根津公子(東京公立学校元教員)
「戦後80年」と政府もマスコミも言うけれど、戦後は今もって来ていない。天皇裕仁は自身の命乞いのために沖縄を米軍に差し出し、米マッカーサーの占領政策によって戦犯どもが政治の中枢にのぼり、今に至る。政府は日本国籍の日本兵には軍人恩給を支給するが、植民地とした朝鮮籍の元「日本兵」やアジア各国の戦争犠牲者、日本各地の空襲で犠牲になった人たちには何の補償もしないまま。
さらには、子どもたちは「戦後」の一時期を除いて、国家のための教育を受けてきた。「思想・良心の自由」をはじめとする個々人の権利を剥奪し国家の価値観を注入する、憲法違反の教育を。
敗戦5年後に生まれた私の受けた学校教育が憲法違反の教育であることに、私が気づいたのは18歳の時。そこに始まり、教員としての体験を通して、「戦後は来ていない」ことを述べたい。
■国家の価値観を刷り込まれた
中学3年生の夏休みに新聞で「期待される人間」を読み、私たちはこんなに期待されていると思い、同じく中3の卒業式の練習で「君が代」を歌い「私は日本国民!」と気持ちが高揚したことを昨日のことのように鮮明に記憶する。
短大に入学すると、学舎に立てかけられた看板のことばがわからず、そのことばを手掛かりに本を漁った。そこで、父が行った戦争が侵略戦争であったことを知り、父を問い詰めた。高校までの社会科の教科書に「侵略」の文字はなかったし、「侵略」を教えてくれた教員は一人としていなかった。自身が戦争に行ったのに、その体験及び平和の大切さを話してくれる教員もいなかった。私は私の鈍感さに気づくとともに、こんな大事なことをなぜ学校教育は、国は隠すのか。私のような子どもを再生産するのはイヤだ。そう思って教員になった。
■私は逃げ切れた世代
一般公務員の条件付き採用期間は6カ月だが、教員のそれは2002年から1年となった。それ以前の条件付き採用は形だけの制度であったが、02年からは「正式な採用になる前に、一定期間(通常1年間)勤務し、その間に教員としての適格性を審査される制度」と明記し、全国どこも毎年ほぼ3%程度の教員が正式採用にならない。校長の具申による。校長の具申によるので、条件付き採用教員は、校長の指示命令に忠実に従い、さらには校長の意をくんで仕事に邁進することになる。それが「教員としての適格性」なのだ。
私が1971年に就職して8カ月の間に校長は4回、私の両親を学校に呼び出した。2学期最後の日が4回目の呼び出しで、その夜、両親は私の住むアパートに来た。翌日私が校長に抗議したことで、その後、こうしたことはなくなったが、条件付き採用の今だったら、間違いなく正式採用にはならなかったはずだ。
さて、私は東京都教委及び八王子市教委から懲戒が処分や訓告を何度も受けてきた。最初の処分が94年の卒業式の朝の件。校長は職員会議の決定を無視し、大勢の生徒たちの「揚げないで」「降ろせ」の声の中、「日の丸」を掲揚した。私は校長の揚げた「日の丸」を下ろしたことで減給1カ月処分に。95年、99年には生徒向けプリントに「日の丸・君が代」強制について記述したことで、市教委から文書訓告。都教委が授業内容での懲戒処分はできないというので、市教委の権限でできる訓告処分にしたのだった。異動1年目の2001年には担当する家庭科の授業で「従軍慰安婦」を取り上げたところ、校長・多摩市教委は保護者を使い1年にわたる攻撃を。授業内容での処分はできないので、1年間に校長が出した職務命令に従わなかったとして減給3カ月処分に。校長・多摩市教委は都教委から指示されて動いたのだった。
03年に都教委は、各校長に所属教員に宛てて卒業・入学式で「君が代」起立・斉唱の職務命令を出すよう通達を出した。それ以降私は、定年退職まで毎年処分を受けた。減給6カ月に始まり、退職前の3年間は停職6カ月処分を受けた。停職6カ月の次は懲戒免職にされるというもの。都教委の人事部長らは、「根津を免職にする」と校長に告げたと聞く。
でも、私は免職にされずに、定年退職を迎えることができた。そのとき私は、逃げ切れる世代、と思った。戦争法をはじめとする悪法が次々に成立し、軍事予算がGDPの2%、さらには貧困層が拡大し続ける今だったら、右翼勢力からの攻撃や人々の不平不満と相まって都教委は容易に私の首を切れたのではないかと思う。
■生徒に対し私が問題提起したこと
