天皇儀礼の政治--国体・植樹祭・海つくり大会

*以下に収録するのは、反天皇制運動連絡会の結成時から長く反天皇制運動に携わってきた高橋寿臣さんの論考です。今月(2025年5月)25日に、埼玉県秩父市で、第75回全国植樹祭が行われるにあたって、植樹祭批判を含む、この論考を紹介します。天皇の4大行事と呼ばれる「国体」「植樹祭」「海つくり大会」「国民文化祭」(2019年から天皇行事)は、「スポーツ・健康増進」「緑化」「海洋資源の保護・育成」「文化の祭典」といった名目(口実)とあまりにも矛盾する実態が指摘・批判され、一部「改善」されたりもしてきました。国体は昨年(2024年)から全国スポーツ大会(略称:国スポ)と名称も変更され、さらなる「改革」が議論されているところです。しかし、本論が指摘するように、「基本的な本質としての天皇制認知儀礼の構造は変えられているわけではない」のです。32年前の論考ですが、「天皇儀礼」を批判する基本的視座が提供されています。(編集部)

天皇儀礼の政治--国体・植樹祭・海つくり大会

高橋寿臣

日本を占領したアメリカ軍と日本支配階級の思惑の一致する中で、戦後も延命することになったヒロヒトと天皇制は、戦争遂行と敗戦の最高責任者・制度として、そのイメージを一新することが求められていた。1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」によって、天皇と「国民」の関係を「神とその子・臣民」ではなく、「人間として歴史的一体性を持ったもの」と位置づけ直し、新たな「国民的認知・支持」を再構築すべく、いくつかの「象徴的天皇制のパフォーマンス」(坂本孝治郎の表現)が開始されていく。「戦災復興・引揚者援護状況の視察」を名目としたヒロヒトの国内(地方)巡行は、46年2月に始められ、それは当初の当事者たちの予想をも大きく上回る「歓迎」ぶりを各地で受けていくことになる。これは戦後天皇制にとって一つの「賭け」であったが、日本「国民」の中に、天皇制への反発・批判が顕在化することなく、むしろ熱烈な親愛ぶりが表現されることによって、天皇制の戦後の「展望」が見出されていくことになるのである。そのあまりの日本人たちの天皇への親愛ぶりに驚いたGHQは、48年の1年間、「巡行」を休止させたほどである。

このようにして「国民」の前に登場し、声をかける時には触れ合うという形で「見せる天皇制」を演出することによって、天皇制への認知・支持の定着をはかり、それを再生産していく方法は、現在までに至る象徴天皇制の国民統合機能の大きな柱となっていく。そして戦後直後のこの「巡行」を実質的に引き継ぐものとして、全都道府県を巡回していく国民体育大会、全国植樹祭、豊かな海つくり大会などが設定されていくことになる。一見非政治的なこれらの地域イベントに、天皇(夫婦)やその他の皇族が出席し言葉を発することによって、このイベントそのものの「権威づけ」を行い、同時に「天皇(制)への有り難さ」が人々の意識の中に形成させられていくのである。憲法に規定された天皇の10項目の「国事行為」とは区別されたこれらの「巡行」は、天皇の外交などとともに、明文規定のない「公的行為」とみなされており、非政治性を謳われたこれらの行為こそが象徴天皇制のもっとも政治的なあり方であることが、この間の私たちの闘いの中で明らかにされてきたことなのである。

▪️国民体育大会

国民体育大会(国体)は、京都を中心に1946年11月、第1回目が開かれた。第2回の金沢大会に天皇が「巡行」を兼ねた形で出席し、以後、開会式に出席し挨拶する——言葉を発するという形で定着していく。国体は各都道府県対抗の「国民的」スポーツ競技会とされており、総合優勝を果たした県には天皇杯、女子の部優勝の県には皇后杯が授与される。これだけでこのスポーツ大会が天皇制のためにあることが明らかであるが、この天皇杯・皇后杯が各都道府県に万遍なく行き渡るようにしてきたこところがミソである。1963年までは1回を除いて総合優勝したのはすべて東京であった。人口など各自治体の規模の差から当然であったといえよう。ところが1964年の第19回新潟大会から以降はすべて、地元開催県が総合優勝し天皇杯を獲得していくことになる。つまり「天皇によって名誉と権威が賦与される」ことは、すべての都道府県に行き渡ることになるのである。このことが実現されるためには様々のインチキな操作が施された。一つは、開催県が圧倒的に有利となるようなルール変更や競技運営上の操作である。予選が必要な競技においては、開催県チームはそれが免除され、それだけ(参加するだけ)でポイントが取れるフルエントリー制が導入され、対抗戦の場合の組み合わせにおいては開催県チームが初めに強いところとあたらないような操作がなされるのである。ジャッジ競技においては開催県選手に有利な採点が出るのは当たり前といわれている。対戦相手に酒・料理・芸者等の接待をなし、露骨に八百長をお願いしたなどという話もある。「公正」であるべきスポーツ大会においてこのような八百長ルール・八百長運営がまかりとおっているのが国体である。

