野毛一起
画像の天皇・皇族
昨年4月に始まったインスタグラムでの皇室情報発信ですが、宮内庁の発表によると、昨年末にフォロワーが180万を超えたということです。
【参考】テレビ朝日ニュース
フォロワー獲得数をいうなら、国内で一位二位を争っている吉本興業の渡辺直美やアイドルのMOMOのインスタはどうか。そのフォロワー数は、なんと1000万人を超えて競い合っています。これとは圧倒的な差があります。ですが、その差が何を示していて、その違いをどう捉えるかについては考えてみる必要があります。
というのは、皇室インスタのフォロワー180万という数字は、皇室に対する注目度を単純に示すものではないからです。タレントやアイドルとは質の異なる「フォロー」あるいは「いいね!」を集めているかもしれないのです。その「質」や「内容」を問題にすべきなのです。
そうはいっても、年長者を中心に根強い人気を集めている黒柳徹子のインスタ・フォロワーが122万であることを考えるなら、愛子、佳子を全面に押し出し、天皇・皇后、上皇・上皇后という役者が何人もいる皇族インスタのフォロワー数が180万というのは、なんとも中途半端な数ですね。
エリザベス女王亡き後のイギリス王室のインスタ・フォロワー数は1324万、それとは別に設けられた皇太子ウイリアムと皇太子妃キャサリンのインスタは1681万。この数からすると、日本の皇室は国際的な関心どころか、国民的な関心を集めているとはとても言いづらい。たかだか180万の数を持って「国民統合の象徴」とは言えないし、そんなものを持ち出さないでほしい。
ただ、この数字だけで判断するのは難しいのではないかと、先に言いました。今日、ヨーロッパの王室でもインスタでの情報発信はあたりまえのようになっていますが、それらのインスタ・フォロワー数を見ると、デンマーク王室が114万、オランダ王室が97万、ノルウェー王室が38万、スペイン王室が16万となっています。この差が何を示しているかを考える時、さまざまな要因やその国ごとに個別の事情が絡んでおり、単純にフォロワー数をもって王室支持の強度を計ることはできません。両者の相関関係には複雑で、はっきりしない面があるからです。
宮内庁は180万という数字に不満のようです。現在、宮内庁には皇室情報発信の担当者が10名いるそうですが、人員を増やす予定になっています。そしてインスタをより充実させ、30代〜10代の若年層が皇室にもっと関心を持てるようにしたいと言っています。現在のフォロワーのうち、その世代が占める割合は2割に満たない。インスタの利用者は20代・10代が最も多い(その年代の女性の80%以上がインスタを利用している)のですから、今後その世代がターゲットなわけです。
天皇皇族の画像がもたらすもの
皇室のインスタは、宮内庁が編集・投稿した写真や動画で構成されています。そこに短いコメントが載せられ「いいね」の表示があります。「いいね」のクリック数は、どんなことに多くの人の関心があるのか、どういう絵姿が受けるのかを知る材料になります。それを参考にして、どのように皇室の姿を演出・構成するかを考えようというのです。
しかし、これには弊害もあります。画像に付けられた「いいね」の数は、皇族の各メンバーへの人気投票の意味合いが強く出てきますから、それが「皇位継承」に関わる場合には、ややこしい問題に発展する危険がある。しかし、宮内庁は今のところそれぞれの皇室メンバーの写真一枚ごとに「いいね」表示を付けています。それを見ると佳子と愛子が競っていて、悠仁はほとんど人気がないのがわかる。さらに、秋篠宮に対する不人気もうかがえます。ですから今後は、秋篠宮一家のイメージ向上に力を入れたいと考えていることでしょう。
