山田朗(明治大学教員・日本近現代史)
はじめに
きょうは「『昭和100年」に対峙する歴史認識を!」ということでお話しします。
もし「昭和」という元号が続いていたら、1926年から数えて「昭和100年」というのは今年です。敗戦の年は1945年で昭和20年ですから、そこから80年経って「昭和」が続いていたら今年は「昭和100年」ということになります。
ただ、政府は、「昭和」の改元から数えて100年といって来年を「昭和100年」としています。「明治100年」というのをやりました。これは1968年です。佐藤内閣のときです。「明治100年」には、それに向けて「建国記念の日」というのをつくりました。「明治150年」も2018年で、安倍内閣がこれを大いに利用しました。
きょうの話の目的は、「戦前」というと微妙ですが、まあ明治維新から敗戦までが戦前とすると、戦前は77年で戦後は80年となります。もう戦後の方が長くなっています。ただ、「戦後80年」というのは、戦争をやっていた側からは「戦後80年」なんですが、例えば、アジアでは、その後も、朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、中東などでは第四次まで中東戦争があったりしたわけで、ぜんぜん「戦後」ではない。だから、アジア、中東、アフリカ地域では、「戦後80年」などと言われてもピンとこないし意味がない。つまり大きな戦争が終わってもいろんな戦争が続いたわけです。
また、われわれは「戦後80年」などとつい言ってしまいますが、そのときには、そこで決して戦争がほんとうに終わったわけではない。あるいは日本にとっては戦争は終わったかもしれないがその「後始末」はぜんぜん終わっていない。ましてや、戦争の被害の問題などから、新たに戦争が起こったりもしている。だから、素直に「戦後80年」とは言えないと捉えておいたほうがいいと思います。
「昭和100年」ということには、いろんな問題があると思います。そもそも天皇の在位で歴史を区切るということは、もちろん天皇中心史観です。元号というのが、一世一元、つまりは天皇の一代で歴史を区切るというのは、歴史の中では非常に少ないです。「明治」よりも前には、元号というものは、いろんな理由でポンポンと変えられたのです。縁起のいいことがあったら変えるし、縁起の悪いことがあったらすぐ変える。だから、「明治」の前、天皇は孝明天皇ですが、在位中に元号は7回も変えている。一年しかない元号もある。「万延」元年はあっても2年はない。慶応でも4年、「嘉永」は一番長くて7年(8年中に改元)だった。地震があったり、御所が焼けるとか、縁起が悪いことが起こると変えてしまう。だから、普通の人びとにとっては、元号なんていうのは、ぜんぜん馴染みがないし使いにくい。当時はだいたい干支で表していました。
幕末のころのように頻繁に元号が変わるようでは、天皇の代替わりで元号を変えるという基本からすれば、これではダメだ。天皇が治めているということを知らしめなければということで、明治以降に一世一元にした。天皇一代に元号もひとつ。しかも天皇の諡(おくりな)——死んだ後に贈られた名前で、例えば明治天皇というのは、別に明治時代に自分は「明治天皇」という名前を名乗っていたわけではない——と元号を一致させました。
天皇の生き死にで時代を区切るというのは、一世一元によって天皇の諡と元号を一致させたことで、明治天皇の時代を「明治」、大正天皇のときは「大正」、そして「昭和」と、わかりやすくはなった。ただ、私も調べたことがありますが、一般の人が元号というものを使うようになったのは、概ね日露戦争以降です。日露戦争以降になって、手紙などを書くときに、「明治何年」とか記すようになる。それまではたいてい干支を書いていた。日露戦争でまさに日本が世界的な大国になったとアピールするときに、明治大帝の世であるということを強調したわけです。「明治何年」という書き方がそれから普及してきた。
南北朝の時代は、朝廷が二つに分かれて内戦になっているわけで、そのときに元号はどうなっていたか。天皇が二人いるわけですから、北朝側の元号と南朝側の元号があるわけです。どっちを使うかで、その人たちの立場が分かる。だから元号は、そういう形で、ひとがどっちに与しているのかをはっきり示す政治的な標識でもあります。ですからなおさら、「昭和100年」とか、そういう言い方を平気で使ってしまうことは良くないと思います。
さっきも言いましたが、「明治100年」も、「明治150年」も、だいたい何か酷いことが行なわれています。またこれは歴史を単純化してしまうことでもあります。たとえば「昭和100年」とかも、これからテレビ番組でも使われていくと思いますが、「昭和100年」は、「戦争の20年」と「平和の80年」などと対比されていくと思います。見た目には確かにその通りでしょうが、中身が問われない、こういう単純な歴史の分け方でいいのか。「平和」はいいのですが、そこでも戦争に加担していたりするわけです。そんなことを一律に扱っていいのか。それに、戦争は政治的な問題でもありますし、戦前の戦争、戦後は経済成長と、これもまた単純な区分で扱ってしまう。
こういうように分けてしまうと、つながっている部分が無視されやすいのです。これが、「昭和100年」という考え方のいちばん問題のあるところです。それから、戦争だけではなく、植民地支配ということが隠蔽されてしまうことになる。戦争と植民地支配とは、切っても切り離しようがないことです。
