有馬保彦(和・ピースリング)
すべての戦争被害者に国家補償を!求めて
昨年12月、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞した。その受賞記念講演で田中煕巳代表理事は「日本の政府の『戦争の被害は国民が受忍しなければならない』との主張に抗い」、「原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない……」と冒頭演説をした。
日本被団協がノーベル平和賞を受賞することで注目されることになった「戦争被害受忍論」批判は、日本の戦争責任・戦後責任を考えるうえで重要だ。
戦後60年の翌年、私たち和・ピースリングは東友会(東京被団協)と東京空襲被害者遺族会との接着財として活動を開始し、「すべての戦争被害者に国家補償を!」をスローガンに7年間、両団体と集会・デモを「10・21国際反戦デー」の日に繰り返し行なって来た。その間に東京空襲訴訟が始まり、訴訟の最高裁上告棄却で敗訴を受け、全国空襲被害者連絡協議会が結成されたのを受け、空襲体験の継承等の活動に切り替え活動を行っている。
両団体を結びつけることになったのが「戦争被害受忍論」だ。空襲被害体験などの伝承、継承活動を行うにしても、空襲被害者への補償を抜きにしては空襲被害の実態を語ることは出来ない。その基本的問題の一つが「戦争被害受忍論」だ。
この問題を民間人空襲被害者が抱える問題から考えてみたい。
米軍は、1941年10月10日、沖縄・那覇市,宮古島など南西諸島に空襲を行なった。日本本土への米軍による初めての空襲は1942年4月18日ドーリットル空襲と言われる。東京・荒川区尾久、東京・品川区、神奈川県横浜などが空襲に襲われた。
しかし、それ以前に日本軍は1942年2月から43年11月までオーストラリアに空襲を行ない死者約400人、負傷者約1000人といわれ、オーストラリア人にとっては記憶のアィデンティとなっている。また、日本軍による無差別爆撃として、中国・重慶市に1938年12月から1941年9月にかけて絨毯爆撃=無差別爆撃を行い、市民ら11,000人以上の死者、14,000以上の負傷者が被害にあったことは忘れてはならないし、中国人空襲被害者への補償を日本政府はおこなっていない(重慶大爆撃賠償訴訟が2006年提訴され、2019年最高裁が上告棄却し、敗訴)。
(1)空襲被害者への差別とは
⚫︎日の出前に目にふれる死体を処理せよ——死者への追悼は許さない
米軍の焼夷弾による街・住民を破壊し殺し尽くす無差別空襲が1945年3月9日未明から10日にかけて行われた。「東京大空襲」だ。死者10万人以上、羅災者は100万人ともいわれている(本当の数は判らない。行政が当時もその後もキチンと調べていないのだ)。
犠牲者の遺体は、「仮埋葬」という形で錦糸公園や隅田公園、あるいは近所の寺などに埋められた。天皇ヒロヒトの3月17日東京大空襲の羅災の視察を前に、軍部は「陛下が御視察遊ばれるを以って、日の出前に目にふれる死体を処理せよ」との命令を出している(堀田善衛『方丈記私記』は、遺体が跡かたもない燃え尽きた街を歩く天皇に頭を垂れる被害者の姿を記している)。その後の空襲では、空襲犠牲者の遺体は、「戦場掃除」という言葉が示す通リ何の尊厳もなく「仮埋葬」されていく。
戦後2年を経た47年、遺族らは東京大空襲で多くの犠牲者を出した東京・墨田公園言問橋に慰霊塔の建設を計画したが、東京都は「許可をしない」と通達した。理由はGHQの方針として「1.日本国民に戦争を忘れさせたいのである。2.戦災者慰霊塔を見て再び戦争を思いださせることがあってはならない、だから慰霊塔の建立は許可しない」(47年2月「戦災者慰霊塔建立について」東京都長官官房渉外部長磯村英一)というものだ。
多くの遺族らは家族の遺体を引き取ることを許されず悼うことを今もってすることが出来ていない。
⚫︎戦災孤児あるいは戦災孤老 そして障害を負った人々
3月10日の空襲は、国民学校卒業に併せて疎開から帰京した子どもたちが多く犠牲になっている。国民学校生徒の地方への集団疎開(小学3年から6年)は、多くの戦災孤児をうみだした。集団疎開は、子どもたちの空襲の犠牲を無くし安全を図るのみならず、国家総動員体制の中で次の「兵力」=「次期戦闘員温存のため」として全国で90万人が疎開した。
1948年GHQは、命令を出し、それを受け厚生省は「全国孤児一斉調査」を48年2月1日午前零時を期して行った。戦争孤児総数12万3511人(引揚げ孤児1万1351人なども含む)。小学生年代の孤児は10万人以上。まさに学童疎開の年令なのだ。彼らのなかには「浮浪児」として一人で生きていかなければならなかったものも多いし、「ばい菌」「乞食」そして「野良犬」とさげすまれ、行政により「浮浪児狩り」され収容されることにもなった。
親族に引き取られた子どもたちの多くも、親族からの差別やいじめを経験することになる(孤児たちの多くの証言本を読んでもらいたい)。
また、戦災孤児がいたように、家族・親族を空襲で失ない一人身になった老人たちもいたのではないか。