他国の王室のインスタを見ても、その仕組みは同じで(あたりまえですが)、しかも内容構成も同じようにできています。話題になっているプリンセスが美しく着飾って笑顔を見せている。この写真の撮り方や映り方ときたら「女性」性を前面に強く押し出すものです。しかしそれではアイドル写真の撮り方と同じになってしまうので、微妙に異なる手法で、王族でなければ手に入らない「高貴なオーラ」を放つような構図と背景が備わっている。いわゆる「気品」を感じさせるものです。本人たちもよくわかっていて、そういう「撮られ方」を身につけている。
そうかと思えば、王族が自分で撮ったプライベート写真や動画もアップされており、その飾りのない画像からは、王族たちの「素」の姿をうかがい知ることができます。そして、その意外性から、かえって親しみが持てるようになっている。高貴なオーラだけではダメで、意外な「素」の一面を見せることで相乗効果が生じるのです。
皇室のインスタでも、天皇徳仁が撮った「タケノコを掘る愛子」の写真群がアップされ、タケノコを抱えて、うれしそうにする愛子の写真が、多くの「いいね」を獲得するという現象がありました。
【参考】「御料牧場で静養時のプライベート写真公開」
インスタの画像がそうなっていますから、テレビやネットのニュースもその方向に引き寄せられていくようです。昭和天皇なら責任問題に発展し、明仁・美智子時代でもタブー扱いされたであろう写真や映像の流出が、徳仁天皇になると「平気で」というよりも「ウケる図」として、ニュース画像において積極的に利用されています。
その中から取り上げてみましょう。まずは、昨年5月、栃木県の御料牧場を天皇一家3人が訪れた時のニュース画像です。
【参考】「天皇ご一家 ハプニングに笑顔 牧場で5年ぶり静養」
この画像は御料牧場での様子を伝えるニュースを集めて編集し直したものです。見ると腹が立つでしょうから、最初の部分だけでいいでしょう。
この動画のシーンにはこういうのがあります。牧場内を楽しそうに話しながら散策している(会話内容も聞こえる)徳仁・雅子・愛子の絵から始まるのだけれど、途中でちょっとしたハプニングがある。そしてそのハプニングというのは、「あそこにちょっと桜が」と歩きながら指差した徳仁と、馬に気を取られてそちらに顔を向けた雅子の頭がこつんとぶつかってしまうというもの。そして、あわてて声をあげた二人を見る愛子に対して、「ごっつんした」と雅子が伝えるのですが、一連のしぐさや言葉がおかしかったのか、3人とも笑いが止まらず話が続かないというシーンです。
この画像についてニュースキャスターは、感きわまったように「(これを見ると)私、ほんとうに幸せな気持ちになります」、「そうですね。ほんとうに家族のなごやかな一コマですよね」とか言うのです。
もうひとつは、昨年9月に那須御用邸を訪れた時の天皇一家の動画です。いくつかのニュース報道では「この春に、日本赤十字に入社し社会人になって、初めての夏休みを一家で過ごす愛子さま」というコンセプトになっています。
【参考】「愛子さま社会人初の夏休み『3人で楽しくゆっくりと』」
この動画の中には、天皇一家が3人で野道を散策中に、立ち止まってインタビューに応える部分があります。ところが立ち止まって話しているうちに、天皇徳仁の左耳あたりに虫がたかったようです。徳仁は気になって軽く手で払うのだけれど、虫は逃げていかない。そこで、それを横で見ていた愛子が手を伸ばして、慣れない手つきで虫を追い払おうとする。何度もパタパタやっているので、天皇の横頭を引っぱたいているようで面白い。
しかしこの映像だって、ニュースキャスターのコメントでは、「なごやかな家族の風景」とか微笑ましい場面とかになるのです。
家族の表象とその内容(その1)
わたしがこれらの動画を見た時に感じたのは、「こう来るのか、徳仁天皇制は」というものでした。
「こう来る」というのは、「幸せな家族」をもっともらしく演出することではありません。それなら、昭和天皇も明仁天皇もやってきた。何かのイベントで集まった家族の写真や仰々しい集合写真が、新聞や雑誌に掲載されることは珍しくありませんでした。そして、それらの多くは「日本の家族の模範」として、象徴的あるいは教育的に示されたのでした。
