在日として生きてきた歴史とこれから

徐翠珍

本稿は2025年1月13日のシンポジウム「在日として生きてきた歴史とこれから」(日本キリスト教団大阪教区主催)での講演禄に手を加えたものです

戦後間もない1947年、神戸市に生まれ、22、3才まで神戸の中国人コミュニティで中国人のアイデンティティは育てられました。24才、大阪西成区に移るまではなんの疑いもなく。

移住先の西成区は日本最大の被差別部落で多くの在日朝鮮人の混住地域でもあります。
1970年、当時勤務していた保育所(4分の1が在日朝鮮人児童)の公営化に伴い中国人である私は「日本国籍でない」を理由に「解雇」されました。

55年もまえ、24才、私の闘い「大阪市職員採用要綱の国籍条項撤廃運動」の始まりです。この闘いは私のその後の生き方に大きな影響を与えたことになります。

「黙っていては」自らのアイデンティティを大切にしながら人間らしく生きられない。3世、4世…子供たちへのメッセージでした。今はニューカマー2世、3世…へのメッセージでもあります。差別には私たちに根深かった「あきらめるしかない」と言うメッセージをこれ以上子らに残したくありませんでした。

私自身も中国人コミュニティに育つ中で、差別を区別とみて「あたりまえ、しかたがない」とながく差別の実感がないまま、さまざまにあきらめてきました。しかし、中華学校に通っていたこともあるのか、中国人であることを否定的にとらえることはなかった。西成に移り在日朝鮮人との出会いの中で差別の実態を目の当たりにし、私は井の中の蛙であることを思い知らされます。後には引けません。当時、この闘いはまさに私たちの生存権獲への闘いであり、そんな中で得た在日朝鮮人との出会いは私の原動力でもありました。

50年半世紀も前の「国籍条項・・・」の話や、「外国人登録法の指紋押捺拒否運動」の話をするにあたってその前提である私たち「在日中国人」のこの日本での関わり、生きてきた歴史など、極大まかにお話ししたいと思います。

▪️在日中国人について、その歴史を少し(明治150年、在日中国人の150年)

・「内地雑居令」と管理体制の始まり
1867年、明治維新(植民地帝国の一歩)新生日本の出発より始まった中国人の渡日(欧米人の帯同から)。それに伴い明治政府は中国人の登録、動向把握、取り締まりとその管理のために様々に試行錯誤。

「居留地」内での活動のみだった外国人たちが1899年4月「内地雑居令」によって日本国内での移住・定住が可能になる。それまでは清国民等の居留地以外での居住・労働は禁止だった中国人たちも、移動が可能になったが、厳しい職業の制限や動向把握の清国人の管理体制を強いた。日本で初めての外国人登録制度を実施(戦後の外国人登録制度の原型)。管理監視のターゲットは大多数の中国人(この当時朝鮮人はごく少数、1883年で16名、中国人はすでに5000は超えていた。朝鮮人数、もちろん植民地化を期にいっきに増えます。1910年で2600人)。

・職業の規制
「内地雑居令」によって日本国内での移住が可能になったとはいえ中国人には厳しい規制がありました。 中国人に許可された職業は「三把刀」(サンパータォ)と行商、雑業のみ。

三把刀とは、洋服仕立て職人のはさみ、理髪職人のはさみ・カミソリ、料理職人の包丁の3つの刃物を指します。中華料理職人は言うに及ばず、ちょんまげ和服の江戸時代から明治、断髪・洋装への切替になくてはならない職人、技術者を必要とした日本の事情による限定職人の入国移住許可であったのか? この「内地雑居令」を期に中国人は多数の「華商」群から大多数の「華工」がしめるようになり、1899年には6359人と増えています。日本にとっては初めての「外国人移入労働者」でした。

・「敵国人」としての敵視、排外、弾圧の中での居留(この明治から1945年、日本によるアジア植民地化の時代)
かくして日本の移民労働者のルーツは、150年近く、この三つの刃物を財産に営々とこの日本に生きてきたのです。

その間、1894年の日清戦争、1931年以来の中国侵略戦争と長い戦時下、日本の敵国人としての居留は敵視、排外、凄まじい弾圧の連続でした。1923年、関東大震災時の中国人犠牲者は日本人による虐殺も含め約700名。1937年、在日中国人の管理統制の強化、326人の在日中国人を逮捕拷問。翌年には394人をスパイ容疑で強制送還。多くは衣料品や雑貨類を背中に背負い、辺鄙な村々を行商して歩いた中国人たちでした(「くまなく歩いた」事でスパイの疑惑を掛けられたのである)。