日清戦争をなんでやったかというと、清国、中国の影響力を朝鮮半島から排除して、朝鮮に対する支配力を強めるためにやった戦争です。ところが、ロシアが影響力を持つようになったので、こんどは日露戦争になり、日露戦争はまさに朝鮮半島に対する支配権をどちらがとるかということで争ったものです。その結果何が起きたかというと、日露戦争の5年後には韓国併合です。まさに日露戦争の最重要の目的がそこにあったわけです。朝鮮半島の自由処分権を、ロシアに認めさせるということです。
重要なのは、「昭和」に至る戦争の前提にあったこうした植民地支配との関係が、「昭和100年」で括ると見えにくくなるということです。例えば今年は治安維持法制定から100年です。「昭和100年」の直前にこういうことがあるわけですが、それも落とされてしまう。治安維持法100年の方が、インパクトのあることだと思うのですが、「今年は治安維持法100年です」とはあまり数えない。歴史の区分を考える上ではこうしたことが大事なのです。この治安維持法100年は、同時に、普通選挙施行から100年でもある。普通選挙法は男性の普通選挙なのですが、それと治安維持法が背中合わせになっている。そういう意味でも、「昭和100年」と言っちゃうと落とされる可能性が高い。
それから、戦争と植民地支配が隠されてしまうと、当然のように、植民地支配の後始末、戦争責任問題がまだ済んでいないという問題が隠されてしまう。これらが大きいことです。今年は戦後80年なので、戦争の記憶の風化とか、継承されていないということは言われます。しかし、植民地支配の記憶とか、その記憶の継承とかはほとんど言われない。
確かに植民地支配を経験した人は、数の上では、もうそうはいないように見えます。しかし、日本国内にも植民地支配の姿、たとえば強制連行されてきた人たちや、「慰安婦」とされた人たちや、戦後も日本に残らざるを得なかった人たちとか、そういう人たちに対する差別というものは、実は植民地支配の延長です。それを植民地支配の延長というように捉えないとすれば、それは見て見ぬふりをしているということになります。だから、植民地支配なんか知らないよと、見たこともないという人は多いのですが、しかし、身の回りに、それを示すものはいっぱいあるので、それをちゃんと見ていかなければならないということです。
I 戦争と植民地支配
1.大日本帝国の戦争のはじまり
今日お話ししたいのは、戦争・侵略=植民地支配、暴力の関係性を考えるということです。戦争は植民地支配を、植民地支配はまた戦争を生んでいく。そのゴールと国内でのつながり方。これらについては戦争だけを切り離して語るわけにはいかない。
典型的なのが日露戦争で、「日露戦争によって日本の国際的地位が向上した」という書かれ方は教科書にもよくありますが、そこだけを取り出すのではなくて、それが植民地支配を生み、植民地支配がまた猛烈な暴力につながっていた。植民地における暴力は最近では植民地戦争という言い方がかなり一般的になってきました。朝鮮半島における治安維持——「治安維持」という言葉は、「治安維持する側」の立場からのものですが、それに沿った行動はまさに戦争そのものです。台湾でも、植民地戦争によって台湾が支配されていく。
そういった暴力による支配が植民地において行われると、暴力的支配は国内にも持ち込まれる。例えば韓国併合が1910年ですが、同じころに日本国内で起こった大きな事件は「大逆事件」です。大逆事件というのは、幸徳秋水とか、日露戦争に反対した人たちがほぼでっち上げの事件で抹殺された事件です。だから、戦争を行なう側は、とうぜん戦争に反対する人を抑え込もうとする。そうするとどうしても暴力的になっていく。ただ、大逆事件のようなでっち上げは、何度もなんども起こすわけにはいかないので、それをいつでも発動できるようにしたのが治安維持法です。
ですから、そういう戦争と植民地支配、そのような暴力による支配が国内に持ち込まれ、またそういう価値観が次の戦争につながる、という循環です。そういうふうに持続していく。「昭和100年」という歴史観に対峙するのはまさにここです。
近代日本の戦争、大日本帝国の戦争の始まりというのは、膨張主義と言ってもいいと思います。沖縄と北海道を支配下に入れることから始まる。膨張していくと、とうぜん何かにぶち当たる。「明治」のかなり早い時期、「明治」10年代、1870年代ころから、ロシア脅威論、ロシアは日本からまだ相当遠いところにいるのですが、ロシアがいずれ朝鮮半島にも出てくるだろうということを西南戦争のころから予期していて、そのときにはロシアよりも早く朝鮮半島に影響力を強めようという、取ってしまおうという考え方がありました。
幕末のころから当時の支配者の中にロシア脅威論がありましたが、当時、明治政府の中でいちばん影響力を持っていた外国はイギリスでした。教員のお雇い外国人もいちばん多いのはイギリスで、フランス、ドイツ、アメリカなどが続き、ロシア人のお雇い外国人は1人だけでした。どういう先生かというと、ドイツ哲学の先生です。ドイツ哲学の先生がたまたまロシア人だった。つまりロシアのことを学ぼうということではぜんぜんない。ではロシアから学ぶものがなかったのかというと、これはあったのかもしれないけれど、ロシア人をお雇い外国人にすることにイギリスが反対した。なぜならば、当時、世界でイギリスといちばん対立していた国がロシアだからです。その勢力が日本に影響力を持つのはイギリスとしては避けたかった。だからロシアのお雇い外国人には反対した。
どうして対立していたかというと、ちょうど日本の幕末ころにヨーロッパでは大きな戦争があった。いまにも関係しますが、クリミア戦争です。クリミア半島は、当時、ロシア勢力とイギリスが激しく衝突する焦点でした。クリミアから、現在のウクライナ、そしてバルカン半島は、イギリスとロシアの烈しい攻防の土地なのです。ほんとうに恐ろしいことに、それから150年たった今でも似た構造なんです。
