田市の須崎御用邸での「静養」を終え、帰京。
紀子◆東京都墨田区の総合体育館で、第10回全国ボッチャ選抜甲子園決勝大会を観戦。選手と「懇談」。
西郷隆盛◆共同通信が、「子ども歴史企画『どうぞう! 見て知って』」で西郷隆盛を取り上げ、「古里では汚名そそぐ軍服姿/維新の立役者から朝敵に」と題し「明治維新の立役者、西郷隆盛の銅像と言えば、東京・上野が有名。着物の着流し姿で犬を連れた『上野の西郷さん』」はすっかりおなじみです」と報道。「1877(明治10)年、政府への不満から鹿児島の元武士(士族)らが反乱、九州南部で西南戦争が起きました。西郷をリーダーとした反政府軍は敗北。西郷は自ら命を絶ち、天皇に歯向かった『朝敵』とされました。」
「国体」◆共同通信が、「国民スポーツ大会」を取り上げた「識者」インタビューのサイド記事で「国体発祥は終戦年の12月/政治的なイベントに」と題し「日本体育協会(現日本スポーツ協会)が1998年に発行した『国民体育大会五十年のあゆみ』は終戦の45年12月26日を『国体発祥の日』とする。前身の大日本体育会の理事が集まり、戦災の少ない京都を中心に全国大会を開いてスポーツ再建を目指すことにした」と報道。「翌(47)年の第2回石川大会は北陸訪問中の昭和天皇が開会式に非公式に出席、無許可の『日の丸』が掲揚されて観衆が『君が代』を斉唱し、政治的なイベントとして組み込まれてゆく。/第3回福岡大会で天皇杯、皇后杯が下賜され、都道府県対抗方式が確立。第4回東京大会の夏季大会で天皇、皇后両陛下が水泳競技を観戦し、秋季大会の開会式で天皇陛下が初めて『お言葉』を述べた。」
「洋上慰霊」◆「北方領土・国後島」の周辺海域で、四島の元島民らが船上から先祖を弔う「洋上慰霊」が実施され、伊東良孝・沖縄北方担当相が前年10月の大臣就任後初めて参加。伊東担当相が下船後、報道陣の取材に応じ、ロシアのウクライナ侵攻の影響などで中断が続く北方墓参について「政府として再開を最優先に取り組む。日ロ関係の再構築を図らないといけない」。
「学校日誌」◆共同通信が、「子どもの学び、日常奪われ/現代の教育へ活用も」と題したサイド記事で「戦時中、全国の国民学校で日々の活動を記録した学校日誌からは、連日の空襲警戒など、子どもたちが日常を奪われていた様子や、軍国教育の実態がありありと伝わる。戦後80年となり、記憶の継承が課題となる中で、当時の様子を深く知ってほしいと平和学習で扱っている学校もある」と報道。「45年8月15日には、昭和天皇が終戦を伝えた玉音放送の受け止めも。保谷国民学校(当時、東京都保谷町)の日誌には『號泣慟哭無念の涙と共に臣子の分を盡すの足らざるを自ら責む』と、敗戦に自責の念を抱いたことが記されていた。」
「シャガイ」◆共同通信が、企画記事「『アジア発』アジアンスタイル」で「モンゴルのシャガイに脚光/陛下が体験された競技」と題し「モンゴルの夏を代表するスポーツの祭典『ナーダム』。有名な相撲、競馬、弓術の他に今年は一つの競技が脚光を浴びた。モンゴルを公式訪問された天皇、皇后両陛下が体験された伝統の『シャガイ』だ。三大競技の影に隠れがちだが『熱中し過ぎて仕事をしなくなる』として禁止された時代があるほど国民をとりこにしてきた」と報道。「7月11日、両陛下が体験を終えた首都ウランバートルの試合会場を訪れると、場を清めるためにたかれた香の煙が充満し、『エーエー、アッアエー』と抑揚を抑えた選手たちのかけ声が響いていた。」
【8月8日】
徳仁◆皇居・御所で、ペルーのボルアルテ大統領と会見。大統領は大阪・関西万博の「ナショナルデー」に合わせて訪日したと報道。
明仁◆宮内庁が、心臓の持病の治療を続ける明仁が、東京・赤坂御用地の仙洞御所で歩行などの軽い運動を少しずつ始めていると明らかに。新たな投薬による副作用はないが、脈拍が速くなる「上室性不整脈」の症状が時折出ているというと報道。