侵略国日本に居住する私たち「敵国人」はまさに、ひっそりと生きざるを得なかったのです。そんな私たちが日本を日本人を見る目はどのようなものだったでしょうか。

▪️「敵国人」少女の“記憶”です

戦後間もない一九四七年に生を受けた一〇才前後の少女は日本人をどう見ていたのでしょうか。

○洋服仕立て見習いに横浜に出稼ぎに行っていた近所の父母らの仲間であった張おじさんは1923年、関東大震災からどぶ板の溝の中を這って命からがら地震や自警団から逃れ帰ったそうだ。

○数少ない日本人の遊び友達Mちゃん、Nちゃんの復員したお父さんは中国戦線帰りか、私に向かって片言の中国語を披露した。私は「このおっちゃんも中国で中国人を殺したんだなー」と思った。

○街角の傷痍軍人のアコーデイオンの音色からもこの人も「中国で中国人を殺したんやなー」と思う。

○特に母は日本での体験だけで無く、1932年、上海事変のまっただ中に生きた母はその体験も身に刻んで日本人感を刻んだのです。そして私たちに語り伝えた戦争。

⚫︎日中戦中、中国人は「日本」のことを「日本の鬼」と称した。そんな大人たちの経験が語られ、子どもの私たちの「記憶」になったのだろう。

⚫︎同時代を生きた日本人の皆さんは「中国人、朝鮮人」をどう見ていたのでしょうか。

日本の敗戦時、侵略国内に残っていた中国人は約6万。戦時中辛酸をなめてきた在日中国人です。すでに5世、6世にもなりますが戦時中は侵略加害国のまっただ中に生きた「中国人」が私たちです。

日本の対中国侵略戦争の歴史抜きに私たちの存在、は語れません。

・そして戦後、「平和憲法」から除外された私たちの「法的地位」は?
私が神戸で3刀の1つ、洋服職人の父母の下に生まれた1947年、残留中国人総数は約6万人でした。

1952年、日本政府は残留せざるを得なかった元植民地朝鮮人・台湾人と私たち戦前から古く居住する中国人の処遇を外国人登録法で一応の決着をさせました(戦後1945年、在日朝鮮人総数約210万人、台湾籍約2万4395人、中華民国籍約4万1736人)。

法律第126号(現在の「特別永住」朝鮮人・台湾人、旧植民地の人々で、全体の九五%です。その他中国人は残り約五%「一般永住」私たちです)。
注:ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律

1952年5月3日敗戦国日本は「平和憲法」の始動をもって「主権回復」したという。しかし、当時日本に在住していた、「日本国民」とされていた朝鮮人・台湾植民地民衆と、私たちは「平和憲法」下の日本の「敵国人」として被った多大な不利益を謝罪されることも、補償されることもなく。事もあろうか「日本国憲法」制定の前日、5月2日、最後の天皇勅令によって「外国人」登録令を制定同日施行しました。みなさんもご存じの通りです。

こうして今度は「日本国籍ではない」を理由に在日朝鮮人・中国人らはことごとく「国籍条項」によって生活の隅々から排斥したのです(一九八二年難民条約批准まで様々に排斥されたのです。就職、弁護士資格、健康保険、国民年金、児童扶養手当、育英会奨学金、公営住宅、等々)。

最初に報告した「国籍条項撤廃」の闘いはこのような状況下で闘われました。まさに私たちの「生る」ための闘いだったといえるでしょう。

このように戦中戦後を生きた私たちの抵抗、不服従の意思表示は指紋押捺拒否の闘いとして在日朝鮮人が中心に闘われました。

▪️中国人にとっての「指紋押捺拒否運動」

今日参加のみなさんはこの指紋押捺拒否運動に参加されたり当事者であったりの方も多数おいでだと思いますので今日は特に、中国人にとっての「指紋押捺制度」を整理してみたいと思います。

1985年5月20日、外国人登録切り替え時に西成区役所で指紋の押捺を拒否しました。「在日中国人では初めての拒否」と言うことでマスコミ等で注目されましたが、実は初めてではありません。

・中国見本市(中国商品展覧会)要員の指紋拒否と「満州国」指紋
まだ国交がなかった1955年当時の話しです。当時60日滞在で指紋押捺義務がありました。見本市の要員45名は押捺を拒否し、不押捺のまま帰国。見本市は東京/大阪、200万人の来場で大成功だったにも関わらずです。このままだと次年の開催が危ぶまれ、日本では政治問題化。国会等で大紛糾、論議を重ね、結果、1年以上の滞在に指紋が必要と入管法は改正されました。第2回の見本市は無事に開催され、要員たちは見本市の任務いっぱいはたし、指紋を押さずに帰国しました。