バルカン半島から、ウクライナ、クリミアをはさんだこの辺りは、海の方から北上しようという、当時はイギリス、いまはアメリカがあり、北の方から南下しようという当時はロシア、いまもロシアですが、その衝突する地点です。もう一つ衝突する場所がありました。それがアフガニスタンです。当時のインドはイギリスの植民地ですから、北上しようとするイギリスの勢力と、南下しようとするロシアの勢力がアフガニスタンで衝突する。そしてさらにもう一つが、朝鮮半島から満州にかけての地域、これがイギリス対ロシアの最前線です。こういうイギリスの世界的にロシアを抑えていこうという、あるいは疲弊させようという戦略の中に、日本も組み込まれていく。
当時の日本の国家指導層は、「主権線」と「利益線」という言葉を使っている。主権線はまあ国境ですが、利益線というのは、国境よりもう少し外側で、影響力を行使するというエリアをさします。線といいますが、実際には面です。この利益線を確保するということが、明治時代の国家指導者にとっては重大・重要な課題になります。そのことを明治の指導者になる何人かの長州出身者たちに教えたのが吉田松陰です。
明治以降になると、脱亜論を唱えた福沢諭吉です。アジアから脱すると言って、じゃどこに行くかというと欧米と手を結んでいく。これが日英同盟の路線につながります。そして、その外側に張り出す=利益線を確保しようという戦略は、朝鮮半島をロシアが来る前に日本の影響下に置こうとすることになる。そして朝鮮半島に影響力を強めていこうとしたときに出てきたのは、ロシアではなくて清国、中国でした。歴史的に見て中国は朝鮮半島に大きな影響力を持っていたので、それは当たり前でした。
だから、日本の大規模な対外戦争の始まりは、ロシア脅威論に基づいて朝鮮半島に出ていって、その結果おきたのが日清戦争ということになるわけです。ちょうど今年は日清戦争が終わってから130年になります。日本の大規模な対外戦争の始まりは、ロシア脅威論に基づいて朝鮮半島に出て行ったのですが、その結果起きたのは日清戦争ということです。
いよいよそのロシアという大国と対峙しようとなった時に、これは日本だけではどうにもならないので、日英同盟を結ぶわけです。1902年のことです。日英同盟は今の日米同盟の原型みたいなものです。日英同盟がなかったら、日本は日露戦争はできなかったと思います。まずお金がない。日露戦争ほど、借金で戦った戦争は世界史上でも珍しい。
日本は国債を外国に買ってもらって、戦費を調達しました。それを担保にして、ヨーロッパからすぐに武器を輸入し、それが満州に着くと戦いができる。その外債の募集が成功しないと、武器が手に入らず、満州にいる日本軍は武器がない状態になる。相手があることだから、そんなに都合よく次々と武器が送られてくるわけじゃない。そうした時の一番有名な事例が、1904年の5月の得利寺の戦いです。日本側は玉切れになっても次の弾薬が到着しません。ロシア軍はどんどん接近してくる。それに対して日本側は石を投げる(笑)。当時はヘルメットがない時代なので、これは意外に効いたそうです(笑)。必死になって石を投げてロシア軍を退却させた。相当に石を投げたということです。それぐらい弾薬不足、つまり戦費不足で日本は困っていたんです。
日本軍が少し攻勢に出ると、海底ケーブルを使ってヨーロッパにすぐにそのニュースが伝えられる。特にイギリスの新聞を使って、「日本軍大勝利」といった宣伝が行われたんです。その直後に日本外債の売り出しがあると売れる。そういうことを繰り返して、薄氷を踏むような戦争だったんですね。
これは日英同盟を結んでるので、ある意味、イギリスが保証人みたいになってる。もし日本だけだったら何の信用もないのでダメです。日露戦争の前半にはイギリスが国債を買ってくれました。後半になると、それに刺激されたアメリカのユダヤ資本が大量に日本の国債買ってくれるようになった。これはすごい額なんです。日本の国家予算レベルで買ってくれる。何故か? 時々、「ロシアの反ユダヤ政策に怒ったユダヤ資本が日本を支援したんだ」と言われることがありますが、これは大間違いです。狙いは、日本に頑張ってもらって、満州を確保してもらって、そこにアメリカ資本の鉄道を敷きたい。当時の植民地支配の要は鉄道です。アメリカの鉄道王ハルマンという人がいて、アメリカ中に鉄道をひいて、次は海を渡って満州に行くんだ、と。その最大の出資者がクーン・ロープ商会というユダヤ資本です。このクーン・ロープ商会は大量に日本の国債を買ってくれた。これで日本が首尾よく勝利すれば、ユダヤ資本に後押しされたアメリカの鉄道資本が、満州に進出する、という話なんです。
日本はそれによって、大量の外債を消化することができて、なんとかかんとか戦費を調達して日露戦争勝利ということになる。しかし、外債で得た戦費ですから、これは返さないといけない。外債、国債ですから。どうやって返したのたのか? 日露戦争は賠償金が取れなかったので、それで穴埋めはできなかった。穴埋めできないとどうなるかというと、やることは一つで、また外債発行して新たに借金して借金を返すしか手はない。だからどんどん借金が増えていくことになるのです。
日露戦争では、日本は8万人の戦死者が出ている。しかも戦費がそのまま借金として残って、その借金はどんどん膨らんでいく。そういう踏んだり蹴ったりの状態なのです。だけど、イギリスは日本の朝鮮に対する植民地支配を認めてくれた。だからすごい犠牲のもとに、日本は日露戦争で勝利して、朝鮮に対する植民地支配と、それから満州の一角、遼東半島の権益を得た。そこに引いた鉄道が、もともとロシアが作った南満州鉄道——満鉄です。これが日本のこの後の進路を結果的には大きく狂わせることになります。つまり、大陸から足が抜けなくなってしまう。そこにはお金もかけたし、人命もたくさん使ってしまった。だからもう引くに引けないわけです。