家庭科の授業では、教科書が記述しない事実を提示し、それをもとに生徒たちが考え判断できるよう、教材を作った。02年に処分となった「従軍慰安婦」の授業は、校舎内に性をもてあそぶ雑誌やコンドームが散乱し、授業と関係なく卑猥な言葉を飛び交わせる生徒たちを前にして、教員の注意でこれを正せはしない。生徒たちが自身に向き合い考えることのできる題材は?と考え提示したのだった。生徒たちと年齢の違わない、慰安婦にされた女性の体験や悲痛な叫びを、そして、その慰安婦をもてあそんだ若かった日本兵(当時)の証言を聴くことで、女性差別及び日本が侵略したり植民地としたアジアの国々の人に対する差別に気づいてほしいと思ったのだった。案の定、生徒たちは自身と重ね合わせて考え、以降、卑猥な言葉を発しなくなった。授業には誰もが真剣に参加したが、授業後1月経って校長が「根津先生は偏向教育をしている。家庭科の学習指導要領には従軍慰安婦は載っていないだろう」と学習指導要領を示して生徒たちに話し、同時に保護者にもその働きかけをしたことで、生徒たちは疑心暗鬼になっていった。校長は、「根津は間違っていない」と主張し続けた生徒には、「家に行って説得した」、そして「最後のその一人を落としました」と職員朝会の打ち合わせで発言した。
授業の題材はいつもこのようにして見つけていった。家庭科の授業だけでなく、修学旅行をはじめとする学年の取組でも、こうした観点から広島修学旅行や男女平等教育を、89年改訂の学習指導要領が「国旗を掲揚するとともに国歌を斉唱するよう指導するものとする」と明記し、「日の丸・君が代」が実質強制されるようになると、「日の丸・君が代」について生徒たちが事実を知り、それをもとに考え判断できるよう、「日の丸・君が代」について記した戦前の教科書やアジア各国の戦後の教科書を示した。また都教委・文部省の意図・記述を示した。判断するのは、あくまでも生徒たちであり、そこに「正解」は求めない。
■仕事や攻撃のなかで私が学んだこと
私の処分の対象は、「日の丸・君が代」、侵略戦争を批判したこと。とりわけ、「君が代」不起立で停職処分を受け続けたことで、天皇制国家日本を問題視することを国家権力は叩き潰そうとしているのだと気づいていった。
裕仁の戦争責任については、侵略戦争を知った時から頭にはあった。75年10月31日の記者会見で戦争責任を問われた際に裕仁は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので…お答ができかねます」と、またこの会見で原爆被害に遭った広島の人たちについて問われ、「戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないこと」と平然と言い、自身の命令で大勢の人を殺した戦争責任を全く反省しなかったことには驚愕した。また、息子明仁は父が命令した戦争であることを表明したことは1度もなく、他人事のようにうそぶき続けてきたことに、息子としての戦争責任をお前はなぜ感じない、そう思ってきた。したがって私は天皇制に反対ではあったが、積極的に反対の闘いに関与することはなかった。
しかし、停職処分を受け続けるなか、戦前・戦中の国体護持の思想は生き続けているのだと思うようになった。私が停職6カ月処分にされた同時期に、停職6カ月処分にされた教員は、遺影写真を収める額縁を連想させる、縁が黒い額縁を生徒の家に送ったのだった。このぞっとする行為と私の停職6カ月処分は同じ非違行為?と疑った。都教委は私だけは1年ごとに異動(転勤)させようとした。しかも、都が定めた「異動要綱」の「通勤時間は最長90分」を大幅に超えて。校長に「根津・毎日の報告」を上げさせ続けもした。分限免職にできる理由を見つけるためためだったのだろう。命こそ奪わないが、国体を汚す者を教員として置いておくわけにはいかないと、都教委は考えたのだろう。いや、私の処分を取り消さなかった司法もしかり。自民党の「憲法改正草案」は天皇元首及び国旗・国歌の規程を大きく謳うのだから、当然、自民党は国体護持に執着する。しかし、私は弾圧され続けてはじめて、目が覚まされたのであった。
同じ敗戦国であるドイツのヒットラーは自殺し、イタリアのムッソリーニは処刑された。しかし、裕仁はポツダム宣言を受諾する御前会議で自身の命乞いをし、国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決めた。マッカーサーも、日本を支配するためには国体護持が要と考えた。
歴史にもしもはないけれど、もしも天皇が処刑まではされなくとも、戦争責任を反省し表明していたら…。憲法1条の天皇条項はなかっただろうし、天皇制の存続はなかったに違いない。
一方現実は、天皇制・国体を維持するがために、裕仁が命じた侵略戦争を反省しない。裕仁だけでなく、明仁・徳仁が、身内が命じた戦争を他人事のように言うのも、天皇制存続のためだ。国内外の戦争犠牲者を今もって救済しないのも、そのためである。
戦後1947年に中学校社会科教科書として作られた『あたしい憲法のはなし』は表紙に「戦争放棄」の挿絵が載り、現在に至るも多くの人たちに評価されてきた。しかし、天皇については、「天皇陛下は、こんどの戦争で、たいへんごくろうをなさいました」と書き出している。文部省発行だから、こう記述するのは当然だろうが、戦争で家族を亡くした、孤児となった中学生にこれを読ませたのだ。『あたしい憲法のはなし』は、戦争放棄や人権を大きく取り上げてはいるものの、天皇制・国体護持を刷り込むものだったことを追記しておきたい。