長生炭鉱は市民の力で坑口をあけた

上田慶司(長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会)

◾️政治が動き出した。

2月1日長生炭鉱犠牲者83周年追悼集会は、降りしきる雨の中、例年の2倍以上の450名の参加で追悼ひろばは埋め尽くされ、会場外にも人があふれた。人々の関心の高まりの中で政治が動き出している。

社民党福島みずほ議員の提案で、追悼会の開始前10時から40分、国会議員と遺族の懇談会が開催された。「伊佐治さんの安全を確保してほしい」と遺族がお願いする。福島議員が「坑口をつぶれないように政府に働きかけたい」と答える。警察・科捜研がDNA鑑定をするようになったことに対し「韓国政府から遺骨を返してほしい」と遺族が訴える。日本共産党小池書記局長が「徴用工の遺骨返還は政府と政府が約束したこと。当然です」と答える。刻む会からもDNAの情報は、会と韓国政府が持っているので照合には政府間交渉が必要なことを議員に説明した。

当日は立憲・平岡秀夫議員、有田芳生衆議院議員、日本共産党仁比総平議員も参加し5人の国会議員がご遺族の話を聞いた。追悼集会では有田議員は「厚労省が毎年1000〜1400万円以上の予算があるのに1万数千円しか執行していない。これを長生炭鉱に使うべきだ」、平岡議員は「地元として取り組んでいく」、仁比議員は「おじいさんが炭鉱で働いていたこと、強制連行で多くの朝鮮の方が苦しみ、遺骨を返さないのはおかしい」と涙ぐみ発言された。韓国からは行政安全部も参加した。また、韓国国会に「長生炭鉱の解決へむけ日本政府と一緒に事業を進めるべく韓国政府に求める」国会決議案を提出したキム・ジュンヒョク議員も参加し発言。韓国からはご遺族と別に、100名の韓国追悼団が参加した。

前日の潜水調査の初日には、大椿ゆうこ参議院議員が参加し調査に立ち会った。伊左治佳孝さんが潜水調査に入っているその時間に、衆議院予算委員会で立憲・源馬謙太郎議員が石破首相に長生炭鉱の遺骨収容を日韓共同事業として取り組む考えはどうかと質疑した。首相は逃げて答えなかった。厚労大臣は相変わらずの発言だが状況を引き続き把握していくと答えざるを得なかった。潜水調査を見守りながら国会質疑、それも予算委員会での首相への質疑をユーチューブを通してみんなでスピーカーから聞く。緊迫した現場と政治が繋がるこんな緊張感は味わったことがない。

◾️はじめてご遺族が潜水調査の立ち会いに参加、450人が見守る

追悼式の後、450名を越える日韓の市民がずぶぬれになりながら潜水を見守る。沖縄戦遺骨収集ボランテア・具志堅隆松さんが言う。「遺骨が見つかることだけが重要ではない。みんなが遺骨を探すためずぶぬれになりながら遺骨に近づこうとすることが慰霊になる。それが行動的慰霊だ」。現場にきた日韓市民と生配信を一生懸命に見た200人、合わせて650人が心を一つに行動的慰霊を行った。

3日間で私たちはご遺骨に65mのところまで近づいた。植民地支配の犠牲者の救済と、日韓の友好を目指す私たちの取り組みは終わらない。次は4月1日〜2日、韓国からダイバーを招請し日韓共同潜水調査を実施する。3日間潜水中ずっと坑口前でお経をあげていただいた国平寺の住職はこう話す。「伊左治さんの安全のために祈ったが、坑内から声が聞こえた、みんな喜んでいる声だった」。

◾️戦後80年、昭和100年、日韓条約60年

10年おきにこのような節目が来る。どう思うかと尋ねられても、10年前も20年前も何も変わらなかったとしか言いようがない。節目は過ぎるだけで何も変わらない。ただ言えるのは戦後80年という年月は、植民地支配で亡くなった軍人・軍属や徴用工たちが亡くなった時に生まれた子どもたちは、皆さん80歳を過ぎてしまったということだ。私には、10年という時を刻むことに対し焦りしかない。