ところが徳仁天皇になると、その家族の表象の質が大きく異なってきます。表象を伝える媒体が変わったこともありますが、そこでは、かつての象徴的・教育的意味は大きく後退しているのです。
その変化のありようを一言でいうなら、「天皇」の家族のイメージを背面に後退させ、代わりに「普通の家族や親子」のイメージによって皇室を描くようになったことです。それは、こう言ってもいい。「皇室然とした家族像」ではなく、「素」の顔や会話からその本性が見え隠れし、時には自慢できない部分も見せてしまうような家族の像が用いられるようになった、と。だからこそ天皇の家族のナマの会話や、以前ならNGになるような画像が多用されるのです。
そしてこのNG的画像がもたらす効果は、誰も成り替わることができない皇室という特権的家族を普通家族と水平に並べることで、普通家族の意義とその肯定的評価を確信させること。そして、そこから湧き出るプラスの感情を、皇室への親しみと支持の回路に取り込むことです。徳仁天皇制は、こうした家族に付随する感情を纏っているのです。
家族の表象とその内容(その2)
書くつもりはなかったのですが、家族内にある暴力つまりDVや精神的不調や依存症としてあらわれる諸問題の相談に関わってきたこともあって、その経験からここで「家族」について一言いわせてください。
先に「普通家族の意義とその肯定的確信」と言いましたが、じつは「家族」ほど両義的なものはありません。餌場であり、ねぐらでもある場ですし、身を守るための武具を外して安らぐことのできる場です。そして、それが保証される協働的な場です。
ですが、その場や関係を維持していこうとすると、かなりの負担や忍耐、時には犠牲が求められます。さらに家族を持つこと、家族を維持することが社会的要請と評価をともなっていますから、家族という場は、時として「修羅場」に化す可能性もあります。
向田邦子脚本の「阿修羅のごとく」は1979年放映のNHKドラマですが、これまでいくつかの映画や演劇になり、また今年(2025年)になって是枝裕和監督によるリメイクが公開され話題になっています。それを観てもわかることですが、円満な家族や普通の家族をやっていこうとすると、家族はむしろ修羅場と化し、まるで「阿修羅のごとく」戦って生き残るしかない。そういうこともあるのです。家族は安らぎの場であると同時に修羅場である。家族成員それぞれに抱える傷や苦悩、時には「裏切り」さえあったとしても、円滑な関係を維持しなければならない。問題を「家族内に持ち込む」ことはできない。そのため一人で抱え込む。こうして何か(誰か)を犠牲にして問題を封じ込むことで、家族関係が保持される……。
だから「何でも話し合える家族」とは、個々の主体の棚上げによって成り立つ幻想でしかないのです。それゆえ悲惨な事件(時には殺害)の発生、要するに臨界状態に達するまで、家族は水面下あるいは無意識のなかに暴力を蓄えていくことになるのです。しかもそれは「繁殖」に関わる問題(とりわけ男の暴力性)とも接続している。
「家族の関係性と暴力」の問題を、わたしはそのような視点から捉えてきました。そして、この顕在的・潜在的暴力は、家族の構成に多少のダイヴァーシティ(非血縁、非性差、非役割化などの形態変化)を持ち込んでも、根本的な解決にはならないことにも気づきました。
家族であろうとする(努)力と、家族であるがゆえに振るわれる(暴)力とは、同じものが別な姿で現われているにすぎないのです。
あっ、ちょっと話がずれてきました。話を戻しましょう。こんな家族と天皇制とにどういう関わりがあるのかについてですね。
健全な「家族」の意味の中心は、それぞれが安定した生活環境と共助的人間関係のうちにあることです。ですから「家族」は、まさに社会的評価の下にあり、それとともにその成員は市民としての自立性を評価される。そういう意味では「家族」とは、社会的な規範や評価基準を内蔵しており、社会的救済を具現するものだと言えます。家族の場は、人がそれぞれ個へと還元されると同時に、社会的な表現形態を持つ場でもあるのです。言うなれば社会化されたプライバシーの場です。