靖国問題◆石破茂首相が、15日の「終戦の日」に合わせた靖国神社(東京・九段北)への参拝を見送る方針を固めたと報道。自民党総裁として玉串料を「私費」で奉納すると、関係者が明らかに。林芳正・官房長官が記者会見で、首相と自身の靖国参拝や玉串料奉納に関し「首相が適切に判断する。私も同様だ」。小泉進次郎農相は閣議後会見で「閣僚としてのコメントは差し控える。個人としては適切に判断していきたい」。ほかに鈴木馨祐法相、福岡資麿・厚生労働相、浅尾慶一郎・環境相、中谷元・防衛相、伊藤忠彦・復興相、坂井学・国家公安委員長が「適切に判断する」と答え、加藤勝信・財務相と城内実・経済安全保障担当相は、コメントを控えるとした一方、参拝の予定がないと明言したのは村上誠一郎・総務相、岩屋毅外相、阿部俊子・文部科学相、中野洋昌・国土交通相、平将明・デジタル相、三原じゅん子・こども政策担当相、伊東良孝・沖縄北方担当相で、武藤容治・経済産業相は「公務」があるため参拝できないと回答。
【8月9日】
徳仁、雅子、愛子◆長崎原爆の日に合わせて皇居・御所で黙とう。
明仁、美智子◆長崎原爆の日に合わせて東京・元赤坂の赤坂御用地にある仙洞御所で黙とう。
雅楽演奏会◆宮内庁が、10月24〜26日に皇居・東御苑で開催する秋季雅楽演奏会の鑑賞希望者を募集していると報道。
【8月10日】
紀子、佳子◆広島市を「私的」に訪問し、広島で被爆し、白血病のため12歳で死去した佐々木禎子を題材にしたミュージカル「PEACE ON YOUR WINGS」を鑑賞。鑑賞後、出演者と「懇談」。
「松代大本営」◆太平洋戦争末期に皇居や政府機関の移転先として建設が進められた長野市の地下壕「松代大本営」跡地で、工事で犠牲になった朝鮮人労働者の追悼集会が開かれる。
「8月15日」写真◆共同通信が「歴史的な日、15枚活写/集まる人々、自然な姿も」と題して「1945年8月15日」の様子を撮影した記録写真について報道。「共同通信社には、1945年8月15日、正午の昭和天皇による『玉音放送』の後、皇居前広場に集まった人々を撮影した15枚の写真が残る。広く知られた、ひざまずく人々の写真だけでなく、そのそばを歩く人や自転車で移動する自然な様子、広場の全景を捉えた写真も含まれる。戦後80年の今年、写真を手掛かりに共同通信記者が歩き、広場内での具体的な撮影位置を絞り込んだ。/写真は共同通信の前身、同盟通信の写真部の故内山林之助さんら数人が撮影した。(略)共同通信に残る、同盟通信時代からの出稿写真を記録した『内地ニュース』の縮刷版によると、15枚のほとんどは、当日は配信されなかった。正門前でひざまずく様子の写真が新聞用に配信されたのは65年8月6日。戦後20年の特集記事として、観光客でにぎわう皇居前広場と並んでだった。」
「8月15日」◆共同通信が、「『誰もしゃべる人いない』/終戦の日、皇居前広場/安堵した記憶、女性証言」と題し「1945年8月15日、皇居前広場でひざまずく人々の写真は、日本の敗戦にぼうぜんとする当時の様子を伝える。福島県いわき市の木村よしこさん(97)は、その現場に居合わせた。『ざーっと人がいて、泣いててね。誰もしゃべる人はいなかった」。怖かった空襲がなくなることに安堵した記憶が残る。『戦争なんて、やるもんでねえわな』と振り返る」と報道。「80年前の8月15日。皇居前広場には昭和天皇による正午の『玉音放送』を聞き終えた人たちが、あちこちから集まってきていた。17歳の木村さんも群衆の中にいた。(略)木村さんも黙っていたが胸中はさまざまな気持ちが混じり合っていた。『負けてこれからどうなるか、わかんねえ』。『陛下はずいぶん国民を心配しただろうなあ』。周囲の人と同じように頭を下げて、広場を離れた。」
【8月11日】
紀子、佳子◆広島市の平和記念公園にある原爆慰霊碑に供花。原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を訪れ、入所する79〜101歳の被爆者約40人と「懇談」。