日韓正常化60周年の年にどう臨むかと、新聞記者に聞かれたが、私の答えは「そのようなことに関心はなく、今年中に長生炭鉱の遺骨を返せるかどうかだ」とつれなく答えている。2015年、日本の植民地支配の過ちに対して「もう孫の世代には謝らせない」などと言ってのけた安倍総理。その言葉と権力の呪縛に、政治も行政も報道もがんじがらめにされてきた。強制連行や強制労働という言葉はタブー視され、インターネットの世界では右翼勢力の攻撃の的となってきた。

証言集を読み返してみる。金景鳳さんは「1941年、18歳の時、日本の巡査が突然家にやってきて連行された。オモニは巡査の足を引っ張り『ダメだ、ダメだ』って泣いて引き留めたが巡査は私を引っ張って連れ出した」と強制連行であったことを証言している。李鍾天さんは釜山で「山口県長生炭鉱200人募集」と書いた張り紙を見て行ったら、人の背の3倍もある塀で囲まれた寄宿舎に押し込まれることになったと証言している。もちろん逃げられない。逃げればリンチされ、2人が殺されたという証言もある。

長生炭鉱はほとんどタコ部屋と同じだった。「募集だから強制ではない、自分で来たんだ」とうそぶく右派のネット上の宣伝。小規模炭鉱である長生炭鉱は、長生炭鉱で働く所帯持ちの男を連れて朝鮮に行き、「2年働けば寮を出て社宅に住めて仕送りも十分できるようになる」とだまして安心させた。募集という名の強制連行である。現在ミャンマーでの詐欺をさせる強制労働が国際的な問題なっているが、だまして連れて行くのは昔も今も変わらない。ミャンマーの事件は募集に応じたんだから強制ではないと言い張るのだろうか?私たちはこんなくだらない論争や仕掛けに負けてはならないのだ。

◾️長生炭鉱は市民の力で坑口をあけた

それには1200万円の募金という全国の市民の支えがあった。しかし、私たちが開けたのは果たして坑口だけなのだろうか。そのインパクトは地元の報道機関の良心の扉を開き、それに呼応して東京の、つまり全国メディアの良心の扉を開いていったのだ。

坑口から噴き出す水、縦160cm横220cmしかない松の木でつくられた坑道、その危険さは、当時の強制労働のおぞましさを説明しなくても物語る。

また、寒い冬の海にピーヤに臨み、暗闇の坑道に潜水調査を試みるダイバー伊左治佳孝さん。ずぶぬれになる雨の中、何時間も潜水調査を見守る遺族と450名の市民たち。3日間毎回1時間以上坑口でダイバーの安全を祈り読経を上げる住職の姿。安全にダイバーが帰ってきてくれたことを喜ぶ市民と報道の皆さん。これらの闘いは、ユーチューブで、テレビで、新聞で全国に伝わっていく。そして全国の市民の良心の扉も確実に開いている。第2次クラウドファンデングも1000万円近い募金が集まり成功した。

昭和100年、戦後80年、日韓条約60年が私たちに何かをもたらしてくれるわけではない。私たちが遺骨収容と返還の事業を全力でなしとげ、昭和のはじめに犯した植民地支配と侵略戦争の過ち、戦後80年間放置してきた被害者と遺族の思い、日韓条約が60年切り捨ててきたことに立ち向かっていくことしかないのだ。

◾️私たちは東京で2月28日政府交渉を行い院内集会を計画した

いつまで市民に任せるのかと、日本政府の参加を求める交渉だ。9人の国会議員が連名で厚労省、外務省、政務3役との交渉を申し出た。その報告もここで届ける予定だ(4月更新号掲載予定)。

1941年無謀な太平洋戦争に踏み出し、石炭の増産という国策で犠牲者を出した長生炭鉱の遺骨収容に、現場は危険だからと逃げさせるわけにはいかない。危険な現場に動員したのは日本国なのである。

 

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