改正後は中国からの留学生らの一時帰国も1年以内に、押捺を避けたのです。燃えさかった日本での指紋押捺拒否運動の30年も前の出来事です。

中国人は当時、国家レベルで「指紋の強制」を拒否したのです。

・中国人は指紋の押捺をなぜそこまで抵抗するのか?
 「中国東北地区における指紋実態調査」を訪中実施、満州指紋を探り当てます
この指紋制度、日本の中国侵略に欠かせない制度でした。異民族支配・管理に有効な手段として生み出され、発展させ、戦後も私たちをしばる制度へと継承しました。

1932年、日本は大東亜共栄圏構想の中、中国東北部に傀儡国家「満州国」をでっち上げます。そして過酷な異民族支配、資源、労働力の収奪が始まります。その手段として有効だったのが当時最新鋭の「指紋」でした。

・「労働者指紋」
1932年「満州国」でっち上げ成立以前の1924年、すでに撫順炭鉱(満鉄経営)では全労働者から採取した「指紋」による支配管理、逃亡防止等々に利用していたのが「労働者指紋」です。効果を上げたこの指紋による管理はその後、すべての「満州」進出日本企業や上海など、全国へと広がります。福島紡績や満蒙毛織などの反指紋強制ストライキー等、中国人労働者の大きな抵抗争議を経験した「満州」の日本企業は「南満工業者懇談会」(日本企業の経営者団体)で指紋制度の採用をすべての企業で実施しました。

その後、大きく広がる労働運動の弾圧は中国人労働者を苦しめ続けました。

当時日本企業で果敢に闘われた多くの労働争議の中で、中国労働者から出された要求の多くは賃金だけではなく「むやみに労働者の指紋を採るな」でした。その多くの場合は第1項目の要求です。この「指紋」制度がいかに非人間的で屈辱的な制度であったかを如実に示しています。

ちなみに私の母親はまさにその当時、上海で労働運動まっただ中の製糸工場の女工でした。母が語るデモやストライキーの様子など、当時の上海の熱気はリアルです。

・「居住者指紋」
その後「満州国」では様々な名目で、ほとんどの中国人から指紋を強制しました。銃剣のもとに強制されたのです。村々を焼き払い、人びとを集団部落に押し込め、その出入りには指紋付きの国民手帳の提示を義務づけ、「反満抗日」の勢力と民衆の分断をはかりました。

・「満州国指紋管理局」と「特捜指紋班」
警察指紋は主に「匪民分離」に利用され、警察組織には指紋遊動班・特捜指紋班として警察指紋が威力を発揮させました。例えば 楊靖宇の追跡には指紋管理局から相当数の人員が同行したと記録にあります。

このような過酷な指紋による実践を重ね、1939年、警察指紋23万と労働者指紋20万を統合し「満州国指紋管理局」に管理統括し、中国人の「反満抗日」の抵抗を押さえ中国全土への侵略を推し進めたのです。

戦後もその思想そのままに在日中国人らに強制する「指紋」とはこういった歴史的存在なのです。さらに、戦後日本の指紋制度は生き残ったこの満州指紋関係者らの手によるものだったのです。 この満州指紋は制度のみならずそれを活用する人の「他民族排斥の思想」こそが問題ではないでしょうか。

・私がなぜこの指紋の押捺を拒否したのか
在日2世の中国人である私がこの指紋を拒否しているのは「『在日』だけを問題にしているのではなく、私たちの歴史の中から、指紋に対する中国人の『民族的痛み』『人としての痛み』の中からの必然なのです」(「抗日こそ誇り」一九八七年大阪地方裁判所指紋裁判陳述より)。

▪️〈はて?〉永住って?

様々な闘いを経て92年に永住者の押捺廃止、99年全廃を勝ち取りました(その間、指紋廃止は特別永住者のみ、との論議がなされていた)。

これ以降、在日朝鮮人の「特別永住者」と私たち「一般永住者」の間には徐々に顕著な違いが見えてきました。元植民地と元敵国人の扱いのちがいでしょうか。

・いつでも取り消せる「永住許可」?
2024年6月、「出入国管理及び難民認定法」は多くの反対の声を押し切って成立してしまった。幾つもの非人道的「改悪」の中でも「永住許可取消」には多いに驚きでした。