「戦後80年世論調査」◆共同通信が、「戦後80年」に際して行った世論調査について、「首相談話出すべきだ57%/靖国、若年層に抵抗薄く/戦後80年の政府対応」と題し「世論調査で戦後80年の節目の政府対応として、閣議決定を経た首相談話を出すべきだとの回答が57%を占めた。A級戦犯が合祀された靖国神社を首相は参拝するべきだとする回答は62%で、特に若年層ほど参拝するべきだとの回答が多く、靖国参拝に抵抗感が薄い傾向にあった」と報道。「首相の靖国参拝について、するべきではないとの回答は33%だった。年代別に見ると、29歳以下と30代では70%以上が参拝するべきだと答えたのに対し、70歳以上では54%で、年齢が上がるほど参拝するべきだとの割合は減少した。/終戦記念日の8月15日に開かれる全国戦没者追悼式での式辞について『加害と反省に言及して、謝罪の言葉も述べるべきだ』が39%、『加害と反省には言及するべきだが、謝罪の言葉は必要ない』が44%、『加害と反省への言及も謝罪の言葉も必要ない』は13%だった。/『加害と反省に言及して、謝罪の言葉も述べるべきだ』と回答した人のうち、周辺国への謝罪が行われたと答えた人は『十分に』と『ある程度』を合わせて66%。『加害と反省への言及も謝罪の言葉も必要がない』と答えた人では、計89%が謝罪が行われたと答えた。」
憲法◆共同通信が、「戦後80年」に際して行った世論調査について「『戦争放棄』は評価二分/護憲、改憲とも理由トップ」と題し「世論調査で、憲法をこのまま存続させるべきだと回答した人と変えるべきだと答えた人にそれぞれ評価する点、評価しない点を二つまで聞いたところ、いずれも『戦争放棄・平和主義』が最も多く、評価が二分した格好だ。/評価する点として最も多かった『戦争放棄・平和主義』は80%。次いで『基本的人権の尊重』が49%、『象徴天皇制・国民主権』33%の順だった。/評価しない点として最も多かった『戦争放棄・平和主義』は39%。次いで『占領軍が起草した』の34%、『象徴天皇制・国民主権』20%、『地方分権・地方自治の規定』19%の順だった。」
【8月12日】
徳仁、雅子、明仁、美智子◆徳仁、雅子が、モンゴル「公式訪問」を終えた報告のため、東京・元赤坂の赤坂御用地にある仙洞御所を訪れ、明仁、美智子にあいさつ。
徳仁、雅子、愛子◆宮内庁が、徳仁、雅子が「国民文化祭」の開会式出席などのため、9月12日から2泊3日の日程で長崎県を訪問すると発表。これに併せて戦後80年の戦没者慰霊として、長崎市の平和公園を訪れ、原爆落下中心地碑に供花する予定で、慰霊には愛子が同行すると報道。「両陛下は戦後80年に際し、4月に硫黄島(東京)、6月に沖縄と広島を巡り、沖縄は愛子さまも同行した。長崎での慰霊は一連の訪問の締めくくりと位置付けられる。」
【8月13日】
皇族数確保策◆共同通信が、「皇族確保、秋結論に暗雲/自・立亀裂と参政躍進」と題し「衆参両院で協議を続ける皇族数確保策を巡り、額賀福志郎衆院議長が目標とする『秋の結論』に暗雲が垂れこめている。議論をリードする自民党と立憲民主党に亀裂が生じたのに加え、参院選で『男系維持』にこだわる参政党が躍進し、与野党の構図が変化したためだ。識者は『国会の議論は論点を限定し、世論と乖離している』と警鐘を鳴らす」と報道。
「復古的天皇観」◆共同通信が企画「『君民一体』掲げる参政党」で「平成終わり復古的天皇観/護憲リベラルの抑止力外れ」と題し、政治学者・原武史の評論記事を配信。「参院選で議席を増やした参政党は、復古主義的な天皇観を持ち、それを憲法草案に盛り込んでいる。こうした勢力が台頭してきた背景には、政治色の強かった平成の天皇と皇后が退場して、無色透明に近い天皇の時代になったことがあるのではないかと考えている。/護憲派リベラルの側に立ち、平成後期には、安倍政権に対峙するかのような姿勢を取っていた天皇皇后が、一種の抑止力になっていた。その重しが取れてタブーがなくなり、何でも言えるようになったということだ。(略)2016年8月のビデオメッセージにより、天皇退位に賛成する民意が形成され、天皇は民意を形成する主体となった。実質上、天皇が権力を持ってしまったと言える。(略)超国家主義の変種と言うべき前時代的な勢力に天皇自身が利用されることは、決してあってはならない。いかなる形であれ、天皇が政治色を強く持つことは現憲法に抵触すると、いま一度強調しておきたい。」