日清戦争と日露戦争というのは、明らかに成功事例と見なされました。まず日清戦争は領土・台湾と賠償金を得ました。この賠償金であの八幡製鐵所を作った。儲かったわけです。で、日露戦争では大変な犠牲と借金をかかえたけれども、朝鮮半島を確保することができて、大陸経営が始まった。
だから日本はロシアに勝ったように見えた。でもこれは勝っているときに終わったからです。ノックアウトしたわけじゃない。日本がロシアをノックアウトすることはそもそもできなくて、もし長期戦になっていたらだめだったでしょう。でもロシアでは、ちょうど第一次ロシア革命が起きて戦争を続けられなくなっていたという事情もありました。
今年は日露戦争が終わってから120年という節目です。日露戦争で、日本は大陸に抜き差しならぬ権益を得てしまった。一等国なんていう言い方を当時しましたが、大国意識が拡大し、朝鮮半島から南満州へ、さらに北満州から華北へと、この後の膨張路線がだんだん確立していきます。
この権益をさらに拡大しようとしたのが、第一次世界大戦中の対華21カ条の要求です。日本の権益を中国にもっと認めるよう要求するわけですね。この対華21カ条の要求は中国側からみるとすごく大きなエポックで、やっぱり日本の膨張主義のアクセルがさらに踏み込まれたと、だいたい評価されている。
その対華21カ条から110年です。なんかすごく区切れがいいというか、そういう言い方でいいのかどうかわからないですが、日清戦争、日露戦争、対華21カ条と10年単位で続いています。当時の日本人は日露戦争を毎年回顧した。どういう形で回顧するかというと、二つの記念日があります。3月10日の陸軍記念日。これは陸軍が奉天を占領した日です。3月10日前後になると陸軍が中心になって、日露戦争でこんなに日本は頑張った、そこで多くの血が流れて満州をとったんだから一歩も引くなみたいな、こういうキャンペーンが行われた。そして5月27日は海軍記念日で、これはバルチック艦隊を打ち破った日で、海軍が大宣伝する。毎年こういう行事がある。必ず日露戦争に立ち返って、過去が回顧される。これは結構重要なことです。
2.日露戦争が国内政治に与えた影響
この日露戦争後に、まず起こったのが韓国の保護国化、そして五年後に韓国併合ということになります。保護国化というのはその国の外交権を奪うことです。まず韓国をそういう状態にする。外交権を奪うと、韓国は諸外国にSOSを出せなくなる。日本にこんなひどいことされてるから助けてくれ、という発信ができなくなるのです。外交というのは外国に通信する権限ですから、それを日本が奪ってしまうということは、韓国の外交を日本が代わりにやるということです。だから韓国の人たちは、日本が酷いことをしても、外国に伝えることができないわけです。
韓国を保護国化して、その間に日本は各国といろんな条約を結びます。日英同盟の改定、日露講和条約、桂タフト協定(アメリカとの協定)、日露協約、日仏協約と、たくさんの条約を1905年から7年にかけて結びます。これらはみな、イギリスならイギリス、アメリカならアメリカのアジアにおける植民地支配を、日本が容認する代わりに、日本の朝鮮支配を認めてもらう、こういう取引です。列強と取引して、あなたたちのアジアにおける植民地支配に対して日本は一切文句言いません。その代わり、日本のアジアに対する支配は容認してください、と。
日露戦争は、白人に対して黄色人種である日本が立ち上がった戦争だ、という評価がある。今でもそういう風に言う人がいる。しかしこれは大間違いです。当時は、まさに白人帝国主義の側に日本はついたわけです。黄色人種の代表として戦ったという説は、概ね1920年代以降、とくに30年代になって、日露戦争が回顧される度に出てくる。そして、もともと日露戦争とはそういう戦争だったんだ、という実態とは全然違う話が一人歩きするようになります。
3.韓国併合と反日義兵闘争
1910年に韓国を併合します。韓国併合はあくまでもプロセスで、要するに大陸進出の基盤がここにできたということです。さっきも言いましたが、同じ年に、大逆事件があって、戦争反対派への大弾圧が行われた。植民地戦争、韓国併合に反対する義兵闘争に対する弾圧が行われます。これは本当に激しいもので、治安維持とかいうレベルではなくて、本当にもう戦争なんです。
日本軍がはじめて機関銃を使ったのは、朝鮮半島ではなく台湾征服戦争なんです。日清戦争の後、講和条約が結ばれた後で、日本軍は台湾に上陸します。ところが、台湾の人にとっては、清国(中国本国)が台湾を日本に割譲したということを知らされていないので激しい抵抗をする。その激しい抵抗に対して日本軍は初めて、外国から買ってきたばかりの機関銃を使って鎮圧する。
機関銃は、ヨーロッパ諸国でも、だいたいそういう使われ方です。植民地を少数の人間で支配することが可能なように機関銃を持って行く。「文明国」同士の戦いで機関銃が使われのは、ずっと後のことです。こんな大量殺戮の道具を「文明国」同士で使うのはなんか良くないというイメージがあるんですね。第一次世界大戦の時に、それが破れて大変な大殺戮になるんですが。日本も例外ではなくて、この機関銃が台湾支配で使われ、朝鮮支配の時も機関銃が持って行きました。そういう形で激しい弾圧が行われた。期間は結構長いです。義兵闘争というのは日清戦争の頃からもう起きてますから、日露戦争をへて、その後までずっと続いて、多くの犠牲者が出ました。