二つ目はよく知られていることであるが、いわゆる「ジプシー選手」の存在である。強い選手を開催県が何らかの形で組み入れ、2〜3年したら次の開催県に移っているというもので、批判の目をそらすために近年では、地元企業や教育委員会などに「就職」させるというような「合法的」手口がとられているが、移り変わっていくという本質は何ら変わっていない。このような言わば総掛かり八百長によって天皇杯が全国各地に振り撒かれていくようになるのである。

まさに「天皇の天皇のためのスポーツ大会」なのであるが、その本質は本大会(秋期大会)の開会式のあり方の中に露骨に示されている。午前中から開始される開会式イベントにおいては、決まって地元開催地の歴史と伝統・文化をたたえる演技が行われ、「地域ナショナリズム」が謳い上げられる。天皇夫妻が席に着くと選手団の入場となり、各県例外なく天皇にむけて「礼」の挨拶を行うのである(多くがナチスのベルリンオリンピックの時の方式)。知事など主催者・来賓の発言の際には必ず、まず天皇にむけて一礼する。そして天皇の挨拶——「お言葉」がこの儀式のハイライトなのである。

ここには地域の特性・個性を容認・賛美したうえで最後には天皇(制)に収斂するというこのスポーツイベントの本質が凝縮されている。また国体時には天皇夫婦以外の皇族も「大量動員」され、地域住民とのより密接な「触れ合い」が演出されるという。

国体についてはもう一つ、1957年の第13回福岡大会以来、自衛隊が協力する体制が始まり、更に自衛隊員が選手として参加することが当たり前とされていったことに見られるような、この違憲の軍隊の「国民的認知」の舞台とされていった問題があるが、ここでは省略する。なお、国体の一巡目最後の大会が、87年沖縄(海邦)国体であり、昭和天皇ヒロヒトは、それを機に沖縄上陸を果たそうとしたが、病に倒れて実現できなかった。また、二巡目最初は88年の京都大会である。

▪️全国植樹祭

全国植樹祭の前史は、戦前(1934年)からの「愛林日記念植樹祭」と各県の植樹運動にある。戦後の47年には「愛林日行事」が行われた。48年の東京・青梅において天皇夫婦出席のもとに記念植樹行事が行われた。50年の山梨・甲府における「国土緑化大会」を第1回と数え、以後、60年には「全国植樹大会」、70年に「全国植樹祭」と改称して今日に至っている。戦後の「荒廃した国土の緑化推進、林業振興」を謳い文句に、主催するのは地元自治体と国土緑化推進機構である。この推進機構の会長は衆議院議長とされているが、実体的活動はほとんど行われていないという。国体と同じように全都道府県をまわっていくものであり、天皇の参加・「三本の『お手植え』」がメインとされる巡幸儀式なのである。その儀式の中では「お手植え」の他に「おことば」、大会会長の「答辞」、会長の音頭による「天皇陛下万歳」の三唱、参加者全員が日の丸を打ち振る、といったことが行われてきた。天皇の座る位置や儀式次第全体を見ると、「臣民」による天皇への「服属儀式」そのものといわれている。これもまた、天皇の天皇のためのイベントなのである。

「国土緑化」という、特に「環境保護」が強く訴えられているような今日にあっては、誰も反対しない「非政治性」を装いながら、これもまた天皇制を各地に認知させていくための政治儀式として展開されてきた。ところが、国土緑化を謳いながら国体と同様に、植樹祭もまた、珍奇な実態を持ってきたのである。すなわち、植樹祭の広大な会場や駐車場を確保するために、大量の自然林が伐採されるということが続き、更に、現在の段階でそれほど緻密に検証されているわけではないが、植樹祭後においてその植樹された木が放置されたままになっているという事態も起こっている(87年の佐賀など。91年の京都・宇治では、天皇の植えた木そのものが枯れそうになっていたということが目撃されており、当局側が慌てて処置したようである)。時には、一般参加者の植えた木が丸ごとどこかに移されてしまうという(本人たちは知らない)こともあったという。

私たちの大衆的な反植樹祭闘争は、86年の大阪・堺の大会以降であるが、その中で今まで述べてきたような事柄が多くの人々に知られることになり、92年の福岡大会では当時の文相・鳩山邦夫が、自然木大量伐採にクレームをつけざるをえなくなるという事態も生じたのである。更に、91年の京都・宇治の大会に対する反対行動の積み上げ-行政交渉などの中で、天皇到着時や「君が代」の際の起立強制がなくなり、「天皇万歳」や大会会長の「答辞」も取り止められることとなった。それは92年の福岡にも引き継がれ、あまりに露骨な天皇讃美や、緑化推進そのものに根本的疑問を抱かせるような事態を修正しようという目論見であり、それ自体はわずかながらであっても闘いの成果と言える。しかし、基本的な本質としての天皇制認知儀礼の構造は変えられているわけではない。今年(1993年)4月の沖縄植樹祭については簡単に後述するが、その政治的意味は更に大きなものとなってくるのである。