靖国参拝◆自民党の西村康稔・元経済産業相が、東京・九段北の靖国神社を参拝。参拝後、記者団に「戦禍に倒れた英霊の安らかに眠られんことを、心から祈った。日本の平和と繁栄のため、人生を懸けて全力を尽くすと誓った」。玉串料を「私費」で奉納したと説明。
【8月14日】
「戦没者追悼式談話」◆林芳正・官房長官が、政府が15日に主催する全国戦没者追悼式に関する談話を発表。式典の趣旨に関し「今日のわが国の平和と繁栄の陰に、戦禍に倒れた戦没者の尊い犠牲があったことに思いを致し、全国民が深く哀悼の誠をささげるとともに、恒久平和の確立への誓いを新たにしようとするものだ」。
靖国参拝◆自民党の森山裕・幹事長が、東京・九段北の靖国神社を参拝。玉串料も納めたと、参拝後、共同通信の取材に明らかに。「おじが3人戦死している。終戦の日の15日は予定が立たず、今日お参りした」。
【8月15日】
徳仁◆全国戦没者追悼式の「お言葉」で「お言葉」で「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」との一節を新たに加え「将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを願う」と読み上げる。/共同通信が、「陛下、記憶継承に強い思い/『お言葉』で初」と題し「天皇陛下は全国戦没者追悼式の『お言葉』に、戦争の記憶を次世代へ継承していく思いを込められた。『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』との文言を初めて盛り込み『将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願う』と述べた」と報道。
明仁、美智子◆「終戦の日」に当たり、東京・元赤坂の仙洞御所で黙とう。宮内庁によると、全国戦没者追悼式をテレビで見ながら、会場に合わせて黙とうしたと報道。
愛子◆「終戦の日」に当たり、皇居・御所で黙とう。
英国王◆日本の降伏で第2次大戦が終結してから80年を記念する式典が英中部スタッフォードシャーの国立記念植物園で開かれ、日本と戦った英退役軍人のほか、チャールズ国王夫妻やスターマー首相が出席。チャールズ国王が発表したメッセージで英国側戦没者らの功績をたたえる一方、広島と長崎の原爆犠牲者に言及し「いかなる国も二度と犠牲を生まないよう祈る」と述べたと報道。
「戦没者追悼式」◆「終戦」から80年となり、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれ、徳仁が「お言葉」を読み上げる。石破茂首相が式辞に「反省」の文言を民主党政権以来13年ぶりに盛り込み「あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばならない」としたが、2013年以降の安倍晋三・元首相らと同様にアジア諸国への加害責任には言及しなかったと報道。
靖国問題◆石破茂首相が靖国神社に参拝せず、自身の事務所を通じ、自民党総裁として玉串料を「私費」で奉納。関係者が明らかに。千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れて献花。/在日本中国大使館が談話を発表し「日本の指導者や政治家が靖国神社を信奉し、侵略の歴史への誤った態度を再び示した」。中国の王毅外相が歴史を直視するよう日本に促す。中国外務省の劉勁松・アジア局長が在中国日本大使館の横地晃・首席公使と面会し、日本の政治家による靖国参拝について厳正な申し入れを行い抗議したと発表。中国国防省のショウ斌・報道官が、日本が防衛費を大幅増額し「軍国主義の道を再び歩むと国際社会が憂慮を強めている」と主張する談話を出す。/韓国外務省報道官が、石破茂首相が靖国神社に自民党総裁として玉串料を奉納し、閣僚らが参拝したことに「深い失望と遺憾を表する」との論評を発表。/共同通信が「分祀、追悼施設の議論低調/政府自民に打開機運乏しく」と題し、「靖国神社は極東国際軍事裁判(東京裁判)のA級戦犯が合祀されており、首相ら政府要人の靖国参拝には常に外交・政治問題が付きまとう。自民党政権はこれまでA級戦犯の分祀や国立の追悼施設建設を模索したものの、いずれも立ち消えに。石破政権や『ポスト石破』と目される候補の間でも話題には上らず、現状打開の機運は乏しい」と報道。