これらについては当時、イギリスの新聞は意外に報道しています。イギリスの新聞は、日本軍が朝鮮半島で「露探」というロシアの探偵(スパイ)を捕まえて処刑してる写真を載せてます。日本でもそういう報道はされました。しかし、この「露探」と言われた人たちの正体は、たまたま自分の土地に日本軍が電信線を架設して、こんなの勝手につくってもらっちゃ困るといって切っちゃった人がもう「露探」なんです。そういう人たちにとっては、なにかすごく異質なことが行われていて、それに対する抗議とか抵抗が起きますが、それはみんな「露探」扱いで処刑されてしまうということが起きました。
4.日露戦争、韓国併合、大逆事件を一体のものとして把握する歴史認識の必要性
あの日露戦争、韓国併合、大逆事件を、一体のものとして把握する歴史認識が必要です。戦争が植民地支配を生みます。というか、植民地を獲得するために戦争が行われるわけですから、植民地支配がさらなる膨張戦争を生んでいくということになります。そして、植民地支配が武力による弾圧と言論抑圧を生んでいきます。そうすると、植民地における暴力が国内に伝播する。
戦争と植民地支配が本国での弾圧と言論抑圧を生むという、こういう戦争、植民地支配、言論弾圧はつながる。連鎖反応を起こしていく。この時代はこういう構造として捉えないといけない。基本的にはこの後もそうです。つまり、ここが成功事例になって、それがまた繰り返される、ということになります。
II 植民地支配と暴力・戦争の連鎖
1.日露戦争〜関東大震災虐殺事件〜満州事変
今度は植民地支配と暴力・戦争の連鎖ということで、具体的に見ていきます。
韓国併合によって朝鮮総督府がおかれ、武断政治といわれるものが行われます。これはまさに植民地戦争の継続で、総督府の支配に対する反発として、1919年、併合されてから9年後に、3.1独立運動が起きるわけです。で、この3.1独立運動を武力で弾圧する。この抵抗する人たちの中に、中国との国境を越えて中国側に行く人たちが結構いた。そして、当時すでにロシア革命が起きていたので、その影響も受ける。
今の北朝鮮と中国の国境の中国側のことを間島というのですが、日本側は、中国国内にゲリラの拠点があって、国境を越境して朝鮮側に入ってくるゲリラを討伐するということで、1920年に国境を越えて攻め込みます。国境を越えて、警察と軍隊が中国領に攻め込んで、ゲリラを討伐する。これを間島事件と言います。そもそもその3.1独立運動は日本国内では暴動と報じられているわけです。門から降ろされてる垂れ幕に「独立万歳」と書かれているんですね。ところが、当時の日本の新聞ではこれは報道されない。「〇〇万歳」と「独立」いう言葉が消されてしまう。だから日本国内でそれを読んでる人は一体何の運動なのかわからないのです。
この中国領から攻め込んでくる人たちについても、日本の国内の新聞では、この1920年の間島事件をきっかけに、「不逞鮮人」と言い出す。当時の、朝鮮の人たちのことを「鮮人」といういい方は、もう既に差別感がこもった言葉です。そのそもそも差別感がある言葉に「不逞」がさらにくっつけられる。とんでもなく悪いやつだという意味合いになる。日本では、間島事件をきっかけに、この「不逞鮮人」という言葉が普通に使われるようになってしまう。
当時の日本の新聞の報道では、この独立運動の「独立」の部分は伏字になってます。アメリカのキリスト教徒とかソ連の社会主義者が煽動してる、外国人が煽り立てやらせている暴動だという報道です。多くの日本人は、このように思い込んでしまう。しかもこの「不逞鮮人」と呼ばれる人たちは残虐の限りを尽くしてると、こういう感じで報道されます。
この間島事件から関東大震災までわずか3年です。あまりにも近い。朝鮮人に対する先入観が非常に強く植え付けられていて、「朝鮮人の暴動」イコール「不逞鮮人」という連想が、当時の日本人にはパッと繋がってしまう。関東大震災のときには、もう普通に「不逞鮮人」という言葉が使われています。
もう一つ。第一次世界大戦を経ることで、戦争に対する考え方が少し変わります。戦争概念の転換、つまり戦争・軍隊というのは外敵に備えるというのが、普通の考え方でした。ところが、「内敵」にも備えなければダメだ。「内敵」というのは思想的に相容れない人たちのことです。ロシア革命がこの第一次世界大戦中におきたので、そのロシア革命の影響を受けた人たちは、日本の新聞では普通に「過激派」と載ります。「ロシアの過激派」という言い方をして、社会主義者イコール「過激派」なんです。で、それに影響を受けた朝鮮の人たちはもう「不逞鮮人」と、こういう言い方になる。まさにその思想敵に内通する者が、この「内敵」なんです。内敵は天皇制の支配に服従しない人々ということで、つまり社会主義者は内敵なんですね。内部の敵なんです。だから関東大震災の時も無政府主義者とか社会主義者も虐殺されました。治安維持法みたいな法律による支配と同時に、民衆の相互監視、つまり内敵を逃がすな、ということです。もう少し経つと「非国民」という言葉が使われるようになる。
まさにこういう時代に起きたのが、関東大震災における虐殺事件です。当時の内務大臣は水野練太郎、警視総監は赤池濃です。その直前まで、水野練太郎は朝鮮総督府の政務長官で、赤池濃は警務局長であって、3.1独立運動を鎮圧した張本人たちです。彼らが、日本に戻ってきていて、内務大臣や警視総監を務めていた。こう言う人たちが日本の治安を預かっている。暴動の主体は、「内敵」といわれた朝鮮人や社会主義者です。多分に官憲が曖昧な情報を流したり、煽動したりしたわけです。地域で虐殺事件が起きるんですが、あまりにもひどかったので、そのことが裁判になったりしている。裁判にはなるのだけれども、朝鮮人を殺した人たちはいっぱいいるのだけれども、その人たちは、法のもとで裁かれたのか。多くはすごく軽い罪で終わっている。または、証拠不十分で不起訴になっている。