▪️豊かな海つくり大会

「豊かな海つくり大会」は、1980年から行われ、「漁業振興、海洋資源の保護」を謳い文句とされている。この大会には皇太子時代のアキヒト(夫妻)が出席していたが、89年の代替わり以降、「天皇の出席する」儀式として「格上げ」されることとなった。「豊かな海つくり大会」といいながら、現実の日本の漁業が置かれている状況を反省し、改善するために役に立っているということでは、決してない。乱開発や乱獲による、海洋汚染・漁獲量減少の実態を放置・隠蔽するものでしかなく、「未来展望」とされている「栽培漁業」も、その実態は抗生物質の大量投与、エサのばらまきによる水質汚濁などの問題を抱えたものでしかない。これもまた、国体・植樹祭と同様に、天皇のために設定された儀式でしかなく、主旨・謳い文句とは裏腹な欺瞞的儀式でしかないのである。しかも全国的には殆ど注目されない文字通りの「地域イベント」でありながら、膨大な自治体予算が使われている。また、国体・植樹祭同様、地域住民、学校の児童・生徒の協力、参加強制もなされているのである。

海つくり大会への闘いも、アキヒトが天皇として初めて主席した89年の広島を皮切りに、現地では組めなかったが90年の青森・下北半島、91年愛知・知多半島(伊勢湾)、92年千葉・勝浦と継続的に取り組まれ続けている。そのうち、92年の千葉では、「稚魚の放流」というほんの短い「儀式」のためだけに使い、その後は全く無用・不必要となってしまう桟橋のために膨大な予算が使われた。現在、この県費無駄使いに対する提訴が取り組まれている。

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これらの三つのイベントが今日の天皇巡幸の大きな柱となっているのであるが、それ以外の天皇行幸とも共通する問題がいくつかある。先に触れた大会諸施設や周辺整備などのための膨大な資金の無駄使いや、住民、(学校の授業計画にも支障をきたすような)児童・生徒の動員などの問題も共通するものであり、もう一つが、警察権力による「過剰警備」——人権無視の横行の問題である。数年前に皇后らが岐阜を訪れた時、その警備に向かう警察官らが溺れている子供を見捨てていった、というのは有名な話であるが、活動家への24時間尾行、「障害者」の隔離・排除、野宿労働者の刈り込み(追い立て)、学校に向かう高校生らにも行われる持ち物検査等々のことが、日常化されてしまう。これらのイベントは各地方によって行われるため、全国的には大きな問題が起こっているようには感じられないが、その地域では最高に位置付けられた行事として展開されるのであり、いわば「天皇ためなら、何でもあり」の状況が作られるのである。この中でも、天皇を特別視——神聖(スター)視する意識が形成・再生産されていく。現在のアキヒト天皇(制)にとっては、その、「平和=クリーン」「環境保護に理解のある=グリーン」で、「国際化時代にふさわしい」というイメージが、「強権」を背景として打ち固められていく装置としてこれらのイベントが位置付けられているといえよう。

▪️第44回沖縄植樹祭をめぐって

93年4月25日、沖縄糸満市の米須・山城地区(あの各都道府県の、戦没者慰霊塔が立ち並ぶ摩文仁の丘に近接)を会場として、第44回植樹祭が行われる。当初会場予定地とされたのは、沖縄北部・名護市の北明治山であったが、先に述べたような「自然林を大量伐採して植樹する」欺まんへの批判を回避するため、「革新」大田知事は沖縄戦で焦土となって緑の回復していない米須・山城地区に変えたのである。いわば「沖縄戦で焦土となった地域の緑化」を前面に押し出した開場設定であるが、この植樹祭のために使われる費用は約22億円といわれている。地元で植樹祭に反対する行動を積み重ねてきている「米須・山城『全国植樹祭』を見る集い」が試算したところによると、「一本の植樹に九万円かかる」ことになり、この予算を県民参加の植樹に使えば、植樹祭の時の100倍以上の木が植えられることが可能という。更に沖縄では、72年の「本土復帰」以来の本土資本の進出によって、リゾート開発による自然環境破壊が推し進められており、その現実を追認・放置したままでの「焦土の緑化」が謳われているのである。米須・山城の会場予定地周辺にも岩崎産業という本土資本の所有地があり、植樹祭がそのままリゾート開発に連動することは、目に見えているといわれている。つまり植樹祭が持つ本来的な問題性が、沖縄においても貫徹されるということであり、これへの出席を口実として、天皇が天皇として初めて沖縄に上陸しようというのである。私たちの闘いは、植樹祭そのものへの闘いであると同時に、天皇が沖縄に上陸し、沖縄戦の犠牲者への「慰霊儀式」を行うことも問題とした闘いである。沖縄植樹祭をめぐる、トータルな問題性を更に究明しながら、闘いを推し進めていかなければならないのである。

(たかはし・としおみ 高校教員、非常勤講師組合、反天皇制運動連絡会II

*「月刊フォーラム」(1993年4月)初出、高橋寿臣遺稿集『全共闘から反天皇制運動へ』(2022年11月)所収。

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