靖国参拝◆小泉進次郎農相と加藤勝信・財務相が、東京・九段北の靖国神社を個別に参拝。小泉農相が記者会見で「不戦の誓いと、どの国であっても国家のために命をささげた方に対する礼を忘れないことは重要だ」。加藤財務相は取材に応じなかったと報道。自民党の高市早苗・前経済安全保障担当相、小林鷹之・元経済安保相らが参拝。高市担当相が記者団に「たくさんの方が国策に殉じられた。尊崇の念を持って哀悼の誠をささげた」。小林元経済安保相「愛する家族やふるさとに思いをはせながら尊い犠牲になられた英霊に対し、心から哀悼の誠をささげた」。自民の萩生田光一・元政調会長、木原稔・前防衛相、長島昭久・首相補佐官、参政党の神谷宗幣代表、日本保守党の百田尚樹代表らが参拝。神谷代表が参拝後、記者団に「国のために戦って尊い命を失われた方々に、感謝の気持ちと平和を守る政治に取り組みたいという思いを伝えた」。党によると、参拝したのは全国会議員18人と地方議員の計88人。超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が、約50人が一斉に参拝したと発表。/小池晃・共産党書記局長が、小泉進次郎農相ら閣僚の靖国神社参拝について記者団に「靖国神社は単なる宗教施設ではない。侵略戦争や植民地支配に対する反省がないということだ」。
「戦後80年」首相見解◆自民党保守系の小林鷹之・元経済安全保障担当相が、戦後80年に合わせた石破茂首相の見解表明に警戒感を示したと報道。安倍政権下で閣議決定された戦後70年談話を挙げて「これが全てだ」と東京・九段北の靖国神社を参拝後、記者団に語る。70年談話について「これ以上、謝罪を続ける宿命を次の世代に負わせるべきではない、との思いが込められた」。林芳正・官房長官が記者会見で「石破内閣はこれまでの首相談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」。首相の見解表明に関し「戦争の記憶を風化させない、二度と戦争を起こさせないという観点が大事だ」。
日本遺族会◆太平洋戦争などの戦没者遺族の全国組織「日本遺族会」が、支部に当たる全国の都道府県組織の会員数を調査したところ、当年7月時点で約35万世帯だったことが分かったと報道。遺族会によると、前回2019年3月時点の約57万世帯から約22万世帯減ったという。
【8月16日】
英国王◆チャールズ英国王が、日本の降伏で第2次大戦が終結してから80年に合わせて発表した国民向けのメッセージで、広島と長崎の原爆犠牲者に触れ「市民が払った計り知れない犠牲を、いかなる国も二度と生まないよう祈る」。英PA通信が「英君主として最も直接的な原爆への言及」だと報じる。チャールズ国王は英中部スタッフォードシャーの国立記念植物園で開かれた戦勝記念式典に妻のカミラと共に出席し、英国側戦没者の功績をたたえ、日本と戦った退役軍人らをねぎらったと報道。
靖国問題◆中国外務省が、石破茂首相が「終戦の日」の15日に靖国神社に玉串料を奉納し、閣僚や国会議員が参拝したことについて「歴史の正義と人類の良識に公然と挑戦する行動だ」と非難し「強烈な不満」を表明する報道官談話を発表。「日本側に既に厳正な申し入れをして抗議した」と明らかに。
【8月18日】