一昨年が関東大震災から100年で、最近になって地域で、それまで隠蔽されていた事件が掘り起こされた。福田村事件は有名です。千葉県の野田で起きた、四国からの行商人が、朝鮮人に間違えられて殺された事件です。このことは地域では、「話してはいけない」ということで長年にわたって伏せられていた。それが、本も出たし映画にもなって、多くの人が知ることになった。
騒乱状態で「内敵」を叩く——あまりにも無秩序にこうしたことが行われたので、ちゃんと整理しなければならないということで、治安維持法ができるわけです。治安維持法は、秩序正しく内敵をやっつけると言う法律です。今年で制定から100年になります。
「昭和100年」と言われたら、「治安維持法100年」と言い返さなければいけない。
2.国内暴力が対外暴力・戦争へ連鎖
関東大震災の直後くらいから、中国では、国家統一の動きが強まってきます。蒋介石による国家統一の動きです。北伐というふうに言います。これはあの北方に蟠踞している軍閥を打倒して、国家統一を成し遂げようという運動です。この北伐軍がどんどん満州の方に近づいてくると、満州の権益がおびやかされるんじゃないかと、日本政府は考えた。それで、山東半島まででこれを何とか食い止めようと、山東出兵を行った。この時に起きたのが、張作霖爆殺事件です。
張作霖は満州の支配者です。満州を支配していた軍閥ですけが、もっと南の方まで進出していた。基本的に北京あたりまで支配してたんですが、北伐軍によって撤退せざるを得なくて満州に帰ろうとした時に、鉄道が爆破されて殺される。殺したのは日本軍です。実は霖爆殺の軍事顧問も日本軍です。つまり張作霖と日本軍は持ちつ持たれつの関係だったんですが、日本側はあえて張作霖を殺害することで満州の治安状況を悪化させ、そうすると満州にはたくさんの日本人がいますから、天皇や日本政府は関東軍(満州に駐屯してる日本軍)に、出兵命令を出すであろう、出兵命令が出たら、その勢いで満州を占領してしまおう——と言うのが、張作霖爆殺事件の隠された計画だった。
張作霖爆殺をきっかけにして満州占領という、満州事変の原型がここにあるのです。ところが、関東軍の予想に反して、日本政府も天皇も関東軍出動せよとの命令を出さなかった。だから関東軍は動けなくて、満州占領計画は未遂に終わった。この失敗を、政府の命令を待っていたからダメだった、命令なんか待たずにどんどん占領すればよかった、と考えたのが石原莞爾です。それで満州事変でそのようにやるわけです。まさに「力による現状変更」を関東軍は考えたと言うことです。
これと同時にですね、やっぱり日本国内では弾圧体制が強化されます。1925年に治安維持法ができました。それを三年後、緊急勅令によって改正し、最高刑を死刑にする。この後、こういうスパイ取り締まりとか、治安弾圧に使われるいろんな法律が作られていきます。これがだいたい日中戦争あたりからです。最高刑はみんな死刑になっていく。実際に、社会主義ソ連に通じているとみなされた共産党員は、内敵であると見なされて、1928年、29年に大弾圧される。ですから、対外的な悪巧みと、国内における弾圧は、同時並行で行われている。そして満州事変で、関東軍の思惑通りの満蒙占領が実現したわけです。
当時の石原莞爾の書いたものを読むと、満蒙併合は、韓国併合と同じイメージなんです。韓国併合と同じように、満蒙併合を世界に宣言してしまえばいいんだという考え方です。これはまさに対外的な公巨大な暴力が行使されたと言うことで、これが今度、国内にまた連鎖する。対外的な暴力が行われるようになると、国内も暴力の時代になってします。ですからこの直後に、血盟団事件、515事件と言う、テロが行われる。外での暴力行使が、国内における暴力行使につながっていく、そういうことなんです。
この血盟団と515は、考え方を同じくするグループで、民間人がやったのが血盟団事件、軍人がやったのが515事件です。この人たちにとっては、政党政治こそが内敵である、こういう考え方に傾斜している。だから、この人たちはもう政財界の要人をテロリズムをもって取り除く、そういう行動に出るわけです。
この後、満州事変で満州国ができると、これが成功事例とみなされる。これは、天皇も含めてです。満州国を作ったのは、力による現状変更を成功させた、ということです。満州国は、日本国土の3倍もある。それを欧米列強の介入も許さないで作った。介入を許さないと言っても、世界恐慌の真っ最中なので、列強は介入できなかったのです。そのことは大きい。ただ、もし介入するとすると、一番可能性があったのはアメリカ、イギリス、そしてソ連です。
だけど、ソ連は、五か年計画の真っ最中で、世界の資本主義国が世界恐慌で右往左往しているときに。ソ連としては、「やっぱり社会主義は違うぞ」というところを見せたいわけで、そこに力を入れた。地域紛争に介入してたりすると、まずいという判断です。介入する可能性のあったイギリス、アメリカは世界恐慌真っ最中で、ダメ。イギリスはインドの政情不安もあって出兵できない。ソ連も介入できない。そういう条件が妙な形で整って、満州事変と満州国建国がまんまと上手く行っちゃたのです。
ここなんです、日本陸軍の中堅幹部層が思い上ががっちゃう原因なんです。自分たちは世界情勢を読み切ったんだ、という過信です。外国は介入できない、中国も激しく反撃してこない。蒋介石政権は正面から反撃するんじゃなくて、国際連盟に訴える。全勢力を使って日本国に反撃しようとはしない。