煩雑な在留資格の中でも外国人にとってもっとも「安定」した永住資格でさえも軽微な法令違反、税や社会保険料等故意の不払い、在留カードの常時携帯違反などでいつでも取り消すことが出来る。政府の意図は「外国人は煮て食うが焼いて食おうが勝手」とタイムスリップが本音ではないかと勘ぐる。ここ数年何度かの入管法の「改訂」があったが、その度に「悪法」になっているのではないだろうか。それと同時に日本社会の排外的動向が併走している現実があります。

今回の「改訂」での永住権取消規定については国会審議中ほとんど論議がなされていない。

そもそも約89万人(2023年末法務省統計)「永住者」とは誰のことを連想しての法改訂だったのでしょう。89万永住者とは

①来日以来素行善良で10年以上の在留、納税など公的義務を果たしている等々で初めて「永住者資格」を得た様々な国籍の外国人(この「永住者資格」を得た様々な国籍の外国人は以外にも少数だが)。
②戦前から日本に在留してきた在日中国人とその子孫(4世5世になる人もいる)
1952年サンフランシスコ条約にて確定以来の「永住資格」
③1991年、「旧植民地での国籍離脱者~」にて確定した「特別永住資格」から様々な事情で在留資格を喪失。「永住資格」等に変更を余儀なくされた在日韓国・朝鮮人等

②、③はあまりにも理不尽ではないか。日本の仕掛けた侵略戦争・植民地支配の歴史的入管行政の負の遺産を背負って黙々と日本社会に生きてきたが、今般の排外的入管法改正では在日韓国人団体も在日中国人団体も大きな危機感をもって「永住取消規定・削除」の声をあげた。

悪法は成立してしまえば時の政府、社会状況の変化によってどのようにも運用されることを②③は危機を持って知っているのです。

二〇一二年入管法、入管特例法、住民基本台帳法、悪名高い「外国人登録法」は制定より約六〇年で廃止となりました。が。新しいシステムでは相も変わらず私たちは「管理」の対象です。

特別永住者、中長期在留者、非正規滞在者に分類
150年の在日の歴史と被侵略の長い歴史を持つ私たちはなぜ「滞在三ヶ月以上」の中にひとくくりにされるのでしょうか。日本の入管行政は土台から見直す必要があるのではないでしょうか。

▪️これからについて

最近のこと、ある在日朝鮮人の友人が怒っていました。「日本国憲法」は制定の前日、5月2日、最後の天皇勅令によって「外国人」登録令を制定同日施行した。排斥すべきは排斥しての日本の民主主義の出発でした。そんな憲法、九条など「くそ食らえだ」「私たちの知ったことじゃない!」と。その怒りもっともであるが。

はて、私たちはこの地に生き、税金を納め、時に欧米式民主主義的価値観を共有し好むと好まざるとに関わらず、現実は世界の中では加害の立場に立っていることが多いのではないでしょうか。「知ったことじゃない」と言っても戦争やヘイトな社会になればその犠牲者はまたまた私たちです。私は 「知ったことじゃない!」とは思わない、私たちだからこそ「加害者」にはならない。せめてその意思表示はしょうと思います。

1985年、私は中曽根の靖国公式参拝違憲訴訟、大阪地裁の傍聴席にいました。画期的な訴訟とは言え「所詮は侵略の加害者」と思っていたが原告たちの陳述には戦死した自分たちの身内の加害の現実をも明確に述べているのが衝撃でした。

これをきっかけに私は日本人自身がその「加害牲を問う闘い」に希望をみます。

同時期、「指紋制度」を問う私たちの訴訟は天皇を総帥として始めた侵略遂行の「指紋制度」の裁判の終わりを日本政府は「天皇大赦」「恩赦=大赦」と言う屈辱的「恩恵」で締めくくろうとしました。私たちはそれに対し、天皇恩赦拒否の、10年に渡る根強い闘いをもって締めくくりました(1989〜2002)。

中国人にとっての指紋制度/外登法の闘いは天皇制に触れて終わったわけです。

反戦としての反靖国(靖国訴訟)は台湾・韓国・沖縄原告とともに、加害者と被害者の共闘を訴訟や、靖国合祀取消要求の直接行動を中心に闘ってきました。それらの闘いを担った「靖国合祀イヤですアジアネットワーク」の約30年、その裏方をになっています。

日本も加担する世界の戦争に触れ、天皇制に触れ、憲法に触れ、異議申し立てをするのは私たち「在日」の義務でもあると、私は思っています。

戦争は「いや!」が「敵国人」として日本の地に生を受けた私の原点です。

おわり

*初出:【戦後80年】「在日として生きてきた歴史とこれから」(『反天皇制市民1700』no.57, 2025.04 )

 

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