宮内庁インスタ◆宮内庁が、徳仁、雅子の活動の様子を中心に紹介している公式インスタグラムで、新たに秋篠宮一家らほかの皇族の活動についても投稿を始めたと発表。月1回の頻度でまとめて投稿し、外国公式訪問は随時伝えていくほか、愛子の単独「公務」は、徳仁、雅子に関する月1回のまとめ投稿に合わせて掲載する一方、明仁、美智子に関しては「公務」を離れ、静かに過ごしているため、対象としなかったと報道。秋篠宮「家」に関する当日の投稿で、大阪・関西万博の視察や式典出席のほか、一家で広島原爆の企画展を見学した様子などが掲載される。
【8月19日】
「内奏」◆石破茂首相が、皇居で「内奏」。
サウジ皇太子◆ロシア大統領府が、プーチン大統領がサウジアラビアのムハンマド皇太子と電話会談し、最近の米ロ首脳会談の結果などについて説明したと発表。トランプ米大統領が調整を始めたロシアとウクライナの首脳会談の開催地として、サウジアラビアはロシアにとって受け入れ可能な国の一つとみられると報道。
【8月20日】
「昭和100年記念」◆日本スポーツ協会が東京都内で国民スポーツ大会委員会を開き、国スポにおける暑熱対策の方針を了承。翌年の青森大会の大会名に「昭和100年記念」の冠称を付けることが承認される。大会プログラムや看板などに記載する見通しと報道。
【8月21日】
明仁、美智子◆「静養」のため、新幹線で長野県軽井沢町に入る。夏の恒例で、滞在中、中国の旧「満州」から引き揚げてきた人々が、戦後に入植した大日向開拓地に足を運び、29日に帰京すると報道。
「大山古墳」◆堺市が、世界文化遺産の仁徳天皇陵古墳(大山古墳)を上空から一望できるガス気球の運航を10月4日から始めると発表。準備期間中の2023年にヘリウムガスが抜けてしぼむ不具合があり、運航開始が延期されていたと報道。
【8月22日】
天皇、皇族◆徳仁、雅子が、第9回「アフリカ開発会議(TICAD)」で訪日中のアフリカ各国首脳夫妻らを皇居・宮殿に招き、飲食を共にしながら「懇談」。27カ国・1機関から計37人が参加し、秋篠宮、紀子や愛子ら皇族が同席。徳仁があいさつで「30年以上にわたり、育まれてきた日本とアフリカとのパートナーシップが一層強固で豊かなものとなるよう祈念する」。
徳仁、雅子◆東京都港区の明治記念館を訪れ、アフリカのための医学研究などで功績を挙げた個人・団体に贈る第5回野口英世アフリカ賞の授賞式に出席。
出迎え◆石破茂首相が、東京・元赤坂の明治記念館の玄関で徳仁、雅子を出迎え。
彬子◆宮内庁が、三笠宮「家」の彬子が日本とトルコの外交関係樹立100周年を記念した展覧会の式典出席などのため、9月14〜21日の日程でトルコを「非公式訪問」すると発表。アンカラ大から美術史分野の名誉博士号が贈られることも決まり、現地で授与式に出席すると報道。
戦死者慰霊◆北朝鮮メディアが、ウクライナ侵攻を続けるロシア軍を支援するため派兵された朝鮮人民軍の海外作戦部隊の武勲をたたえる表彰式が平壌の朝鮮労働党中央委員会本部庁舎で開かれたと報じる。開催日は不明だが、党の施設に戦死者を悼む慰霊碑を設けて遺族を招き、金正恩・党総書記が演説で「英雄部隊」だと称賛して「まだあまりにも若い命を守れなかった申し訳なさをどのように表現すれば良いか分からない」と遺族に釈明したと報道。
【8月23日】
明仁、美智子◆「静養先」の長野県軽井沢町で、戦後に中国の旧満州から引き揚げてきた人々が入植した大日向開拓地を訪れ、野菜畑を散策。
佳子◆大阪市の大阪・関西万博の会場を訪れ、石川県輪島市の伝統工芸品「輪島塗」の大型地球儀を見学。「公式訪問」したブラジルやペルーのパビリオンを視察。青森県の伝統工芸品の「津軽塗」の作業を体験。
アイヌ徴兵◆共同通信が、連載企画「北の先住民と戦争 アイヌ、ウイルタの80年」で「徴兵アイヌ、平等願い出征/戦後、神棚にマッカーサー」と題し「北海道名寄市の博物館に保存された神棚に、連合国軍最高司令官マッカーサーの写真が祭られている。持ち主は日露戦争に出征して勲章を受けたアイヌの故北風磯吉。なぜマッカーサーを信奉したのか。アイヌにとって戦争とは何だったのか。北風を研究する函館市の佐藤幸夫さん(74)は『(出征を通じて)アイヌ民族の権利向上、生活改善を目指した』とみる」と報道。「北風は伝令として活躍し、金鵄勲章を授与された。