なぜかというと、国共内戦です。すでにこの時。共産党勢力をもう少しで追い詰められると蒋介石は考えていて、そっちに力入れたと思うんです。だから勢力を日本に回すと、共産党勢力を抑え込む機会を失ってしまうから、とりあえず日本は国際連盟の方に訴えて、国内の内戦を自分たちの力で勝利しようと思った。だから、あの世界の列強も勧誘できない。当事者である中国側も、日本に対して正面から反撃はしてこない。これは偶然なんですけども、そういう状況の中で満州国が作られる。それが上手くいった。
3.満州事変・日中戦争・アジア太平洋戦争の連続性
上手くいくと世の常で、「もう1回やろう」となるわけです。第二の満州国を作ろうという考え方が出てくる。これは華北分離工作と言います。北京周辺を華北と言います。この辺りを中国政府である蒋介石政権の影響下から分離して、自治的な、自治というと聞こえが良いんですけど、要するに日本の勢力圏にしてしまおうと、そういうことが行われる。これは1936年に日本の国策となります。岡田啓介内閣の時です。
この華北分離という言葉は、戦後になってから使われている言葉で、当時は「北支処理」と言っていました。そこを一種の自治区みたいにして、蒋介石政権から分離しようと言うことです。で、この工作をやっていた真っ最中に盧溝橋事件が起きちゃう。盧溝橋事件が起きたので、これを機に華北分離を実現しようとして、盧溝橋事件がどんどん拡大する。まさに火に油を注ぐ油の部分になるんです。どんどん油が注がれます。それによって日中戦争はどんどんエスカレートして行く。それで華北の主要なところを実際に占領してしまう。そうすると、華北分離だけじゃなくて、もう蒋介石政権そのものを打倒しようじゃないか、と、戦争目的がなし崩し的に変わっていってします。
この時点で、英・米・仏・ソは、自分達が中国で持っている権益を奪われるのではないか、と考えはじめる。しかし、自ら出兵して日本と対決するという余力はない。それだったら中国に頑張ってもらおう、となる。それで軍需物資をどんどん援助することになる。ですから、日中戦争というのは次第次第に日本対中国という図式ではなくて、日本対中国その背後にいる英・米・仏・ソという、だんだん世界戦争的な構図になっていってしまう。これが日中戦争の一番重要なところなんです。日本と中国の単独の戦争ではなくなっている。
今のウクライナ戦争が、世界大戦の引き金になるんじゃないか、と言われるのは、この構図と非常に似てるからなんです。そうならないことを願いますけれども。
これで日本対中国、後ろに英・米・仏・ソがいるという構造ですね。日本はこれを突破できません。英・米・仏・ソを相手に戦争するなんてこともできませんから、取られた戦略が、英・米・仏・ソを抑えることができる存在としてのドイツ、イタリアに接近して行く。向こうも日本に接近してくるんです。それで、ドイツ、イタリアと結んで英・米・ソを牽制しようとする。当初はフランスも入ってますけれども、フランスは第二次世界大戦が始まってすぐにドイツに占領されてしまいます。
1939年にすでにヨーロッパで戦争が始まってますので、その戦争やってる片一方と日本は同盟を結んだわけです。これは考えてみると、ひどい戦略です。だって、戦争をやってる片一方と同盟するっていうことは、ドイツと戦ってる国は全部日本の敵になるわけです。仲良くなるわけがないわけです。だからイギリスとかアメリカとかと交渉するといったって、日本はドイツと手を結んでるでしょう、って当然なるわけですから。うまくいかないですね。それで英・米との対立は全く不可避の状況になるわけです。三国同盟を結んだ段階で、そういう構造になってしまいます。
さらによく1941年に独ソ開戦で。ドイツとソ連が戦争を始めることで、世界のパワーバランスが大きく変わって、つまり、ドイツとソ連が戦争を始めたということは、当時、ドイツと戦争をやっている唯一の国はイギリスだったわけですから、イギリスは助かったということになる。イギリスに手こずっていたからこそ、ドイツはソ連に攻め込んじゃうんです。長期戦の基盤を作るため。ところがこれが大きな誤算だった。ソ連は、そんなに簡単に負けなかった。ここでソ連という大国が英米側についたわけです。世界のパワーバランスが激変した。これは日独陣営敗北の一番ベースになるところです。
この戦争の中で、また一段植民地支配、占領地支配が強化されていきます。台湾、朝鮮に対して、皇民化政策が日中戦争の頃からとられる。そして戦争動員体制に組み込んでいくわけです。そして南方占領地においても、とにかく資源を獲得するために、ひどいことが行われるようになります。結局、こういう形で日本は戦争をしてしまって、アジアの非常に広大な地域を支配下に入れて、人的にも大きな損害を与え、物的にも大量の資源を略奪したわけです。
4.戦争と植民地支配の後始末の未済
その後始末はどうなったのか。曖昧なんですね。つまり、賠償と経済援助が絡められたものですから、援助したことで賠償したみたいな形になっている。戦後当時の東南アジアの政権はだいたい独裁政権ですから、その地域の人たちの納得はまだ得られてないわけです。その後始末の不完全さが、朝鮮戦争のさなかに講和条約が結ばれたという、ここにある。まさに世界が二分されて戦っている時の講和条約なので、極めて中立性に乏しいものなのです。ですから、領土問題など重要案件は基本的に先送りされたわけです。そして戦争責任問題についても極めて曖昧な形にされてしまった。
ですから、講和条約が発効して、戦争の後始末が完結したっていうことでは全然ないわけです。むしろ肝心なことはほぼ先送りされてしまった。そうこうしてるうちに、時間がどんどん経って忘れられていく。やった方は忘れてします。だいたいそういうものです。加害・被害で言うと、だいたい加害側はだんだん忘れていくということです。