さらに、その「家族の表現形態」は、個々人の感情や無意識の領域に大きく関わっています。顔を合わす回数が多く、生活をともにする親しい(ファミリアな)関係が精神的安定をもたらす。そして、その安定感のなかで社会的存在(人間)としての、また「自分」としてのアイデンティティが形成される。つまり「自分」が、社会という座標平面のどういう位置にいるか/いたいかの認識や願望が照らし出されるのです。それが、快や不快から派生する感情へとつながる。なかには不安や脅迫の感情を呼び出すこともあるでしょうが。
「家族」に対する「反意味的もの(言葉や感情ですら表わせないもの)」や無意識もあるかもしれません。「家族」という表現形態には、明示的な社会的意味とそれをめぐる感情が織り込まれています。しかしそれだけではなく、不安定で意識化できない強度を持って、「家族」の意味に従わない「反意味」も同時に潜在しているはずです。
ですから、社会的な表現形態としての「家族」には、二重の規制がそなわっていると言えます。まずは、家族を持てない者、家族を作らない者、家族を壊す者に対する社会的評価の低さや懲罰。そして次に「家族」が持つ意味を理解できなかったり、受け入れなかったり、また裏切ったりした時の罪悪感や不快な感情。そして、そうならないように自己抑圧すること。それらの感情や無意識によって、家族の多様で不安定な内容が規制されるのです。だからこそ、家族=良いもの、睦ましいもの、安心できるもの、なくてはならないもの……というふうに、無前提に呼び出された感情や意識によって「家族」は存在し、全肯定されるわけです。
家族のイメージを巧みに用いる徳仁天皇制に関して言いたいことは、こうです。
家族の表現形態やその内容に見られるような規制の力——それは人の行動を規制すると同時に感情を規制する抑圧的な力ですが——、それはもともと天皇制という支配権力に由来するものではなく、その表現形態、いやむしろその内容そのものとそれが引き出す感情のレベルにさかのぼって仕掛けられた「縛り」なのです。この「縛り」の力をこそ、徳仁天皇制は引き出そうとしている。
ですから、先の皇室一家の画像なども、健全な家族像を教育的に示して日本の家族制度に道徳的な規制をかけるものと捉えるなら、徳仁天皇制における「国民統合の力の質」を見誤る可能性があります。そうではなく、たとえば家族であるなら、「家族」という表現形態とその内容が、内包する(暴)力を天皇制維持のために利用する、あるいはその非言語的エネルギーを取り込もうとしていることに注目すべきなのです。
これが、先に言ったように「普通の家族像」によって「皇室」を描くことの意味合いなのです。
言語行為と非言語-行為
前回までは、天皇の「おことば」や「短歌」などを中心に、天皇の言語行為によって何が生じているかを見てきました。そのことを一言でまとめるなら、「天皇の言葉」という言葉の構造とその発現化により、受け手の隷属化がもたらされるということです。さらにその隷属化は、言葉の力によってのみ伝染していくのではなく(そういうものもありますが)、言葉が特定の意味へと誘導される儀礼的空間(閾)をそなえていることも重要です。
ところで、今回はそのような「言語行為」では捉えられない「非言語-行為」の問題を取り上げました。皇室のインスタによって垂れ流される写真や動画は言語的な意味作用なしで、直接、受け手の感情に作用し「いいね」をクリックするという行動を生じさせます。
そこで何が起きているのか。これを考えるのがテーマですが、今回は「家族」をキーワードにして、天皇による「非言語-行為」問題の入口を示したつもりです。
いわゆる「情動社会」の天皇制を分析し(そもそも情動社会とはなにか)、それを弾き返すためにどうすればいいか。徳仁天皇制固有の問題を捉えるとき、そういう視点が不可欠です。次回は、さらにこの課題を展開していきたいと考えています。