空襲は、権力者のみならず普通の人の考えを醜くするのか。私が聞き取りをした空襲体験者(母娘)は、街が焼夷弾で燃え盛る中、寝たきりの老人を背負いながら逃げ惑いようやく浜町・明治座にたどり着いた。劇場内は避難した人々で満杯。母娘は入れず何とかおんぶした老人だけは入れてもらった。老人を受け入れた男は「こんな役立たずは地下室に放り込んでおけ!」と。劇場は全焼し中にいた殆どの人が死亡した。地下室の老人はびしょ濡れの状態で救いだされ、戦後、街でその老人と偶然再会したという。老人たちを支えた家族を失った人たちは戦後どのように生き抜いたのだろうか。
1972年、全国戦災障害者連絡会が結成された。中心になったのは空襲で瀕死の重傷を負い、民間人空襲被害者の救済を求め続けた杉山千佐子だ。戦時災害援護法の制定を求めて73年以来14回も国会に法案を出しながらも審議未了で廃案にされ続けた。杉山さんは戦前は大学の寮母だったが、空襲で被災後、職を失い職安に行った際、職員に「五体満足な男でさえ職が無いのに、障害者に職があるわけはない」と突き帰されたという。国の補償もなく、行政の窓口からも差別されるという二重の苦痛を味あわされた。
こうした空襲による障害を受けた人々は現在、推定で4000から4500人とされる。杉山の最後の言葉は「国民を差別する国がどこにありますか」「もういい。国に捨てられたままで」だ。
(2)補償はなぜなされないのか──戦争責任と戦後責任を取らせるために
冒頭で記したように「戦争被害者受忍論」が日本の司法・立法・行政では当たり前のようにまかり通っている。米国での戦争被害者への補償は国の戦争に協力した事への補償だ。ドイツ・イタリアでの戦争被害者への補償は、「前政権」の戦争指導の被害にたいする補償だ。誤った戦争をしたドイツ「ナチス政権」、イタリア「フアシスト政権」による被害への補償をすることで第二次世界大戦への反省をしているのだ。
⚫︎民間人戦争被害者への国家補償を認めないことは民間人への差別だ
「戦時災害保護法」(1942年)は「戦時に際して国民一人残らず之が防衛に当たるべきは家族国家たるわが国の国情からみて当然」「国家からの被害補償を要求すべき性質のものではない」としている。「家族国家」とは「天皇制国家」のことだ。
戦争被害者受忍論とは別に国が民間人への国家補償を認めない屁理屈に「国との雇用関係」がないからだという。
国との雇用関係を軍人軍属への恩給から見てみよう。
1953年に復活した軍人恩給により今までに軍人軍属へ支給された補償は、60兆円を超えている。今国会で成立した軍人軍属への特別弔慰金は一人当たり50万プラス5万円。このプラス5万円は今年が戦後80年だから上乗せされた分だ。これは軍人恩給とは別に支給され今後10年間で3135億円、対象者は57万人とされている。軍人軍属は国との雇用関係があったからだ。
軍人恩給は、旧軍の階級関係で決まる。本年度は東条英機の遺族など大将には856万円、それにひきかえ戦地で戦場で非人間的な状況に追いやられた兵卒は150万円。「天皇の軍隊」での支配階級関係=天皇制の支配・差別が何の反省もなく生きている(植民地出身の朝鮮人・韓国人・台湾人軍人軍属にはサンフランシスコ講和条約により日本国籍が剥奪され恩給は支給されていない)。
民間人戦争被害者には国との雇用関係がないのか。先日の衆議院予算委員会で石破首相は、民間人空襲被害者救済法について問われ、「権力関係がどうであったかを考える必要がある」とのべた。国と民間人とのこの「権力関係」こそ、1937年制定、41年に改定された「防空法」だ。防空法は空襲時に国民に退去禁止と消火義務を課し、違反者は処罰とされた。国家総動員体制の支配システムの中で国民は隣組などの下で防火活動に従事することが責務とされていたのだ。まさに国の命令のもと犠牲になり身体的心的被害を被ったのだ。
戦争被害受忍論が判例で確立されたという名古屋空襲訴訟では「現憲法で空襲被害への補償は想定されていない」という。しかし、現憲法が前文で「二度と悲惨な惨禍を繰り返えさない」と述べ、13条が「特別の犠牲を強制されない権利」を謳っていることをみても「判例」そのものが違憲ともいえる。
こうした歴史的事実や現憲法の理念と条文からも破綻していることが明らかな「戦争被害受忍論」がなぜにまかり通るのか。
空襲被害者は折に触れ「国が始めた戦争だ。その結果被害をうけた。国の責任だ。補償をしろ」と政府・行政に迫っている。
これにたして政府・官僚は「キリがない。戦後処理はすでに終わっている」とかたくなに「戦争被害受忍論」と「戦後処理は終わっている」を持ち出し補償を拒否し続けている。
明らかなのは、政府・官僚はアジア太平洋戦争は誤った戦争ではない、戦争被害受忍論を否定し被害者救済をすることは、アジア太平洋戦争が間違いであったこと、そして植民地支配により被害を受けた旧植民地の人々や東南アジア地域で被害にあった人々への補償へと広がることを恐れているのだ。
自民党のある衆議院議員(故人)は「キリがないことは良いことだ。次から次へと未解決の戦後処理が出されることは戦争を防ぐ道の一つだ」と語った。
破綻した戦争被害受忍論を政府に否定させることは戦争責任と戦後責任を政府に認めさせることになる。