(略)太平洋戦争でも多くのアイヌが徴兵された。『アイヌは明治からずっと戦争状態。手柄を立ててまっとうな日本人として見られようと思っても、差別はなくならない」と、釧路市のアイヌ舞踊監督秋辺デボさんは話す。/秋辺さんの父や叔父も徴兵された。父はスパイ候補生として訓練中に終戦。戦争の話はあまり聞かなかった。それは『つらい、嫌な話だから』。/秋辺さんが高校生の頃、作った人形が天皇家の献上品に選ばれたことを誇りにしていた父を『天皇の名のもとに戦争まで行かされて嫌な思いをしたのに、なぜ喜ぶのか』と批判したのを覚えている。父は『徹底して軍国教育を受けたせいで、ありがたいと思っちゃう』と答えたという。/北風が戦後、マッカーサーを祭った理由を、佐藤さんは『支配、被支配の関係から考えると、敗戦で上位が天皇から米国に変わったからでは』と推測する。当時、多くのアイヌ家庭には神として天皇の写真が飾られていたという。『自分たちの身分はいつも底辺。狩猟民族の生活基盤を奪われたら、上位にいる人に寄り添わなければ生活できない』。戦後、アイヌ社会には連合国軍総司令部(GHQ)に権利回復を期待する向きもあったが、実現はしなかった。」
竹橋事件◆1878年の当日、東京・竹橋で近衛砲兵大隊などの兵士二百数十人が蜂起。上官を殺害し、赤坂の仮皇居に向かう。日本初の兵士反乱とされ、西南戦争での行賞や財政難を理由とした減給などに不満があったとみられるが、間もなく鎮圧されて55人が死刑にと報道。
【8月25日】
「昭和100年」◆盛岡市の「盛岡てがみ館」が、当年が「昭和100年」に当たるとして、特別展「昭和100年 1926〜1989」を開いていると報道。「70年の岩手国体総合優勝記念メダルや82年の東北新幹線開通を記念する切手帳など、昭和時代の出来事に関する66点の資料を展示している。」
「荻外荘」◆共同通信が「鮮やかに残る政治史の舞台/荻窪、近衛家の邸宅跡」と題した企画記事で「著名人らの別荘地として発展した東京都杉並区荻窪には、善福寺川が流れ、公園がいくつも広がる。戦前、内閣総理大臣を3度務めた近衛文麿の邸宅跡を訪ねた」と報道。「荻窪駅南口から3分ほど歩き『明治天皇荻窪御小休所』の石碑の脇を通り過ぎて南に約15分歩くと、丘の上に平屋建ての日本家屋が見えた。近衛家が暮らした史跡『荻外荘』だ。区が約10年かけて復元、周囲を含め荻外荘公園として整備した。」
【8月26日】
徳仁、雅子◆「静養」のため、栃木県那須町の那須御用邸付属邸に入る。戦時中に硫黄島(東京都小笠原村)から疎開し、現在は那須町で暮らす元島民らを御用邸の施設に招き、「懇談」。
裕仁「侮辱」動画◆中国で9月3日の抗日戦争勝利記念日を前に昭和天皇を侮辱する動画が交流サイト(SNS)に多数投稿され、拡散していることが分かったと報道。動画は人工知能(AI)で生成されたとみられ、最近になって動画投稿アプリ「抖音」などで次々と確認され、女子高生の制服を着て踊る動画や「連合国軍最高司令官マッカーサーが犬をしつける映像」と題し、犬のように四つんばいになってほえる動画もあったと報道。林芳正・官房長官が記者会見で「動画は承知しており、不適切だ」と述べ、日中関係への影響を考慮し中国に「適切な措置」を取るよう求める。中国外務省の郭嘉昆・副報道局長が記者会見で「関連状況を調査中だ」。
天皇用防空壕◆太平洋戦争中、昭和天皇訪問時の緊急事態に備えて造られたとされる防空壕が米陸軍キャンプ座間(神奈川県座間市、相模原市)に現存していると報道。「接収されるまで旧日本軍の陸軍士官学校があったためで、実際に使われることはなかった。戦後80年に合わせ、在日米陸軍基地管理本部が報道関係者へ公開した。」
【8月27日】
天皇一家◆宮内庁が、天皇一家が当月、静岡県下田市の須崎御用邸で「静養」した際の写真6枚を公開。
【8月28日】
「秋の園遊会」◆宮内庁が、徳仁、雅子「主催」の秋の園遊会を10月28日に東京・元赤坂の赤坂御苑で開催すると発表。徳仁、雅子や秋篠宮、紀子ら皇族が出席し、中央省庁が推薦した各界の「功労者」や自治体関係者らが招かれると報道。