とりわけ日中戦争に対する認識が、どんどん薄れていってしまう。日本はアメリカと戦争したんだっという意識がどんどん強くなって、その前にどことやってたんだ、という意識が薄くなる。それに手こずって、ドイツと手を結んで、結局対英米戦争になっていくわけです。しkし大元は日中戦争にあるわけです。その部分が非常に薄れてしまった。またそこには大変な加害行為があるわけです。そういうこともなかなか語りつがれないと言うことになります。
おわりに
まとめますと、植民地に対する支配・暴力が、それを正当化する価値観、あるいは独立運動を敵視する価値観が、日本国内に伝播する、ということです。それらは、国内になかったというわけではなくて、差別という形で国内に持ち込まれていた。それが具体的には、貧困であったり、格差であったり、差別の構造としてあったけれども、見て見ぬふりをしてしまったんです。それが戦後まで続くわけです。それらを直視してこなかったということが大きいわけです。一部のジャーナリストは、これを一生懸命追求したわけですが、大手マスコミは、戦争、特に植民地支配の話はどんどん横においていってしまった。
また「大国」=「一等国」を維持しようとする価値観。これは知らず知らずのうちに今でも引き継がれている。G7とか、そういうところに入ってるのが偉い、という価値観です。この価値観は妙に強いですよね。そこに入らなくても、普通にやっていけばいいじゃないかと思うんですけども、なんかリーダーの一角を占めていないと気が済まないみたいな意識は、明治以来抜けきれない。そして「内敵」排除の論理っていうのが、常に何かをきっかけにして出てくる可能性があります。危機に際して、内敵に対する敵愾心が高揚する、「内敵」に対する暴力として顕在化する、ということです。「そんな大げさな」と思う人もいるかもしれませんが、なんかそのように刷り込まれているんですね、私たちには。
普通に朝のニュースを見てると、「中国」という言葉に、「海洋進出を進める」という枕詞が付いてきます。あるいは「覇権主義的傾向が強い」とか。そこで言わなくてもいいじゃないと思うところでも、そういう枕詞が付いている。そうすると、知らず知らずのうちに、中国は海洋進出を進めているんだとか、覇権主義的なんだというイメージが固定化されてしまうところがあります。繰り返し言うことの怖さがありますよね。免疫ができてはいけないのですが、私たちもそういう形で聞き流してる。しかし、若い世代にはどんどんそうした意識が刷り込まれていっているということです。
力による支配、「内敵」排除の論理というのは、常に働くということです。力による支配みたいなことを容認し始めると、どんどん増幅して行きます。それを止めようというのが、戦後日本の原点だったのではないでしょうか。憲法九条は、「戦争放棄」ですが、戦争だけでなく、「武力による威嚇」も放棄している。この部分は、もうなんか忘れ去られてるんではないか、と思うくらいの状態です。
「昭和100年」では、いろんなキャンペーンが行われるでしょうけれども、歴史を単純化するのもいけないし、見るべきところをちゃんと見ておかないといけない。この「昭和100年」の少し前ぐらいから歴史をちゃんと見ておかないといけない。戦争と支配と暴力の連鎖というものが、どんどん増幅していって、抜き差しならないところまで行ってしまった、「昭和」とはまさにそういう時代だったんです。
「戦争は終わっちゃったんだから、いいじゃないか」と言うのではなくて、「だけど、ちゃんと後始末できたのか?」とか、「それについての認識を我々は共有してるのか?」というとことを問い直す必要があると思います。なんか水に流しちゃったみたいな感じのところもあるわけで、一番これがまずいところだと思います。
今の状態を見ると、戦争の準備してるわけです。軍備拡張は戦争の準備なわけですから。それをもっとリアルに捉えないといけないんじゃないか。ある程度軍事力がないと抑止力にならないといった考え方は、やっぱり対立をエスカレートさせる根本原因なんです。戦前の、例えばノモンハン事件などの経験からすると、紛争が起きない、戦争が起きない、一番良い手立ては、軍事力を引き離すことなんです。相手が出てくるからといって、その近くに軍事力を配置すると、だんだんお互いに戦力を増強していくことになって、ちょっとしたことで爆発する。それは場合によっては、意図しないでそういうことが起きる可能性がある。だから戦力引き離しが一番いいことなのに、今は完全に逆に進んでますよね。どんどん緊張が高まるところに戦力を集中するというやり方になってしまっている。
軍事力は、一番厄介なのはこれが全部理性的に動くかどうかがわからない。我々が予期しない衝突とか、特に軍拡が連鎖し始めると、例えば日本が、中国のことを恐れて軍拡すると、中国も当然軍拡します。そうなると日本だけじゃなくて、周辺諸国も軍拡する。
歴史的に見ると、中国が軍拡すると意外に強く反応するのはインドです。インドが軍拡すると、歴史的に見て必ずパキスタンが軍拡する。こういう連鎖が起きるんです。全然我々が関与してないとんでもないところで火がついちゃうことが起こりえる。そんなことはこっちは知らないよと言ったとしても、その連鎖反応が起きる、連鎖的に爆発していく一端を担っていたことは間違いないわけです。第一次世界大戦の時の宣戦布告の連鎖はまさにそういうものです。自分たちとはあんまり関係がないところで、火がついて、それがどんどん広がって。どうやっても手がつけられない、そういうことが起こりうるのです。
*沖縄・安保・天皇制を問う4.28-29連続行動実行委員会による集会「『昭和100年』に対峙する歴史認識を」(2025.4.28 於・文京シビックセンター)における講演を、編集部の責任でまとめたものです。