悠仁「成年式」◆宮内庁が、9月6日に催される悠仁の成年式について、悠仁の姉で米国在住の小室眞子と夫の圭が欠席すると明らかに。皇居・宮殿で天皇から冠を授かる「加冠の儀」と、都内のホテルで夜に開かれる「私的」な祝宴で、いずれも秋篠宮、紀子が「主催」し、秋篠宮、紀子は「家族で一緒にお祝いしたい」と招待したが、遠方に住んでいて、子どもが幼いことを理由に辞退したというと報道。
【8月29日】
徳仁、雅子◆宮内庁が、徳仁、雅子が第79回国民スポーツ大会(旧国民体育大会)の総合開会式出席などのため、9月28日から1泊2日の日程で滋賀県を訪問すると発表。28日に東京駅から新幹線で滋賀県に入り、彦根市の平和堂HATOスタジアムで開会式に出席して徳仁があいさつした後、大津市のホテルで大会関係者と懇談し、29日はバドミントン競技を観戦するほか、彦根市の県立盲学校を訪れて、中学生の社会の授業などを視察し、夜、帰京すると報道。
明仁、美智子◆長野県軽井沢町での「静養」を終え、新幹線で帰京。
秋篠宮、紀子◆東京・元赤坂の赤坂御用地にある宮邸で、南米エクアドルのノボア大統領夫妻と「懇談」。
【8月30日】
悠仁「成年式」◆共同通信が、「悠仁 さま、成年皇族の一歩/節目に重要儀式40年ぶり」と題し、1ページ特集「悠仁さま成年式」のリード記事で「秋篠宮家の長男悠仁さまは9月6日、19歳の誕生日に成年式に臨まれる。男性皇族が成人した際、皇室の慣例で執り行う重要儀式で、開催は1985年11月の秋篠宮さま以来40年ぶりとなる。悠仁さまは皇位継承順2位。現在大学1年で学業に励みながら公務に当たり、成年皇族としての歩みを進める」と報道。/本記記事で「古式ゆかしく厳かに/『加冠の儀』『朝見の儀』」と題し「悠仁さまは昨年9月、民法改正による成人年齢引き下げに伴い、高校3年の18歳で成年皇族となられた。大学受験を控えていたため、成年式の実施は先送りされていた。/式当日の9月6日は東京・元赤坂の秋篠宮邸や皇居・宮殿で、古式ゆかしい厳かな儀式が続く」と報道。/「将来に向け、多様性学ぶ/親交深い研究者がエール」と題したサイド記事で「悠仁さまは秋篠宮ご夫妻と国内外を巡り、さまざまな立場の人たちと交流を重ねてこられた。25年以上にわたって秋篠宮家と親交があり、ブータンへの私的旅行などに同行した国立民族学博物館の池谷和信名誉教授(人類学)は『将来担う仕事のため、多様性を学び、包容力を身につけて世界の見方を養ってほしい』とエールを送る」と報道。/「成年式」について「男性皇族が成人した際、皇室の慣例で執り行う。古来、宮中や公家の間で行われてきた成人儀礼「元服」を由来とする。明治時代に制定され、戦後廃止された皇室令で、正式に『成年式」と記載された。元々は皇位継承資格者を内外に示す意義があった。現行の皇室典範では、成年に達すると、摂政就任や皇室会議の議員選任への関与などの資格を得る。皇室典範は天皇と皇太子の成人年齢を18歳と定め、上皇さまは皇太子時代の1952年11月に式が催された。天皇陛下は浩宮時代の80年、秋篠宮さまは礼宮時代の85年に実施し、いずれも20歳の誕生日当日だった。」
八幡宮人事◆室町幕府3代将軍の足利義満(1358〜1408年)が、石清水八幡宮(京都府八幡市)の要職人事を任命したことを示す古文書が見つかったと、同八幡宮が発表。朝廷が持っていた八幡宮の人事権に将軍家が介入していたとする史料はあったが、専門家は義満の関わりが明確になったのは初めてで、重要な史料と指摘したと報道。
【8月31日】
佳子◆東京・有楽町のホールを訪れ、第42回全国高校生の手話によるスピーチコンテストに出席。開会式で「自分とは異なる背景や状況に対する理解が深まり、誰もが安心して暮らせることが当たり前の社会になることを強く願っています」と手話であいさつ。佳子はコンテストを主催する「全日本ろうあ連盟」に非常勤嘱託職員として勤務していると報道。

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